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三章
1 苛烈な
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「ん? ヴォルデマー様……?」
不意にイグナーツは首を傾げた。
たった今しがた執務室で分かれたばかりの上官が、その食堂の入り口を入ってきたからだ。
彼はつい先程、ミリヤムと食事をする為に使用人用の食堂の方へ降りていった筈なのだが。
おかしいな、と思っていると、彼の差し出していたままの両手に、カウンターの向こうからフーゴが料理の乗った盆を置く。
「ほらよ、タルトお待ち。お前……たまには辛いものも食えよ……甘党兄弟め、豹人のくせに……」
「……ああ、まあ……」
イグナーツがヴォルデマーを見ながら生返事をしていると、フーゴもそれに気がついた。
「ん? ありゃあ……ヴォルデマー様じゃねえか? 何で此処にいるんだ?」
「……だよなあ……料理長、ミリヤムは今晩ヴォルデマー様の夕食を作るとか言ってなかったか……? 確か下の食堂で……」
イグナーツが怪訝そうに問うと、フーゴも首を傾げる。二人が注目する向こうで、砦の長は誰かを探すように周囲に視線を巡らせていた。
「その筈だが……急用でお前を探してるんじゃないか?」
「しかし、私は既に視界に入っておられるんじゃないか……?」
兎に角話しかけてみるか、と、イグナーツが盆をフーゴに預けようとした時、彼が行くよりも先にヴォルデマーが彼等の方へやって来た。
「イグナーツ。ミリヤムを見なかったか」
「いえ……私は見ておりませんが……」
イグナーツは首を振る。フーゴもそれに続いた。
「私は見るには見ましたが……それも昼前ですよ?」
「……そうか」
「あの、ヴォルデマー様」
小さくため息を落とす砦長にイグナーツは怪訝そうに問う。
「ミリヤムが居らぬのですか?」
「……ああ、悪いがイグナーツ、母に、顔を出す約束が遅れるかも知れぬと報せておいてくれ。少しミリヤムの匂いを追ってみる」
今晩彼は、母に呼び出されていた。
ヴォルデマーがミリヤムと砦の外に出てから数日、何故かアデリナの監視が少しだけ緩んでいた。彼は毎食呼び出されることはなくなり、アデリナがずっと執務に張り付くようなこともなくなった。
それでも兵の監視と、身の回りの世話をするウラは相変わらずだが、ミリヤムと食事をする事は黙認、もしくは黙殺することにしたのか、特に妨害するような事も口を出すこともしない。
母のそんな変わりようを、勿論ヴォルデマーは怪訝に思っている。アデリナは、たった数日で己の意見を曲げるような生易しい性格ではない。
今晩ミリヤムと食事の時間を過ごしたら、ヴォルデマーはその後呼び出されたその席で、母の魂胆を探るつもりだった。
「は、い、畏まりました」
「おや? ヴォルデマー様ではありませんか」
ヴォルデマーの頼みにイグナーツが頷いた時、そこへ背後から声が掛かった。
三人が視線をやると、薄く微笑した金の髪のフロリアンが、ルカスを引き連れてやって来るところだった。
「フロリアン殿……」
「お疲れ様です、ヴォルデマー様。……どうかなさいましたか?」
「……」
その問いに一瞬ヴォルデマーは押し黙った。心情的にはあまり彼とミリヤムのことを話したくはない。
しかし、そうも言っていられぬか、とヴォルデマーは真顔のまま口を開く。
「……フロリアン殿、ミリヤムが何処にいるかご存じないか」
「ミリー……?」
ヴォルデマーの問いに、フロリアンが不思議そうに首を傾げる。
背後ではルカスが一瞬眉をぴくりと動かした。
「……そうですね、昼食後になら……“坊ちゃまもうあの泥水のようなお風呂には絶対に絶対に入らないで下さい……”と、ぶるぶる震えながら言いにやって来たので宥めました。でも……私はその後直ぐ職務で外に出たのでその後の事はちょっと存じ上げません」
「……その後の事なら……」
ルカスが口を開き主の言葉を引き継ぐ。
「俺が、フロリアン様がその湯に昨日も入ったと教えてやると、ミリヤムが絶叫して飛び掛って来たので。そのまま首根っこ捕まえて使用人用の食堂の方に放り投げておきましたが」
「……」
「ああ、そうだったの? 私は平気だって言ってるんですけどねえ」
「……」
フロリアンは困ったように苦笑する。ヴォルデマーは一瞬無言で微妙そうな表情を見せた。
「……」
「……」
そんなヴォルデマーとフロリアン、そしてルカスの会話を、イグナーツとフーゴはその後ろでハラハラしながら聞いていた。二人は心配そうにヴォルデマーの顔色を窺っている。恋敵の言葉に長がどのような反応をするのかが、とても気掛かりなのだ。
ヴォルデマーとフロリアンは相変わらず公私はきちんと分けていて、けして表立って揉めるような事はしなかったが……その心の中は窺い知れない、とイグナーツは非常に胃が痛かった。
それで──とフロリアンが表情を引き締めて問う。
「ミリーが居ないのですか? まだ仕事が長引いているのではなく?」
ヴォルデマーが頷く。
「ええ……あの者の同僚は既に下の食堂で食事をしていましたから、仕事が終わってないという事は無さそうです」
それに、とヴォルデマーは思う。今日までの出来事を考えても、ミリヤムが今、ヴォルデマーとの約束を反故にして現れないのはおかしい様な気がした。勿論それはフロリアン達には言わなかったが。何かあったのでは、とヴォルデマーの顔が陰る。
その時フロリアンとルカスが同時にハッとした。
「まさか……ミリー……また穴にでも落ちたのかな……」
「そうかもしれません……毎度ですからね……はあ、フロリアン様、俺ちょっと探してまいります」
「いや、私も行く……ヴォルデマー様失礼します」
フロリアンはヴォルデマーに頭を下げると、ルカスを追って足早に食堂を出て行った。
「……」
その背を複雑そうに見ていたヴォルデマーはため息をついて、イグナーツを振り返る。
「すまぬが私も探しに行く。母への伝言よろしく頼む」
「は……あ、はい、了解いたし──」
「その必要はありません」
ヴォルデマーが其処を出て行こうとした時──イグナーツの返答を遮って凛とした声が食堂に響いた。
その厳かな声に、食堂に居た大勢の隊士達の視線が一斉にその戸口へと集まった。
「…………母上?」
振り返ったヴォルデマーは眉間に皺を寄せた。
そこにはアデリナが立っていた。アデリナは配下を引き連れて、ヴォルデマーに冷たい視線を寄越している。
アデリナは息子を見据えると、もう一度言った。
「行く必要はありません。探しても無駄です」
「……どういう事ですか? 無駄とは……まさか母上……彼女に何か……」
ヴォルデマーの表情がさっと険しくなった。
その息子に、アデリナは「ええ」と、頷く。
「お前には直ぐに分ることでしょうから言っておきます。あの者は此処にはもう居ません。私が連れ出させました」
「母上!?」
「仕方ないでしょう? お前の聞き分けが悪いのだから。お前から崩せないのであれば、娘からそうするのは当然です」
アデリナが高圧的にそう言った瞬間、周囲の隊士達がぎょっと目を剥いた。
途端、其処にいるヴォルデマーの身体から言いようのない怒気が噴出したからだ。皆、長の怒っている姿を殆ど見たことがない。傍にいたイグナーツとフーゴも凍ったように身体を竦めている。
「……どこにやったのです……あの者を何処に……!?」
ヴォルデマーが地を這うような声で問う。まるで威嚇のようなそれに、周囲の者達が一層身を固くする中、アデリナだけは動じなかった。
「……必死ですね、ヴォルデマー」
「母上!!」
だがアデリナはヴォルデマーの問いに答えなかった。彼女はその代わり、ヴォルデマーの背後ではらはらと事の成り行きを見守っているイグナーツに視線をやった。
「イグナーツ・フロトー」
「え!? は、はいっ!?」
緊迫した場面で唐突に声を掛けられたイグナーツが一瞬飛び上がった。
そんなイグナーツにアデリナは微笑みかける。その不可解さに、ヴォルデマーが怪訝そうに眉間の皺を深めた。
「お前の家は長く私達の家に仕えてくれていますね……? 曾祖父の時代からお前の家は当家と繋がりが深く、お前の父は私の夫に仕えています」
その言葉にイグナーツは戸惑い、ヴォルデマーの顔を窺いながらも頷く。
「は、い……左様に、ございます、奥方様……」
その返答を聞いたアデリナは、次いでその隣のフーゴに視線を移す。
「フーゴ・ベッカー。お前もまた長い。確か他の兄弟達も当家で料理人を務めてくれていたはず。邸と、そして別邸でも」
「……はい、そうです、皆、お世話になっています……」
彼が帽子を取り、イグナーツと同様に当惑を滲ませながらも自分に頭を下げるのを見て、アデリナは満足そうに頷いた。
「母上……」
「ふふふ……お前も知っているはず。此処にいる者、皆、そういった者達ばかりなのです、ヴォルデマー」
アデリナはそう微笑みながら周囲の隊士達を見渡し──そして──瞳に烈火を燃え立たせた。
その場に居た隊士の誰をもが、その炎の激しさに身を怯ませた。
「私はこの領地の母……領主の妻アデリナ・シェリダンです。主君の夫人として……此処にいる皆に命じます」
アデリナは広い食堂の中に厳粛で怜悧な声音を轟かせ、ヴォルデマーを指差す。
「我が息子をこの砦から出してはなりません。私室に軟禁し昼夜問わず見張りなさい。命令に従えぬものは皆、相応の処罰を下します」
「!?」
「軟禁!? ヴォルデマー様を!? わ、我々が!?」
その言葉にヴォルデマーの瞳が険しくなる。
イグナーツは目を剥いて──食堂内には驚愕が走った。
アデリナは冷静な顔で息子の顔を見る。
「忘れていませんか? 砦の長はお前でも、砦の主は旦那様なのです。お前は少々立場をわきまえる必要があります」
そして、冷たい顔で釘を刺す。
「娘を傷つけるつもりは今はありません。でも……あの娘の無事を祈るのならば、お前も大人しくしていなさい。それが約束出来ないのなら、私も何も約束しません。あの者がどこでどういう扱いを受けようとも」
「母上……!!!」
途端ヴォルデマーが鬼の形相と化した。牙を剥き壮絶な視線で母を射す。
その苛烈な親子のにらみ合いに誰もが口を挟めない。
それは──明らかなる脅しだった。
ヴォルデマーはその言葉に猛烈に怒りながらも、それを奥歯を噛んで堪える。ミリヤムの身柄を押さえられては堪えるより他にない。
そうして息子の拳が震えるほどに握り締められているのを冷たく眺めながら、アデリナは言った。
「……言ったでしょう? 許しませんと」
お前は人狼の種の問題を軽んじ過ぎです
──そう言って、アデリナは配下達にヴォルデマーを執務室に連れて行くように命じた。
「……」
ミリヤムの無事を持ち出されたヴォルデマーは、悔しさに眼光を強めながらも、無言でそれに従っていく。
「ヴォルデマー様!?」
連れて行かれる砦長を見てイグナーツが叫んだ。
突然主君の夫人から下された命令に、隊士達は皆、身動きが出来なかった。
不意にイグナーツは首を傾げた。
たった今しがた執務室で分かれたばかりの上官が、その食堂の入り口を入ってきたからだ。
彼はつい先程、ミリヤムと食事をする為に使用人用の食堂の方へ降りていった筈なのだが。
おかしいな、と思っていると、彼の差し出していたままの両手に、カウンターの向こうからフーゴが料理の乗った盆を置く。
「ほらよ、タルトお待ち。お前……たまには辛いものも食えよ……甘党兄弟め、豹人のくせに……」
「……ああ、まあ……」
イグナーツがヴォルデマーを見ながら生返事をしていると、フーゴもそれに気がついた。
「ん? ありゃあ……ヴォルデマー様じゃねえか? 何で此処にいるんだ?」
「……だよなあ……料理長、ミリヤムは今晩ヴォルデマー様の夕食を作るとか言ってなかったか……? 確か下の食堂で……」
イグナーツが怪訝そうに問うと、フーゴも首を傾げる。二人が注目する向こうで、砦の長は誰かを探すように周囲に視線を巡らせていた。
「その筈だが……急用でお前を探してるんじゃないか?」
「しかし、私は既に視界に入っておられるんじゃないか……?」
兎に角話しかけてみるか、と、イグナーツが盆をフーゴに預けようとした時、彼が行くよりも先にヴォルデマーが彼等の方へやって来た。
「イグナーツ。ミリヤムを見なかったか」
「いえ……私は見ておりませんが……」
イグナーツは首を振る。フーゴもそれに続いた。
「私は見るには見ましたが……それも昼前ですよ?」
「……そうか」
「あの、ヴォルデマー様」
小さくため息を落とす砦長にイグナーツは怪訝そうに問う。
「ミリヤムが居らぬのですか?」
「……ああ、悪いがイグナーツ、母に、顔を出す約束が遅れるかも知れぬと報せておいてくれ。少しミリヤムの匂いを追ってみる」
今晩彼は、母に呼び出されていた。
ヴォルデマーがミリヤムと砦の外に出てから数日、何故かアデリナの監視が少しだけ緩んでいた。彼は毎食呼び出されることはなくなり、アデリナがずっと執務に張り付くようなこともなくなった。
それでも兵の監視と、身の回りの世話をするウラは相変わらずだが、ミリヤムと食事をする事は黙認、もしくは黙殺することにしたのか、特に妨害するような事も口を出すこともしない。
母のそんな変わりようを、勿論ヴォルデマーは怪訝に思っている。アデリナは、たった数日で己の意見を曲げるような生易しい性格ではない。
今晩ミリヤムと食事の時間を過ごしたら、ヴォルデマーはその後呼び出されたその席で、母の魂胆を探るつもりだった。
「は、い、畏まりました」
「おや? ヴォルデマー様ではありませんか」
ヴォルデマーの頼みにイグナーツが頷いた時、そこへ背後から声が掛かった。
三人が視線をやると、薄く微笑した金の髪のフロリアンが、ルカスを引き連れてやって来るところだった。
「フロリアン殿……」
「お疲れ様です、ヴォルデマー様。……どうかなさいましたか?」
「……」
その問いに一瞬ヴォルデマーは押し黙った。心情的にはあまり彼とミリヤムのことを話したくはない。
しかし、そうも言っていられぬか、とヴォルデマーは真顔のまま口を開く。
「……フロリアン殿、ミリヤムが何処にいるかご存じないか」
「ミリー……?」
ヴォルデマーの問いに、フロリアンが不思議そうに首を傾げる。
背後ではルカスが一瞬眉をぴくりと動かした。
「……そうですね、昼食後になら……“坊ちゃまもうあの泥水のようなお風呂には絶対に絶対に入らないで下さい……”と、ぶるぶる震えながら言いにやって来たので宥めました。でも……私はその後直ぐ職務で外に出たのでその後の事はちょっと存じ上げません」
「……その後の事なら……」
ルカスが口を開き主の言葉を引き継ぐ。
「俺が、フロリアン様がその湯に昨日も入ったと教えてやると、ミリヤムが絶叫して飛び掛って来たので。そのまま首根っこ捕まえて使用人用の食堂の方に放り投げておきましたが」
「……」
「ああ、そうだったの? 私は平気だって言ってるんですけどねえ」
「……」
フロリアンは困ったように苦笑する。ヴォルデマーは一瞬無言で微妙そうな表情を見せた。
「……」
「……」
そんなヴォルデマーとフロリアン、そしてルカスの会話を、イグナーツとフーゴはその後ろでハラハラしながら聞いていた。二人は心配そうにヴォルデマーの顔色を窺っている。恋敵の言葉に長がどのような反応をするのかが、とても気掛かりなのだ。
ヴォルデマーとフロリアンは相変わらず公私はきちんと分けていて、けして表立って揉めるような事はしなかったが……その心の中は窺い知れない、とイグナーツは非常に胃が痛かった。
それで──とフロリアンが表情を引き締めて問う。
「ミリーが居ないのですか? まだ仕事が長引いているのではなく?」
ヴォルデマーが頷く。
「ええ……あの者の同僚は既に下の食堂で食事をしていましたから、仕事が終わってないという事は無さそうです」
それに、とヴォルデマーは思う。今日までの出来事を考えても、ミリヤムが今、ヴォルデマーとの約束を反故にして現れないのはおかしい様な気がした。勿論それはフロリアン達には言わなかったが。何かあったのでは、とヴォルデマーの顔が陰る。
その時フロリアンとルカスが同時にハッとした。
「まさか……ミリー……また穴にでも落ちたのかな……」
「そうかもしれません……毎度ですからね……はあ、フロリアン様、俺ちょっと探してまいります」
「いや、私も行く……ヴォルデマー様失礼します」
フロリアンはヴォルデマーに頭を下げると、ルカスを追って足早に食堂を出て行った。
「……」
その背を複雑そうに見ていたヴォルデマーはため息をついて、イグナーツを振り返る。
「すまぬが私も探しに行く。母への伝言よろしく頼む」
「は……あ、はい、了解いたし──」
「その必要はありません」
ヴォルデマーが其処を出て行こうとした時──イグナーツの返答を遮って凛とした声が食堂に響いた。
その厳かな声に、食堂に居た大勢の隊士達の視線が一斉にその戸口へと集まった。
「…………母上?」
振り返ったヴォルデマーは眉間に皺を寄せた。
そこにはアデリナが立っていた。アデリナは配下を引き連れて、ヴォルデマーに冷たい視線を寄越している。
アデリナは息子を見据えると、もう一度言った。
「行く必要はありません。探しても無駄です」
「……どういう事ですか? 無駄とは……まさか母上……彼女に何か……」
ヴォルデマーの表情がさっと険しくなった。
その息子に、アデリナは「ええ」と、頷く。
「お前には直ぐに分ることでしょうから言っておきます。あの者は此処にはもう居ません。私が連れ出させました」
「母上!?」
「仕方ないでしょう? お前の聞き分けが悪いのだから。お前から崩せないのであれば、娘からそうするのは当然です」
アデリナが高圧的にそう言った瞬間、周囲の隊士達がぎょっと目を剥いた。
途端、其処にいるヴォルデマーの身体から言いようのない怒気が噴出したからだ。皆、長の怒っている姿を殆ど見たことがない。傍にいたイグナーツとフーゴも凍ったように身体を竦めている。
「……どこにやったのです……あの者を何処に……!?」
ヴォルデマーが地を這うような声で問う。まるで威嚇のようなそれに、周囲の者達が一層身を固くする中、アデリナだけは動じなかった。
「……必死ですね、ヴォルデマー」
「母上!!」
だがアデリナはヴォルデマーの問いに答えなかった。彼女はその代わり、ヴォルデマーの背後ではらはらと事の成り行きを見守っているイグナーツに視線をやった。
「イグナーツ・フロトー」
「え!? は、はいっ!?」
緊迫した場面で唐突に声を掛けられたイグナーツが一瞬飛び上がった。
そんなイグナーツにアデリナは微笑みかける。その不可解さに、ヴォルデマーが怪訝そうに眉間の皺を深めた。
「お前の家は長く私達の家に仕えてくれていますね……? 曾祖父の時代からお前の家は当家と繋がりが深く、お前の父は私の夫に仕えています」
その言葉にイグナーツは戸惑い、ヴォルデマーの顔を窺いながらも頷く。
「は、い……左様に、ございます、奥方様……」
その返答を聞いたアデリナは、次いでその隣のフーゴに視線を移す。
「フーゴ・ベッカー。お前もまた長い。確か他の兄弟達も当家で料理人を務めてくれていたはず。邸と、そして別邸でも」
「……はい、そうです、皆、お世話になっています……」
彼が帽子を取り、イグナーツと同様に当惑を滲ませながらも自分に頭を下げるのを見て、アデリナは満足そうに頷いた。
「母上……」
「ふふふ……お前も知っているはず。此処にいる者、皆、そういった者達ばかりなのです、ヴォルデマー」
アデリナはそう微笑みながら周囲の隊士達を見渡し──そして──瞳に烈火を燃え立たせた。
その場に居た隊士の誰をもが、その炎の激しさに身を怯ませた。
「私はこの領地の母……領主の妻アデリナ・シェリダンです。主君の夫人として……此処にいる皆に命じます」
アデリナは広い食堂の中に厳粛で怜悧な声音を轟かせ、ヴォルデマーを指差す。
「我が息子をこの砦から出してはなりません。私室に軟禁し昼夜問わず見張りなさい。命令に従えぬものは皆、相応の処罰を下します」
「!?」
「軟禁!? ヴォルデマー様を!? わ、我々が!?」
その言葉にヴォルデマーの瞳が険しくなる。
イグナーツは目を剥いて──食堂内には驚愕が走った。
アデリナは冷静な顔で息子の顔を見る。
「忘れていませんか? 砦の長はお前でも、砦の主は旦那様なのです。お前は少々立場をわきまえる必要があります」
そして、冷たい顔で釘を刺す。
「娘を傷つけるつもりは今はありません。でも……あの娘の無事を祈るのならば、お前も大人しくしていなさい。それが約束出来ないのなら、私も何も約束しません。あの者がどこでどういう扱いを受けようとも」
「母上……!!!」
途端ヴォルデマーが鬼の形相と化した。牙を剥き壮絶な視線で母を射す。
その苛烈な親子のにらみ合いに誰もが口を挟めない。
それは──明らかなる脅しだった。
ヴォルデマーはその言葉に猛烈に怒りながらも、それを奥歯を噛んで堪える。ミリヤムの身柄を押さえられては堪えるより他にない。
そうして息子の拳が震えるほどに握り締められているのを冷たく眺めながら、アデリナは言った。
「……言ったでしょう? 許しませんと」
お前は人狼の種の問題を軽んじ過ぎです
──そう言って、アデリナは配下達にヴォルデマーを執務室に連れて行くように命じた。
「……」
ミリヤムの無事を持ち出されたヴォルデマーは、悔しさに眼光を強めながらも、無言でそれに従っていく。
「ヴォルデマー様!?」
連れて行かれる砦長を見てイグナーツが叫んだ。
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