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三章

14 ミリヤムねだる

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「若様……今、私めが欲しいもの、何かお分かりですか……?」



 次の朝、ギズルフがミリヤムの客間を訪れるや否や、彼を出迎えたミリヤムは薄く微笑んでそっと彼の手をとった。

「ん?」

 その行動にギズルフは首を傾げる。
 見下ろす娘は上目遣いにギズルフを見ている。ギズルフは考えた。

「……俺様か?」
「っ阿呆か!!!」

 途端、ギズルフの手がぺいっと放り出される。

「阿呆だと……どの口が……」
「ひた! ひたい!!」

 目を細めたギズルフに頬をつまみあげられたミリヤムが痛がっている。
 ミリヤムはその指先から逃れると、少し後ろに飛び退いて、ぎろりとその人狼を睨みあげた。

「暴力反対!! だいたいどんだけ私めが節操無いとお思いなのです!? こんな朝っぱらから!!」
「いや、だってお前が上目遣いでねだるから……」
「違いますよ!! 確かに今からねだる気でしたけども……!!」

 それを聞いたギズルフが呆れたようにため息をつく。

「なんだ、やっぱり何かを要求するつもりだったのか? なんだ、何が欲しい? ほら、もう一度ねだってみろ」
「ああ!?」

 そう言って差し出された手をミリヤムが柄の悪い顔で睨んでいる。

「何だその面は。先程の顔の方が幾分ましだったぞ。さあどうした、もう一度先程のようにやって見せろ。愛らしく出来たら褒美に何でもくれてやる」
「……」

 そのギズルフの高慢な笑みに、ミリヤムはむっと押し黙った。

「どうした? 欲しい物があるのではないのか?」
「…………欲しいのは雑巾なんですけどね……」
「……雑巾?」
「もういいです。ちゃんとお願いしようと思ったけど、その気もなくなりました」
「!?」

 ミリヤムはギズルフを睨んだままその腕をがっしり掴む。

「もうこうなったら若様のお洋服を雑巾にしてやる。さあ!! お脱ぎ遊ばせ!!」
「!? 何!?」
「なぁにが愛らしく出来たら何でもくれてやるだ!! 軟禁状態でストレスの溜まった私めを舐めるなよ! 使用人の時間を拘束するのなら正当な見返りをよこせ!! まずはこの服だ!! 雑巾にしてやる!!」
「お、おい!?」

 怒ったミリヤムはギズルフの上着とシャツをあっという間に引ん剥いた。




「……お前、男の服を脱がすのが上手すぎるんじゃないか?」

 上半身裸の人狼は、客間の長椅子の上で複雑そうな顔でそう言った。
 彼の服は本当に問答無用で雑巾にされてしまった。その視線の先でその“些か薄くつるつるした雑巾”を使っている娘は、しらっと答える。

「使用人としては当然の技術です」

 正直ミリヤムは言われ慣れていた。砦で一体何人の隊士達にそれを言われ続けて来たことか。

「若様だってお城の使用人の方々にお世話してもらってるでしょ!」
「……まあ……」
「まったく、こっちも生活掛かってるって言うのに……拘束されている日数分の砦のお給金どうしてくれるんですか!?」

 ミリヤムは、そこでわりかし上半身裸でも平気そうに座っているギズルフをギロリと睨んだ。

 ここ数日は様々な現状の変化にいっぱいいっぱいだったミリヤムも、辺境伯が噂の程恐ろしい風体でなく、どちらかと言えば穏やかそうなお人であったことに取り合えず胸を撫で下ろしていた。(勿論、まだ辺境伯と殆ど話をしたとはいえないので、問題は何一つ解決していないのだが。しかも彼に「おいでー」などと犬扱いしてしまい、きっと「なんて失礼な女だ」と、思われたに違いなかったが)

 そうしてミリヤムは少しホッとして。と、同時に、生粋の使用人たるミリヤムは、この一室に留め置かれている現状に苛々して来た。
 ミリヤムは床を磨きながら呻く。

「私めは、仕事をしないでいるのが苦手です!! ああもう!! 若様のシャツは使い心地が悪い!! 雑巾として劣っています!!! 使用人を軟禁するんなら、軟禁場所には是非立派な雑巾とバケツと箒とモップを完備して頂きたい! そもそもこの客間は綺麗過ぎる!! 掃除のし甲斐がない!!」

 ミリヤムはとてもベアエールデの汚さが恋しくなった。
 むさ苦しい獣人隊士達を風呂場に叩き込んでいた日々が懐かしく思える日が来ようとは、とミリヤムは腹ただしげにため息をついている。そんなミリヤムをギズルフは複雑そうに眺めていた。

「貴様は……何を怒っているんだ? 何でもやると言ったのに怒り出すなど……」

 首を傾げると速攻で睨まれた。

「なんだその目は……! 何か言いたいことがあるのならはっきり言え!」
「……それはご命令ですね!? ならば遠慮なく」

 ミリヤムは雑巾を手にむくりと立ち上がった。

「いえね、先程も申し上げましたけど、私め砦から頂くお給金を犠牲にして此処に居るわけですよ。使用人が何のために主人にお仕えしているのかといいますと、普通はやはり生きるためでしょう? いえ、私は坊ちゃま愛を糧に侯爵家にお勤めしてましたけどね。坊ちゃまもお給金も無い此処で大人しく使用人然としていろって方がそもそもおかしい……!!」
「……いや……別に俺はお前に使用人として振舞えなどと言っていないが……」
「そうですけど!! 不当な拉致軟禁の上、上から物を言われると幾ら身分が高い相手でも腹が立つという事ですよ!!」

 ミリヤムは赤い顔で地団駄を踏んでいる。

「……なる、ほど……?」

 ギズルフは顎に指をあてて、何事かを考えている。

「……それで、その……気になっていたのだが、お前の言葉の端々に出て来る“坊ちゃま”とはなんだ? 侯爵家の息子のことか……?」

 そうギズルフが問うた瞬間、ミリヤムの表情がぱああ、と明るくなった。その唐突な変化にギズルフがギョッとしている。

「え!? 坊ちゃまのことお聞きになりたいんですか? フロリアン様の事を?」
「あ、ああ……まあ……」

 行き成り迫ってきたミリヤムにギズルフが仰け反る。
 ミリヤムはそんなギズルフに顔をぐいぐい近づけながらにこにこしている。

「そうですか、ええ、ええ良いですとも。あれは今から二十年程前、私めが生まれた直ぐ後の事、この世にお生まれになった天使様がですね……」
「ちょっと待て、もしやその話長いのか」
「まあ勿論ではありませんか。坊ちゃまの素晴らしさをどうやって短く話せと言うんですか?」

 ミリヤムは当然だと言わんばかりにそう言った。

「坊ちゃま生誕から幼少期、少年期、青年期をきっちり語って差し上げますから、是非若様も同じ貴族様として参考になさったら良いですよ。ええそれで坊ちゃまはそれはそれは美しい星空の夜にお生まれになってですね──」
「ちょっと待て!」
「いえ待ちません、言いたい事は言えと仰ったではありませんか。それで坊ちゃまは金髪で──」
「おい!?」
「それはそれは馥郁たる素晴らしい香りが──」

 ミリヤムはギズルフの制止を決して聞き入れなかった。


 そうして結局、その語りは昼前まで続き──ギズルフは隣領の“フロリアン坊ちゃま”についてとても詳しくなってしまった。お陰ですっかり気のすんだミリヤムは、晴れやかな顔で天井に向かって手を合わせている。

「ああ、やっぱり坊ちゃまは素晴らしいです……」
「…………」
「若様も聞いて下さって有難うございます。私めすっかり元気になりました。はーこれで辺境伯様とも落ち着いて話せそうな気が致します」

 良かった良かった、と己に向かって拝む娘に、ギズルフはげっそりして返す。

「……そうか、それは……何よりだ……」
「? 若様? 何故そんなにお疲れ気味なのですか?」

 げんなりしたその疲れ気味の人狼に、ミリヤムはなんだか“お疲れ気味の手ぬぐいの君”を思い出すなあ、と思った。その途端とてもヴォルデマーが恋しくなってしまった。

「はあ……なんだか切なくなってきた……」

 そうため息をつくミリヤムに、ギズルフが半眼でじっとりした視線を送っている。

「……一体誰のせいで疲れていると…………あぁもういい……父が、お前が元気そうならば昼食に連れて来いと言っていた。もう充分元気そうだな」
「へ?」

 ギズルフは立ち上がると、おもむろにミリヤムの腕を引いた。

「行くぞ。さあ立て」
「え!? ちょ、ちょっと待っ、辺境伯様と……昼食……!? え!? 私めが!? 待っ、こ、心の準備が……」
「黙れ、すっかり元気になったんだろう? たった今、父と落ち着いて話が出来そうだといったではないか。大人しくついて来い」
「そ、そうなんですが、ちょっと、切なさが心に差し込んで来てですね……し、深呼吸……」

 ミリヤムが足を突っ張ると、ギズルフは面倒そうに息をついて、むんずとミリヤムの首根っこを捕まえて背に放った。

「ふおぉぉ!?」
「しっかりつかまっていろ。落ちるなよ」

 もうすっかりミリヤムを背負う事が当たり前のようになっているギズルフだった。



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