偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

32 雑踏に

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「お前、俺を差し出しておいて……何をやってる」
「ほ?」

 じっとりとした視線を感じて顔を上げると、ギズルフが立っていた。なんだかちょっと疲れたような顔をしている。
 小姓から手渡された芋を剥いていたミリヤムは、剥き終えた薄い黄金色の芋を器の中に入れる。

「若様。ええとこれは……とても歓迎していただいたのでお手伝いを。子爵ご夫妻とのお茶は如何でしたか? 終わられたのですか?」

 借りた手ぬぐいで手を拭い、ミリヤムがギズルフの元へ歩いていくと、ギズルフはむっとした顔で彼女を睨む。

「……あらまあ、なんで御座いましょうか、そのお子様のような拗ね気味の御尊顔は……可愛くなりますよ、お止め下さい」

 不本意でしょう、と言うとすかさず「黙れ!」と怒られる。

「貴様がゆっくり使用人達と話してみたいと言うから……話が終わっているならどうして迎えに来ない! 無駄に菓子を食ろうてしまったではないか!! お、俺は甘いものが苦手なのだ!!」
「!?」

 そう言って、うっと急に気分が悪そうにしゃがみ込んだギズルフに、ミリヤムが驚いている。慌てて傍に膝をついてその顔を覗くとギズルフは目を強く閉じて胸の辺りを苦しそうに摩っていた。

「ちょっ、若様大丈夫ですか!? それなら召し上がらなければいいではありませんか……!! ちょ、」

 そんなに気持ち悪くなるってどんだけお菓子貰ったのだこのお方は、とミリヤムが怪訝にその身を案じていると、其処へミリヤムに遅れて小姓達が様子を見に来る。

「あー……このうちみんなものすごい甘党なんだよね、全部おさとう多め。たぶん三倍くらい」
「さ!?」
「ごめんねギズルフ様、お父様もお母様もお茶にもざらざらおさとう入れちゃうから……あと練乳とか……」
「ざ、ざらざら……? 練乳!? す……すみません若様! 私、てっきりお話終わられたら呼んで下さるものと……若様がそんな砂糖攻めに立ち向かって下さっていたとは思わなくて……」
「うぅうう……信じられぬ、あれは本当に食い物なのか……」

 胃の辺りを押さえて呻く人狼に、ミリヤムは慌ててその背を摩るのだった。
 



「……ひとまず先に若様をお城に返しましょう。ヘンリック先生に早く診てもらったほうがいいです」
「え? いいの? 町にもお医者様はいるけど……」

 居合わせた女中がそう言うが、ミリヤムは首を振って己の膝の上に頭をぐったり預けているギズルフを見た。

「いえ、お菓子に気持ち悪くなった程度なら……この方は領主様のご嫡男です、あまり知らない医者には診せないほうが良いと思います」

 高い地位にある者はあまり信用が置ける医師以外には掛からないものだ。医者に掛かるという事は自分達の身体的弱点をさらすことであり、それが洩れればどこで足をすくわれることになるかも分からない。
 ミリヤムは護衛兵達に顔を向ける。

「私は別に逃げませんし、護衛も監視も一人いれば充分でしょう? だから先に若様と一緒にヘンリック先生のところに行って下さい。私、この子達と後から行きますから」
「い、いやだ……」

 ミリヤムが護衛兵と話していると、膝の上で呻いていたギズルフが、がしっとミリヤムの手を握る。

「俺はお前を置いていかないぞ!! どこぞでこけて死ぬかも分からぬ奴を!!」
「……若様……」

 途端ミリヤムの眉間に縦皺が。

「そんな今にも吐きそうな顔で駄々っ子みたいなこと仰らない! 前々から申しておりますがそう簡単に死ぬわけ無いでしょう! それに置いて行くも何も、此処は城壁のすぐ傍、お城はすぐそこですよ!?」

 ミリヤムはビシリと外に向かって指を指す。
 子爵邸は城のすぐ傍の貴族達の邸が立ち並ぶ地区にある。身体能力の高い人狼兵の足ならすぐにでも帰れる距離なのだ。実際、ギズルフが城に戻ってすぐにヘンリック医師に診て貰えるよう護衛兵の一人が既に城に報せに走っている。

「さ、よろしくお願いします」
「!? おい!?」

 ミリヤムが促すと、残りの護衛兵の内二人が「よし」と頷いて、ギズルフを担ぐ。弱り目のギズルフは抵抗空しくどんどん運ばれて行く。
 人狼兵達もどちらかと言えばミリヤムの意見に賛同していた。すなわち、ミリヤムが護衛兵一人でも逃げ出せないという件と、ミリヤムがギズルフが怯えるほどすぐ死なないという件について。
 そもそも逃げるにしても、城にヴォルデマーが居る限り、現状ミリヤムが単独領都を出るという事は考えにくい。ここは領主の嫡男を優先すべき、と彼等も判断したらしかった。

「!? や、やめろ、お前た……っ、う、っぷ、く、そ……さ、砂糖めっ、うっ……」
「こらぁっ、若様! あんまり叫ぶと吐いちゃいますよ!」

 大人しくお戻り下さいねー、と手を振りながらミリヤムは騒ぐギズルフを見送った。
 流石、力のある人狼兵達はギズルフの巨体を担いでも風のように城の方へと戻って行く。それを見たミリヤムは、ギズルフに領都に連れられて来た当初、乗り物酔い(ギズルフ酔い)をしたことを思い出し、あんな速さで輸送されるのはもう二度と御免だ、と思うのだった……


「……さて、では私め達は普通に歩きで。子爵様にご挨拶してそろそろ帰りましょう」

 ギズルフ達が見えなくなると、ミリヤムは小姓達と残された護衛兵にそう言った。
 幾人かの女中達は既に仕事に行っていなかったが、残っていた女中に挨拶し、子爵達にも挨拶をして、ミリヤム達はその子爵邸を後にした。
 

「はー若様は大丈夫でしょうかねえ……」
「おかしきらいだったんだねえ。ギズルフ様はね、いっつもお肉ばっかり食べてるよ」
「ギズルフ様には僕んちのおかしはちょっとなんいどたかかったかなー」
「肉ですかーやはしですねー、難易度お高めでー」

 そんな事だろうと思いましたが、とミリヤム。
 
「それで、おねえさんはちゃんとおはなし聞けた?」
「え? ああ……そうですねえ……」

 手を繋いだ小姓っ子の言葉にミリヤムは少し空を見る。もう空は夕日の色をしていた。

「……うん……ええ。とっても参考になりました」

 思ったよりも領都の人々の意識はミリヤムにとって厳しいものではあったが、でも知らないよりは良かったな、とミリヤムは思った。それに彼女がヴォルデマーに嫁ぐ事を歓迎する人々の存在を知れたことも嬉しかった。

「……でもまだまだお話聞きたいです。また機会があったらお付き合い頂けますか?」

 ミリヤムがにっこりと微笑むと、小姓達はうんと頷く。

「では早く帰りましょう。ヴォルデマー様がお待ちです、きっと」

 ミリヤムはとてもヴォルデマーの顔が見たい衝動に駆られた。心配しすぎているんじゃないかと心配だった。
 今日見聞きした話を全部、彼に聞いた貰いたくてたまらなくなった。

(……ヴォルデマー様……)



 と──

「じゃあ走っていこうよ」
「きょうそうだ!」
「……ん?」

 一瞬ミリヤムがヴォルデマーの顔を思い浮かべている隙に、小姓達がミリヤムの手をぱっと離した。そして次の瞬間、よーいどん! と彼等は鉄砲玉のように駆け出していく。

「…………!?」
「…………へ?」

 そのあっという間の出来事にミリヤムと護衛兵が目を丸くしている。

「は!? ……ちょ、ちょっと待った坊ちゃん達!! 私の足では坊ちゃん達の足には追いつけるわけないんですけど!!??」

 勿論、人狼の護衛兵は足が速いだろうが、彼はミリヤムから目を離すわけには行かない。まだ少し若いその人狼兵も、突然の事にミリヤムと小姓達を見比べて慌てている。

「ど、どうなさいますか!?」
「いや、勿論追いかけますよ! 追いつくはずありませんけど!! っこらー!!!!!」

 走り去っていく小姓っ子達にミリヤムが泡を食って駆け出した。スカートの端を掴んで走るミリヤムの後ろから護衛の兵も慌てて着いて来る。

「待って!! 迷子になるでしょう!!! 坊ちゃん達!!!」

 待てー!! ……とは言うものの。きゃっきゃ言って走る小姓達は既に声が聞こえるような距離にはいない。はるか先、豆粒ほどの大きさになった少年達に、ミリヤムは聞こえないだろうとは思いながらも叫ぶ。

「なんというすばしっこさ……侮りがたし人狼っ子……! しかしあれは七歳児っ……!! あああああ待ってえええ」

 ええええ!!!! ────と──…………

 ミリヤムが声を張り上げた、その時。
 
 その途中で、不意に、ミリヤムの身体が──浮いた。


「ええええっ、っ!? がぐぇっ!???」

 叫んでいたところに急に、ぐんっとそれを制されて。ミリヤムの喉からは変な呻き声が吐き出される。
 駆けていた足がぶん、と振り子のように前方に振られたが、何かに引き止められてミリヤムはその場から動けなかった。

「っぉえっほっ……!! うえっ、な、な、ぅえっ、、、な、何!?」
 
 突然の事にミリヤムは目を白黒させて咳き込んだ。自分に何事が起こったのかを理解するまでに数秒の間が要った。
 
 ──そして、その次の瞬間──己が誰かに強引に引き止められたのだと気がついた。
 
 引っ張られたのはミリヤムの服だった。その“誰か”に後ろ襟をつかまれたようで──走っていたミリヤムはそれによって喉を絞められて苦しかったのだ。
 そうして“誰か”は、まるでミリヤムをぶら下げるようにして、未だ彼女の背後でその襟を掴んでいる。

「!?」
「お、お嬢さん!?」

 其処から少し行き過ぎた先で、異変に気がついた護衛の兵が慌てて足を止めている。
 その顔を呆然と見つめながら、ミリヤムは驚き戦慄いていた。
 
 姿を見ずともミリヤムにはもうそのやり口で、“誰か”が、誰なのかが分かっていたのだ。

「え……? え? え? な、な、なんで……?????」
「……」

 その“誰か”は、ミリヤムが怖々ゆっくりと己を振り返る顔を見返して、冷たい顔でふんと鼻を鳴らした。

「……この跳ね返りが……はしたなく往来を走るなといつも言ってるだろう」
「ル…………ルカス……?」
「……」

 何故ここに、というミリヤムの擦れた声に、ルカスは瞳を細め平然と返す。

「辺境伯夫人のご依頼だ」
「……へ……え……!? アデリナ様!?」

 ぽかんとルカスの顔を見上げていたミリヤムは、その彼の言葉にハッと息を呑み、一気にその顔色を失くす。
 
 ──アデリナが帰還すればヴォルデマーと引き離されるかも──……

 そういう危機感は勿論ミリヤムにもあった。
 しかし……そこにルカスが出てくるなんて事はミリヤムにとって全くの想定外だった。自分を表情なく見下ろす幼馴染の顔に、ミリヤムはとてつもなく嫌な予感がした。

 ルカスは、その栗色の瞳が動揺の色に染まっていく様をどこか伏せ目がちに見ていた。しかし、言葉ははっきりと言い放つ。

「夫人のご依頼によりお前を迎えに来た。今よりお前はこのまま侯爵領に帰還する」

 その言葉にミリヤムの目が零れ落ちそうなほど見開かれる。

「……え……? い、ま……? 今すぐ!? 帰還!? 侯爵領……?」

 それはつまり、ミリヤムが生まれ育った土地へという事だ。ルカスはしっかりと頷く。

「そうだ。お前は侯爵邸へ戻る」
「そ……それはまさか……誰にも挨拶もせずにってことですか!? ……ヴォルデマー様にも!?」
「……そうだ」

 ルカスの頭が縦に振られるのを見て、ミリヤムの視線が思わず彼がいるであろう辺境伯の城の方へ向く。
 ぞっとした。

「……い……いやだ!! それは嫌だ!!! 絶対! い、やっ!!!」

 途端ミリヤムがじたばた暴れだした。
 彼女は己の襟の後ろを掴んでいるルカスの手を引き離そうと力いっぱい引っ張っている。しかし、ルカスの手はびくともしなかった。

「暴れるな。……これは御命令だぞ」
「やだ!! 誰ですか! アデリナ様ですか!? それとも侯爵閣下ですか!? しかし、嫌です!! 絶対に! いや!!」

 ミリヤムはそう真っ赤な顔で叫びながら、もう一度ルカスに掴まれた襟を渾身の力で引っ張った。服は今にも破れてしまいそうだ。しかし、ミリヤムは構わなかった。
 このまま隣領に戻されるなんて、ヴォルデマーの顔も見る事無く連れて行かれるなんて、絶対に嫌だと思った。
 考えただけで悲しくて、涙腺が今にも崩壊しそうで、ミリヤムは叫んだ。

「絶対、無理っ!!」







 ──しかし──……

 そんなミリヤムに、ルカスは感情の消された静かな声で呟いた。

「馬鹿者め……何故、俺が此処にいると思っているんだ……」
「……!? 離してったら、ルカス!」
「……」

 泣きそうな顔でミリヤムがルカスを見上げると、ルカスはその幼馴染の顔に一瞬痛そうな目をした──そして、ため息をひとつ。
 未だ己の手から逃れようとするミリヤムに宣告する。





「…………フロリアン様だ……」
「………………!? ……え……?」
「ご命令下されたのは、フロリアン様だと言っている」
「……は……ぁ……?」



 その途端、ミリヤムの身体の動きが止まる。
 彼女の頭の中から、思考という思考が追い出され、目は哀れなほどに見開かれていた。
 
 今、ミリヤムの耳に届いたのは、彼女がこの世で最も美しいと思う響きの音であり、最も長く愛した名であった。
 聞き間違えるはずが無いのに、聞き間違いだと思いたい衝動に駆られたミリヤムは、最早訳が分からなかった。

 耳に周囲の雑踏の音が届かなくなって、しんとしたそこに、ルカスの声だけが浮かび上がるように響く。ミリヤムは、ただそれを呆然と聞いていた。身体に力が入らなくなっていた。



「アデリナ様の要請に応じて命じられた。これは……フロリアン様の御命令だ」








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