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三章
35 気力
しおりを挟む暗くも無いのに光が見えない、とヴォルデマーは思った。
閉じ込められた一室で、鉄格子のはまった窓から外を眺めていたヴォルデマーは陽が明るいだけでは人は世界に彩りを見ることは出来ないのだな、とそう感じていた。
窓の外に見える空は晴天だった。だが、それでも彼の目には其処がどんよりと暗い景色に写る。
以前は同じ景色を普通に見ていたはずなのだ。ミリヤムの居ないこの景色を。
出会う前はその時を、普通に、当たり前に生きていた。世界が味気ないなんてことは、考えもしなかった。
「…………」
この領都の景色の中に、ミリヤムはもう居ない──
そう考えるだけで、そこがまるで荒野のように感じられたヴォルデマーは瞳を閉じる。それを眺めるヴォルデマーの心の中もまた、渇ききり、少しの潤いすらも残されていない様な気がした……
あの日──ヴォルデマーはミリヤムを追って領都を出るつもりだった。
母の命に従い己に向かってくる同族達を退けさえすれば、強靭な足を持つ彼に取ってそれはさほど難しいことではないと思えた。相手が侯爵家の者だとか、そういった事は露程も気にならなかった。
ヴォルデマーは飛び掛ってくる幾人かの兵士達をかわし、立ち塞がる者達を腕の力で放り投げて行った。しかし兵は後から後から沸いてくる。その足止めに、ヴォルデマーは次第に焦燥に駆り立てられていく。
──早くしなければ、それだけミリヤムがこの領都から離れて行ってしまう──
そう焦った彼は、ついにその手の鋭い爪をむき出しにした。良く磨かれた白刃にも劣らぬ鋭利な爪だった。それを追っ手に向けて振るおうと腕を振り下ろした時────彼はハッとした。
その爪の先が同族の肩に触れるか触れないかという直前で、ヴォルデマーはその兵士の苦しみと戸惑いを綯い交ぜにした様な表情に気がついた。それは良く見知った顔の人狼兵だった……
よく見ると、周囲で身構える兵士達も皆、同じ様な顔で彼を見ていた。領主の息子に対する戸惑い、迷い。そして怯え。
それでも命令に従わざるを得ない彼等に、「暴れないで欲しい」と懇願されながら一斉に取りすがられたヴォルデマーは──
結局同族達を傷つけてまで、先へ進む事が出来なかった。
(……ミリヤム……)
そうして取り押さえられた彼は、苦痛に満ちた視線を上げる。それは遥か先にある侯爵領の方向に向けられたものだった。
そんなヴォルデマーに、人垣の向こう側から静かに微笑みかける者があった。
「……貴方はここに居るべきです。ヴォルデマー様」
「……フロリアン、殿……」
搾り出されるようなヴォルデマーの声にも金の髪の青年は一つも顔色を変えない。
「彼女の事は、私が必ず幸せにしてみせます」
「っ……」
「ですから貴方はここで、その報が届くのをお待ち下さい」
青緑の瞳は、場の喧騒に反して、奥深い森林の中にひっそりと広がる湖のような静けさを湛えていた。その瞳はヴォルデマーの殺気のような金の眼差しを容易く受け流す。彼はゆったりと微笑んで、ヴォルデマーに一礼した。
「……それでは失礼致しますヴォルデマー様」
「っフロリアン殿!!!」
フロリアンはアデリナに連れられ城の中へ入っていく。
残されたヴォルデマーは取り押さえられた姿のまま、その名を叫んだ。
去り際に。
追ってきたヴォルデマーの怒号に、彼は少し振り返って、ごくごく小さな会釈をして見せたのだった。
その後──ヴォルデマーは申し訳無さそうな兵士達につれられて、城内でも特に守りの固い部屋の中に幽閉されることとなる。
その部屋は壁は厚く強度のある石で作られ、窓には鉄格子が掛けられていた。唯一の出入り口となる扉には外から複雑な錠が掛けられていて、鍵を持たぬものには中からも外からも自由な出入りが出来ないようになっている。そしてその扉の向こうには、常に幾人もの監視兵が立っていた。
時折そこへ父やアデリナがやって来る。
だが、ヴォルデマーは今、彼等と話をする気はなかった。彼等がそこを訪れても、彼はじっと瞳を閉じて身動きもしない。会話を求められてもその静かに引き結ばれた口元はけして開かれることはなかった。
責める言葉の一つも向けては来ない息子にアデリナはとても苛立っていたが、彼は彼女が言うように、ただ意固地になっているのではなかった。
どうしても、彼等に答える言葉が喉の奥から出てこなかったのである。心の内に抱える複雑に入り混じった感情をただ喚き散らすような気力は最早彼には残っていなかった。
「……母上は、あれを放っておかれるおつもりか」
家族の食事の席でギズルフは低い声で己の母にそう問いかけた。豪奢な食堂の奥で、問いかけられたアデリナは席に着いたまま、無言で皿の上の料理をナイフで切り分けている。
「……」
「あのように息子が苦しんでいる様を見て何も思われないのですか? あれからもう十日は過ぎておりますよ?」
「……」
「弟はあの部屋に入れられてからというものずっと食事をとりませんでした。俺とヘンリックがどれだけ苦労してあいつに食事を取らせているかお分かりですか? 放っておけばあやつは水すらも飲もうとはしない……母上はあいつを死なせるおつもりか?」
「そんな訳ないでしょう!!」
ギズルフの棘のある言葉にとうとうアデリナが激しくテーブルに手を叩きつけた。
「あのように身を持ち崩すなど……あの子があんなに情けない子だとは思いませんでした!! たかだか女を一人失ったくらいで……」
苦々しく吐き捨てたアデリナにギズルフが冷たい視線を送る。
「母上、弟はそんな男ですか? あやつは自分の立場も良く分かっているし、忍耐強く責任感も強い男です。容易く職務や己の責任を放り出す奴ではない。それは母上も本当は分かっておいででしょうに……あやつがあの娘にそれだけの価値を見出していたと、どうして理解しようとしないのです?」
その言葉にアデリナがギズルフを睨み返した。
「……私とて、あの子が落ち着けば話し合いの場を設けるつもりでした。ですが……あの子は部屋に篭り私とは話をしようともしない……」
苦々しいそのアデリナの言葉には、どこか戸惑いが滲んでいた。ギズルフはため息をつく。
「それは……娘を侯爵家に引き渡した後で話合いなどと言われてもあやつも話す気になれましょうか。相手はそうそう娘を返せとは言えぬ相手です……私にまで報せずに娘を連れ出したりするからこの様なことになるのです……」
どこかやさグレた様子で長いため息をつく息子に、アデリナはキッと厳しい視線を送る。
「いつまで根に持っているのです貴方は……!! そもそも一族の取り決めに反したのはあの子の方です! 手遅れになる前に引き離すべきでしょう!?」
「もう既に手遅れだった様な気がしませんか? あやつが軟化するのを待つと? そんな事……母上はあやつのしぶとさと頑固さを勘定に入れていらっしゃるか?」
アデリナに手を貸したものの、この領都で弟のミリヤムに対する執着を目の当たりにしたギズルフは頑なな母に諭すように言い募る。
「……あの歳でようやくこれぞと思った女を、あの弟がそうそう諦めるとは思えません。落ち着いたふりをして解放された途端人妻となった娘を攫いに行くくらいしそうな気がしますね……たとえ数年越しであったとしても」
「!?」
そのギズルフの言葉にアデリナが気色ばんで椅子を立った。
「ギズルフ!! 適当な事を!!」
「適当? とんでもない。今回の事でヴォルデマーも当家に嫌気がさしたでしょうから、それを捨てる事には何の躊躇いもないのでは? 勿論あちらの侯爵家にも恨みを持っているでしょうし」
「そうなると……侯爵家は相当憤る事だろうな。こちらもヴォルデマーと縁を切るくらいでは済まされそうに無い……」
「あ、あなた……!?」
二人の会話を黙って聞いていたアタウルフが水の満たされたグラスをテーブルに置きながら言った。
今回、隣の侯爵領と渡りをつけたのは、完全なるアデリナの独断で行なわれたことだった。伯は次男の姻戚関係についてはアデリナに一任しており、出来るだけ口を出さないようにしてきた。だが、とアタウルフ。
「もう少し二人の関係性について見定める必要があったな、アデリナ」
「あなた……でも……侯爵家から渡せと言われればこちらとて無下には出来ません」
「それでも。少々事を急きすぎたのではないか? どんな形にせよ、少なくとも傍には置いておけるように手段を探すべきだったと私は思う」
夫に静かな目で見られたアデリナは流石に奥歯を噛んで俯いた。そうして彼女は無言で席を離れると、そのまま足早に食堂を出て行った。御付の侍女達が慌てた様子でそれを追って行く。
そうしてその扉が閉められた途端、それを見たギズルフがやれやれとため息をついて、テーブルの上に握っていたフォークとナイフを放り出す。
「あの頑固さ……ヴォルデマーと良い勝負です。この様なことになって……あの二人が和解する事などあるのでしょうかねえ……」
ギズルフは疲れたように目を細めながら、躊躇なく肉を爪で拾い、口に放り投げた。その様を見て、アタウルフが苦笑した。
「お前、アデリナが出て行った途端何という行儀だ。……あの娘にそれでは駄目だと叱咤されていなかったか?」
そう言ってやるとギズルフは決まりの悪そうな顔で渋々テーブルの上に転がしたフォークを拾う。
アタウルフはそんな息子の様子に笑い、そしてアデリナが出て行った扉を見る。
「……あれも焦っているのだろうよ。昨今、アデリナと同じ、純粋な白銅の毛並みの人狼はかなり数を減らしているらしい。絶滅するのではと恐れているのだ」
「……俺達も、残念ながら受け継ぎませんでしたしねえ。二人共お爺様や父上に似てしまった」
ギズルフは己の黒々とした腕を見ながら首を振る。
「まあ、そんなことは俺達には選びようの無いことですがね……さて、と……俺もそろそろ行きます。ヴォルデマーに食事を持っていかないと」
皿の上の最後の肉のひと欠けを口に放り込んだギズルフは、面倒くさそうに頭を掻きながらそう言った。
その言葉に父が少し目を丸くしている。
「……お前が? 珍しく弟に対して献身的ではないか。如何した?」
物珍しいものを見るような目で自分を見てくる父に、ギズルフはため息をつく。
「……仕方の無いことです。岩のように黙り込んで身動きもとらないあやつに、食事をとらせることが出来るのは、今の所俺かヘンリックだけのようなので」
「ほう? どうやって説得すると?」
不思議そうな父を、ギズルフはつと見つめた。
「……懇願も脅しも効きませんでね……唯一あやつが食事に手を伸ばすのは……娘のことを持ち出した時だけです」
「……」
「あの娘にもう二度と生きて会うつもりが無いのかと言ってやると、瞳に気力が宿るのですよ」
彼の兄は静かな声で呟やく。
「あやつはまだ、諦めてはいません」
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