偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

36 悲しませる決断

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 ミリヤムは窓の外を見ていた。
 
 窓の傍に椅子を置いて、窓枠に片肘を突き身をもたれさせる様にしてじっと。
 その視線の先には見慣れた庭が広がり、ずっと先の長閑な外庭園の草原までが良く見えた。草原には、綺麗に手入れされた池もあり、その傍に見える転々とした白いものは野鳥か何かだろう。もう少し季節が進んだら、彼等の卵が一斉に孵って愛らしい雛達がその後をついて回るようになる。
 ミリヤムはふと漏らす。

「……これをこんな形で見に戻ることになるとは……」
 
 何処かぼんやりとした娘は、彼女が今まで着た事のないような美しいドレスを身につけている。乳白色のそれは殆ど飾りは無かったが、彼女が立ち上がると薄いひなげしの花弁のような裾が豪華に広がって、華奢で可憐な印象を見る者に与える。
 着心地はとても良かった。でも、落ち着かないな、とミリヤムはため息をついた。

 そこへ木を叩く軽い音が響く。
「はい」と声を返すと、扉のドアノブをまわす軋んだ音がした。それに合わせるように振り返ると、その隙間から現れた人物と目があって、その彼はミリヤムを見て柔らかく微笑んだ。
 
「用意できた? ミリー」
「……坊ちゃま……」

 ミリヤムは椅子から立ち上がったが、その傍に歩み寄って行って良いのか分からず、戸惑った顔でその場に留まった。フロリアンは柔和な顔のままそんなミリヤムの傍までやって来た。
 そして嬉しそうに微笑んで、ミリヤムの手を取る。

「綺麗だね。とっても似合ってるよ」
「……坊ちゃま、本当に……これでよろしいんですか?」

 手を取られたミリヤムは不安げにため息をついている。

「うん?」
「私、坊ちゃまの為にならなんでもしようと思って生きてきました。でも……これで本当に坊ちゃまはお幸せになれるんですか? それに……私を侯爵家に迎え入れれば、色んな所から反発を受けるはずです……私、自分の信念に逆行するような行いをしている様な気がして……」
「大丈夫だよ」

 その肩を優しく撫で摩り、フロリアンはいつものように微笑んだ。

「大丈夫。これまでずっとこの為に準備を進めていたんだよ? 母上も味方してくれたし、父上だって。家の者達も皆いつかはこうなるって思ってたみたいだよ。まあ私がそう思われるように動いていたんだけど」

 フロリアンは肩口で金糸の髪をさらさら言わせながら軽やかに笑っている。それを見たミリヤムは困りきった顔をしている。
 そんなミリヤムの顔をフロリアンは優しく見つめる。慈愛に満ちた、唯一の者を見る目だった。

「ミリー……私はずっと、君の事を愛してきたんだよ? 君はずっと私の事を天使などと呼んでいたけれど、私からしてみれば、私の周りでころころ転げまわって一生懸命な君の方がよっぽど可愛らしい天使みたいだった」

 そう微笑む青年の心の中には昔のミリヤムの様子が思い出されていた。
 大きめの制服を着て、これまた大きめの白いエプロンを後ろで不恰好に結び、あれやこれやと減らず口を叩きながら侯爵邸中を走り回っていた娘。彼女はこうるさいと評判だったが、不思議に周囲に嫌われる事はなかった。それは、「騒々しい」と言われながらも、誰よりも邸を駆け回って職務に打ち込んでいた事を誰もが知っているからだった。また、彼女は誰に対しても敬意を払った。母の同僚達にも、そして母亡き後も自分を変わらず邸においてくれる侯爵邸の主人達にも。

 フロリアンは己の言葉を居心地悪そうにして聞いている娘にもう一度微笑みかけ、その栗色の髪をそっと撫でた。

「アリーナを失わせ君を一人きりにしてしまってから……私はずっと、いつかきっと君の家族になるのだと決めていた。──失くしてしまったのは、君のたった一人の母の命だよ? 多少私が無茶をしたとしても……それは可笑しな事なのかな……?」
「……」

 当然の様な気がする、それでも足りないくらいだ、と、寂しげな顔で微笑むフロリアンにミリヤムは目を少し伏せる。主がずっとそれを気にしている事は、勿論ミリヤムにも良く分かっていた。
 ミリヤムは胸を押さえ、主の瞳を見上げた。

「……フロリアン様、それがもし──償いの気持ちであるならば……私にはもう不要です。充分施して頂いたと思っております。ずっとお傍に置いて頂いて、私は十二分に幸せでございましたから」

 その真っ直ぐな言葉に、フロリアンは「そう?」と笑む。

「では懺悔の気持ちはもういいってことだよね? それならこれからは純粋に愛しいという気持ちだけでいられるね」
「……ほう……そうきましたか……」

 その主のカラリとした笑いにミリヤムは一気に殊勝な表情を崩し、眉間に縦皺の浮かぶ呆れたような顔を作った。その表情に、フロリアンが「なんて顔してるの」と小さく噴出す。

「ミリーのそういうところ好きだよ。私に心底入れ込んでいても決して良い顔ばかりしないところ。熱烈に賛辞を贈ってくるくせに、叱る所はちゃんと叱ってくれる所、とかね」
「……それはそれ、これはこれの精神でございますからして」

 にこにこしたフロリアンに頬を突かれながらも、ミリヤムはしかつべらしい顔で頷く。
 そんな娘の真面目くさった顔に、フロリアンは、ふむ、と考え込むような顔をした。

「……どんな感情が途中にあったとしても……私の気持ちが愛である事には変わりが無いと思うんだけどな」
「……」
「君が大切だよ、ミリー。君がこの手を取ってくれたら、私は君が誰よりも幸せな花嫁になれると確信しているよ」

 その主の瞳に浮かぶ真摯な感情に、ミリヤムはため息をついて、
「……そうでしょうか……」と、小さく呟いた。

 その言葉に、フロリアンは明るい顔で頷く。それを見たミリヤムはもう一度ため息をついた。胸の中には、暗雲のような戸惑いがもうもうと渦巻いていた。

「……坊ちゃま、これは私めにとってはとても困難な決断です……」
「……」
「この決断は、私のこの上なく大切な人に辛い思いをさせる……それで本当に良いと……? 幸せな私になれると? 坊ちゃまは本当にそう思われるのですか?」

 泣きそうに表情を歪めた娘に、フロリアンは金の睫毛を少し伏せて瞳に美しい陰りを作った。

「……なってよミリー、それが……唯一の慰めになるんじゃないかな……?」
「……」

 主は“誰の”とは言わなかった。彼は微笑んで。凪いだ海のような瞳で続ける。

「ミリ、今君が其処に飛び出せば、君は満足だろう。でも、きっと其処には苦しみもあるはずだよ……このまま行けば、ヴォルデマー様は正妻を娶るか、たとえそこが空席になったとしても、それはまた別の問題を生むんだ」

 それに、と主は微笑みに小さな苦しさを混ぜた。

「……側女だとか、事実婚の妻などといった立場に君を送り出すなんて……私は嫌だ。亡くなったアリーナにも申し訳が立たな過ぎる。彼女の為にも、君には必ず幸せになってもらわないとならない」
「…………母さん……」

 フロリアンの言葉にミリヤムが呟く。ミリヤムは──母アリーナの遺言を思い出した。


『坊ちゃまの事をよろしくね……』


 そう静かに言って、この世から消えていった母。彼女には、目的の為なら手段を選ばないような所があって、そのせいで親子はよく衝突もしていた。けれど、父亡き後、一人でミリヤムを育てていた母の苦労はミリヤムが誰よりも分かっていた。職務に勤しむ母の姿は、尊敬に値するものだった。
 その母の、この世から去り行く人の、無念に満ちた悲しげな細い声は、今でもミリヤムの耳の奥に残っている。思い出すと──涙が出た。

 その涙をそっと指で拭いながら、フロリアンは静かで──強い視線でミリヤムを見た。

「私は、アリーナに命を貰ったと思っている。……ヴォルデマー様がその座を君に用意出来ないのなら、私が用意するしかない。違う……?」
「…………母が……」

 母の声を反芻するように目を閉じていたミリヤムは、フロリアンの言葉に顔を上げ、呟いた。

「……母が亡なった時、母が最後に私に坊ちゃまのこと言い残していった事を知ると、皆、哀れむような顔をしました。死に際に娘よりも主なのかって……」
「……」
「でも、私は……私には、母が……“お前は坊ちゃまの傍に居れば幸せだからね”と、言った様な気がしたんです……“お前は坊ちゃまの傍に居さえすれば機嫌がいいね”って、母はよく言っていたから……」
「……ミリー……」

 ミリヤムは涙を零しながら──堪えるような顔をして、そして──喉の奥からその言葉を、搾り出す。



「……………………分かり、ました……」


 ミリヤムはその手を取る。

「……坊ちゃまの……仰る通りに、します……最後まで、きっと親孝行してご覧に入れます」
「ミリー……」

 ミリヤムは少し震える手で彼の手を強く握り、顔を歪め俯いた。


 涙の滲むまぶたの裏に、その人の姿を思い浮かべると一層涙が溢れた。

 約束を守れなくて、ごめんなさい

 きっと償いますから、だから、



 だから、許して下さいと。



 ミリヤムは泣き暮れるのだった




 
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