偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

38 針仕事

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「……母上?」

 扉を開けたギズルフは、そこに立つ夫人を少々の驚きをもって出迎えた。

「……どうかなさいましたか」
「いいえ……ヴォルデマーのところに様子を見に行ったら来客中でした。それで此方に……せめてお前に様子を聞けたらと思って……」
「……左様でしたか」

 思うところもあったが、一先ずギズルフはアデリナを部屋へ招き入れた。
 室内は窓が大きく開けられていて、その空気の緩やかな流れに当てられたアデリナは、少しほっとしたような様子を見せた。

「……あの子はどうですか」

 沈んだ様子でそういう母に、ギズルフは内心でやれやれとため息をつく。アデリナ自身も毎日ヴォルデマーの部屋を訪れているのだ。それでも落ち着かないのか、こうしてギズルフに会う度にこの母は同じことを問うてくる。
 椅子を勧めても座りもしない母に、ギズルフは自らは長椅子に腰を下ろして肩を竦める。手でそこにあったクッションを弄びながら。

「頑ななのは変わりませんよ。まあこれはお聞きにはなられたくないでしょうが……ずっとミリヤム・ミュラーを餌に食事をさせております」
「…………」
「皮肉なものです。当家はあの者を払いのけたというのに、弟を守る為にあの者に縋っている。だが仕方が無い。これだけ尽くしても、私では弟の口の端一つ持ち上げさせることも出来ない」

 ギズルフの言葉には諦めに近い悲しさが滲んでいた。アデリナはその言葉を黙って聞いていた。
 ギズルフはそんな母を見る。
 こうして見ると母と弟はそっくりだった。沈痛な表情で押し黙っている様子はまるきり親子なのに、どうしてこうも対立するのかと密かにため息をつく。

(似ているからこそこうなのか……)

 始末が悪いと思いながらもどちらも放っておく事が出来ないギズルフは母に向かって呟く。

「……知っておりますよ」
「……? 何をですか?」

 ギズルフの言葉にアデリナが怪訝に問う。

「……母上がこれまで息子に母として尽くしてきた事、それに、今も変わらぬ気持ちでおられる事も」
「……」
「でも母上、方々探して身体に良い食べ物や薬をヴォルデマーに用意しても、遠方から見識の広い知識人を招いて引き合わせても、素晴らしい書物を与えたとしても……弟は笑いませんよ? ……まずは、謝意を伝えてみては如何ですか?」
「……」

 探るようにそう口に出してみたギズルフは、おやと思った。アデリナはギズルフの意に反して、その言葉に“沈黙”という反応を見せた。以前なら、何故私が謝るのだと即座に睨まれているところだ。
 だが、母は今、無言で床に視線を落としたまま立ち尽くしている。それは道に迷った者の目のようだと、傍で見ているギズルフは思った。この一月、娘を失い閉じた貝の様になってしまったヴォルデマーの様子を見て、流石に母の中でも何かが変わりつつあるのだろう。方法は間違ったかもしれないが、母が確かに弟を愛していることはギズルフもよく承知していた。

 だが、それだけだった。アデリナは何も言わなかった。
 まだ決心がつかないらしいな、とギズルフが思った時、部屋の扉がノックされ、そこへ侍女が顔を出した。侍女はアデリナの部屋にウラが訪問して来ていると告げる。


「……分かったわ、すぐ行くと伝えて」

 アデリナはそう言うと、部屋を出て行こうと足を出入り口の方へ向けた──その時、
 強い風が窓から吹き込んできた。風に分厚いカーテンが舞い……なんとなしにそれに視線をやったアデリナは──ふと気づく。

「……あら……新調……しなかったのね……」
「ん? ああ……」

 アデリナがカーテンを見ているのに気がついたギズルフが頷く。
 それは、一月程前の例の兄弟喧嘩の折に、彼が彼自身の爪によって引き裂いたものだった。

「?」

 アデリナは不思議そうにカーテンの傍に進んで行った。そしてそれを手に取ると、まじまじとその布地の上を見つめている。勿論カーテンは既に修繕されていて無残な裂け目は何処にもない。だがそこには確かに破れた箇所を繕った痕が残されていた。

 アデリナは首を傾げた。
 これまでも、このギズルフの私室が兄弟喧嘩の舞台となったことは幾度もあった。その度に室内の物は破壊されてきたのだが、ギズルフはその都度壊れた品々を捨て、当然のように新しいものに入れ替えてきた。カーテンも、調度品も、衣類も何もかもをだ。
 伯の嫡男であり、彼自身にも莫大な財産があるゆえか、修理して使おうなどという考えが彼には端から無いのだ。
 勿論この城の嫡男が継ぎはぎだらけの服を着ていたり、今にも壊れそうな家具や破れた寝具を使うことは立場上あまり好ましい事ではない。
 だが、自分や婚約者が贈ってくれた物ですら壊れれば躊躇なく捨てていいかと問うてくる息子に、正直アデリナは困っていた。普段のガサツさも心配だったアデリナは、息子にもっと物を大切にして欲しいとそう思っていた。

 だが──……そんな彼女の息子が、今、繕い痕も明らかなカーテンを平気な顔で使っている。その変化にアデリナは違和感を覚えた。

「……どう、したの? いえ、物を大切にするのは結構なことだけれど……」

 不思議そう、というよりは不審そうに見上げられたギズルフは頬を掻く。それだけの表情を母にさせるだけの事はギズルフはやって来ている。

「まあ……捨ててやるのもどうかと思って……俺の保護対象が上手く繕っていたので……」
「……保護……あの、娘……?」

 ギズルフの言葉にアデリナがぴくりと眉を動かす。ギズルフは頷くと、事も無げに自分の羽織っている紫紺の上着を指差した。

「これもそうです。本当は袖も落ちていたのですがあやつは俺の目の前で魔法のように縫い合わせてですね」

 あんな小さな針をよくもまあ巧みに扱えるものですと、ギズルフが無邪気な顔で言うと、途端アデリナが目を丸くする。

「!? これ、も……!? 繕ったものを着てるの……!? 貴方が!?」
「ええまあ。あとはクッションと、布団も……」
「布団!? 貴方あれも破いたというの!?」

 隣国から取り寄せた高級布団を引き裂いたと聞いてアデリナが引き攣っている。その母の顔に、ギズルフは少し視線を斜め上に逸らせてから答える。

「まあ……それで……あいつが器用にもあっという間に繕いあげて見せて。このままじゃ破壊で領の蓄えを消費しきるぞなどと脅すものですから……いや、まあ、それは別にしても、折角縫ってくれたのだからどうせなら使ってやろうかと……」
「…………」

 あまりにもアデリナが凝視してくるもので、ギズルフは次第に気まずそうに言葉尻を窄めていく。そしてついに仏頂面で母親に問うた。

「なんですか母上、何故そんな目で見るのです!? これらに何か問題でも!?」
「…………脱ぎなさい」
「え?」
「その私が贈った上着です! 寄越しなさい!!」

 アデリナはむっとした顔で息子からその上着を脱がせると、それを腕に抱えたまま扉の方へ身を返した。

「これは少し預からせていただきます」
「は!? で、ですが、それは俺の保護対象がせっかく……」
「では私は訪問客で忙しいですからこれで失礼しますよ!」

 ギズルフは慌てるが、アデリナはつんとそのまま部屋を出て行った。残されたギズルフは、何故か少し張りを取り戻したように歩いていく母を呆然と見ている。

「……なんだ??? 一体なんだって言うんだ???」

 上着を奪われたギズルフは、「俺の服……」と若干寂しげに呟いて、三角の耳をぺったりと倒すのだった。










 そうして私室に戻ったアデリナが部屋の中に入ると、まず、ウラが自分を見て息を呑んだ様子が目に入った。ウラはアデリナのやつれた様子を見て一瞬言葉を失くした様だった。

「ウラ、よく来ましたね」

 応接用の長椅子で自分を待っていた人狼の娘を見てアデリナは微笑んで見せた。だが、その声の調子にウラは更に戸惑いを深めたようだった。

「アデリナ様……お眠りになられていらっしゃいますか? お食事は?」

 挨拶もそこそこにそう問うてくるウラにアデリナが「ええ」と苦笑して頷いている。
 ウラはとてもそれを信じている様子ではなかったが、何を言っていいのか迷っているらしく、物言いたげな顔でじっとアデリナの顔を見つめては、口を開いたり閉じたりを繰り返している。
 そんなウラの前に座ったアデリナは、そう言えば、と、静かに口を切る。

「ウラ……あの時……砦で私がヴォルデマーを捕らえていた時、息子にあの娘の無事を報せたのは、貴女だったのね……」
「ぁ……」

 アデリナの言葉にウラの身体が一瞬震える。
 それはヴォルデマーが砦を出てミリヤムを追い領都に向かった時のことだ。ウラはアデリナの意に反し、実家の者に命じて連れ去られたミリヤムのことを調べさせた。
 それを、アデリナは後になって知ったのだった。

「……はい」

 一瞬怯むような様子を見せたウラではあったが、彼女はさっと身を正し、真っ直ぐにアデリナを見てはっきりと頷いた。

「もう……あれ以上ヴォルデマー様に苦しんで欲しくありませんでした」

 人狼の娘は申し訳ありませんと、深々と頭を下げる。
 頭を下げられたアデリナは静かにそれを見ていたが、「そう」と呟いたきり、それ以上ウラを追及することはなかった。

 アデリナはため息をつくと、ふと自らの腕にかけられたものに視線を落とした。そして「少し、聞いてもらってもいいかしら」と、ウラに問う。ウラが戸惑いがちに頷くのを見ると、アデリナはテーブルの上にそれを広げてみせた。

「……? これは……?」

 それは紫紺の服だった。先程彼女がギズルフから脱がせて持ってきたあの上着だ。夫人が唐突に出してきた男性用の上着にウラが不思議そうな顔をしている。

「……これは、ギズルフのものです。私が去年、あの子の誕生日に贈りました……ほら、ここを見て」
「?」

 アデリナが示す場所をウラが覗き込むと、その服には大きな裂け目が出来ている事が分かった。だがそれは既に繕われて綺麗に修繕されている。

「……丁寧に繕われていますね……でもこれが……どうかなさったのですか?」

 ウラは上着から顔を上げて問う。と、アデリナは視線をつと服に落としたまま、静かに応えた。

「繕ったのは…………あの娘だそうよ……」
「……え?」

 あの娘、とウラが口の中で繰り返す。

「……もしかして……ミリヤム・ミュラー……あの子の事……ですか?」

 ウラが戸惑ったように目を見開くと、アデリナは視線を上げて穏やかに頷いた。

「そうです。ミリヤム・ミュラー、あの者が繕い上げてくれたとギズルフがそう言っていました」
「……」

 ウラがどう返していいものか迷っていると、アデリナはもう一度上着に視線を落とし、その繕われた縫い目に指をあてる。

「……丁寧で、正確、そして手間を掛けすぎてもいない……よい仕上がりです……」
「……はい」
「ウラ……私は……この縫い目を見て……あの娘を少し誤解してたのかもしれないと思ったのです」
「アデリナ様?」

 夫人の告白にウラが驚いたように目を瞬く。

「……私達貴族の女達は、嗜みの一つとして針仕事も厳しく仕込まれます……それに今では私がこの城で多くの娘達に仕込む側の立場です。だから……多くの娘達の針仕事を見てきた私には、これがどのようにして繕われたのかがよく分かるのです」

 アデリナはその縫い目をそっと撫でる。

「……これは一針一針とても丁寧で、素晴らしい仕事です……針仕事には──……縫う者の人格が出ます。根気の要る作業ですからね」
「……はい」
「これをギズルフの部屋で見た時、私は感心するのと同時に、ふと──自分があの娘の事をきちんと見てはいなかった事に気がついたのです」

 アデリナは、そう言って苦悩するようなため息を落とし、もう一度その紫紺の上着の縫い目を見下ろす。
 それはとても小さな縫い目ではあったが、それを目にしたのを切っ掛けに、アデリナは己の中で様々な事に気がついていった。

 娘をきちんと見ていないと気がついて、同時に、同族同士の婚姻という決まりに固執していた己に気がついた。多種族は嫁としてそぐわないという考えを前提に娘を見ていたから──娘自身の資質や人格については少しも気にかけていなかったのだと、思い当たったのだ。

 そうして自分の息子がどうしてあそこまであの娘に執着しているのかという事にも思いを寄ぜず、一族の為だと言いさっさと娘から引き離して、ただ、ただ、気を落としている息子に何故回復しないのだと責めていただけの自分にも気がついて──アデリナは、今、強い後悔に苛まれていた。

「……私は母として失格です……焦りや嫉妬に駆られて何も見ていなかった。一族大事と謳いながら、家族を大事にしていなかったなんて……息子があんなにあの娘を想っているなんて思わなかったんです」

 アデリナ自身はその昔、政略結婚の上でこの辺境伯領へ入った。その結婚は彼女が少女の頃にはもう既に決定していて、恋愛というものを経験しないまま伯の妻になった彼女には、息子の気持ちがあまり分からなかった。
 だが、弱り行く息子を見て、アデリナはようやくその想いの深さに気がついた。

「分かろうとするべきだった……何より、愚かしいと思うのは……もう全てが手遅れだという事です。こんなに繊細な問題なのに、慎重さを欠き、早々に事が片付くように始末をつけてしまった……でも、私が幾ら自分の至らなさに気がついたとしても、もうこれだけの時間が経てば取り返しがつかない……あの娘もとうにリヒター家へ嫁入りを済ませた事でしょう……私はあの娘と一緒にヴォルデマーの事も失ってしまったのだわ……」

 アデリナは、この一月の間、息子の様子を見て、徐々に積もらせて来た後悔の念の全てを吐き出すように呻いた。
 そうしてどうやって息子に詫びていいのか分からないと嘆き、肩を震わせる夫人の言葉を、ウラは驚きをもって聞いていた。

(アデリナ様が……後悔なさっている……)

 ウラはそこに小さな希望の芽を見たような気がした。ウラは慌てて椅子から立ち上がると、アデリナの傍に膝をついて彼女の俯いた顔を見上げる。

「アデリナ様……気を確かにお持ちになって下さい。まだ遅くないかもしれません。貴族の婚礼の準備には長い時間がかかるものです、まだ終わっていないかも……何かあの子を呼び戻す方法が……私もお手伝い致します、だから──……」

 ウラは後悔するなら共に贖おうとアデリナに懇願する。だが、そんなウラに、アデリナは弱々しく首を振ってみせた。

「有難うウラ……でももう手遅れなのです。侯爵はもうずっと以前からその準備を進めていたと聞きました。御嫡男ではないから式は内々で済ませるという事だったけれど──それが終わり次第、此度の一件の礼に侯爵夫人がご訪問下さると連絡が」

 その言葉にウラが息を呑む。

「いつ、ですか……? それはいつ……!?」
「……連絡は数日前に。おそらく……明日か……早ければ今日にもお着きになるでしょう……」

 そうアデリナが呟いた時、部屋の外の廊下を慌しく駆けるような足音が近づいてくるのが分かった。耳の良いアデリナ達にはそれがこの城の執事長のものであることはすぐに分かる。
 ウラが息を呑んで、アデリナは薄く自嘲気味の笑みを浮かべた。



「……来客ね」




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