偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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三章

49 ミリヤムは転がり続ける

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「……そこで思ったわけです」
 と、その娘が真剣な顔で呟くと、傍に居た黒い人狼が視線を上げる。
 彼は遠くにいる人狼の若い娘に視線を送っていたところだった。純白の毛並みが柔らかそうなその人狼嬢は淡い空色のドレスを身に纏っている。
 そんな男の背後に現れた娘──ミリヤムは、漆黒の人狼の背を決意に満ちた視線で刺す。
「この世には──序列という面倒にも美しき慣例がございますよね……」
「……どうした。また何か悪巧みか」
「失敬な!! この!! 浮気者め!!」
 ミリヤムが仁王立って男に指先を突きつけると、彼は驚いたような顔をした。
「女を傷つけるものには天罰が下りますよ!!」
「……………………ちょっと待て……」
 俺浮気なんかしてねえんだけど、と男──ギズルフはミリヤムを睨み返す。すると睨まれたミリヤムは納得いかないという風に眉をしかめ、ギズルフ同様にその壁に張り付いた。通りの先の路面店の前では、先程の人狼嬢が日傘を傾けながらゆっくりと歩いている。でこぼこな体格の二人は、その彼女をじっと見ていた。壁から顔半分だけ出して。
「ええ!? でも巷では噂なんですよ!? 若様が婚約者様をほったらかしで、どっかのちびのムササビ娘をかまい倒しているという……まったく……なんですかムササビ娘って! 意味が分からない!! だいたい不器用なくせに浮気なんて、絶対バレるに決まってるのに……駄目じゃないですか若様!! 序列的にも若様がささっと結婚して下さらないと順番が違うとお城の重鎮様達が煩いんですよ!?」
「……ちょっと待て……」
 そのちびって絶対お前だろ、という苦情をミリヤムは聞いていない。
「あ!? クローディア様が……」
「!? なんだ!?」
 ミリヤムの言葉にギズルフも再び傍の壁の端に張り付く。
「毛並みが立派な人狼青年と立ち話を……」
「…………」
「若様……呑気にムササビと遊んでいる場合じゃないんですよ!! こら! 落ち込んでいる場合ではもっとない!」
 婚約破棄されたらどうするのだとミリヤムは、ずんと影を背負い始めたギズルフの三角の耳を引っ張る。それでもしょんぼりと垂れ下がった耳は起き上がらなかった。
「……駄目だ……クローディアはたおやかそうに見えて俺には天の裁判官並みに厳しいのだ……クローディアのドレスに大きな染みを作って以来、あんな笑顔俺には見せたことも無い……おいちび、俺は本当にあやつと夫婦になれるのか……?」
「まあ、それはお心掛け次第ですよねえ。若様にその気がおありなら私め幾らでも御手伝いしますけど……あんな美人狼を巷が放っておくわけないですからねえ……で、最近クローディア様とお話したのは? 贈り物したのはいつですか?」
「? その様な事はしておらぬ。ああ、母上はしょっちゅう何か……」
「こらー!!!???」
 ギズルフが答えた瞬間ミリヤムが行きなり目を剥いた。
「!?」
 その唐突さにギズルフがびくっとする。傍を歩いていた獣人達も何事かと足を止めた。
 ミリヤムは路地にしゃがみ込んでいた人狼男の頭を両側からがしっと捉まえた。
「ぶっ」
「母親頼み禁止!! 自力で考えもしない贈り物がお相手のハートに刺さるとでも!? まったく!! 一先ず私めがあのイケメンを追っ払って来ますから、若様はその間にクローディア様の好物を買って来て下さい!! 今すぐに!!」
「!? い、今すぐに……だと!?」
 慌てるギズルフの前で、ミリヤムはギズルフから手を離し、今度はよーいどんと駆け出す体勢をとる。
「要包装。リボン必須。花を添えたら尚の事良し。好物知らないなんて言ったら後でわたくしめが可憐なクローディア嬢の代理で若様を張っ倒します」
 ──と、言いながら……ミリヤムはクローディア嬢と、その隣にいる人狼青年に向かって、その路地を飛び出した。

「クローディアさまあああああああ!!!」

 ……と、いう会話が既にクローディア嬢の素敵に感度の良い耳に届いていた事をミリヤムもギズルフも知らない。可憐なクローディア嬢は、冷たい目を細めてミリヤムとギズルフを見ている。
 ギズルフは駆け出して行った娘の後姿を呆然と見送った。
「……クローディアの好物、肉なんだが……」
 リボン……と、少々途方にくれるギズルフだった……


──ミリヤムがヴォルデマーの両親に婚約の許しを得てから七日。
 ミリヤムは辺境伯領の城下町でロルフ達と共に暮し始めていた。
 ヴォルデマーは婚約式の準備が整うまでに、長の座を退任したベアエールデに一度戻る事になった。
 彼は後ろ髪引かれるようにしながらも、辺境伯領を出発して行き、そうしてそれと入れ代わるようにしてサラが領都に帰還した。
 現在ミリヤムは、城下の屋敷でロルフ達老夫妻と……フロリアンが残して行ったルカスをお目付け役に、四人で新しい生活を始めている。
 そして彼女の義父となったフロリアンはと言えば──彼はぎりぎりまでミリヤムとの親子関係を堪能していたが、いざ帰るとなると「じゃあ、またね。ミリーもルカスも良い子にしてるんだよ」と、言い残し、あっさりと隣領へと帰って行ったもので──ミリヤムもルカスも、その日はこの世の終わりと言わんばかりに肩を落として一日を過ごした。
 しかし、幾ら長年務めた主との別れ辛しとは言っても、婚約式直前のミリヤムである。落ち込んでいる暇も無く早速花嫁修行に入る──……はず、だったのだが──……
 何故かミリヤムは、ギズルフの婚約者をつけ回す日々なのである。


「それで? ミリーちゃん、クローディアはどうだったの?」
 新居の台所で大きな鍋を掻き回しながらサラがにこにこと問う。元はサラの親戚筋の家だったらしいその屋敷は、大きくは無いが柔らかな草色の壁紙が可愛らしい温かみのある家だった。貴族の持ち家ということで、裏手には小さいながら立派な庭があったが、それはサラに命じられたルカスが畑に変えてしまった。「温かくなったら野菜を作るのよ、うふふ」──と言うサラは……どうやらアデリナ達のいる城に戻るつもりは毛頭無いらしい。
 因みに訪問客が多くなる事を嫌った老夫妻は近隣宅に自分達の正体を明かしては居ない。
 ミリヤムはサラの傍で、テーブルの上の豆を剥きながら「ああ、それが、」と彼女の問いに頷いた。
「私め、クローディア様に壮絶に嫌がられてしまいました。何か、若様が構い倒しているというムササビ娘とはどうやら私めの事だったらしいですね……クローディア様もそれをご存知だったようで、大変心外な誤解を受けました」
「あらあ、修羅場なの? 町の人達はミリーちゃんの話題に敏感だからねえ。うふふ、最近領都では“人族の美人”の基準がミリーちゃんになりつつあるらしいわよ」
「……何という珍事……ムササビと言っておきながらですか……」
 獣人族の美醜の基準が良く分からない、とミリヤム。
「ほほほ、それにしてもギズルフはまだクローディア嬢を捕まえられないの?」
「ええ、まあ……」
 はーやれやれとミリヤムはため息をついたが、しかし、と続ける。
「あれは幾らか脈があると見ました!! 如何に婚約者とはいえ、どうでもいい相手にやきもちなど焼かない筈ですから! 私がクローディア嬢に因縁つけられるだけ若様にはチャンスありです!!」
「あらあら、ほほほ」
 今日もですねー若様が生肉にリボン巻いてくるまでは行けそうな気がしたんですねどねー、とミリヤムが首を振っていると、そこへ買い物に出ていたルカスが帰って来た。
「お前……くれぐれも余計なことはするなよ……そのせいでギズルフ様の婚約が解消されるようなことになれば大事なのだからな!?」
「分かってますよ……、て……ルカス……? ……何なんですかそのエプロンは……」
 台所に入って来るなり顰め面をミリヤムに見せるルカスはいつもの服装の上にピンクの小花のあしらわれたエプロンを身につけていた。その格好で野菜の入った篭を下げているルカスは何だか異様だ、とミリヤムは思った。君、その恰好で買い物に行ったのかい? とも。
 その視線にルカスが煩わしそうな顔で答える。
「…………仕方ないだろう……サラ様が服が汚れると言ってわざわざ縫って下さったのだ」
 使わぬわけにはいかない、と言いたげなルカスの顔色は若干青い。
「へえ……ほう……」
「うふふ、ルカスちゃんはよくお手伝いしてくれるから、汚れちゃいけないと思って」
「……お気遣い……痛み入ります……」
「ほほほほほ、いいええ。洗い替えは薔薇の模様にしましたからね」
「……」
 ミリヤムは思った。サラさん絶対遊んでる、と。
「……それより、お前こそ何故またその仕事着を着ている?」
「ん?」
 急に己の方に話が向いて、ミリヤムは豆を剥く手を止めた。ルカスは顔を顰めながら、ミリヤムの相変わらずのメイド服を見ている。
「奥方様やアデリナ様から色々と賜っていただろう。きちんとした身なりをせねば辺境伯閣下にも、ヴォルデマー様にも、そしてお前の義父となられたフロリアン様にも迷惑がかかるのだぞ!?」
 ルカスは明らかに「フロリアン様」の部分を強調しながらミリヤムを睨んだ。確かに既に侯爵家の一員となったミリヤムがそのメイド服を着る必要はもうない。
 でも、と、ミリヤムは口を尖らせる。
「だって……クローディア嬢の追っかけ(ストーカー)をしている時に折角皆様が下さったドレスを破ったら大変じゃありませんか。あの高価な衣類様がたは恐らく我が月収を軽く越えます。あんなもの着て気軽に走れますか? ああ飾りが取れそうとか裾踏んで破りそうとか考えている間にクローディア嬢がもの凄いイケメンの人狼紳士に声を掛けられたらどうしたらいいんですか!? 人狼嬢の方々は事のほか足が早くていらっしゃるんですよ……あの足で逃避行とかされたら……。ほら見なさい、走れる服でなければ話にならないじゃありませんか」
「何がほら見なさいだ……そもそも……何故追いかける……? 相手は立派に成人した男女だぞ? 放っておけばいいものを……余計こじれたらどうするつもりだ」
 ルカスの怪訝そうな顔にミリヤムは、立派と言いましてもねえ、とため息をついた。
「若様は恋愛系のアンテナがすぐ変な方向を向くんですよ……誰か軌道修正をかけて差し上げないと、あれは一生クローディア嬢に想いが伝わりそうに無いというか……若様は若様なりにクローディア嬢が好きなんですよ!? でもほら、若様は御嫡男様だから。大抵の人は若様が気を使わなくてもついてきてくれるではありませんか。だからクローディア嬢の気の引き方も雑なんですよね。……“おい着いて来い”“嫌でございます”……て、こないだきっぱり断られた時の若様の戸惑い顔と哀愁の表情は──切ない反面、どつきたくなりましたね。」
「うふふふふふ、ギズルフったら」
「……」
 真顔で言う娘に、サラは笑い、ルカスは呆れ顔だ。
「まあそういう訳で。若様には此度はかなりお世話になりましたし……クローディア嬢はウラ様とはまた違った美人狼で、その追っかけは正直花嫁修業より楽しいのです。アデリナ様も若様に早く落ち着いて欲しいって仰っておられるし……嫡男様の婚姻を町の人達は私達の婚姻以上に待ちわびておいででですね……ああ、そう辺境伯様も存分に若様を叱って良いと許可を……」
 くどくどと続けるミリヤムに、ルカスは眼鏡の奥の瞳を疑わしそうに細める。
「……お前……さてはフロリアン様を追いかけられなくなって手持ち無沙汰になっているな……!?」
「!?」
 そう言ったかと思うと、ルカスは唐突にミリヤムの頭を両拳で挟み、ぐりぐりと圧をかけ始めた。ミリヤムが堪らず悲鳴を上げる。
「あぃたたたたぁっ!?」
「そもそもお前が今追うべきはヴォルデマー様ではないのか!? 呑気にギズルフ卿と悪巧みしている場合か!? 大人しく花嫁修業してろ!!」
「だ、ってヴォルデマー様もう三日も居ないし! 美女でも追いかけていなければ……やってられないじゃないのよっ!!」
「阿呆!!! ヴォルデマー様なら今日にでも一度お戻りになると連絡があっただろうが!!」
「わ、分かってるけど、何か落ち着かなくて……あたたたたたたたあああ!!! ぎぶぎぶぎぶ!!!!!」


 そんな二人の様子を見ながらサラはほのぼのと笑う。
「やっぱりルカスちゃんが居て良かったわあ」


 ルカスの拳骨から逃れた後、ミリヤムはサラの隣で台所に立っていた。ぐりぐり圧をかけられた頭を摩りながら、彼女は何かを手に持ってにやにやしている。それ気にがついたサラが首を傾げた。
「あらその紙はなあに?」
「これですか? これはウラ様が以前愛の張り手と共に下さったレシピで……私、いつかこのお料理をヴォルデマー様に作って食べて頂きたかったんです」
 ミリヤムはにへにへとそのレシピのメモを見つめる。
 そんな娘の様子を見て、サラはあらあらと微笑んで、その栗毛の髪を優しく撫でた。
「ヴォルデマーは忙しくなるとすぐ仕事以外の事が疎かになる子だからねえ……ミリーちゃんが砦に来てくれて、本当に良かったわ。私が言ってもすぐに仕事に没頭して忘れてしまうの。ミリーちゃんがいるとあの子、ミリーちゃんに食べさせなきゃと思ってついでに自分も食事するから助かるわ」
「うーん……己の空腹が人様のお役に立つ日が来ようとは……不思議なこともあるものですねえ」
 ミリヤムは照れくさそうに頬をかく。
 なんだか幸せだなあ、とミリヤムは思っていた。誰かの帰りを待ちながら、その人の食事を用意出来るなんて、と。それも飛び切り好きな誰かの為に。
 ミリヤムは、ほうっとため息を落とす。
「……私、一生フロリアン様の侍女で終わると思ってたんですけど……人生って分からないものですねえ」
「本当ねえ、私もヴォルデマーは一生結婚しないのかと思ってたわ」
 サラはくすくす笑う。
「うーんしかしよくよく考えると……混乱します。あははは、私が辺境伯の御次男様のお嫁さんなんて、あはは、何処を曲がりくねったらこんな恐れ多い事態に……」
「そうねえ、でも此処までくると私も欲目が出るわあ。うふふ。早くひ孫が欲しい!」
「ええそうですねえ、ひ孫……ひ……ひっ!?」
 呑気に二人で笑っていたはずが、そのサラの一言でミリヤムは、げふっと噴出した。サラはうきうきと悶えている。
「ふさふさかしら? ころころかしら? むちむちかしら!? ああっ!! 想像すると楽しくてしょうがないわ!! 早く婚約式と婚約公示期間と結婚式が終わると良いのに!! 貴族の婚姻ってどうしてこんなに面倒なの!? ひ孫が産まれたら、砦からカーヤを呼び寄せましょうね!? 独り占めすると多分後でカーヤに呪われるわ!! ああ楽しみ!!!」
「…………ひまご……私とヴォルデマー様の、こども……?」
 そう繰り返した途端、頬は真っ赤になった。勿論ミリヤムとて、いつかは母となりたいと思うが……
 ミリヤムは床に撃沈した。
「おおおお……こ、こんなわたくしめの所に天は子を授けてくれるでしょうか……じ、自信がない、あの砂糖菓子のようなぴかぴか尊いものが我が手に……? わたくしめいつもの様に急に走り出してひ孫様を怪我させてしまうのでは……!?」
 ミリヤムは床の上でわなわな震えている。己の落ち着きのなさを考えると、ミリヤムにはまったく自信が無かった。それを見たサラがほほほと優雅に口元に手をあてる。
「ミリーちゃんに限って赤ちゃんを放り出すなんてこと無いと思うけど。良かったわねえミリーちゃん。心配しなくても大丈夫、だって人狼の子供はとっても頑丈よ」
 落としたくらいじゃびくともしないわよー、とサラは笑うのだった……


「お帰りなさいませ」
 夕刻頃の屋敷前。砦から帰還したヴォルデマーがその屋敷に寄るとルカスが出迎えた。その顔にはもう、以前のような刺々しさは無い。
「ベアエールデは如何でしたか?」
 そう問われてヴォルデマーが小さく微笑む。
「心配は無さそうだ、イグナーツが上手く立ち回ってくれていた」
 ヴォルデマーがそう答えると、ルカスも表情を和らげる。しかしそれは直ぐに複雑そうな表情に変わった。
「……その、ヴォルデマー様は砦の長に……戻られるのですか?」
 今回のごたごたで隊長の座を退くことになったヴォルデマーだったが、彼とアデリナが和解したことによってそれもどうなるのか分からない。何より、砦のイグナーツや隊士達がそれを熱望していた。
 問われたヴォルデマーは、その男の表情に内心で苦笑する。
 もしヴォルデマーが砦に戻れば、ミリヤムとは新婚早々離れて暮すことにもなりかねない。ルカスはそれを懸念しているらしかった。本当に情の深い青年だ、とヴォルデマーは目元を和らげた。
「ふむ……そうだな……その辺りはミリヤムと、両親とも、相談が必要だが……私はあの者を離す気は無い」
 まあこうした短期な外出は許して欲しいが、と、彼がにこやかに返すと、ルカスはどこかほっとした様に、そして気恥ずかしそうに笑う。
「あー……その、ミリとお食事をとられる為にこちらによられたのですよね?」
「ああ。留守中何か……」
 あったかと、ヴォルデマーが問おうとすると、ルカスが途端にげっそりと頭を傾ける。
「……あったか」
「……ええ、まあ、いつも通りと言いますか……」
 ミリヤムがギズルフと一緒になって彼の婚約者クローディア嬢を追っかけまわしている、とルカスが告げると、ヴォルデマーが押し黙った。
「…………」
「申し訳ありません……俺のしつけが悪かったのか……あいつ、美しい者を崇拝して追い回す癖が……昔からやめろと言い聞かせてきたのですがどうしても治らず……」
「……」
 ルカスが母親のようなボヤキを零しながらため息をついているのを見て、まだ兄と絡んでいるのか、とヴォルデマーもため息をつく。あの二人は何故かどこか気が合うようで……それは己とミリヤムの関係とはまた別だとは分かっていても、相手が己の実の兄であるせいか、どうしても悔しいヴォルデマーだった。
 そんなヴォルデマーをルカスが「まあ取り合えず中へどうぞ」と屋敷の中へ進むよう促す。
 薄暗くなった廊下を進み、応接室に通されると、程なくしてそこへ弾むような足音が駆けつけて来た。扉が跳ね飛ばされるように開け放たれると同時に、そこからいつも通りメイド服を着たミリヤムがヴォルデマー目掛けて飛びついて来た。
「おかえりなさい、ヴォルデマー様!!」
「ミリヤム」
 それを受け止めながら、ヴォルデマーは優しく微笑む。
「ただいまミリヤム。……良い香りがするな」
「ああ、そうなんです! 今料理をしていて──」
 ミリヤムは気がついてもらえて嬉しそうに微笑んだ。
「ヴォルデマー様。やっと、ヴォルデマー様にお食事が作れました」
「……そうか……」
 その満面の笑みは、あっという間に彼の悔しさや疲れをも拭い去って。ヴォルデマーの心の中は喜びで満たされる。
 いつの間にか──ルカスの姿は消えていた。
 ヴォルデマーは暫しミリヤムを抱き締めてから長椅子の隣に彼女を座らせると、その嬉しそうな話の数々に耳を傾けた。中にはとんでもないような話もあったが、そのどれもがヴォルデマーの耳には鮮やかな色彩を放っているように聞こえた。
──稀有な娘だと思った。本人はとても真面目なのに、どうしてもその身には愉快さが付き纏っている。
「──と言うわけで、ウラ様にも一度レシピのお礼を言いに行きたいのですが……」
 良いだろうか、と言う娘にヴォルデマーは頷く。
「ああ、そうだな。彼女には私も色々世話になってゆえ共に参ろう」
 そう言ってやるとミリヤムは嬉しそうににっこりと笑う。その顔が嬉しくて、ヴォルデマーはその身体を抱き寄せる。
「やはり……私には、お前の傍以外には無いようだ……ずっと、私の傍にいてくれるか……?」
 そう彼が問うと、娘は「はい!」と、反射的に頷いて、それから恥ずかしそうに笑う。
「……実は……まだどこか呆然とした所もあるんです」
「ん?」
「自分の身にこんな幸運が舞い降りるものだろうかと……親も居ない使用人の子なのに……」
 苦笑しながら告げられた言葉にヴォルデマーが驚く。
「……ミリヤム……?」
「夢中で走っていたらいつの間にかこんな遠いところまで来ていて。いつの間にか生まれてからずっと一緒だった坊ちゃまもいないし……なんだか足元も覚束ないような気がして不安で……」
 フロリアンの名を出す時、ミリヤムは少しだけ気まずそうな顔をした。
 だが、ヴォルデマーは口を挟まなかった。彼はミリヤムの言葉を最後まで聞こうとするように、じっと待っている。身体も耳もしっかりとミリヤムの方へ向き、その金の瞳はミリヤムの顔を覗き込んでいる。促すような言葉は無い。けれども、その身から放たれる雰囲気は穏やかで、話そうかどうかと躊躇うミリヤムを落ち着かせる。
 そんな男の様子にミリヤムは、ああ……、と安堵する。彼のこういうところが好きなのだ、と。
 お喋りで感情の起伏も激しい自分の言葉を、ヴォルデマーはいつでもこうして穏やかに待っていてくれる。
 二度目に食事を共にした時もそうだった。使用人生まれで他者に個人的なことを聞かれるということも殆どなかったミリヤムに、彼は生まれて初めて「お前は何が好きなのだ」と聞いてくれた。
 しかし──そんなヴォルデマーに、あの時のミリヤムは、大いに戸惑い、あろう事か、「フロリアンがくれる物」と、頓珍漢な返答をしてしまう……
 話の流れをきちんと理解すれば、誰もが彼が聞きたかった事はそれではないと分かっただろう。自分でも、どこかで、ああ間違えてしまったと後悔した。
 けれども──ヴォルデマーはそれを違うとは言わなかった。
 聞きたいのはそれではない、とミリヤムの答えを否定することはせず、「そうか」と穏やかにそれを受け入れて、その具体的なところまで知りたいのだと伝えてくれた。
 そうして穏やかな顔で待っていてくれたからこそ──ミリヤムは、本当に自分が好きなものを彼に告げることが出来たのだった。

 それは、ミリヤムにとって忘れられない特別な思い出だった。
 初めて使用人としてでない、人としての自分を発見できたような、そんな驚きがあった。
 もしかしたら──あの瞬間に自分は恋に落ちたのかもしれないと、ミリヤムはそう思っている。
 ミリヤムは、今もまたあの時と同じような瞳でじっと己の言葉を待つ人を微笑んで見上げた。
「……夢中で走ったのは、ヴォルデマー様を捕まえたかったからです」
 だから、とミリヤムは金の双眸に誓う。
「私は、何処にも行きません」
 そう言うと、心の其処から嬉しそうな微笑が返って来て。その黒い鼻の頭がミリヤムの鼻にこつりと触れた。
 ミリヤムは嬉しくて、そっと笑った。己の言葉をこんなにも喜んでくれる人がいる。そう思うと何もかもが愛おしくて。温かい腕の中はどんな楽園よりも幸せな場所だと思えた。
 ミリヤムはその腕の中に潜り込み、毛並みの香りを深く吸い込む。そして柔らかく己を包み込む腕の内からもう一度ヴォルデマーを見上げ──にっこりと微笑んだ。
 が、
 ミリヤムは、ああそれと、と、にんまり悪い顔をする。
「──もうお一方。わたくしめは絶対に射止めますよ……クローディア嬢を!!!」
「……………………」
 かっと目を見開くとヴォルデマーの目が真ん丸になっていた。だがミリヤムは止まらなかった。
「──は!? そうだ……お肉が好物のクローディア嬢はウラ様が教えて下さったあのお肉料理は好きかしら!?」と──言いながら──……その思考はもう何処かへ転がって行ってしまったようで……
 その顔から一気に甘さが消えた事にヴォルデマーは一瞬唖然とし──
 そして、
 噴出した。
「………………ふ……まったく……」
 やれやれと首を振りながら、ヴォルデマーは、まあ、いいか、とくつくつ笑う。
 そんな彼の前で、ミリヤムはさっさと彼の腕から抜け出すと、「サラさん、何か小分けする鍋──」などと言いながら……もう応接間を出て行った。
 その姿には、ヴォルデマーが、今度は声を立てて笑った。生来寡黙な男のそんな様子を、もし今アデリナやイグナーツが見たら腰を抜かして驚いたに違いない。
 ヴォルデマーは笑いながら思った。おそらく──己はこういう娘だからこそ、好いているのだ、と。こんな──何処へ弾んでいくのかも分からぬ娘だからこそ、愉快で興味が引かれ、ずっと見ていたいと思うのだろう。

「……存分に、何処へなりと、弾んでゆくがいい」

 ヴォルデマーは微笑む。


────私こそ、必ずお前を捕まえよう



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