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1巻

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 ミリヤムは思った。いつか見てろよ、風呂場でひんいて尻尾の先まで丸洗いして、いっそ皆サマーカットにしてやる、と。寒空の下、鼻水でも垂らせばいい、とも。
 シチューは結局食べ損ねた。


 ミリヤムは、そのまま次の仕事へと向かう破目になった。
 彼女の本業は隊士達の寝具しんぐや衣類の洗濯番である。
 今日は夕方から天気が急に崩れてそれが乾き切らなかった。何百人といる隊士達の衣服は、次の早朝までには乾かして各人に届けておかなければならない。その作業に追われた今日のミリヤムには、とても食事をとっている暇などなかった。
 そうして、彼女達が全ての洗濯物を届け終えた頃には、外はすっかり日が暮れていた。

「あー……しちゅー……」

 思わず食べ損ねたそれを思い出したが、なんだか疲れていて食欲が失せていた。
 なんせ、夜になってから隊士達の私室に洗濯物を届けて歩いたものだから、訪ねる先、訪ねる先で彼等の反応がひどかった。
痴女ちじょ!」を筆頭に、「とうとう夜這よばいに手を出したのか!?」と言われたり、「一緒に寝たいのか?」ととこに誘われニヤニヤされたり……ミリヤムは「ぬいぐるみみたいな顔してふざけろ!!」と頭突きをしてはとんずらしていたのだが……なんだか余計に疲れてしまったのだった。

「ああ、精神にくる……究極のいやし(坊ちゃま)不在で心が折れる……あ……そういえば……今夜は大浴場の見回りも一度しか……」

 泥と毛だらけの浴場を思い出すと、魂の抜け出るようなため息が出た。もうさっさとこの砦を綺麗にして坊ちゃまのところに帰りたいのに、とミリヤムはうめく。
 しかし、顔を上げてみるとほこり……というか毛だらけの廊下が目に入る。
 脳裏に浮かぶのは、その廊下を颯爽さっそうと歩く愛しのあるじの姿である。ミリヤムは両手で顔を覆って叫んだ。「坊ちゃまの背景として激しく不合格!!」と。

「うぅぅ……ちょっとだけ掃き掃除してから寝よ……」

 何もせず部屋に帰る気にはなれなかった。もしこのまま寝てしまったら、きっと坊ちゃまが喘息ぜんそくで苦しんでいる夢を見るだろう。
 ミリヤムはほうきを持って、重い足取りで砦の階段をのぼっていった。侯爵家の教育係から「掃除は上からよ、ミリヤム」と言い聞かされて身についた習性のためだった。
 最上階に辿り着くと、ほとんどの隊士は隊舎へ引き上げていて、暗い廊下は静かなものだった。時折見回りの隊士がやってきては、げっそりしたミリヤムを見て、ギョッとして足早に立ち去っていく。それはもうどうでもいいが、さすがに疲れて目がしぱしぱする。廊下も静かすぎてこのまま眠ってしまいそうだ、とミリヤムは思った。

「……そういえば……今日も〝お疲れ気味の手ぬぐいの君〟に……お会いできなかった……」

 これだけ砦内の噂にのぼれば、あの親切な彼の耳にも入っていそうなものだが、その人は未だ接触してこない。もしや、「痴女ちじょ」という品のないあだ名のせいで避けられているのだろうか。

「……ありうる……」

 きっと今頃〝お疲れ気味の手ぬぐいの君〟は形見の手ぬぐいが返ってこないとおなげきに違いない。そう思うと気持ちが更にどんよりした。

「……駄目だ……こういう時は楽しいことを考えて……坊ちゃまはうるわしい、坊ちゃまは素晴らしい、坊ちゃまは天、使……」

 呟いているとだんだん眠くなってきて、ミリヤムはほうきに頭をのせ、うつらうつらと舟をこぎ始めた。

「……こんなところで寝ては風邪をひくぞ……」

 不意に、背後から声をかけられたミリヤムは驚いて飛び上がる。

「すわっ!! 寝てません! サボってません! 嘘です! 坊ちゃまは神様です!! ごめんなさい侍女頭じじょがしら様!!」

 と、変な謝罪(?)をしながらつんのめって顔から着地する。

「……大丈夫か……」
「え!? 坊ちゃまは宇宙一ですよ!? ……あれ?」

 気がつくと誰かがそばで膝を折り、ミリヤムの顔を覗き込んでいた。

「えーっと……あれ?」
「……床は冷える、立ちなさい」

 立てと言いながら、相手はミリヤムを両脇から抱えて立たせてくれる。

「あ……恐れ、入ります……」
「……こんな夜更けに……隊長室の前で何を……?」

 低く響くような声でささやかれ、ミリヤムの背にぞぞぞと鳥肌が立つ。

(ひ、腰にくる!)

 その刺激で、ぼやけていた意識も次第にはっきりとしてくるが……

「……まさか、まだ掃除を――」

 しているのかと相手が言いかけたところで、ミリヤムはハッと覚醒かくせいした。

「今っ!! ……もしや…………隊長室とおっしゃいましたか、獣人の旦那様!?」

 見開いた目でにじり寄ると、相手が首を傾げた。

「……? ああ。その扉の奥が隊長室だが……」

 目の前の、暗くて判別不能の黒だかこげ茶だかの隊士は、不思議そうにしながらも重厚な木の扉を指し示した。途端、ミリヤムの眉間みけんしわが寄る。

「なるほど……そこが憎きベアエールデの砦長様のお部屋ですか……」

 ミリヤムは目を細めて扉をにらみ、すぐさま廊下に飾ってあった甲冑かっちゅうの後ろにこっそりと身を隠す。それを見ていた隊士がもう一度首を傾げた。

「……に、くき、……とは?」
「よくぞ聞いてくれました……そもそもこちらの砦長様のせいなんです! うちの可愛い坊ちゃまがこんな不衛生な砦に来たいなどと言い出したのは……坊ちゃまが病気になったらどうしてくれよう……坊ちゃまはうちの領地の宝なのに!!」

 嫌がらせの一つでもしておきたいのだとうめくと、相手がごくわずかに噴き出した。

「そうか、それでいかがする?」
「ええ……そこは……やっぱり古典的に……これですよ」

 そう言ってミリヤムが取り出してみせたのは、ぼろぼろの雑巾ぞうきんだった。

「……雑巾ぞうきん……?」

 男が興味深そうにしげしげと眺めてくると、ミリヤムは悪人顔で頷いた。

「左様です。これで部屋中拭いてやります。あとはその絞り汁をお茶に落とせば完璧です。これぞ古くから使われてきた陰湿な女の手口」

 今の私めの気分にぴったりですと、ミリヤムは極悪人づらでふっふっふと笑う。

「……なるほど、完璧か」
「ええ。それでは私めは、ささやかなる嫌がらせ行為に邁進まいしんしてまいります。失礼をば」

 ミリヤムはそう言うと、周囲に人影がないか注意しつつ素早く扉の前まで移動した。それを隊士がじっと見ているが、そんなことはすっかり失念している娘は、完璧に忍んでいる気になっていた。
 ドアノブに手をかけると、扉はすんなりと開いて、中に人の気配はないようだった。何もかもが順調だと、ミリヤムはにんまりしながら身体を隊長室に滑り込ませた。

「よし! 今のうち……って、なんじゃこりゃぁああああ!!」
「っ!?」

 おかしな娘が隊長室へ侵入した途端に大きな悲鳴が上がり、それを見送っていた隊士は驚いて娘を追いかけた。

「いかがした!?」

 ――と――……彼がそこで見たものは――……

「な、んて散らかった部屋……!! このおびただしい枚数の書類は!? あ!? 何これ!? 手のつけられていないご飯の膳がそのまま……ご飯様になんたる仕打ち……! 部屋の隅には毛のかたまりが……ひぃ!!」

 娘は部屋の有様を見て憤慨ふんがいしていた。
 隊長室は壁面が本棚で覆われていて、奥に執務机とサイドテーブルがあり、その手前に応接用のテーブルと椅子が備えてある。家具はどれも美しい飴色だが、ほこりをかぶって輝きが鈍い。そしてのせられるところにはのせられるだけの書類、書物、書類……
 壁際には武器類が無造作に立てかけてあって、サイドテーブルの上には冷めた食事がそのままになっていた。

「こ、これは……歴史ある調度品様が泣いている……坊ちゃまはこんなお部屋の主様をしたっていらっしゃるの……!? な、なんということ……っ!! これじゃあ坊ちゃまの理想の上司像が破壊されてしまう……ま、まずい、坊ちゃまがガッカリ……」

 青ざめた顔でわなわなしているミリヤムを見て、背後では隊士がぽりぽりと頬を掻いている。
 汚れた雑巾ぞうきんは……早々に放り出されていた。
 そして――ミリヤムは何故だか、その〝憎いけれど坊ちゃまがおしたいしている砦長様〟の部屋を掃除する破目となった。もっとも、誰も頼んでないのだが。

「うぅ……ね、眠い……でも、お茶に嫌がらせしてもこの部屋の有様じゃ、やりがいが……こんなお部屋の主様なら雑菌にも強いに違いない……な、なんてこと……」


     * * *


 その頃の廊下。

「……ヴォルデマー様……? 廊下で何をなさっておいでなのですか? それに……隊長室から聞こえるあの奇声は一体……」

 側近の声に、廊下で胡坐あぐらをかいて書類に目を通していた隊士――ヴォルデマーが顔を上げる。

「いや……手伝いを申し出たのだが、不要だと追い出されてな……仕方なしにここで仕事をしている」
「手伝い……? 一体……何者がヴォルデマー様を部屋から追い出したのですか? こんな廊下でお仕事をさせるなど……」

 側近は眉間みけんしわを寄せたが、ヴォルデマーは苦笑して首を横に振る。

「いや、つい愉快でな……」

 上官がさもおかしそうに笑んでいるのを見て、側近は目を丸くした。その言葉どおり、彼は書類に目を通しながらも、実に愉快そうだった。時折、扉の閉められた執務室の方へ耳を向けては、くつくつと笑う。日常の九割以上を無表情で過ごしている、あのヴォルデマーがである。

「ゆ、愉快とは……一体……?」

 疑問に思った側近が耳をそばだててみても、ガタガタという音に交じって「坊ちゃまのため坊ちゃまのため……」という念仏のような声が聞こえるばかりである。

「な、なんですかあの怨念おんねんのような……い、一体、この中に何者が……」
怨念おんねんか……」

 いかにも気味の悪そうな側近の言葉に、ヴォルデマーが小さく噴き出す。

「確かに。あれは私に恨みの念を抱いているらしい」
「な、なんですって!? そんな不届き者がお部屋に!?」
「そういきり立つな……構わん、面白いばかりでなんの害もない」

 ヴォルデマーは側近に悠然と微笑む。

「好きにやらせておきたい。すまぬがこのまま目をつぶってくれ」


 なだめられた側近は、先に休むようにと命じられ、渋々しぶしぶと帰っていった。
 娘の方も頃合いを見て私室まで送らねばと思うのだが、掃除を中断させようと部屋に入ると、そのたびにものすごい剣幕で追い出された。娘のほうきさばきは目を見張るほど見事で、呆れつつもその掃除に対する熱意(?)に感心するヴォルデマーだった。
 そうして仕方なしに廊下で仕事をしつつ、娘の気が済むのを待っていたのだが――

「……ん?」

 ふと異変に気がついて手にしていた紙を下ろす。聴力に優れた三角の耳をじっと澄ましてみても、辺りはしんと静まり返っていた。

(……念仏が、聞こえぬ……?)

 それまで部屋の中からは、娘の漏らす「坊ちゃまのため坊ちゃまの……」という呪いめいた呟きが延々と聞こえていたのだが……気がつくとそれが聞こえない。ヴォルデマーは不思議に思い、立ち上がって部屋の扉をゆっくりと開いた。

「……おい……?」

 と――部屋の隅の方で、娘がうつ伏せに倒れているのが目に入った。
 驚いたヴォルデマーはすぐさま娘のそばまで駆け寄り、その肩を抱き起こす。

「おい……大丈夫か……!?」

 問いかけても娘からの反応はない。が――……
 よくよく見ると……娘は口を大きく開けてすぅすぅと寝息を立てていた。ついでに言うならよだれが出ていた。喉の奥までよく見える。

「……寝、ているの、か……?」

 どうやら娘は雑巾ぞうきんがけの途中で力尽きたらしかった。絞り汁をお茶の中に入れると悪人顔で豪語していたのに、その濡れた雑巾ぞうきんに自ら顔をつっぷして寝ていた。下手したら窒息ものである。
 けれどもひとまずその無事を確認し、ヴォルデマーは安堵のため息をついた。
 身体を起こしてみても娘は身じろぎ一つしない。相当疲れたのだなと、ヴォルデマーはとりあえず娘を膝に抱き上げた。
 気がつくと部屋の中は驚くほどに片付いている。この短時間でよく整理したものだと思いつつ、やれやれと苦笑する。

「……まったく……懸命なのは感心だが、毎度よく驚かせてくれる……」

 とにかく汚れた顔を拭いてやらねばと周囲を見回したところで、彼は娘のポケットから何かがこぼれ落ちているのに気がついた。
 それは見覚えのある……己の手ぬぐいだった。
 そういえば奪って逃げられたのだったな、とそれを拾い上げると、清潔な石けんの香りがヴォルデマーの鼻へ届く。

「そうか……〝親御様のお形見〟だったか。洗ってくれたのだな……」

 その時のことを思い出して、くつくつと笑いながら、ヴォルデマーはミリヤムの顔をそれでそっとぬぐった。と、静かになった部屋の中にぐーぐるぐるぐー……と盛大な音が響き渡る。
 ヴォルデマーは目を見張って、音の発生源――娘の腹を見た。その腹は必死に空腹を訴えている。

「……腹の音……? ……まさか夕餉ゆうげをとっておらぬのか……?」

 怪訝けげんに思って呟くと、もう一度娘の腹が鳴った。まるで返事をするかのようなタイミングだった。

「……ふっ……」

 おかしいやら、いじらしいやら、申し訳ないやらで、ヴォルデマーは思わず笑みをこぼす。自らもろくに食事をしていなかったのだが、未だ大きく口を開けて眠っている娘の頬を撫でると心がなごんだ。
 砦が人手不足におちいってからというもの、激務に追われ、彼の精神は常に張り詰めていた。
 先の盗賊討伐で多くの隊士達に怪我を負わせてしまった後悔と、砦維持のための責任。それらはずっと重くヴォルデマーの肩に伸しかかっている。その上、職務は片付けても片付けても次から次へと舞い込んできて、周辺集落の復興支援にも務めなければならなかった。
 こんな状態ではとてもじゃないが、ゆっくり食事や入浴をする気分にはなれない。ひたすらに走り続けている。そんな感覚だった。
 しかし――今、この瞬間、彼はその緊張を束の間忘れていた。
 娘の腹からは未だおどるような活きのいい音がぐるぐると鳴っている。

「……ふむ……何か、食わせたいな……」

 自然にそんな思いが浮かび、ヴォルデマーは考え込んだ。
 できるだけ早く、盛大に空腹を訴えるこの腹の音を止めてやりたかった。しかし、疲れているらしい娘の様子を見ると、同じく職務による疲れを知る者としては、無理に起こすようなこともしたくない。

「さて、どうしたものか……」

 抱き上げてこのまま使用人達の私室へ帰すのは容易たやすい。そうすべきかもしれない。
 だが、できるなら……と、ヴォルデマーは、その閉じられたまぶたを見下ろす。
 この娘が好むものを幸せそうに食べて、そして微笑んでいる顔が見たい、と。

「……?」

 ヴォルデマーは耳をぱたぱたと動かして首をひねる。何故そんな風に思ったのか、彼自身とても不思議だった。


     * * *


 なんだか温かい暖炉の前で、ぬくぬくとまどろんでいるような気分だった。
 こんな穏やかさは久しぶりだと、ミリヤムは夢うつつに思った。
 だが、まぶたにうっすら朝日を感じると、ミリヤムの気持ちは急激にしぼむ。

(あー……起きたくない……)

 今日も不毛な〝痴女ちじょ〟としての一日が始まってしまうのか……と心の中でぼやく。朝がこんなに辛い日々は初めてだった。
 侯爵家のやしきでは、毎日次の日が待ちどおしかった。何故ならば、そこにフロリアンがいたからである。
 頼まれもしないのに彼のそばに上がって、休憩時間でもそばに上がって、休日でもそばに上がった。そうするとフロリアンが笑ってくれて(というか苦笑)、それを見るだけで心の底から幸せだった。
 だが、今ここにあるじはいない。いるのはあるじとは正反対の、もじゃもじゃばかり。楽しみもへったくれもない、とミリヤムはうめく。おまけにその抜け毛がミリヤムを苦しめる。
 心のオアシスはメルヘンな老仕事仲間達だが、にこにこしながら便利に使われているような気がしないでもないミリヤムだった。
 だがしかし起きなければ、とミリヤムは愛しいフロリアンを想った。

(坊ちゃま、今日もお空の上から見守っていてください……)

 侍女頭じじょがしらに聞かれたら「坊ちゃまが死んだみたいじゃないの!」と拳骨げんこつされそうなお祈りを捧げていたミリヤムだが……ふと自分がやけに温かいものの上に寝ているのに気がついた。
 温かくて、ちょっと硬くて――こんな布団持ってたっけ……とぼんやり思いながらミリヤムは大きく伸びをした。

「……ああ……目が覚めたか」
「ん?」

 万歳ばんざいをしたまま目を開くと、上に誰かの顔があった。
 朝日の中に浮かぶ黒い顔は凛々りりしく、知性の光を宿した瞳は静けさを備えていた。ミリヤムは一瞬それを凝視して。

「………………だれ……?」

 ひとまずそれしか出なかった。多分、その容貌を見る限り、砦の獣人隊士には違いないだろうが……ミリヤムは状況が呑み込めずに、両腕を上げたまま固まった。
 低めで穏やかな声の主は、ガン見してくる娘に金色の視線を注いでいる。一瞬その瞳に見覚えがあるような気がした、が……結論を得る前に己の体勢を思い出す。彼女はまだ、びよんと伸びをしたままだったのだ。見知らぬ隊士の膝の上で。

「…………これはもしや……膝枕……」
「まあそうだ」
「何ゆえ……そして一体いつから……」
「さぁ……? ……三、四時間前といったところか?」
「さっ……」

 相手は事も無げに言う。ミリヤムは言葉を失ってしまった。
 膝枕など子供時代以来、記憶にない。それも見知らぬ男性にされるとは。さすがのミリヤムもカッと顔に血が上る。

「だっ、ばっ、さ、三時か……何故ぇえええ!?」

 ミリヤムは泡を食って飛び起きると、隊士が座る長椅子の上から転がり落ち、部屋の隅まで逃げていった。そして勢いよく壁に張りつくと、さっきまでかけられていた布団が下に落ち、ミリヤムに膝を貸していた相手が驚いているのが目に映った。その男はミリヤムの顔が真っ赤なのを見て呆れたように笑う。

「お前……風呂場で我等の裸体を見るのはよくて、膝に寝るのは駄目なのか?」
「は、はぁああああ!?」
「……変わった奴だ」

 愉快そうな笑みにミリヤムは戸惑う。そこでようやく、この場所が見慣れた使用人達の寝室ではないことに気がついた。

(どこ!? えっと、え? ……ミリィ――!! 思い出しなさい! ここはどこなの!? 何故私はここに……まさか昨日、洗濯物の配達の途中で眠気に負けて隊士の寝床に潜り込んだ……!?)

 昨晩の仕事中、何度かとこに誘われブチ切れたことを思い出してミリヤムは青くなる。ぬいぐるみふざけろ! などと隊士達を怒鳴っておきながら……そのもふもふ付きの布団の魔力に負けたのか。自慢じゃないがどこでも寝られる体質のミリヤムは、疲れ切った時、思わぬところで目を覚ますことがよくあった。床とか。花壇とか。
 ミリヤムがそうしてああでもないこうでもないと慌てていても、長椅子の上の隊士は落ち着いたものだった。彼はミリヤムを見て口の端を持ち上げる程度に笑い、細く開けられたカーテンから忍び込むわずかな光を頼りに書類に目を通している。
 その様子にミリヤムも少しずつ落ち着きを取り戻して――ようやくピンときた。

「……あ? 隊長室だ!!」

 ミリヤムは慌てて自分の姿を見下ろした。着ている服も昨日と同じである。エプロンにはしわが寄り、掃除の時についた汚れもそのままだった。

「……ということは……昨晩の隊長室襲撃の途中で寝てしまった……? また寝落ちか……あ! もしかして昨日の夜、廊下で会った人!?」
「襲撃……? まあそういうことだ……」

 隊士の答えにミリヤムは慌てて周囲を見回した。今更にもほどがあるが、ここに来てやっと、「やばい砦長様に見つかってしまう」などと動揺している。隊士は一瞬微笑ましげにそれを見て、それから「さてと」と長椅子から立ち上がり、手にしていた書類を机の上に置いた。

「では行くか……」
「へ? ぉおおおおお!?」

 気がつくとミリヤムは彼に抱えられていた。片腕で軽々と肩にかつぎ上げられ、目玉がこぼれ落ちそうなほどギョッとしている。

「なんだ!? どうした!? れんこう……連行されるのか!? 私が……隊長様の部屋を除菌滅菌じょきんめっきんして免疫力を低下させようとしたから!?」

 言いたくないが、心当たりはありすぎる。少なくとも砦長の部屋に無断侵入した件は真っ当に裁かれるべき事案と言えた。慌てていると、その肩の持ち主が笑う。

「そんな意図もあったのか……とにかく、暴れても無駄だ」

 楽しげに言われて、何故だかミリヤムはひどく恥ずかしくなった。顔に汗がにじんでくる。

「いや……連行はいい、連行は理解ができますです……でもね……ひとまず距離感です! 距離感がおかしい!! これは昨晩初めてお会いした御仁ごじんとの距離感ではない!!」
「…………」

 初めて、というところで男が一瞬押し黙る。が、今のミリヤムはそんな些細ささいな変化に気がつける状態ではなかった。その肩の上から脱出しようと、必死の形相でりきんでいる。

「ふんぎぃいいいい!!」

 しかし、駄目だった。相手は黒い豊かな毛並みと服の上からでも分かる、しっかりとした筋肉の持ち主で、ミリヤムが立ち向かうには少々たくましすぎた。がっちり掴まれてはとても太刀打ちできない。
 だがそれでも諦めないのがミリヤムという無謀な娘だった。
 己の肩の上でじたばたと暴れる彼女に、隊士が苦笑を漏らす。

「危ないゆえ暴れるな」

 と、彼は落ち着き払った様子でなだめたが、言葉とは裏腹にミリヤムがいくら暴れても上手くそれをさばいてしまう。ミリヤムは「なんたる巧みな技……」と目をいた。

「ちょ、ちょ、ちょ……なんなんだ!! やめろ! ひっつかないでっ! おろしてください! は!! そうだ知らないんですか!? 私は〝痴女ちじょのミリヤム〟なんですよ!? 男の裸を求めて徘徊はいかいしているという……!」

 ご存知でしょう!? 痴女ちじょらせる(?)つもりですか!? とミリヤムは額に汗を流しながら訴えた。が――男は余裕のある笑みを見せるばかりだ。

「そうか、ならば男に抱かれて嬉しかろう」

 よかったな、と言われてミリヤムは仰天ぎょうてんした。

「な、あ……な、なにぃいい?」

 二の句を継げなくなったミリヤムに、彼は切れ長の瞳を細めて微笑んでみせる。

「少し大人しくしていなさい。……素手で裸の隊士達の背も腹も洗っておいて……今更何を恥じらうのだ?」

「だ――……だって……だって……」と、引きつりながら、ミリヤムは主張する。

「だって今は……! 仕事中じゃっ、ないしっっ!!」

 隊士達の浴場でフル活用されているようなミリヤムの羞恥心しゅうちしん消去機能は、彼女の就業中にしか発揮されなかった……
 早朝の砦に、はた迷惑な叫びが響く。その叫び声に叩き起こされた目撃者いわく、彼女をかついだ男――ヴォルデマーの黒くて豊かな尻尾は、とても楽しげに揺れていたらしい。


 数分後――

「……」

 ミリヤムは居心地の悪い思いでそこに座っていた。砦の食堂の隅。外はやっと朝日が顔を出し始めたばかりだ。
 年代物の木製テーブルの上には、焼き立てのパンや卵料理、温かそうなスープ、焼き菓子などが並んでいる。
 ああ、それは美味おいしそうなんだよ。それはね。と――ミリヤムは困惑気味の硬い表情で、自分の真正面を見た。そこには、先ほどミリヤムをかついでいた黒い獣人の隊士が座っていた。彼はくつろいだ様子で足を組み、じっとミリヤムを見ている。


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