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二章
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それは夜更けの事だった。
宴は大いに盛り上がっていた。わいわいと賑やかな声は病室にも届き、ミリヤムは寝台の上に座りモヤモヤする気持ちでその喧騒を聞いていた。
「……この盛り上がり……きっと会場は酷いことになっているに違いない……」
ミリヤムの頭には食い散らかされた肉の骨や果物の食べかすが飛び交う様子が思い浮かんでいた。ミリヤムは寝ていなければならない己の身を呪った。
「掃除が……!! 掃除がしたい!! 歴史ある大広間の嘆きが聞こえる!!」
せめて熱が下がれば食いカス拾いくらいには行けるのに、とミリヤムは呻く。
「坊ちゃまの存在する場所を汚すのはやめて欲しい……!」
酔った隊士が投げた骨とかが坊ちゃまに当たったらどうしよう、とミリヤムは青くなって悶絶し、寝台の上に倒れこんだ。
そうしてしばらく呻いていたミリヤムだったが、その口から不意に「坊ちゃまか……」と小さな呟きが頼りなく洩らされた。昼間彼に求婚された一件を思い出すと深いため息がそれに続く。
ルカスの言うとおり、あれが本当に現実の出来事だとすると、春になればミリヤムはこの砦を離れることとなる。
(此処から離れて、お邸に戻る……此処を離れて……)
それはほんの少し前の自分の念願だった筈だった。早く此処を綺麗にしてフロリアンの元へ帰ることこそが、ミリヤムがしたかった事の筈で。だが、今それを思うと、どうしても脳裏に黒い人狼隊長の姿が思い浮かんでミリヤムはため息をついた。
「…………ヴォルデマー様、どうしてるかな……」
ふと、無性に彼に会いたくなったミリヤムは宴の賑わいの方に顔を向ける。
彼とは午前中にフロリアンを迎えたきり顔を合わせていない。求婚騒動で倒れたお陰で昼食も供に出来なかった。夕食も宴が催されているから別々だ。きっと今はその会場に居ることだろう。
「……ちょっと生坊ちゃまに目が眩みすぎたかな」
今更ヴォルデマーの前で自らが演じた醜態が気になりだして、ミリヤムは少し落ちこんだ。ルカスに言われた「変態」という言葉も気になった。
「私もうちょっと自重した方がいいのかな……」
恐らくその言葉をルカスが聞いたら仰天した事だろう。今までずっと何年も「その変態じみた行動をなんとかしろ」と彼はミリヤムに言い続けてきたが、ミリヤムがそれを気にかけたことなど一度もなかったのだ。
「はあ……掃除恋しいと呻いている場合ではない……一体私、どうしたらいいの……?」
寝台の上でしゅんと身を丸くして、悶々とあれやこれやと考えていると、不意に病室の戸が密やかに叩かれた。
「はい……?」
夜更けの訪問者に首を傾けてミリヤムは身体を起こす。その視線の先で木戸は緩やかに開かれた。
すると──そこには、たった今会いたいと思い浮かべた彼の人が静かに立っていた。
「……ヴォルデマー様……!?」
ミリヤムは慌てて身を正す。ヴォルデマーは戸口からミリヤムの姿を認めると、少しほっとした様に肩から力を抜いた。
「……夜分に失礼する。灯りがついていたゆえ立寄った……具合はどうだ?」
優しい低い声にミリヤムもほっとして表情が緩む。
「ええと、はい。もう殆ど下がってるんです。でも、再発だからヴォルフガング様がなかなかお厳しくて」
「そうか。……入っても……?」
「ええ勿論です。……でもヴォルデマー様、宴はよろしいんですか?」
辺りには今だ宴の賑やかな物音が届いている。
だがヴォルデマーはそれには応えずに、のそりと彼女の寝台の傍までやって来た。その動きにミリヤムが目を留める。
「あれ……ヴォルデマー様? ……もしかして物凄くお疲れ、ですか?」
「……」
案じるように見上げられ、ヴォルデマーは小さく息を吐く。それから無言で傍に置いてある木の椅子に腰を下ろした──かと思うと、そのままミリヤムの布団の上に黒い頭をぽすりと落す。
その思ってもみなかった行動に、ミリヤムは瞳を瞬かせた。
「……ヴォルデマー様?」
「……」
ヴォルデマーは布団の上につっぷしたまま、しばらくの間無言で少しも身じろぎしなかった。
ミリヤムは戸惑いながらも、黙って彼が再び動き出すのを待った。いつでも背筋を伸ばし謹厳実直なヴォルデマーらしからぬ行動だった。ミリヤムはその椅子の下に垂らされた尾の力無い様子に、疲れているのだな、と表情を曇らせる。心の中を案じる気持ちが占めて行って、思わず黒い毛並みに手が伸びた。ローラント達にするように、よしよしとその耳と頭とを撫でると、ヴォルデマーの目蓋が薄く開き、うっすらと金色の瞳がそこから覗く。その鈍く光る輝きを見て、ミリヤムははっと我に返った。
(ヴォ、ヴォルデマー様の、こ、高貴な人の頭を不躾に撫でてしまった……)
それも相手は子供でもない。
ミリヤムは己の行動に驚き胸中で慌てふためいた。が、ふと気がつくとヴォルデマーは布団の上から此方をじっと見つめていた。
「……う、す、すみません……失礼を……」
「いや……そうしていてくれ」
「へ、へぇ……?」
声が裏返ったミリヤムに、ヴォルデマーは愛おしそうに微笑んでもう一度瞳を閉じた。ミリヤムはそれはもう一度撫でろという事だろうか、と真剣に思い悩む。赤面する顔には汗が噴出した。だが、それでヴォルデマーが癒されるのなら、と、おずおずとその頭へもう一度指を伸ばす。夜色の柔らかなたてがみに触れると心臓が痛いほどに高鳴った。
「う……あ、あの、ヴォルデマー様申し訳ありません……お疲れなのは……私のせい、ですよね……? 騒々しくして、また寝付いたりしてすみませんでした……」
ぎこちなく頭を下げると、ヴォルデマーは目を伏せたまま呟くように彼女の名を呼んだ。
「……ミリヤム……」
「はい……」
「お前達の昔の話を……フロリアン殿から伺った」
「私達の……?」
「求婚、されたのだろう……?」
「お゛!? おおお……」
ヴォルデマーの言葉にミリヤムがおかしな声を上げてもう一度硬直する。ヴォルデマーはゆっくりと身体を起こし、息をのんだ姿のままのミリヤムを見た。黄金色の双眸がしっかりとミリヤムを捉えている。
「……私はお前が彼を愛していることを知っている。お前は、彼と──結ばれたいのか?」
「……」
ミリヤムはその問いに見開いた目を更に大きく開かせた。ヴォルデマーは真剣な顔つきでミリヤムの言葉を待っている。反射的に心の中で右往左往していたミリヤムではあったが、その真剣さになんとか心中を宥める。どう考えてもこれは真剣に返答しなければならない問い掛けだった。
ミリヤムは一度深く息を吸って、吐いて……それから──
「……いいえ」と、頭を振った。
「私は──坊ちゃまと結ばれたいとは思っていません」
そう言うと、ふっと部屋の中の緊張した空気が和らいだ。
しかし、ミリヤムは固い表情で続ける。
「坊ちゃまを……敬愛してます。それに不遜かもしれませんが、主と使用人という前に、何処か心の中で自分の弟のような気がしていて……。使用人が主に弟なんておかしいと思われるでしょうが……坊ちゃまの乳母は私の母なんです」
ミリヤムの言葉にヴォルデマーは頷く。
「ああ、聞いた」
「……歳も同じで同じ母に育てられて……兄弟のようなつもりでいて……でも、私が物事が判断できるようになった頃母は、坊ちゃまは高貴なお方でお前の兄弟ではないんだよって言いました。高貴な天からの授かりものだから私達とは違う、領地の宝だから大事にしなければならないんだって」
幼い頃までは彼は自分の弟で、その後の御伽噺が心から信じられる時代はずっと大人達が言うように彼は領地に使わされた天使なのだと思っていた。その辺りの感情は複雑で、ミリヤム自身にもすっきりと表現する事は出来ない。
「私にとって坊ちゃまは、大切で、誰よりも高貴なお方なんです。婚姻なんて……とんでもない……とんでもないんですが……」
ミリヤムは迷子のような顔つきでヴォルデマーから少し視線を外す。
「私はずっと坊ちゃまのご指示通りに動いてきた人間です。だから……その坊ちゃまに膝をついてまで願われた事を、どうしていいか分らないんです」
常識的にみても、フロリアンのような貴族階級の者が使用人に向かって跪くなどという事はあってはならないことだった。騎士が例え勝負に負けたとしても膝を折る事を良しとしない様に、それは恥であり屈辱なのだ。階級社会が色濃いこの国で、それはそれこそ指摘されなければミリヤムがそれを夢だと思っても仕方のないくらいには、世間的に見てもありえないことなのである。それだけにその申し入れは重い意味を持ち、ミリヤムを困惑させる。
「ミリヤム……」
「それに私、今……」
ミリヤムはそこで言葉を切って、傍で案じるように己を見下ろすその人を見た。ずっとフロリアンの真意を確かめるまでは迂闊なことは言えないと堪えていた。だがもうはっきり知ってもらいたいと思った。曖昧なままもし此処を離れるようなことにでもなったらと思うと酷く恐ろしかった。
ミリヤムは息を吸って、吐いて。深呼吸をひとつ。
そして、決意を持ってヴォルデマーを見上げた。
「私、今……生まれて初めて坊ちゃまとは違う感情で……ヴォルデマー様に惹かれています……」
ミリヤムは少し震える語尾でそう言った。
「お仕えしたいとかではなく、お、男の人として、素敵だなって、お傍にいたいなって、思います……」
息を呑む音がして、その音を彼女の耳が拾うとその顔にさっと熱が集まった。ミリヤムは言ってしまってからうろたえる。
「わ、わたくしなどがこの様なことを申して、あの、非常に身の程をわきまえぬ愚かなやつと思ってくださっても結構です、あの、あのあ……」
しどろもどろに弁解していると、突然身体に圧を感じ視界が暗くなった。
「っへ、ぇ……!?」
気がつくとミリヤムはヴォルデマーの隊服に額をつけてその腕の中にいた。息を呑んだ次の瞬間、頭上から零距離でヴォルデマーの熱いため息を感じ、ミリヤムの血は急騰し心臓は爆発しそうに飛び跳ねた。
(おおおおおぉおおっ!!!??? ひぃいいいいっ)
両手が戦慄いて震えている。身動きするとそれだけで消し炭化しそうだと思った。
あわわと微動だに出来ないでいると、ヴォルデマーが気がついたように身を離す。
「! すまない熱が有るのだったな……悪かった、つい……」
「めめめめ、めっそ、滅相も、ももも、ななな……」
狼狽して平静さを失ったミリヤムは思い切りどもりながら、今にも再び目を回しそうになっている。ヴォルデマーは少し笑って、その身体を寝台に横たわらせ、先程自分がされた様にその栗色の髪を撫でた。
「無理をさせてすまない。ゆっくり休め……」
「は、は、は、はい、」
体が離れたことにほっとしたが、それでもミリヤムの動悸は治まらなかった。そんな自分の狼狽具合も無性に恥ずかしくて、ミリヤムは落ち着こうと懸命だった。
しかし──そんな必死なミリヤムに、ヴォルデマーはさらりと掠めるように口づけた。それはあまりにもあっさりとさり気なく、ミリヤムの目が点になる。
「……」
「また来る。……有難う、ミリヤム……よく眠るのだぞ」
そう微笑んで身を翻し、ヴォルデマーは病室を後にした。丁寧に扉を閉めて、ヴォルデマーはその扉の前で息をつく。
「……」
彼は此処を訪れる直前まで、これまでに感じたことがない程の疲労を全身に感じていた。それは、フロリアンの話を聞いたためであり、実家からの手紙のためであった。
だが、訪れてくれたリヒター家の兵団を歓迎する宴に、長であるヴォルデマーが参加しないわけにはいかない。彼は重苦しい気分のまま宴に足を向けた。酒やその賑わいに少なからず疲労感が和らぐかとも期待したが、それは無駄に終わる。酒を口にしても少しも酔えぬばかりか愉快な気分にもなれなかった。それどころか疲れは増すばかりで……
困憊しきった彼はイグナーツにその場を任せ、宴を早々に切り上げる。そうして気がつくと──ヴォルデマーはいつの間にかミリヤムの病室の前に立っていたのだった。
「……」
ヴォルデマーは今しがた、一時の束の間己の腕の中に閉じ込めた娘のことを想った。彼女もまた、大きな苦悩の中にあったが、それでも彼女は見事にヴォルデマーの疲労を取り去ってくれた。
正直参っている己を見せてしまったことは、情けないと思う。だが、その表情はミリヤムの病室の戸を叩く前と比べると、見違えるようにぬくもりに満ち、生気に満ちていた。
「お前がそう言ってくれるのなら……、……」
ヴォルデマーは金の瞳に力を取り戻すと、暗い廊下の先へと力強い足取りで進んで行くのだった。
さて、残されたミリヤムはと言うと。
「………………」
暫しの間呆然としていたミリヤムの口からは、「ははは……」と虚ろな笑い声が洩れていた。そうして──次の瞬間、彼女は真っ赤な顔で再び目を回した。
ミリヤムが次に気がついたのは翌朝の事だったという。
宴は大いに盛り上がっていた。わいわいと賑やかな声は病室にも届き、ミリヤムは寝台の上に座りモヤモヤする気持ちでその喧騒を聞いていた。
「……この盛り上がり……きっと会場は酷いことになっているに違いない……」
ミリヤムの頭には食い散らかされた肉の骨や果物の食べかすが飛び交う様子が思い浮かんでいた。ミリヤムは寝ていなければならない己の身を呪った。
「掃除が……!! 掃除がしたい!! 歴史ある大広間の嘆きが聞こえる!!」
せめて熱が下がれば食いカス拾いくらいには行けるのに、とミリヤムは呻く。
「坊ちゃまの存在する場所を汚すのはやめて欲しい……!」
酔った隊士が投げた骨とかが坊ちゃまに当たったらどうしよう、とミリヤムは青くなって悶絶し、寝台の上に倒れこんだ。
そうしてしばらく呻いていたミリヤムだったが、その口から不意に「坊ちゃまか……」と小さな呟きが頼りなく洩らされた。昼間彼に求婚された一件を思い出すと深いため息がそれに続く。
ルカスの言うとおり、あれが本当に現実の出来事だとすると、春になればミリヤムはこの砦を離れることとなる。
(此処から離れて、お邸に戻る……此処を離れて……)
それはほんの少し前の自分の念願だった筈だった。早く此処を綺麗にしてフロリアンの元へ帰ることこそが、ミリヤムがしたかった事の筈で。だが、今それを思うと、どうしても脳裏に黒い人狼隊長の姿が思い浮かんでミリヤムはため息をついた。
「…………ヴォルデマー様、どうしてるかな……」
ふと、無性に彼に会いたくなったミリヤムは宴の賑わいの方に顔を向ける。
彼とは午前中にフロリアンを迎えたきり顔を合わせていない。求婚騒動で倒れたお陰で昼食も供に出来なかった。夕食も宴が催されているから別々だ。きっと今はその会場に居ることだろう。
「……ちょっと生坊ちゃまに目が眩みすぎたかな」
今更ヴォルデマーの前で自らが演じた醜態が気になりだして、ミリヤムは少し落ちこんだ。ルカスに言われた「変態」という言葉も気になった。
「私もうちょっと自重した方がいいのかな……」
恐らくその言葉をルカスが聞いたら仰天した事だろう。今までずっと何年も「その変態じみた行動をなんとかしろ」と彼はミリヤムに言い続けてきたが、ミリヤムがそれを気にかけたことなど一度もなかったのだ。
「はあ……掃除恋しいと呻いている場合ではない……一体私、どうしたらいいの……?」
寝台の上でしゅんと身を丸くして、悶々とあれやこれやと考えていると、不意に病室の戸が密やかに叩かれた。
「はい……?」
夜更けの訪問者に首を傾けてミリヤムは身体を起こす。その視線の先で木戸は緩やかに開かれた。
すると──そこには、たった今会いたいと思い浮かべた彼の人が静かに立っていた。
「……ヴォルデマー様……!?」
ミリヤムは慌てて身を正す。ヴォルデマーは戸口からミリヤムの姿を認めると、少しほっとした様に肩から力を抜いた。
「……夜分に失礼する。灯りがついていたゆえ立寄った……具合はどうだ?」
優しい低い声にミリヤムもほっとして表情が緩む。
「ええと、はい。もう殆ど下がってるんです。でも、再発だからヴォルフガング様がなかなかお厳しくて」
「そうか。……入っても……?」
「ええ勿論です。……でもヴォルデマー様、宴はよろしいんですか?」
辺りには今だ宴の賑やかな物音が届いている。
だがヴォルデマーはそれには応えずに、のそりと彼女の寝台の傍までやって来た。その動きにミリヤムが目を留める。
「あれ……ヴォルデマー様? ……もしかして物凄くお疲れ、ですか?」
「……」
案じるように見上げられ、ヴォルデマーは小さく息を吐く。それから無言で傍に置いてある木の椅子に腰を下ろした──かと思うと、そのままミリヤムの布団の上に黒い頭をぽすりと落す。
その思ってもみなかった行動に、ミリヤムは瞳を瞬かせた。
「……ヴォルデマー様?」
「……」
ヴォルデマーは布団の上につっぷしたまま、しばらくの間無言で少しも身じろぎしなかった。
ミリヤムは戸惑いながらも、黙って彼が再び動き出すのを待った。いつでも背筋を伸ばし謹厳実直なヴォルデマーらしからぬ行動だった。ミリヤムはその椅子の下に垂らされた尾の力無い様子に、疲れているのだな、と表情を曇らせる。心の中を案じる気持ちが占めて行って、思わず黒い毛並みに手が伸びた。ローラント達にするように、よしよしとその耳と頭とを撫でると、ヴォルデマーの目蓋が薄く開き、うっすらと金色の瞳がそこから覗く。その鈍く光る輝きを見て、ミリヤムははっと我に返った。
(ヴォ、ヴォルデマー様の、こ、高貴な人の頭を不躾に撫でてしまった……)
それも相手は子供でもない。
ミリヤムは己の行動に驚き胸中で慌てふためいた。が、ふと気がつくとヴォルデマーは布団の上から此方をじっと見つめていた。
「……う、す、すみません……失礼を……」
「いや……そうしていてくれ」
「へ、へぇ……?」
声が裏返ったミリヤムに、ヴォルデマーは愛おしそうに微笑んでもう一度瞳を閉じた。ミリヤムはそれはもう一度撫でろという事だろうか、と真剣に思い悩む。赤面する顔には汗が噴出した。だが、それでヴォルデマーが癒されるのなら、と、おずおずとその頭へもう一度指を伸ばす。夜色の柔らかなたてがみに触れると心臓が痛いほどに高鳴った。
「う……あ、あの、ヴォルデマー様申し訳ありません……お疲れなのは……私のせい、ですよね……? 騒々しくして、また寝付いたりしてすみませんでした……」
ぎこちなく頭を下げると、ヴォルデマーは目を伏せたまま呟くように彼女の名を呼んだ。
「……ミリヤム……」
「はい……」
「お前達の昔の話を……フロリアン殿から伺った」
「私達の……?」
「求婚、されたのだろう……?」
「お゛!? おおお……」
ヴォルデマーの言葉にミリヤムがおかしな声を上げてもう一度硬直する。ヴォルデマーはゆっくりと身体を起こし、息をのんだ姿のままのミリヤムを見た。黄金色の双眸がしっかりとミリヤムを捉えている。
「……私はお前が彼を愛していることを知っている。お前は、彼と──結ばれたいのか?」
「……」
ミリヤムはその問いに見開いた目を更に大きく開かせた。ヴォルデマーは真剣な顔つきでミリヤムの言葉を待っている。反射的に心の中で右往左往していたミリヤムではあったが、その真剣さになんとか心中を宥める。どう考えてもこれは真剣に返答しなければならない問い掛けだった。
ミリヤムは一度深く息を吸って、吐いて……それから──
「……いいえ」と、頭を振った。
「私は──坊ちゃまと結ばれたいとは思っていません」
そう言うと、ふっと部屋の中の緊張した空気が和らいだ。
しかし、ミリヤムは固い表情で続ける。
「坊ちゃまを……敬愛してます。それに不遜かもしれませんが、主と使用人という前に、何処か心の中で自分の弟のような気がしていて……。使用人が主に弟なんておかしいと思われるでしょうが……坊ちゃまの乳母は私の母なんです」
ミリヤムの言葉にヴォルデマーは頷く。
「ああ、聞いた」
「……歳も同じで同じ母に育てられて……兄弟のようなつもりでいて……でも、私が物事が判断できるようになった頃母は、坊ちゃまは高貴なお方でお前の兄弟ではないんだよって言いました。高貴な天からの授かりものだから私達とは違う、領地の宝だから大事にしなければならないんだって」
幼い頃までは彼は自分の弟で、その後の御伽噺が心から信じられる時代はずっと大人達が言うように彼は領地に使わされた天使なのだと思っていた。その辺りの感情は複雑で、ミリヤム自身にもすっきりと表現する事は出来ない。
「私にとって坊ちゃまは、大切で、誰よりも高貴なお方なんです。婚姻なんて……とんでもない……とんでもないんですが……」
ミリヤムは迷子のような顔つきでヴォルデマーから少し視線を外す。
「私はずっと坊ちゃまのご指示通りに動いてきた人間です。だから……その坊ちゃまに膝をついてまで願われた事を、どうしていいか分らないんです」
常識的にみても、フロリアンのような貴族階級の者が使用人に向かって跪くなどという事はあってはならないことだった。騎士が例え勝負に負けたとしても膝を折る事を良しとしない様に、それは恥であり屈辱なのだ。階級社会が色濃いこの国で、それはそれこそ指摘されなければミリヤムがそれを夢だと思っても仕方のないくらいには、世間的に見てもありえないことなのである。それだけにその申し入れは重い意味を持ち、ミリヤムを困惑させる。
「ミリヤム……」
「それに私、今……」
ミリヤムはそこで言葉を切って、傍で案じるように己を見下ろすその人を見た。ずっとフロリアンの真意を確かめるまでは迂闊なことは言えないと堪えていた。だがもうはっきり知ってもらいたいと思った。曖昧なままもし此処を離れるようなことにでもなったらと思うと酷く恐ろしかった。
ミリヤムは息を吸って、吐いて。深呼吸をひとつ。
そして、決意を持ってヴォルデマーを見上げた。
「私、今……生まれて初めて坊ちゃまとは違う感情で……ヴォルデマー様に惹かれています……」
ミリヤムは少し震える語尾でそう言った。
「お仕えしたいとかではなく、お、男の人として、素敵だなって、お傍にいたいなって、思います……」
息を呑む音がして、その音を彼女の耳が拾うとその顔にさっと熱が集まった。ミリヤムは言ってしまってからうろたえる。
「わ、わたくしなどがこの様なことを申して、あの、非常に身の程をわきまえぬ愚かなやつと思ってくださっても結構です、あの、あのあ……」
しどろもどろに弁解していると、突然身体に圧を感じ視界が暗くなった。
「っへ、ぇ……!?」
気がつくとミリヤムはヴォルデマーの隊服に額をつけてその腕の中にいた。息を呑んだ次の瞬間、頭上から零距離でヴォルデマーの熱いため息を感じ、ミリヤムの血は急騰し心臓は爆発しそうに飛び跳ねた。
(おおおおおぉおおっ!!!??? ひぃいいいいっ)
両手が戦慄いて震えている。身動きするとそれだけで消し炭化しそうだと思った。
あわわと微動だに出来ないでいると、ヴォルデマーが気がついたように身を離す。
「! すまない熱が有るのだったな……悪かった、つい……」
「めめめめ、めっそ、滅相も、ももも、ななな……」
狼狽して平静さを失ったミリヤムは思い切りどもりながら、今にも再び目を回しそうになっている。ヴォルデマーは少し笑って、その身体を寝台に横たわらせ、先程自分がされた様にその栗色の髪を撫でた。
「無理をさせてすまない。ゆっくり休め……」
「は、は、は、はい、」
体が離れたことにほっとしたが、それでもミリヤムの動悸は治まらなかった。そんな自分の狼狽具合も無性に恥ずかしくて、ミリヤムは落ち着こうと懸命だった。
しかし──そんな必死なミリヤムに、ヴォルデマーはさらりと掠めるように口づけた。それはあまりにもあっさりとさり気なく、ミリヤムの目が点になる。
「……」
「また来る。……有難う、ミリヤム……よく眠るのだぞ」
そう微笑んで身を翻し、ヴォルデマーは病室を後にした。丁寧に扉を閉めて、ヴォルデマーはその扉の前で息をつく。
「……」
彼は此処を訪れる直前まで、これまでに感じたことがない程の疲労を全身に感じていた。それは、フロリアンの話を聞いたためであり、実家からの手紙のためであった。
だが、訪れてくれたリヒター家の兵団を歓迎する宴に、長であるヴォルデマーが参加しないわけにはいかない。彼は重苦しい気分のまま宴に足を向けた。酒やその賑わいに少なからず疲労感が和らぐかとも期待したが、それは無駄に終わる。酒を口にしても少しも酔えぬばかりか愉快な気分にもなれなかった。それどころか疲れは増すばかりで……
困憊しきった彼はイグナーツにその場を任せ、宴を早々に切り上げる。そうして気がつくと──ヴォルデマーはいつの間にかミリヤムの病室の前に立っていたのだった。
「……」
ヴォルデマーは今しがた、一時の束の間己の腕の中に閉じ込めた娘のことを想った。彼女もまた、大きな苦悩の中にあったが、それでも彼女は見事にヴォルデマーの疲労を取り去ってくれた。
正直参っている己を見せてしまったことは、情けないと思う。だが、その表情はミリヤムの病室の戸を叩く前と比べると、見違えるようにぬくもりに満ち、生気に満ちていた。
「お前がそう言ってくれるのなら……、……」
ヴォルデマーは金の瞳に力を取り戻すと、暗い廊下の先へと力強い足取りで進んで行くのだった。
さて、残されたミリヤムはと言うと。
「………………」
暫しの間呆然としていたミリヤムの口からは、「ははは……」と虚ろな笑い声が洩れていた。そうして──次の瞬間、彼女は真っ赤な顔で再び目を回した。
ミリヤムが次に気がついたのは翌朝の事だったという。
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