偏愛侍女は黒の人狼隊長を洗いたい

あきのみどり

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二章

22 雑巾

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 感激したというふうの白豹が、汚水の入ったバケツに寄りかかってぜいぜい言っている娘に賛辞を贈っている。

「良くやった! 良くやったぞ!!」
「はー……はー……ぉおそれぃります……ぅうっぷ……」

 吐き気をもよおしている娘は勿論ミリヤムだ。涙ながらに手を叩いているのはイグナーツである。
 それは隊長室の先の廊下の角、その陰でのことだった。
 ミリヤムの顔色は悪い。とっても悪かった。汗も尋常ではない。

「おい、大丈夫か!?」
「いぐなーつ様……耳元で叫ぶのやめて……徹夜明けにこたえる……」

 ヴォルデマーの母に会った後、ミリヤムは慌ててヴォルデマーの執務室へ向かった。バケツに雑巾、箒を装備して。
 その血相は、見かけた隊士達が壁に飛び下がるほどに必死だったという。
 だが、それには理由があった。
 ヴォルデマーの執務室は、その持ち込まれる仕事量が大量であるだけに、片付けども片付けどもすぐに散らかっていく。
 勿論そこはミリヤムの担当場所でも何でもない。しかし、中央棟の最上階は掃除係の老婆達にかなり嫌われている。何故ならば、彼女達は階段が嫌いだからだ。彼女達はだいたい七日に1度のペースでその部屋を掃除する。ヴォルデマーもそれに文句は言わない。ミリヤムも腰が痛い、足が痛いと悲しげな顔をされるとそれを無理強いできず。
 結局、見かねたミリヤムが数日に一度、ヴォルデマーの執務室を綺麗にするようになっていた。

──その、“数日に一度”が──昨日だったのだ。

 ミリヤムはその事を、彼の母を見た時に思い出した。
 色々あってその部屋を放っておいてしまった事を思い出したミリヤムは、気がついた時にはヴォルデマーの部屋に向けて駆け出していた。
 ウラが後ろで声を張り上げていたのは勿論耳に届いていたが、きっとあの部屋を奥方も目にするだろうと思うと戻れなかった。
 夫人達には申し訳程度に頭を下げて。そうしてミリヤムが最上階の執務室に辿り着くと、案の定其処は整頓されているとはとても言い難い状態だった。正直自分が奮闘しても間に合わぬのではないかと思ったが、思っているだけでは其処へ来た意味がなかった。
 ミリヤムは慌てて窓を開け、机、床、棚、椅子の上を手早く整理し、磨けるところを磨いた。塵を拾い歩き、窓を閉め。そこから続きの間となっている隣の私室を掃除していると、そこで、廊下から何やらあまり穏やかとは言い難い男女の会話が聞こえてきた。
 そして隣の執務室の扉が開かれるのと同時に、ミリヤムは私室の方の扉から慌てて廊下に飛び出たのだった。間一髪だった。

 使ったバケツと箒を抱え、何とか見つからぬように廊下の角を曲がると、もう目が回って回って……立っていられなくなったところにイグナーツがやって来て──今に至る。


「……見えましたよ……覚醒状態……ふふふ、ふ……」
「あ? 何が見えたって……? 三途の川か?」

 青い顔で笑うミリヤムにイグナーツが不気味そうに言う。

「兎に角ここに転がっていては見つかる……ほら、来いミリヤム」

 イグナーツはミリヤムの手をとると、背を見せて乗れと言う。

「ぁりがとう、存じます……このご恩はお風呂で必ず……」
「やめとけ」

 イグナーツは、ミリヤムの言葉をばっさり切り捨てながら、その身体を背に引き上げるのだった……






 しばらく使用人用の食堂で休んだ後(流石に顔色が青すぎて同僚達に強制的に休憩させられる)、ミリヤムはとぼとぼと、正門前に戻って来た。
 アデリナとミリヤムが出会った時刻からは二時間程度が経っていた。正門周辺には二時間前にミリヤムが待機所から運び出した荷物がそのままそこに残されている。
 
「……はー……やるかー」

 ミリヤムは一先ず掃除しかけだった待機所の中へ入り、持参したバケツを下に置いてその中の雑巾を絞ろうと手に取った。
 ふと……あれからヴォルデマーと奥方はどうなっただろうか、と思った。
 奥方──ヴォルデマーの母はどうして此処へ来たのだろう、しかもウラを連れて、と考え始めると、つい、バケツの水を見下ろしたまま黙り込んでしまう。

「……………………ん……?」

──ふと、バケツの水に何かの影が映った。
 背後に気配を感じてなんとなしに振り返ると、間近に大きな山のようなものが二つ。

「ぅおおうっ!?」
「……」
「……」

 ぎょっと驚いたミリヤムは尻餅をつく。

「び、吃驚した……な、何ですか!?」

 其処にずんとしゃがみ込んでいたのは、門番だった。熊の顔の隊士が二人。並んでミリヤムの背後から、ミリヤムと同じ様にしゃがみ込んでバケツの中を覗き込んでいた。その大柄な身体が間近に迫るとかなりの迫力である。

「……何やってんだ?」
「何か入ってんのか?」
「え? いえ、別に……」

 ミリヤムが尻餅をついたままそう言うと、熊の門番は、ふうん、と気のない声をもらす。

「……貸せ」
「へ? 何を……は!? 顔!? 顔を貸せって言うんですか!?」

 ミリヤムは喧嘩を売られているのかと、眉間に皺を寄せる。勿論心当たりはある。この二人も幾らか前にミリヤムが丸洗いにした隊士達だ。

「申し訳ありませんがその果し合いのお申し込みは現在受け付け不可です。当方、徹夜明けでふらふらです! しかも此処の掃除も終わってません、お願いです。明日以降! 明日以降にして下さい!!」

 すると門番達は揃って目を細める。明らかな呆れの表情だった。

「阿呆か、なんでお前みたいな、ちびの毛無しと喧嘩しねえといけないんだよ。ひとひねり過ぎてむしろ恥だわ」
「あ、エプロン?」
「ちげーよ!!」

 ぴんと閃いたミリヤムに熊の門番は牙を剥いた。ミリヤムは首を竦めながら、だって他にお貸し出来るものなんか、と眉をひそめる。まあ確かに、彼の巨体に自分のエプロンは小さいか、とも思ったが。

「そうじゃなくて……その雑巾よこせって言ってんだよ!」
「はあ……雑巾……何故ゆえに……」

 咆える様に雑巾を要求されたミリヤムが戸惑うと、熊の門番達は一瞬顔を見合わせた。それから何やら気恥ずかしそうな様子を見せる。

「?」
「……あのよ、俺達長いこと門番やってんだけどよ……」
「少し前にお前、俺達を風呂場で襲っただろう?」
「は、はあ……激人聞きが悪いですが、確かにお背中流させていただきましたね……」

 お二人とも短毛でなかなか剛毛でした、とミリヤム。

「まあ、俺達もなるほどこうして石鹸ってやつは使うんだな、と思って……」
「え!? そっからだったんですか!? そっから!?」
「いいから聞けよ」
「それでな、まあ結構泡立って面白いな……って、あれからは時々二人で風呂場で遊んでたんだ」
「遊んでいたのですね……」

 どこかほのぼの楽しげな表情になった茶熊に、ええ、うん、まあそれでもいいか、とミリヤムは神妙な顔で相槌を打つ。巨体でも、ローラント達少年隊士と同じ様な無邪気な気配を感じた。

「それで……」
「それで?」

 門番はちょっと恥ずかしそうに、ぽりぽりと爪で頬をかき始めた。

「今日、俺達奥方様に……アデリナ様に、初めてお声を掛けて頂いたんだ!」
「……へ……?」

 ミリヤムは思わぬ名が其処に出てきてきょとんと瞬く。門番達の嬉々とした様子は、きっと彼等が人間だったなら頬が赤く染まっているのだろうな、というふうだ。

「……えっと……ヴォルデマー様のお母様……?」

 そう問うと、巨体の門番達は並んで、うん、と頷く。

「今までは奥方様は此処にいらっしゃると、最初にお迎えする俺達に必ずお顔を顰められたんだ」

 彼等からすると、何故いつもそんな羽虫を見るような目で見られるのか分らなかった。アデリナはそんな視線を寄越すだけで、彼等を歯牙にもかけず声を掛ける事もなかった。

「でも今日は違った。俺達を見て、おやって顔されて、今日は臭わないのね、汚くないわって」
「俺達それで今日やっと、奥方様が俺達があんまり汚れているんで嫌っていらしたんだって気がついたんだ」
「なる、ほど……」
「俺達泥がついていても、匂いがきつくても気にならないしさ、注意してくる奴もいないし……綺麗にする方法もよく知らなかったしな」

 うんうんと頷きあう二人に、ミリヤムは半眼で問うた。

「……ご実家では習いませんでしたか」

 すると二人はもう一度、うんと頷く。

「……なるほど……」

 熊人家族では入浴技術は必修ではないらしい、とミリヤムは眉間の縦じわを深くする。

「でも今日奥方様は俺達の前で足を止められて!」
「お声まで……」
「……」

 ミリヤムは目を軽く見開いて瞬いた。
 二人はとても嬉しそうだった。こそばゆそうに、嬉しそうだった。
 その今にも小躍りしそうな様子に、ミリヤムは余程嬉しかったのだなと、少し頬を緩める。
 と……二人はずいっとミリヤムの前に手を差し出す。長い爪のついた屈強そうな手が顔面に迫り、ミリヤムは思わず身体を仰け反らせた。

「……え? な、なに?」

 戸惑って二人の顔を見比べていると、門番達は照れくさそうな仏頂面で「よこせ」と言った。

「へ?」
「雑巾だ。俺達が奥方様にお声を掛けていただけたのはお前のお陰だ」
「だから、その雑巾よこせ。俺達、手伝ってやる」
「…………え」
「ありがとうな」

 吃驚した。吃驚しすぎたミリヤムは言葉を失くし──そうしてぽかんとしている内に、熊の門番達はミリヤムの手から雑巾を取り上げて行った。二人してその一枚きりの雑巾を、両方からつまみ上げて「小さくねえ?」「小さいな……」と己達のこげ茶の大きな手には些か小さすぎる雑巾を、困ったような顔で見つめている。
 
「…………」

 ミリヤムは──
 何故だか泣けて来て。
 痴女と言われ続けながらも隊士達に向かっていって、色んなところを掃除して回ったことを思い出して。
 それでもやって来て良かったと、初めて思ったのだった。


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