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36 襲撃
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「…っ、くそ、…馬鹿力が……、デュレク、急いで衛兵を呼んでくれ…早く!」
「はい!すぐに、呼んで来ますからっ!!」
本当の嫌悪っていうのは、こういうことなんだと思った。
血走った気持ち悪い目付き。
卑しく笑う口許。
私の体を触る掌は酷くぬめっていて、それが余計に気持ち悪さを感じさせる。
叩いてもびくともしない体。
重たい、とても重たい体が私の身動きを封じている。
「やだったらーーーーーーーー!!!」
平和な一日だった。
いつもと変わらない、何も変わらない一日になるはずだったのだ。
「サイカ、最近益々綺麗になったわねぇ。」
「本当、世の中理不尽だわ…でも、サイカならいいって許せちゃうのよね。」
「分かるわ~!もう、ここまで美しいとそうなるわね!」
「いやいや。私はお姉様たちの美肌が羨ましいです。
この陶器みたいな白い肌…素敵…それからこの…ぷにっとした魔性の柔らかさ……好き…いつまでももみもみしていたい…」
「もう、サイカったら!」
「こういうサイカだから、好きなのよね~。」
「本当、可愛いわぁ…。見た目は絶世の美女なのに、“美女”って感じがしないのよ。」
「分かる分かる。“美女”じゃないのよ、中身が。笑顔に含みがなくって、まるで小動物なのよ。」
「そうそう。見た目はとんでもない美女だけど、女狐というより子猫なのよサイカって。そのギャップが堪らないのよねぇ!」
褒められているのか貶されているのか。
いや、猫は可愛いけど。猫も犬も好きだけど。
お姉様たちは私をよく可愛がってくれる。
…着せ替え人形になる事も屡々あったりする。
お姉様たちのドレス…はちょっと…いや、ぶかぶかなので、メイクや持っている装飾品で私を飾り立てるのが楽しくて仕方ないらしい。
「いやん。可愛いわ。…ねえ、こういう化粧も似合わない?」
「あ、いいわねぇ!美女だわ美女!まごうことなき美女がいるわ!普段と印象ががらりと変わるわね!」
「サイカはどんな化粧も映えるわね~!目が大きいから、淡い色も全然変にならないわぁ~。
私たちが淡いピンク系の色を瞼に付けたら…野暮ったくなっちゃうのよねぇ。」
「そうそう、泣いたの?って感じになるわよね!
も~、羨ましいったらないわね!でもいいの、サイカだもの!ああん可愛い…可愛いわぁ!」
「…むぎゅ。……魅惑のふかふかおっぱい……素敵…」
まさに猫可愛がりだ。
だけど嬉しい。可愛がられるのは有り難い。
疲れて眠っている日もあるけど、こんな感じで誰かと一緒に日中過ごす事多い私。
要介護状態の時はお姉様たちが部屋に見舞いに来てくれてはい、あーんと食べさせてくれたりもする。
たーんとお食べ。とスプーンやフォークを口許に持って来られれば…お腹がいっぱいでも食べねばなるまい。お姉様たちの好意は無下に出来ない。
女にはやらねばならない時があるのだ。
「…サイカとも、もう少しで会えなくなっちゃうのね……寂しいわ…」
「リズお姉様…私も、寂しいです…。
リズお姉様がいなくなっちゃうなんて…、でも、リズお姉様には幸せになって欲しいって思うから……幸せになって下さいね…。」
「ええ。ありがとうサイカ。
ニルス様は既に二人、奥様がいらっしゃる方だけど…でも、とても素敵なの。
奥様方も私を快く受け入れてくれているそうだし…。」
「ニルス商会って小さな商会だけど、評判いいものねぇ。
奥様二人は全然、タイプが違うんですって。
一人はすごく大人しい人らしくて、もう一人はかなりお転婆みたいよ。」
「詳しいわね。それに極端…。じゃあリズが入れば丁度いいんじゃない?
まあ、リズならどこに行っても大丈夫そうだけど。」
「高級娼婦を舐めてもらっちゃ困るわね。
伊達に色んな事を経験してないわよ?
…だからサイカ、心配はしないで頂戴。私は大丈夫。上手くやるわ。」
「…心配はしていません。リズお姉様は強いから。
強くて優しいから。
…寂しいだけです。」
リズお姉様はお得意様の妻になる予定だ。
もう五年も、ニルスいうお客様はお姉様に会いに月光館へ通っていた。
日中、花街の店に品物を卸しに来ていたニルス様は、気晴らしに買い物に来ていたリズお姉様に一目惚れをしたらしく、それから五年、お姉様のお得意様だった。
「最初は…何とも思ってなかったのよね。
ただのお客様…だったはずなのに。」
「そうなんです?」
「ええ。でも、変わっていったの。
あの人ったら、私を好きだって気持ち、隠しもしないのよ。
高級娼婦は、相手をするお客様を選べるでしょう?
初めてあの人が月光館に来たとき、私を買いたい人がもう二人いたの。」
「へえ~。」
「で、私は隠れて相手をする男を選んでた。
…そしたらね、あの人…“私を選んでほしいと伝えて下さい。一目惚れなんです”って、大声で。
もう笑っちゃたわ。
何なのこの人って思ったけど、気付いたら相手に決めてたの。」
「そんな出会いが…」
「ここじゃ大体の皆が知ってる話よねぇ。」
「そうそう。もう、本当に大きな声だったのよ~。あれはリズに聞いてほしかったからだと思うけど。
そんな腹から声出す?って思うくらいだったわね~。」
「ふふ…懐かしいわ。当時もう、一人目の奥様がいてね?“妻の事も愛している、貴女も愛している”って。ほんと、残念な人だと思ったわ。…でも、そういう正直な所に惹かれたの。
それから、毎回面白おかしい話をして、私、ニルスに会うと楽しくて…毎回笑ってたのよ。
この人はきっと、自分の人生も他人の人生も、楽しく出来る人だわって。
…今回のプロポーズを受けたのよね。」
「今回のって言うけど、百九十六回目のプロポーズよ、サイカ。」
「…え!?」
「会うたびにプロポーズしてたらしいのよニルス様。」
「えっ!!?」
「そうそう。だから中々信用出来ないって事もあるじゃない?
あの人の元へ行ってもいいかもって思えるのに、五年かかったわ…。」
何だかんだ、幸せそうに笑うリズお姉様はとても綺麗だった。
本当に綺麗だと思った。
「…私も、いつか誰かを…愛する時が来るのかな…」
好きの違いもよく分かっていない私だけど、その時が来るのだろうか。
そんな私の気持ちを理解したのか、リズお姉様は優しい笑顔で笑う。
「サイカ。難しく考えなくていいの。
心に従っていれば、自ずと分かるものよ。
家族や友人への好きと、異性への好きの違いも。
頭の中で考えてしまうと、難しいの。
考えず、心に従うのよ。そうしたら、きっと分かるわ。…女だもの。」
「…お姉様…」
「恋も愛も、考えても答えは出ないわ。
人によって好みも違うもの。
こういう事は本能なの。直感なのよ。
だから考えるのは止めなさい。」
「…はい、じゃあそうします。今は、分からなくていいって事ですよね。」
「ええそうよ。」
お姉様たちはいい女だと思う。
対して私はお子ちゃまみたいだけど。
見目がいいから綺麗とか、可愛いとか、美しいとか。そういう事じゃなくて、いい女はいい女なのだ。お姉様たちがそうだ。
「さ。もうあと一時間もすればお仕事の時間ね。
今日も頑張るわよー!」
「おー!」
「こらサイカ。高級娼婦は“おー!”なんて言わないの。」
「はい!」
いつもと何一つ変わらない、平穏な一日だと思った。
マティアス様もヴァレリア様も、カイル様もリュカ様からの予約もない一日。
でも突然来てくれる事もあるから、お風呂に入る事はしておく。
お湯の中から出て、タオルで髪を乾かして。
ドレスを着て、後はお客様が来たよとオーナーから声が掛かるのを待つ。
ガシャン!!と大きな音が聞こえた。
続いて沢山の悲鳴が。
「…な、何…?何かあったの…?」
気になって、部屋を出て階段を降りる。
あと少しで一階に辿り着くと思ったその時、耳元でリズお姉様の声がした。
「…サイカ、こっちへ。貴女は下に降りては駄目。」
「…リズお姉様…?」
「私の部屋へ行ってなさい。私の部屋のクローゼットの中に、身を隠してなさい。誰かがいいと言うまで、クローゼットの中でじっとしてなさい。
いいわね?」
「……。」
こくりと頷く。何が起きているか分からないけど、何かが起きている。
不安が顔に出ていたのだろう。だけどリズお姉様はにこりと笑う。
「大丈夫よ。何も心配いらないわ。」
「…はい、」
その笑顔に安堵した。
お姉様が大丈夫と言うのだから、きっと大丈夫。
そう思って、お姉様に言われた通りにお姉様の部屋へ向かおうとすれば、また悲鳴が聞こえた。
『きゃあああ!!オーナー!オーナー…!!
頭から血が…、誰か、誰かあああ!!』
「ふざけるなっ!!!
お前、俺が誰か分かっているのか!!
俺は最上階にいる美女を出せと言っているんだ!!
いるだろうが!!ここに呼べ!!俺の相手をさせろ!!」
「…っ、…貴方は、お客様ではありません!
即刻、お引き取り下さい…!!
僕の大事な子たちを、貴方のような男には相手をさせない!!」
「な…ん、だとお…!?
ただの娼館のオーナー風情が!!高位貴族である俺に舐めた口を聞くな!!」
「いいえっ、何度でも言います…!即刻、この月光館から出て行って下さいっ!!そして二度と立ち寄ることは許可しないっ!!
この月光館にいる娼婦の、誰もっ、貴方の相手はさせません!!…っ、う…、」
「オ、オーナー!駄目…!興奮しないで!頭から血が出てるんです…!!」
「……もう、もういい!!勝手にさせてもらう!!
所詮は娼館だ!潰すくらい簡単に出来る!!
俺を怒らせて只で済むと思うな!!」
恐ろしいと思った。
大きな声、いや、罵声だ。
今まで聞いたことのない、男の大きな、喧嘩腰の声が、その威圧的な声がこんなに恐ろしいと、初めて知った。
だけどそれ以上に、頭から血を流しているというオーナーや男の周りにいるであろう娼婦たちが心配で堪らなかった。
どうするべきか。目的は私みたいだ。行くべきだろうか、行って、収まるだろうか。
そうなると私はどうなるのだろうか。
だけど、下にいるオーナーが、皆が、私が、行くべき、だろう、
「サイカ。行っては駄目。駄目よ。」
「…でも、お姉様、」
「何のためにオーナーが体を張ってると思っているの。サイカを守る為よ。
この騒ぎだわ。外まで聞こえていれば、気付いた誰かが衛兵を呼んでくれるはずよ。それまで耐えるの。」
「…でも、…オーナーが、オーナーは、頭から血が、流れてるって、」
「ええ。そうみたいね。…でも、それでも行っては駄目。いい?さっき言った通り、私の部屋に行って。息を潜めて。物音は立てないで。私が下に行くわ。行って、宥めてみる。」
「……おねえ、さま、」
「大丈夫。言ったでしょう?伊達に長く高級娼婦をしてないの。
あの程度の相手、何でもないわ。ちっとも恐くない。」
さ、早く。と促され、言われた通りリズお姉様の部屋へ向かおうと思った。だけど。
「いるじゃないか」
私を見てにたりと卑しい顔で笑う男は、化け物そのものだった。
横に肥えた大きな体。オーナーの…いや、人の倍はあろうその巨体。
太く、汗でぬるりとした男の手が私の手を掴む。
「!!
お客様、無体はお止めくださいまし。
ここは娼館。か弱い女が多いのです。
相手が娼婦といえど、礼儀は弁えて下さい。」
「煩い女だ。お前には用はない。あるのは…この美女だけだ…。
ああ、美しい……近くで見れば益々美しいのが分かる…こんな美しい女が存在するのか…」
「…っ、や、止めて下さい、」
「おお、…声まで美しいな…!これは楽しみだ…!」
「いや…!」
「この…!サイカに触らないで!
嫌がる女を無理矢理ものにしようなど、男の風上にもおけないわ!この下衆男!!
今すぐ、その手を離して頂戴!」
「な…!?娼婦如きがっ!喧しいわっ!!」
お姉様が掴んでいた手を振り払う男。
その衝撃で、お姉様が廊下の壁に体を打ち付けた。
「リズお姉様!!」
「お前はこっちだ。…よしよし、可愛がってやろう。」
「な…!?は、離して下さい!お姉様が倒れているんです…!!何処か怪我を、」
「お前は優しい娘でもあるのだなぁ。
益々気に入ったぞ。」
倒れこんだお姉様を見向きもせずに私を簡単に抱き上げ、階段を上がって行く男。
向かっていたのは私の部屋だった。
暴れてもびくともしない。
大きな体に捕らえられ、身動きも取れない。
ふうふうと荒い息遣いが尚気持ち悪かった。
部屋へ辿り着くと男は私をベッドに放り投げ、私の下腹部に乗り掛かる。
重い。ものすごく、重い。重たくて苦しい。
「ああ、…美しい……一週間前に初めてお前を見てから…抱きたいと何度思ったか…」
「ひっ…!」
頬に手を添えられ、ぞわりと鳥肌が立った。
「…何故悲鳴を上げる。女は俺を見て頬を染めるぞ?
皆、抱いてほしいと言ってくる。はは、全く困ったものだ。」
「…な、なら、その方たちを相手にすればいいじゃないですか、わ、態々、花街に来ることも、」
「何、たまには違う系統を楽しみたくもなる。
貴族令嬢ではなく、娼婦を。男とはそういうものだ。」
「や、…やめ、やだやだ!」
血走った気持ち悪い目付き。
卑しく笑う口許。
私の体を触る掌は酷くぬめっていて、それが余計に気持ち悪さを感じさせる。
叩いてもびくともしない体。
重い体が身動きを封じていて、逃げられない。
「ははは、こらこら、そう叩くんじゃない。全く、可愛い抵抗をして…堪らんなぁ!
安心しろ。すぐに気持ちよくしてやるから。」
「ひいっ!!いや!やだ、やだやだやだ!!
止めて、触らないで!誰か、誰か助けて!いやだ、無理、嫌だ!!」
「これ、大人しくしろっ」
「嫌、嫌!!嫌なの!止めて!!
私に触らないで!!帰って!帰ってよ!!出て行って!!」
「いい加減にしろ!」
バシン!と音がして…何が起こったのか分からなかった。
でも、その後にびりびりと痛み出した頬の感覚で理解した。
この男に私は、殴られたのだと。
「お前が悪いんだぞ?大人しくしないから。抵抗は可愛いものだが、過ぎればいかん。
なに、そう恐がる事はない。普段お前が相手をしている“醜い”奴らは経験も浅いだろうからな。録なセックスを経験してはおらんだろう?…可哀想になぁ。
そんな程度の知れたセックスしか経験がないのは可哀想だ。
俺が、男としての違いを見せてやろう。本当の男というものを教えてやろう。」
あああもう無理だ。無理だ無理だ無理だ…!!
何が本当の男だ!このオーク野郎!下衆野郎!!
か弱い女を殴りやがってえええ!!
お前なんかに抱かれたくもない!!
好き勝手にさせてたまるか!!
もう、恐怖より怒りの方が込み上げてきた瞬間だった。
恐いは恐い。でも、込み上げてくる怒りが、恐怖を凌駕していた。
「やだったらーーーーーーーー!!!」
「ぐっ…!!?」
私の渾身の一撃が下衆オーク野郎の眉間にクリティカルヒットした。
「しょ、娼婦を舐めるんじゃない!!
娼婦だって、相手を選ぶ権利がある!!
私は貴方を相手したくない!!無理!!絶対に、絶対に、ぜーーーーーったいに、無理!!」
「っ!?つ!!?」
「男としての違い!?本当の男!?おあいにく様よ!
貴方なんかよりずっと気持ちのいいセックスをしてくれてるって自信持って言える!!
どれだけ女性にモテているか知らないけど、馬鹿にしないで!!
この下衆オーク野郎がーーーー!!」
もう何が何だか。
こんな状態なのにシリアスに成りきれない私。
恐いけど。すごく恐いけど。
でも何かもう、訳が分からなくなってた。
ぼかぼかと顔中心に拳を炸裂させる私。
それなりに効いているようで、よろりとオーク野郎の体が私の下腹部から少し浮いた所を身を捩って抜け出したのだが……
「え???」
どさりとベッドから落ちた私は、立ち上がろうとしても足に力が入らない。
これでは逃げられない、そう思った時に助けはきた。
「サイカ!!」
「…サイカああ!!」
「…お、ねえ…さま…?」
「ああ、サイカ…サイカ、可哀想に…頬が腫れて…殴られたのね…!?」
「何を呆けているの!!早く捕まえて!!」
鎧を着た四人の男たちに取り押さえられる下衆男。
混乱して上手く頭が働いていないが…どうやら、助かったらしい。
「…オーナーは、…リズお姉様は、」
「大丈夫、二人とも無事よ…!
オーナーは少し頭を切っただけ、リズも、体を打ったみたいだけど、意識ははっきりしているわ…!」
「……そう、……そう、無事、なんだ…無事で、…よかった、ほんと、…よかった、」
何処を見ているのか、焦点が合わない。
ただただ呆然としていた。
「…サイカ、」
「……オーナー…?」
「うん。…酷い目に合ったね…ごめんね。」
「……大丈夫、です。…オーナーは、」
「僕も大丈夫。ちょっと大袈裟に血は流れたけど、大した怪我じゃないよ。
…マティアス様がね、衛兵の数を増やしてくれていたんだ…だから、すぐ衛兵を呼ぶことが出来た。」
「…マティアス様が、」
「でも、それでも…恐かったろう…?
もっと早く来れたらよかった…ごめんね、サイカ…」
「…はは、…平気、ほんと、…大丈夫です、全然、大丈夫、」
助かってからは不思議な程、何の感情もなかった。
本当に。
恐怖も怒りも、安堵もなく、私はただそういう玩具みたいに平気だ、大丈夫だとオーナーや皆に繰り返していた。
男が衛兵たちに部屋から連れて行かれるのを呆然と見送って、そのまま、ドアの先をずっと見ていた。
「ああ、…来てくれたみたいだ…。
サイカ、もう大丈夫だよ。もう、大丈夫だ。」
オーナーは何を言っているのだろう。
その言葉が理解出来ないでいると、ドアの先に現れたのはマティアス様だった。
「はぁ、はぁ、…サイカ!!」
ぎゅうう、と。マティアス様に力一杯抱き締められる。
汗の匂い。熱い体。
マティアス様に抱き締められ、マティアス様の体温と匂いに包まれて。
じわじわと、何かが込み上げてきた。
恐怖、怒り、苦痛。
そして、安堵。
「…あ、…ああ、…ああああああ…!!」
「いい、そのまま泣け、サイカ!」
「あああ、ああああああん、うあああああ…!!」
「そうだ、溜めるな、吐き出せ。
大丈夫だ…俺がいる。飲み込むな、全部吐き出せ、サイカ。」
「うああ、ひっく、あああああ、う、ひっ、うう、あああ、ああああああ…!
ま、…す、まてぃ、あす、うう、うううう…!」
「ここにいる。大丈夫だ。…もう、そなたを恐がらせるものはいない。…大丈夫だ。」
「まてぃあす、ひっく、まてぃあす、…まてぃあす、…まてぃあす…、おーくがぁ…!げすなおーくやろーがあぁぁ…!もう、もう、こわいいぃ…!!」
「…おーくとやらがよく分からんが……もう大丈夫だ。あの男には…然るべき処分を下す。
……ディーノ、暫く…キリムの所に居てくれ。」
「……そう、しよう…。」
泣きわめいて、泣きわめいて。泣き叫んで。
私の涙を、優しく唇で拭うマティアス様。
頭を撫でられ、涙を拭われ、優しいキスが落ちてくる。
安堵した。ほっとした。この腕の中は絶対に安全だと思った。
マティアス様の存在に、心の底から安堵した。
「はい!すぐに、呼んで来ますからっ!!」
本当の嫌悪っていうのは、こういうことなんだと思った。
血走った気持ち悪い目付き。
卑しく笑う口許。
私の体を触る掌は酷くぬめっていて、それが余計に気持ち悪さを感じさせる。
叩いてもびくともしない体。
重たい、とても重たい体が私の身動きを封じている。
「やだったらーーーーーーーー!!!」
平和な一日だった。
いつもと変わらない、何も変わらない一日になるはずだったのだ。
「サイカ、最近益々綺麗になったわねぇ。」
「本当、世の中理不尽だわ…でも、サイカならいいって許せちゃうのよね。」
「分かるわ~!もう、ここまで美しいとそうなるわね!」
「いやいや。私はお姉様たちの美肌が羨ましいです。
この陶器みたいな白い肌…素敵…それからこの…ぷにっとした魔性の柔らかさ……好き…いつまでももみもみしていたい…」
「もう、サイカったら!」
「こういうサイカだから、好きなのよね~。」
「本当、可愛いわぁ…。見た目は絶世の美女なのに、“美女”って感じがしないのよ。」
「分かる分かる。“美女”じゃないのよ、中身が。笑顔に含みがなくって、まるで小動物なのよ。」
「そうそう。見た目はとんでもない美女だけど、女狐というより子猫なのよサイカって。そのギャップが堪らないのよねぇ!」
褒められているのか貶されているのか。
いや、猫は可愛いけど。猫も犬も好きだけど。
お姉様たちは私をよく可愛がってくれる。
…着せ替え人形になる事も屡々あったりする。
お姉様たちのドレス…はちょっと…いや、ぶかぶかなので、メイクや持っている装飾品で私を飾り立てるのが楽しくて仕方ないらしい。
「いやん。可愛いわ。…ねえ、こういう化粧も似合わない?」
「あ、いいわねぇ!美女だわ美女!まごうことなき美女がいるわ!普段と印象ががらりと変わるわね!」
「サイカはどんな化粧も映えるわね~!目が大きいから、淡い色も全然変にならないわぁ~。
私たちが淡いピンク系の色を瞼に付けたら…野暮ったくなっちゃうのよねぇ。」
「そうそう、泣いたの?って感じになるわよね!
も~、羨ましいったらないわね!でもいいの、サイカだもの!ああん可愛い…可愛いわぁ!」
「…むぎゅ。……魅惑のふかふかおっぱい……素敵…」
まさに猫可愛がりだ。
だけど嬉しい。可愛がられるのは有り難い。
疲れて眠っている日もあるけど、こんな感じで誰かと一緒に日中過ごす事多い私。
要介護状態の時はお姉様たちが部屋に見舞いに来てくれてはい、あーんと食べさせてくれたりもする。
たーんとお食べ。とスプーンやフォークを口許に持って来られれば…お腹がいっぱいでも食べねばなるまい。お姉様たちの好意は無下に出来ない。
女にはやらねばならない時があるのだ。
「…サイカとも、もう少しで会えなくなっちゃうのね……寂しいわ…」
「リズお姉様…私も、寂しいです…。
リズお姉様がいなくなっちゃうなんて…、でも、リズお姉様には幸せになって欲しいって思うから……幸せになって下さいね…。」
「ええ。ありがとうサイカ。
ニルス様は既に二人、奥様がいらっしゃる方だけど…でも、とても素敵なの。
奥様方も私を快く受け入れてくれているそうだし…。」
「ニルス商会って小さな商会だけど、評判いいものねぇ。
奥様二人は全然、タイプが違うんですって。
一人はすごく大人しい人らしくて、もう一人はかなりお転婆みたいよ。」
「詳しいわね。それに極端…。じゃあリズが入れば丁度いいんじゃない?
まあ、リズならどこに行っても大丈夫そうだけど。」
「高級娼婦を舐めてもらっちゃ困るわね。
伊達に色んな事を経験してないわよ?
…だからサイカ、心配はしないで頂戴。私は大丈夫。上手くやるわ。」
「…心配はしていません。リズお姉様は強いから。
強くて優しいから。
…寂しいだけです。」
リズお姉様はお得意様の妻になる予定だ。
もう五年も、ニルスいうお客様はお姉様に会いに月光館へ通っていた。
日中、花街の店に品物を卸しに来ていたニルス様は、気晴らしに買い物に来ていたリズお姉様に一目惚れをしたらしく、それから五年、お姉様のお得意様だった。
「最初は…何とも思ってなかったのよね。
ただのお客様…だったはずなのに。」
「そうなんです?」
「ええ。でも、変わっていったの。
あの人ったら、私を好きだって気持ち、隠しもしないのよ。
高級娼婦は、相手をするお客様を選べるでしょう?
初めてあの人が月光館に来たとき、私を買いたい人がもう二人いたの。」
「へえ~。」
「で、私は隠れて相手をする男を選んでた。
…そしたらね、あの人…“私を選んでほしいと伝えて下さい。一目惚れなんです”って、大声で。
もう笑っちゃたわ。
何なのこの人って思ったけど、気付いたら相手に決めてたの。」
「そんな出会いが…」
「ここじゃ大体の皆が知ってる話よねぇ。」
「そうそう。もう、本当に大きな声だったのよ~。あれはリズに聞いてほしかったからだと思うけど。
そんな腹から声出す?って思うくらいだったわね~。」
「ふふ…懐かしいわ。当時もう、一人目の奥様がいてね?“妻の事も愛している、貴女も愛している”って。ほんと、残念な人だと思ったわ。…でも、そういう正直な所に惹かれたの。
それから、毎回面白おかしい話をして、私、ニルスに会うと楽しくて…毎回笑ってたのよ。
この人はきっと、自分の人生も他人の人生も、楽しく出来る人だわって。
…今回のプロポーズを受けたのよね。」
「今回のって言うけど、百九十六回目のプロポーズよ、サイカ。」
「…え!?」
「会うたびにプロポーズしてたらしいのよニルス様。」
「えっ!!?」
「そうそう。だから中々信用出来ないって事もあるじゃない?
あの人の元へ行ってもいいかもって思えるのに、五年かかったわ…。」
何だかんだ、幸せそうに笑うリズお姉様はとても綺麗だった。
本当に綺麗だと思った。
「…私も、いつか誰かを…愛する時が来るのかな…」
好きの違いもよく分かっていない私だけど、その時が来るのだろうか。
そんな私の気持ちを理解したのか、リズお姉様は優しい笑顔で笑う。
「サイカ。難しく考えなくていいの。
心に従っていれば、自ずと分かるものよ。
家族や友人への好きと、異性への好きの違いも。
頭の中で考えてしまうと、難しいの。
考えず、心に従うのよ。そうしたら、きっと分かるわ。…女だもの。」
「…お姉様…」
「恋も愛も、考えても答えは出ないわ。
人によって好みも違うもの。
こういう事は本能なの。直感なのよ。
だから考えるのは止めなさい。」
「…はい、じゃあそうします。今は、分からなくていいって事ですよね。」
「ええそうよ。」
お姉様たちはいい女だと思う。
対して私はお子ちゃまみたいだけど。
見目がいいから綺麗とか、可愛いとか、美しいとか。そういう事じゃなくて、いい女はいい女なのだ。お姉様たちがそうだ。
「さ。もうあと一時間もすればお仕事の時間ね。
今日も頑張るわよー!」
「おー!」
「こらサイカ。高級娼婦は“おー!”なんて言わないの。」
「はい!」
いつもと何一つ変わらない、平穏な一日だと思った。
マティアス様もヴァレリア様も、カイル様もリュカ様からの予約もない一日。
でも突然来てくれる事もあるから、お風呂に入る事はしておく。
お湯の中から出て、タオルで髪を乾かして。
ドレスを着て、後はお客様が来たよとオーナーから声が掛かるのを待つ。
ガシャン!!と大きな音が聞こえた。
続いて沢山の悲鳴が。
「…な、何…?何かあったの…?」
気になって、部屋を出て階段を降りる。
あと少しで一階に辿り着くと思ったその時、耳元でリズお姉様の声がした。
「…サイカ、こっちへ。貴女は下に降りては駄目。」
「…リズお姉様…?」
「私の部屋へ行ってなさい。私の部屋のクローゼットの中に、身を隠してなさい。誰かがいいと言うまで、クローゼットの中でじっとしてなさい。
いいわね?」
「……。」
こくりと頷く。何が起きているか分からないけど、何かが起きている。
不安が顔に出ていたのだろう。だけどリズお姉様はにこりと笑う。
「大丈夫よ。何も心配いらないわ。」
「…はい、」
その笑顔に安堵した。
お姉様が大丈夫と言うのだから、きっと大丈夫。
そう思って、お姉様に言われた通りにお姉様の部屋へ向かおうとすれば、また悲鳴が聞こえた。
『きゃあああ!!オーナー!オーナー…!!
頭から血が…、誰か、誰かあああ!!』
「ふざけるなっ!!!
お前、俺が誰か分かっているのか!!
俺は最上階にいる美女を出せと言っているんだ!!
いるだろうが!!ここに呼べ!!俺の相手をさせろ!!」
「…っ、…貴方は、お客様ではありません!
即刻、お引き取り下さい…!!
僕の大事な子たちを、貴方のような男には相手をさせない!!」
「な…ん、だとお…!?
ただの娼館のオーナー風情が!!高位貴族である俺に舐めた口を聞くな!!」
「いいえっ、何度でも言います…!即刻、この月光館から出て行って下さいっ!!そして二度と立ち寄ることは許可しないっ!!
この月光館にいる娼婦の、誰もっ、貴方の相手はさせません!!…っ、う…、」
「オ、オーナー!駄目…!興奮しないで!頭から血が出てるんです…!!」
「……もう、もういい!!勝手にさせてもらう!!
所詮は娼館だ!潰すくらい簡単に出来る!!
俺を怒らせて只で済むと思うな!!」
恐ろしいと思った。
大きな声、いや、罵声だ。
今まで聞いたことのない、男の大きな、喧嘩腰の声が、その威圧的な声がこんなに恐ろしいと、初めて知った。
だけどそれ以上に、頭から血を流しているというオーナーや男の周りにいるであろう娼婦たちが心配で堪らなかった。
どうするべきか。目的は私みたいだ。行くべきだろうか、行って、収まるだろうか。
そうなると私はどうなるのだろうか。
だけど、下にいるオーナーが、皆が、私が、行くべき、だろう、
「サイカ。行っては駄目。駄目よ。」
「…でも、お姉様、」
「何のためにオーナーが体を張ってると思っているの。サイカを守る為よ。
この騒ぎだわ。外まで聞こえていれば、気付いた誰かが衛兵を呼んでくれるはずよ。それまで耐えるの。」
「…でも、…オーナーが、オーナーは、頭から血が、流れてるって、」
「ええ。そうみたいね。…でも、それでも行っては駄目。いい?さっき言った通り、私の部屋に行って。息を潜めて。物音は立てないで。私が下に行くわ。行って、宥めてみる。」
「……おねえ、さま、」
「大丈夫。言ったでしょう?伊達に長く高級娼婦をしてないの。
あの程度の相手、何でもないわ。ちっとも恐くない。」
さ、早く。と促され、言われた通りリズお姉様の部屋へ向かおうと思った。だけど。
「いるじゃないか」
私を見てにたりと卑しい顔で笑う男は、化け物そのものだった。
横に肥えた大きな体。オーナーの…いや、人の倍はあろうその巨体。
太く、汗でぬるりとした男の手が私の手を掴む。
「!!
お客様、無体はお止めくださいまし。
ここは娼館。か弱い女が多いのです。
相手が娼婦といえど、礼儀は弁えて下さい。」
「煩い女だ。お前には用はない。あるのは…この美女だけだ…。
ああ、美しい……近くで見れば益々美しいのが分かる…こんな美しい女が存在するのか…」
「…っ、や、止めて下さい、」
「おお、…声まで美しいな…!これは楽しみだ…!」
「いや…!」
「この…!サイカに触らないで!
嫌がる女を無理矢理ものにしようなど、男の風上にもおけないわ!この下衆男!!
今すぐ、その手を離して頂戴!」
「な…!?娼婦如きがっ!喧しいわっ!!」
お姉様が掴んでいた手を振り払う男。
その衝撃で、お姉様が廊下の壁に体を打ち付けた。
「リズお姉様!!」
「お前はこっちだ。…よしよし、可愛がってやろう。」
「な…!?は、離して下さい!お姉様が倒れているんです…!!何処か怪我を、」
「お前は優しい娘でもあるのだなぁ。
益々気に入ったぞ。」
倒れこんだお姉様を見向きもせずに私を簡単に抱き上げ、階段を上がって行く男。
向かっていたのは私の部屋だった。
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ふうふうと荒い息遣いが尚気持ち悪かった。
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重い。ものすごく、重い。重たくて苦しい。
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「…な、なら、その方たちを相手にすればいいじゃないですか、わ、態々、花街に来ることも、」
「何、たまには違う系統を楽しみたくもなる。
貴族令嬢ではなく、娼婦を。男とはそういうものだ。」
「や、…やめ、やだやだ!」
血走った気持ち悪い目付き。
卑しく笑う口許。
私の体を触る掌は酷くぬめっていて、それが余計に気持ち悪さを感じさせる。
叩いてもびくともしない体。
重い体が身動きを封じていて、逃げられない。
「ははは、こらこら、そう叩くんじゃない。全く、可愛い抵抗をして…堪らんなぁ!
安心しろ。すぐに気持ちよくしてやるから。」
「ひいっ!!いや!やだ、やだやだやだ!!
止めて、触らないで!誰か、誰か助けて!いやだ、無理、嫌だ!!」
「これ、大人しくしろっ」
「嫌、嫌!!嫌なの!止めて!!
私に触らないで!!帰って!帰ってよ!!出て行って!!」
「いい加減にしろ!」
バシン!と音がして…何が起こったのか分からなかった。
でも、その後にびりびりと痛み出した頬の感覚で理解した。
この男に私は、殴られたのだと。
「お前が悪いんだぞ?大人しくしないから。抵抗は可愛いものだが、過ぎればいかん。
なに、そう恐がる事はない。普段お前が相手をしている“醜い”奴らは経験も浅いだろうからな。録なセックスを経験してはおらんだろう?…可哀想になぁ。
そんな程度の知れたセックスしか経験がないのは可哀想だ。
俺が、男としての違いを見せてやろう。本当の男というものを教えてやろう。」
あああもう無理だ。無理だ無理だ無理だ…!!
何が本当の男だ!このオーク野郎!下衆野郎!!
か弱い女を殴りやがってえええ!!
お前なんかに抱かれたくもない!!
好き勝手にさせてたまるか!!
もう、恐怖より怒りの方が込み上げてきた瞬間だった。
恐いは恐い。でも、込み上げてくる怒りが、恐怖を凌駕していた。
「やだったらーーーーーーーー!!!」
「ぐっ…!!?」
私の渾身の一撃が下衆オーク野郎の眉間にクリティカルヒットした。
「しょ、娼婦を舐めるんじゃない!!
娼婦だって、相手を選ぶ権利がある!!
私は貴方を相手したくない!!無理!!絶対に、絶対に、ぜーーーーーったいに、無理!!」
「っ!?つ!!?」
「男としての違い!?本当の男!?おあいにく様よ!
貴方なんかよりずっと気持ちのいいセックスをしてくれてるって自信持って言える!!
どれだけ女性にモテているか知らないけど、馬鹿にしないで!!
この下衆オーク野郎がーーーー!!」
もう何が何だか。
こんな状態なのにシリアスに成りきれない私。
恐いけど。すごく恐いけど。
でも何かもう、訳が分からなくなってた。
ぼかぼかと顔中心に拳を炸裂させる私。
それなりに効いているようで、よろりとオーク野郎の体が私の下腹部から少し浮いた所を身を捩って抜け出したのだが……
「え???」
どさりとベッドから落ちた私は、立ち上がろうとしても足に力が入らない。
これでは逃げられない、そう思った時に助けはきた。
「サイカ!!」
「…サイカああ!!」
「…お、ねえ…さま…?」
「ああ、サイカ…サイカ、可哀想に…頬が腫れて…殴られたのね…!?」
「何を呆けているの!!早く捕まえて!!」
鎧を着た四人の男たちに取り押さえられる下衆男。
混乱して上手く頭が働いていないが…どうやら、助かったらしい。
「…オーナーは、…リズお姉様は、」
「大丈夫、二人とも無事よ…!
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「……そう、……そう、無事、なんだ…無事で、…よかった、ほんと、…よかった、」
何処を見ているのか、焦点が合わない。
ただただ呆然としていた。
「…サイカ、」
「……オーナー…?」
「うん。…酷い目に合ったね…ごめんね。」
「……大丈夫、です。…オーナーは、」
「僕も大丈夫。ちょっと大袈裟に血は流れたけど、大した怪我じゃないよ。
…マティアス様がね、衛兵の数を増やしてくれていたんだ…だから、すぐ衛兵を呼ぶことが出来た。」
「…マティアス様が、」
「でも、それでも…恐かったろう…?
もっと早く来れたらよかった…ごめんね、サイカ…」
「…はは、…平気、ほんと、…大丈夫です、全然、大丈夫、」
助かってからは不思議な程、何の感情もなかった。
本当に。
恐怖も怒りも、安堵もなく、私はただそういう玩具みたいに平気だ、大丈夫だとオーナーや皆に繰り返していた。
男が衛兵たちに部屋から連れて行かれるのを呆然と見送って、そのまま、ドアの先をずっと見ていた。
「ああ、…来てくれたみたいだ…。
サイカ、もう大丈夫だよ。もう、大丈夫だ。」
オーナーは何を言っているのだろう。
その言葉が理解出来ないでいると、ドアの先に現れたのはマティアス様だった。
「はぁ、はぁ、…サイカ!!」
ぎゅうう、と。マティアス様に力一杯抱き締められる。
汗の匂い。熱い体。
マティアス様に抱き締められ、マティアス様の体温と匂いに包まれて。
じわじわと、何かが込み上げてきた。
恐怖、怒り、苦痛。
そして、安堵。
「…あ、…ああ、…ああああああ…!!」
「いい、そのまま泣け、サイカ!」
「あああ、ああああああん、うあああああ…!!」
「そうだ、溜めるな、吐き出せ。
大丈夫だ…俺がいる。飲み込むな、全部吐き出せ、サイカ。」
「うああ、ひっく、あああああ、う、ひっ、うう、あああ、ああああああ…!
ま、…す、まてぃ、あす、うう、うううう…!」
「ここにいる。大丈夫だ。…もう、そなたを恐がらせるものはいない。…大丈夫だ。」
「まてぃあす、ひっく、まてぃあす、…まてぃあす、…まてぃあす…、おーくがぁ…!げすなおーくやろーがあぁぁ…!もう、もう、こわいいぃ…!!」
「…おーくとやらがよく分からんが……もう大丈夫だ。あの男には…然るべき処分を下す。
……ディーノ、暫く…キリムの所に居てくれ。」
「……そう、しよう…。」
泣きわめいて、泣きわめいて。泣き叫んで。
私の涙を、優しく唇で拭うマティアス様。
頭を撫でられ、涙を拭われ、優しいキスが落ちてくる。
安堵した。ほっとした。この腕の中は絶対に安全だと思った。
マティアス様の存在に、心の底から安堵した。
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