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37 ディーノ①
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『ディーノ…ごめんなさい…。』
今でもずっと覚えている。
彼女の声、彼女の笑顔、…最後に会った彼女の、…辛そうな顔を。
初恋だった。いや、今でも好きだ。
彼女が俺の婚約者になったと聞いた時、どれほど嬉しかったか。
それが、彼女の気持ちを一切考えず、独り善がりのものだったと気付くまで、俺はずっと、彼女を苦しめていたのだ。
勘違いをしていた。彼女もまた、俺を好いてくれているのだと。
彼女の俺への思いは、家族同様の気持ちだと知らずに。
今となってはもう、彼女との思い出全てが、俺の生涯の宝物だ。
「…怪我は、平気ですか。」
「ええ。頭を少し切っただけで…手当てをしてもらいましたから。
大袈裟に血が出ただけで、問題ありませんよ。」
「…大事にして下さい。
……しかし、あの子が心配ですね…。」
「…きっと大丈夫です。…サイカの側に、陛下がいて下さいますから。」
「………マティアス…。」
あの美しい子が、マティアスの初恋。
あれ程取り乱したマティアスを見るのは初めてのことだった。
“相談がある。都合のいい日があれば会いに来てほしい”
そんな言葉が書かれた手紙を貰い、すぐ日程を調整した。
会うのは久々だった。マティアスが皇帝になってから色々忙しいだろうと遠慮していたのだ。
年が離れているが、マティアスとの会話は俺の楽しみでもある。
マティアスが酒を飲める年になってからは特に。
最初は同情だった。
王太子として色んな場に出なければならないマティアスはどこにいても、そのパーティーに参加しても、いつも好奇の目に晒され、悪意ある言葉を囁かれている。
ひそひそと呟かれるそれは、一人二人であればまだいい。
だが、周りの殆どとなるとその声は響き、最早囁きではなくなる。
マティアスに近付く人間も殆どおらず、近付いたと思えば卑しい笑みを向けられていた。
まるで何も映っていない、そんな仄暗い目をしている子供を放っておく事が出来なかった。
『マティアス殿下、退屈であれば私と話をしませんか?』
『…話…?』
最初は警戒をしていたマティアス。
だが、その警戒心が解けると小さくではあるが笑うようにもなった。
じんと、嬉しさが胸に広がる。子供は可愛い。
殿下に失礼な事を…と、そう思いながらも目の前のマティアスを可愛い子だと思わずにいられなかった。
マティアスはとても利発な子供だった。
学ぶ意欲も強く、吸収力もあった。
『…何れ王になる。でも、今のままが不安だ。
父上は好きなようにしていいと言う。教師も…俺を褒めるだけしかしない。…俺が今欲しいのは、…厳しさだ。教えを乞える師だ。爺は厳しいし優しいけど、政務の事全てが分かるわけではない。』
『じゃあ、俺の領地に避暑に来て、見て、実践して学べばいい。
…俺は厳しいぞ?』
『本当か!?』
マティアスは知らない事を一つ一つ確実に知って、表に出ていなかった能力を目覚めさせていく。
大人顔負けの意見を述べるようにもなった。
この子はきっと立派な王になる。そう思う事が多々あった。
師弟の様な、友の様な。はたまた親子のような。
不思議な関係になった俺とマティアス。
マティアスの手を握り領地を案内すると、昔の思い出が甦って辛くもあった。
まだ、胸の中に残っている確かな思い。未練と、忘れられない未来への夢。
俺の手の中にあるマティアスの小さな温かい手が、その夢を思い出させる。
もう訪れない、幸せな夢を。
聡いマティアスは俺の複雑な気持ちにも気付いていただろう。
だが俺が話すまでの数年、何も聞かずにいてくれた。
『婚約者がな、いたんだ。』
『婚約者…』
『ああ。…幼い頃に家同士が決めた婚約者でな、…まあ、幼馴染みでもあった。』
『…へえ…。』
思いの全てをマティアスに話はしなかった。
ただ、婚約者が好きだった事と、家族が欲しかった事を伝えた。
嘘ではないがそれが全てではなかった。
全ての思いをマティアスに話してしまえば……この思い出も手離さなければならないと、何故か思ったからだ。
彼女、ルイーザ・マクシムは俺の幼馴染みだった。出会いは俺が六つ、ルイーザが四つの時だ。
伯爵家の令嬢だったルイーザは毎年俺のいる侯爵領へ、母方の祖父母に会いに来ていた。
当時も醜い容姿から一人でいた俺に、“何をしているの?”と恐れる事もなく話しかけてくれたのだ。
不思議だった。どうしてこの子は普通に話しかけてくれるのだろうと、不思議な気持ちだったが…理由は直ぐに分かる。
ルイーザの兄が、“醜い”容姿だったのだ。
『ルイーザ…その子は…誰だい?』
『あ、おとうさま、おかあさま!それからおにいさま!
おともだちになったディーノよ!あついから、おうちであそびましょうって、ごしょうたいしたの!』
『初めまして。ディーノ・クライスと申します。』
『…ク、クライス…!?』
『クライス侯爵家の…!?』
『ルイーザ!失礼な事はしなかっただろうね!?』
『しつれいなことなんてしてないわ!おともだちだもの!ね?ディーノ!』
『うん。』
それから俺の家にルイーザの家族が挨拶に来て、交友が始まった。
マクシム家は一年に一度、一月の間必ず侯爵領へ訪れ、俺とルイーザはその一月の殆どを一緒に過ごした。
たまにルイーザの兄、ルースを含めた三人で。
どちらかの家で晩餐をする事も度々あった。
『おにいさまはね、すごいのよ!』
『どう凄いんだ?』
『まずあしがはやいの!あと、あたまもいいの!』
『…俺も、足は早いし、頭もいいよ。』
『そうなの?みせて!あそこからここまで、はしって!』
楽しかった。一月があっという間に感じた。
そしてルイーザに会って三年が経ったある日、俺とルイーザの婚約が決まった。
嬉しかった。とても。当時のルイーザも嬉しそうだったのだ。
『じゃあ、結婚したら、ディーノと毎日遊べるの!?』
『うん。そうだね。』
『わあ!楽しみ!』
まだ七つの子供だったルイーザは結婚というものの意味を深く分かっていなかった。
そして俺も、俺との婚約話に嬉しそうにしてくれたルイーザがまだ子供だという事をすっかり頭から忘れ、喜んだ。
ルイーザが婚約者になってから、色んな事を話した。
将来の夢、家族の事。したい事やりたい事。
『お父様とお母様はとっても仲がいいの。
だから私も、お父様やお母様みたいな夫婦になりたいわ!』
『うん、それがいい。
父上と母上は……仲は悪くないけど、良くもない。
でも、ルイーザとなら、素敵な夫婦になれる。』
『そうなの…?仲良さそうに見えるわ。』
『人前でだけだよ。
人がいなくなったら、話もしない。俺のことも、どうでもいい人たちなんだ。
だから、ルイーザの家族に憧れるよ。皆、仲がいい。幸せそうだ。』
『ええ!幸せなの!私、お父様もお母様も、お兄様も大好き!
あ、勿論ディーノも大好きよ!』
『…嬉しいな…俺も、ルイーザが大好きだ。』
毎日が輝いていた。
一緒に年を取って、絆が深まって。
周りから嫌悪されていようが、恐がられようが、何とも思わなかった。
俺にはルイーザがいる。そのことが幸せだった。
俺たちの結婚はルイーザが二十歳になってからと婚約中に取り決められ、その日が来るのを毎日毎日夢に見た。
ルイーザと結婚して、幸せな家庭を作るのだと、そう疑わず生きていた俺は、成長していくルイーザがどんな気持ちで過ごしていたか知らずにいた。
いつからかルイーザは暗い表情をする事が多くなった。
どうしたのか聞いても何でもないのと返事が返ってくる。
何かあったらすぐ言って欲しいと言えば、切ない笑顔が返ってくる。
『家族になるのが待ち遠しい。
きっと、君の笑顔や子供たちの笑顔で溢れた、幸せな生活になるだろうな。』
『…ええ、…そうね…。』
幸せな家庭に憧れていた。
冷めた両親は子供に見向きはしなかった。
他人の前でだけ、仲のいい家族になって、終わればもう関係ないといった様子だった。
笑い声など一切ない。談笑もない。今日は何をしただとか、今度これをしようなどそんな会話も一切ない。
一緒に食事をする事も殆どない。
一緒に食事をしても、会話もない。
そんな家庭ではなく、色んな感情に満ちた家族が欲しい。
笑い、時に喧嘩し、怒り、泣き、やっぱり笑う。そんな家庭に酷く憧れていた。
可愛い子供たちに囲まれ、お父様お父様と寄られ、大切に、大切に育てていきたい。
ルイーザと二人で、そんな、幸せな家庭を作っていきたいと…そう、夢ばかり見ていたのだ。あの日まで。
『…ディーノ…ごめんなさい…。』
俺が二十一、ルイーザが十九の時だった。
今にも泣き出しそうな顔で俺に謝るルイーザ。
どうして謝る。何があった。言い知れない不安が胸に広がった。
『…ごめんなさい、ごめんなさい…』
『な、どうした、何故、謝る…』
『ディーノの事は、今でも好きよ…だけど、…だけど、ディーノは家族なの、…お兄様みたいな、存在なの…』
『…え……?』
『…恋じゃないの、家族の情なの……ごめんなさい、ディーノ、ごめんなさい…』
呆然と過ごした夜。
そしてその翌日、ルイーザは家を出た。
俺との婚約中に出会ったという男の元へ、その身一つで家を出たのだ。
『すまない、すまない…ディーノ、』
『…ルース、』
『妹の事なのに、気付かなかった俺たちが悪い…!
もっと早く気付いていれば…、でも、でも、許してやってほしい…!
あの子のした事はマクシム家が生涯償う…!!』
俺や俺の両親に謝り倒すマクシム家。
両親はマクシム家に恥を知れと罵り、莫大な慰謝料を請求していた。
俺は何も考えられず、ただただどうしてこんな事にと、毎日を脱け殻のように過ごしていた。
その一年後、両親が乗っていた馬車が事故に会い、二人共他界。
侯爵位を継いだ俺は仕事の毎日を送っていたある日、ある書面を見つけてしまう。
政務室の机の引き出しにあった、俺とルイーザの婚約書。それから、マクシム家が支払う慰謝料が書かれた書面だった。
考えた。思い出したくなかったけれど、考えた。
楽しかったのだ。毎日毎日。輝いていた。
俺の人生はルイーザだった。ルイーザだけしかなかった。
幸せだった。とても、幸せな夢を見させてもらった。
だが俺の、その幸せな夢は、ルイーザを苦しめていたのだとそう気付いた。
言いづらかっただろう。苦しかっただろう。
何が、“何かあればすぐ言ってくれ”だ。言えずにいさせたのは俺だ。
自分の幸せな未来を、夢をルイーザに語り続けた。
君と一緒になれたら俺は幸せだと。そう、呪いの様に言い続け、ルイーザを苦しめた。
俺の思いを知っていたルイーザは、言いたくとも言えなかったに違いない。
そう思うと自分の馬鹿さ加減に涙が出た。
この世で一番、幸せにしたいと思っていた女を、その幸せから一番、遠退けていたのだ。俺は。
『…久しぶりだな、ルース。』
『…ああ。…元気…では、ないよな。』
『…そうだな。…だが、色々と考える事は出来た。』
『…?』
『…マクシム家が支払った慰謝料の半分を返す。』
『……は!?い、いや、それは駄目だろう!?』
『…ルイーザが幸せなら、俺はそれでいい。
好きな女の幸せを願えない男には、なりたくないんだ。
俺はルイーザを苦しめた。俺こそルイーザに謝らねばならない。』
『…そんな、そんなことは、…ディーノ……ディーノ、ディーノ…!すまない、すまな、…本当に、すまない、…俺は、俺はっ、…すまない、ディーノ…!』
『泣くな。男がみっともない。
…もし、もしも、ルイーザが戻って来たら。今まで通り迎えてやってくれ。
俺に会わせなくてもいい。…ひもじいと帰ってきたら、温かい食事を取らせてやってくれ。寒いと帰ってきたら、温かいベッドで眠らせてやってくれ。
傷付いて帰ってきたら…優しく、迎えてやってくれ。』
『…ああ、…ああ…!そうする、そう、するとも…!』
ああだけど。思っているのは自由だろう?
俺がルイーザ、君を思う気持ちだけは…そのままでいてもいいだろう?
ずっとずっと、好きでいてもいいだろう?
君と家族になりたかった。
君を妻にしたかった。
君と、君の子供に囲まれ、生涯を終えたかった。
その幸せを、いつも夢見ていた。
今更他の女など必要ない。
俺は、ずっとずっとルイーザ、君が好きなんだ。
もう四十六になった。体も若い頃と比べ、老いを感じるようになった。
それでも変わらないのは、ルイーザへの思いだった。
『…養子?』
『ああ。…ディーノに、養子にしてもらいたい女性がいる。』
『……詳しく聞こう…。』
『…彼女の名前はサイカ。月光館という娼館で、娼婦をしている。』
『…娼婦!?』
『七ヶ月と少し前に売られたらしい。
…だが、恐らく元々…良家の令嬢だったかも知れない。その、可能性もある。』
『…は…?』
『仕草や礼節、考え…教養。節々に高等教育を受けていた感じもある。
月光館のオーナー…名をキリムと言うのだが…キリムも言っていた。
サイカは売られた時ですら、手にもどこにも、傷一つなかったと。』
『…没落した家の令嬢か…?』
『分からない。サイカに関しては調べても情報が出なかった。
黒髪、黒い瞳…そして、とても美しい女性だ。
目立つからある程度のことは分かるかと思っていたが…不思議な程サイカの情報が出てこない。』
『……ふむ、……養子、ね…。』
『…サイカを俺の妃にしたいと考えている。
唯一の妃にしたいとそう思っている。
だが…娼婦であれば…妾が精々といった所だ…。愛人になぞさせたくない。側妃でも駄目なんだ。』
『…成る程…それで、俺か。』
『…ああ。直ぐに返事の出ない事を言っているのも分かっている。
しかし…俺は、サイカ以外を妃にしたくない。サイカを妃にしたい。』
『……そこまで…』
正直に言うとだ。
正直に言うと、考えあぐねた。気持ちの問題で、だ。
俺はマティアスに婚約者が好きだった事よりももう家庭を持つ事が出来ないのが一番堪えたと言った覚えがある。
その通りだ。偽りはない。
だが、付け加えれば今でも、ルイーザが好きだ。
ルイーザとの家庭を持つ事が出来ない、それが辛い。
彼女との子が欲しかった。
彼女と、可愛い子供たちに囲まれるのを夢見ていたのだ。
『…難しいな…。…だが、お前がそこまで切望しているのだから…考えないわけにはいかない…。
俺は、お前が大事だからな。勿論…領地も大事だが。』
『…ディーノ…。』
師弟の様な、友の様な、はたまた親子のような不思議な関係。
俺はマティアスが大切だ。教え子でもあり、友人でもあり……そして、子のように大切に思う。
今でこそ生意気だが。…小さなマティアスは可愛い子だった。
傷付いていた俺を、その小さな存在が生かしてくれたと言ってもいい。
ルイーザだけだった世界は、マティアスという小さな存在も増え、日々穏やかに、時に目まぐるしく変化していった。
『陛下、談笑中の所失礼致します…!』
『爺?どうした。』
『衛兵から報告が御座いました…!』
瞬間、マティアスが立ち上がる。
顔は青ざめ脇目も振らずに部屋から出ていったマティアスにただ事ではないと追いかける。
自ら馬の手綱を握り向かった先は花街だった。
「…これは一体…、何があったというんだ…」
廊下は点々とした血で汚れていて床に座り込む女たちは泣いている。
その異様な状況を見てマティアスは一切の表情を無くしていた。
「…サイカ、……サイカは!!サイカは何処だ!!」
「……う、うえ、……部屋、…部屋に、」
まともに話す事が出来ない女の言葉を聞き、マティアスは階段を駆け上がる。
強い音を立てながら、苛立ちを隠そうともせず。
年を取って落ちた体力ではマティアスを追いかけるのが精一杯だった。
息が切れ、ぜいぜいと呼吸も定まらないままマティアスを追いかけると…
口許に血を滲ませる程赤く腫れた頬。
呆然と焦点の合っていない…美しい子の元へ、マティアスは駆け付け力一杯抱き締めていた。
その子の、じわじわと目から溢れていく涙。
堰を切ったように、子供のように泣きじゃくり泣き叫ぶその子を、マティアスは安堵させるように労る。
「そうだ、溜めるな、吐き出せ。
大丈夫だ…俺がいる。飲み込むな、全部吐き出せ、サイカ。」
労りながら、この、卑劣な出来事をその心に残さないように。
残させないように全て吐き出させようとしていた。
「ここにいる。大丈夫だ。…もう、そなたを恐がらせるものはいない。…大丈夫だ。」
「まてぃあす、ひっく、まてぃあす、…まてぃあす、…まてぃあす…、おーくがぁ…!げすなおーくやろーがあぁぁ…!もう、もう、こわいいぃ…!!」
「…おーくとやらがよく分からんが……もう大丈夫だ。あの男には…然るべき処分を下す。
……ディーノ、暫く…キリムの所に居てくれ。」
「……そう、しよう…。」
そして今、俺はこの娼館のオーナーという男と対面している。
このキリムという男は…何処かで会った事がある…そんな気がするのだが思い出せない。
「…休まれた方がいいのでは?」
「…いえ、そういうわけにいきません。
…女たちも…不安でしょうから。
…一番は、サイカですけどね…。」
「…ああ……卑劣極まりないな。…女をぶつなど、あってはいけない。
まして…無理矢理…」
あの子は何処か、ルイーザに似ている。
容姿は全く似ていない。
だけどあの泣き顔が、ルイーザの泣き顔と重なった。
感情を隠さず、心のままにルイーザも泣く子だった。
喜び、怒り、悲しみ。その全て、心のままに表に出す子供だった。
そういう所が、似ていると思った。
「…全く。暴れてくれたから…修復しなくちゃいけない。
…サイカの部屋も…あそこに居たら思い出すだろうし……ああ、いっそ移転すればいいか。
人も増えたことだし…もっと広い所にして…うん、そうしようか。」
「……。」
「ええと、クライス侯爵閣下…でお間違え御座いませんよね。
数回、お会いした事があります…」
「…やはりか。…俺も…何処かで会った気がしていた…。」
「と言っても…もう、ずっと昔の話ですから。
…こう名乗った方がいいでしょう。…この月光館のオーナーになる前は、キリム・バーンスでした。」
「!!…成る程、子爵だったか。…夜会では何度か話したな。」
「ええ。…懐かしい話です。
…それで、クライス侯爵閣下、」
「閣下は止めろ。むず痒くなる。」
「ではクライス侯爵……出来れば…で結構で御座います。
暫く…いえ、店を移転する間…あの子を、サイカを守ってやってくれませんか…?」
「…?」
「サイカには身寄りがないのです。
あの子を買い取ったのは、金貨八枚でした。
その借金はサイカの水揚げで当に返上されています。」
「…早いな。…マティアスか?」
「ええ。
それに…あの容姿ですからね。…だけど、サイカはここの暮らしを気に入ってくれて、もう借金はないけど、望んでこの月光館にいたんです。
ここを、家のように思っていると言ってくれました。
僕や皆を、家族と思っていると…。
だから僕は、あの子が望むならいつまでもいて欲しい。
自らここを出ようと思うその時まで。
あの子は底抜けに優しくて、誰かを気遣って、皆に元気を与えてくれて、本当に、いい子なんです。」
「……そうか。」
そうだろうな、と。何故か思った。
何も知らないのに、何故かそう感じた。
あのマティアスがあれ程大切にしている子だ。マティアスが恋をしている子だ。
「移転の間、あの部屋にいさせるのは酷です。
大丈夫だと言っても、きっと言葉通りじゃない。
あの部屋はこれから…サイカにとって恐怖でしかないでしょう。
強い子だけど、弱い子です。
明るくしていても、それが、僕たちを心配させまいと振る舞うから…そうなるでしょう。」
「……そうか。」
「少しの間で結構です。
あの子はとても美しい。優しく、明るく…誰もを惹き付ける。
今回のことで…事実を含んだ、色々な憶測が飛ぶでしょう。
店でサイカを守れるように、その準備が出来るまでの間で結構です。
陛下は王宮へと言ってくれるでしょう。でも、それはいけません。
サイカは娼婦。美しいけれど、娼婦なのです。」
「…ああ…どんな目を向けられるか…想像はつく。」
「ええ。クライス侯爵…どうか頼みます。
あの子を、少しの間守ってやってください。
好奇の目に晒されることなく、暫くの間、その心を休ませてあげられる環境に…侯爵の庇護の元で……厚かましいお願いと、重々承知しております…ですがど「もう結構。」
「…侯爵…」
「請け負った。どうか、安心してほしい。
俺の領地で養生させ、その間、何者からも守ると誓おう。」
「!!…ありがとう、御座います……感謝致します…!!」
思いもよらないこの出会いが、俺を幸せへと導いていく。
そのことを後々知ることになる。
今でもずっと覚えている。
彼女の声、彼女の笑顔、…最後に会った彼女の、…辛そうな顔を。
初恋だった。いや、今でも好きだ。
彼女が俺の婚約者になったと聞いた時、どれほど嬉しかったか。
それが、彼女の気持ちを一切考えず、独り善がりのものだったと気付くまで、俺はずっと、彼女を苦しめていたのだ。
勘違いをしていた。彼女もまた、俺を好いてくれているのだと。
彼女の俺への思いは、家族同様の気持ちだと知らずに。
今となってはもう、彼女との思い出全てが、俺の生涯の宝物だ。
「…怪我は、平気ですか。」
「ええ。頭を少し切っただけで…手当てをしてもらいましたから。
大袈裟に血が出ただけで、問題ありませんよ。」
「…大事にして下さい。
……しかし、あの子が心配ですね…。」
「…きっと大丈夫です。…サイカの側に、陛下がいて下さいますから。」
「………マティアス…。」
あの美しい子が、マティアスの初恋。
あれ程取り乱したマティアスを見るのは初めてのことだった。
“相談がある。都合のいい日があれば会いに来てほしい”
そんな言葉が書かれた手紙を貰い、すぐ日程を調整した。
会うのは久々だった。マティアスが皇帝になってから色々忙しいだろうと遠慮していたのだ。
年が離れているが、マティアスとの会話は俺の楽しみでもある。
マティアスが酒を飲める年になってからは特に。
最初は同情だった。
王太子として色んな場に出なければならないマティアスはどこにいても、そのパーティーに参加しても、いつも好奇の目に晒され、悪意ある言葉を囁かれている。
ひそひそと呟かれるそれは、一人二人であればまだいい。
だが、周りの殆どとなるとその声は響き、最早囁きではなくなる。
マティアスに近付く人間も殆どおらず、近付いたと思えば卑しい笑みを向けられていた。
まるで何も映っていない、そんな仄暗い目をしている子供を放っておく事が出来なかった。
『マティアス殿下、退屈であれば私と話をしませんか?』
『…話…?』
最初は警戒をしていたマティアス。
だが、その警戒心が解けると小さくではあるが笑うようにもなった。
じんと、嬉しさが胸に広がる。子供は可愛い。
殿下に失礼な事を…と、そう思いながらも目の前のマティアスを可愛い子だと思わずにいられなかった。
マティアスはとても利発な子供だった。
学ぶ意欲も強く、吸収力もあった。
『…何れ王になる。でも、今のままが不安だ。
父上は好きなようにしていいと言う。教師も…俺を褒めるだけしかしない。…俺が今欲しいのは、…厳しさだ。教えを乞える師だ。爺は厳しいし優しいけど、政務の事全てが分かるわけではない。』
『じゃあ、俺の領地に避暑に来て、見て、実践して学べばいい。
…俺は厳しいぞ?』
『本当か!?』
マティアスは知らない事を一つ一つ確実に知って、表に出ていなかった能力を目覚めさせていく。
大人顔負けの意見を述べるようにもなった。
この子はきっと立派な王になる。そう思う事が多々あった。
師弟の様な、友の様な。はたまた親子のような。
不思議な関係になった俺とマティアス。
マティアスの手を握り領地を案内すると、昔の思い出が甦って辛くもあった。
まだ、胸の中に残っている確かな思い。未練と、忘れられない未来への夢。
俺の手の中にあるマティアスの小さな温かい手が、その夢を思い出させる。
もう訪れない、幸せな夢を。
聡いマティアスは俺の複雑な気持ちにも気付いていただろう。
だが俺が話すまでの数年、何も聞かずにいてくれた。
『婚約者がな、いたんだ。』
『婚約者…』
『ああ。…幼い頃に家同士が決めた婚約者でな、…まあ、幼馴染みでもあった。』
『…へえ…。』
思いの全てをマティアスに話はしなかった。
ただ、婚約者が好きだった事と、家族が欲しかった事を伝えた。
嘘ではないがそれが全てではなかった。
全ての思いをマティアスに話してしまえば……この思い出も手離さなければならないと、何故か思ったからだ。
彼女、ルイーザ・マクシムは俺の幼馴染みだった。出会いは俺が六つ、ルイーザが四つの時だ。
伯爵家の令嬢だったルイーザは毎年俺のいる侯爵領へ、母方の祖父母に会いに来ていた。
当時も醜い容姿から一人でいた俺に、“何をしているの?”と恐れる事もなく話しかけてくれたのだ。
不思議だった。どうしてこの子は普通に話しかけてくれるのだろうと、不思議な気持ちだったが…理由は直ぐに分かる。
ルイーザの兄が、“醜い”容姿だったのだ。
『ルイーザ…その子は…誰だい?』
『あ、おとうさま、おかあさま!それからおにいさま!
おともだちになったディーノよ!あついから、おうちであそびましょうって、ごしょうたいしたの!』
『初めまして。ディーノ・クライスと申します。』
『…ク、クライス…!?』
『クライス侯爵家の…!?』
『ルイーザ!失礼な事はしなかっただろうね!?』
『しつれいなことなんてしてないわ!おともだちだもの!ね?ディーノ!』
『うん。』
それから俺の家にルイーザの家族が挨拶に来て、交友が始まった。
マクシム家は一年に一度、一月の間必ず侯爵領へ訪れ、俺とルイーザはその一月の殆どを一緒に過ごした。
たまにルイーザの兄、ルースを含めた三人で。
どちらかの家で晩餐をする事も度々あった。
『おにいさまはね、すごいのよ!』
『どう凄いんだ?』
『まずあしがはやいの!あと、あたまもいいの!』
『…俺も、足は早いし、頭もいいよ。』
『そうなの?みせて!あそこからここまで、はしって!』
楽しかった。一月があっという間に感じた。
そしてルイーザに会って三年が経ったある日、俺とルイーザの婚約が決まった。
嬉しかった。とても。当時のルイーザも嬉しそうだったのだ。
『じゃあ、結婚したら、ディーノと毎日遊べるの!?』
『うん。そうだね。』
『わあ!楽しみ!』
まだ七つの子供だったルイーザは結婚というものの意味を深く分かっていなかった。
そして俺も、俺との婚約話に嬉しそうにしてくれたルイーザがまだ子供だという事をすっかり頭から忘れ、喜んだ。
ルイーザが婚約者になってから、色んな事を話した。
将来の夢、家族の事。したい事やりたい事。
『お父様とお母様はとっても仲がいいの。
だから私も、お父様やお母様みたいな夫婦になりたいわ!』
『うん、それがいい。
父上と母上は……仲は悪くないけど、良くもない。
でも、ルイーザとなら、素敵な夫婦になれる。』
『そうなの…?仲良さそうに見えるわ。』
『人前でだけだよ。
人がいなくなったら、話もしない。俺のことも、どうでもいい人たちなんだ。
だから、ルイーザの家族に憧れるよ。皆、仲がいい。幸せそうだ。』
『ええ!幸せなの!私、お父様もお母様も、お兄様も大好き!
あ、勿論ディーノも大好きよ!』
『…嬉しいな…俺も、ルイーザが大好きだ。』
毎日が輝いていた。
一緒に年を取って、絆が深まって。
周りから嫌悪されていようが、恐がられようが、何とも思わなかった。
俺にはルイーザがいる。そのことが幸せだった。
俺たちの結婚はルイーザが二十歳になってからと婚約中に取り決められ、その日が来るのを毎日毎日夢に見た。
ルイーザと結婚して、幸せな家庭を作るのだと、そう疑わず生きていた俺は、成長していくルイーザがどんな気持ちで過ごしていたか知らずにいた。
いつからかルイーザは暗い表情をする事が多くなった。
どうしたのか聞いても何でもないのと返事が返ってくる。
何かあったらすぐ言って欲しいと言えば、切ない笑顔が返ってくる。
『家族になるのが待ち遠しい。
きっと、君の笑顔や子供たちの笑顔で溢れた、幸せな生活になるだろうな。』
『…ええ、…そうね…。』
幸せな家庭に憧れていた。
冷めた両親は子供に見向きはしなかった。
他人の前でだけ、仲のいい家族になって、終わればもう関係ないといった様子だった。
笑い声など一切ない。談笑もない。今日は何をしただとか、今度これをしようなどそんな会話も一切ない。
一緒に食事をする事も殆どない。
一緒に食事をしても、会話もない。
そんな家庭ではなく、色んな感情に満ちた家族が欲しい。
笑い、時に喧嘩し、怒り、泣き、やっぱり笑う。そんな家庭に酷く憧れていた。
可愛い子供たちに囲まれ、お父様お父様と寄られ、大切に、大切に育てていきたい。
ルイーザと二人で、そんな、幸せな家庭を作っていきたいと…そう、夢ばかり見ていたのだ。あの日まで。
『…ディーノ…ごめんなさい…。』
俺が二十一、ルイーザが十九の時だった。
今にも泣き出しそうな顔で俺に謝るルイーザ。
どうして謝る。何があった。言い知れない不安が胸に広がった。
『…ごめんなさい、ごめんなさい…』
『な、どうした、何故、謝る…』
『ディーノの事は、今でも好きよ…だけど、…だけど、ディーノは家族なの、…お兄様みたいな、存在なの…』
『…え……?』
『…恋じゃないの、家族の情なの……ごめんなさい、ディーノ、ごめんなさい…』
呆然と過ごした夜。
そしてその翌日、ルイーザは家を出た。
俺との婚約中に出会ったという男の元へ、その身一つで家を出たのだ。
『すまない、すまない…ディーノ、』
『…ルース、』
『妹の事なのに、気付かなかった俺たちが悪い…!
もっと早く気付いていれば…、でも、でも、許してやってほしい…!
あの子のした事はマクシム家が生涯償う…!!』
俺や俺の両親に謝り倒すマクシム家。
両親はマクシム家に恥を知れと罵り、莫大な慰謝料を請求していた。
俺は何も考えられず、ただただどうしてこんな事にと、毎日を脱け殻のように過ごしていた。
その一年後、両親が乗っていた馬車が事故に会い、二人共他界。
侯爵位を継いだ俺は仕事の毎日を送っていたある日、ある書面を見つけてしまう。
政務室の机の引き出しにあった、俺とルイーザの婚約書。それから、マクシム家が支払う慰謝料が書かれた書面だった。
考えた。思い出したくなかったけれど、考えた。
楽しかったのだ。毎日毎日。輝いていた。
俺の人生はルイーザだった。ルイーザだけしかなかった。
幸せだった。とても、幸せな夢を見させてもらった。
だが俺の、その幸せな夢は、ルイーザを苦しめていたのだとそう気付いた。
言いづらかっただろう。苦しかっただろう。
何が、“何かあればすぐ言ってくれ”だ。言えずにいさせたのは俺だ。
自分の幸せな未来を、夢をルイーザに語り続けた。
君と一緒になれたら俺は幸せだと。そう、呪いの様に言い続け、ルイーザを苦しめた。
俺の思いを知っていたルイーザは、言いたくとも言えなかったに違いない。
そう思うと自分の馬鹿さ加減に涙が出た。
この世で一番、幸せにしたいと思っていた女を、その幸せから一番、遠退けていたのだ。俺は。
『…久しぶりだな、ルース。』
『…ああ。…元気…では、ないよな。』
『…そうだな。…だが、色々と考える事は出来た。』
『…?』
『…マクシム家が支払った慰謝料の半分を返す。』
『……は!?い、いや、それは駄目だろう!?』
『…ルイーザが幸せなら、俺はそれでいい。
好きな女の幸せを願えない男には、なりたくないんだ。
俺はルイーザを苦しめた。俺こそルイーザに謝らねばならない。』
『…そんな、そんなことは、…ディーノ……ディーノ、ディーノ…!すまない、すまな、…本当に、すまない、…俺は、俺はっ、…すまない、ディーノ…!』
『泣くな。男がみっともない。
…もし、もしも、ルイーザが戻って来たら。今まで通り迎えてやってくれ。
俺に会わせなくてもいい。…ひもじいと帰ってきたら、温かい食事を取らせてやってくれ。寒いと帰ってきたら、温かいベッドで眠らせてやってくれ。
傷付いて帰ってきたら…優しく、迎えてやってくれ。』
『…ああ、…ああ…!そうする、そう、するとも…!』
ああだけど。思っているのは自由だろう?
俺がルイーザ、君を思う気持ちだけは…そのままでいてもいいだろう?
ずっとずっと、好きでいてもいいだろう?
君と家族になりたかった。
君を妻にしたかった。
君と、君の子供に囲まれ、生涯を終えたかった。
その幸せを、いつも夢見ていた。
今更他の女など必要ない。
俺は、ずっとずっとルイーザ、君が好きなんだ。
もう四十六になった。体も若い頃と比べ、老いを感じるようになった。
それでも変わらないのは、ルイーザへの思いだった。
『…養子?』
『ああ。…ディーノに、養子にしてもらいたい女性がいる。』
『……詳しく聞こう…。』
『…彼女の名前はサイカ。月光館という娼館で、娼婦をしている。』
『…娼婦!?』
『七ヶ月と少し前に売られたらしい。
…だが、恐らく元々…良家の令嬢だったかも知れない。その、可能性もある。』
『…は…?』
『仕草や礼節、考え…教養。節々に高等教育を受けていた感じもある。
月光館のオーナー…名をキリムと言うのだが…キリムも言っていた。
サイカは売られた時ですら、手にもどこにも、傷一つなかったと。』
『…没落した家の令嬢か…?』
『分からない。サイカに関しては調べても情報が出なかった。
黒髪、黒い瞳…そして、とても美しい女性だ。
目立つからある程度のことは分かるかと思っていたが…不思議な程サイカの情報が出てこない。』
『……ふむ、……養子、ね…。』
『…サイカを俺の妃にしたいと考えている。
唯一の妃にしたいとそう思っている。
だが…娼婦であれば…妾が精々といった所だ…。愛人になぞさせたくない。側妃でも駄目なんだ。』
『…成る程…それで、俺か。』
『…ああ。直ぐに返事の出ない事を言っているのも分かっている。
しかし…俺は、サイカ以外を妃にしたくない。サイカを妃にしたい。』
『……そこまで…』
正直に言うとだ。
正直に言うと、考えあぐねた。気持ちの問題で、だ。
俺はマティアスに婚約者が好きだった事よりももう家庭を持つ事が出来ないのが一番堪えたと言った覚えがある。
その通りだ。偽りはない。
だが、付け加えれば今でも、ルイーザが好きだ。
ルイーザとの家庭を持つ事が出来ない、それが辛い。
彼女との子が欲しかった。
彼女と、可愛い子供たちに囲まれるのを夢見ていたのだ。
『…難しいな…。…だが、お前がそこまで切望しているのだから…考えないわけにはいかない…。
俺は、お前が大事だからな。勿論…領地も大事だが。』
『…ディーノ…。』
師弟の様な、友の様な、はたまた親子のような不思議な関係。
俺はマティアスが大切だ。教え子でもあり、友人でもあり……そして、子のように大切に思う。
今でこそ生意気だが。…小さなマティアスは可愛い子だった。
傷付いていた俺を、その小さな存在が生かしてくれたと言ってもいい。
ルイーザだけだった世界は、マティアスという小さな存在も増え、日々穏やかに、時に目まぐるしく変化していった。
『陛下、談笑中の所失礼致します…!』
『爺?どうした。』
『衛兵から報告が御座いました…!』
瞬間、マティアスが立ち上がる。
顔は青ざめ脇目も振らずに部屋から出ていったマティアスにただ事ではないと追いかける。
自ら馬の手綱を握り向かった先は花街だった。
「…これは一体…、何があったというんだ…」
廊下は点々とした血で汚れていて床に座り込む女たちは泣いている。
その異様な状況を見てマティアスは一切の表情を無くしていた。
「…サイカ、……サイカは!!サイカは何処だ!!」
「……う、うえ、……部屋、…部屋に、」
まともに話す事が出来ない女の言葉を聞き、マティアスは階段を駆け上がる。
強い音を立てながら、苛立ちを隠そうともせず。
年を取って落ちた体力ではマティアスを追いかけるのが精一杯だった。
息が切れ、ぜいぜいと呼吸も定まらないままマティアスを追いかけると…
口許に血を滲ませる程赤く腫れた頬。
呆然と焦点の合っていない…美しい子の元へ、マティアスは駆け付け力一杯抱き締めていた。
その子の、じわじわと目から溢れていく涙。
堰を切ったように、子供のように泣きじゃくり泣き叫ぶその子を、マティアスは安堵させるように労る。
「そうだ、溜めるな、吐き出せ。
大丈夫だ…俺がいる。飲み込むな、全部吐き出せ、サイカ。」
労りながら、この、卑劣な出来事をその心に残さないように。
残させないように全て吐き出させようとしていた。
「ここにいる。大丈夫だ。…もう、そなたを恐がらせるものはいない。…大丈夫だ。」
「まてぃあす、ひっく、まてぃあす、…まてぃあす、…まてぃあす…、おーくがぁ…!げすなおーくやろーがあぁぁ…!もう、もう、こわいいぃ…!!」
「…おーくとやらがよく分からんが……もう大丈夫だ。あの男には…然るべき処分を下す。
……ディーノ、暫く…キリムの所に居てくれ。」
「……そう、しよう…。」
そして今、俺はこの娼館のオーナーという男と対面している。
このキリムという男は…何処かで会った事がある…そんな気がするのだが思い出せない。
「…休まれた方がいいのでは?」
「…いえ、そういうわけにいきません。
…女たちも…不安でしょうから。
…一番は、サイカですけどね…。」
「…ああ……卑劣極まりないな。…女をぶつなど、あってはいけない。
まして…無理矢理…」
あの子は何処か、ルイーザに似ている。
容姿は全く似ていない。
だけどあの泣き顔が、ルイーザの泣き顔と重なった。
感情を隠さず、心のままにルイーザも泣く子だった。
喜び、怒り、悲しみ。その全て、心のままに表に出す子供だった。
そういう所が、似ていると思った。
「…全く。暴れてくれたから…修復しなくちゃいけない。
…サイカの部屋も…あそこに居たら思い出すだろうし……ああ、いっそ移転すればいいか。
人も増えたことだし…もっと広い所にして…うん、そうしようか。」
「……。」
「ええと、クライス侯爵閣下…でお間違え御座いませんよね。
数回、お会いした事があります…」
「…やはりか。…俺も…何処かで会った気がしていた…。」
「と言っても…もう、ずっと昔の話ですから。
…こう名乗った方がいいでしょう。…この月光館のオーナーになる前は、キリム・バーンスでした。」
「!!…成る程、子爵だったか。…夜会では何度か話したな。」
「ええ。…懐かしい話です。
…それで、クライス侯爵閣下、」
「閣下は止めろ。むず痒くなる。」
「ではクライス侯爵……出来れば…で結構で御座います。
暫く…いえ、店を移転する間…あの子を、サイカを守ってやってくれませんか…?」
「…?」
「サイカには身寄りがないのです。
あの子を買い取ったのは、金貨八枚でした。
その借金はサイカの水揚げで当に返上されています。」
「…早いな。…マティアスか?」
「ええ。
それに…あの容姿ですからね。…だけど、サイカはここの暮らしを気に入ってくれて、もう借金はないけど、望んでこの月光館にいたんです。
ここを、家のように思っていると言ってくれました。
僕や皆を、家族と思っていると…。
だから僕は、あの子が望むならいつまでもいて欲しい。
自らここを出ようと思うその時まで。
あの子は底抜けに優しくて、誰かを気遣って、皆に元気を与えてくれて、本当に、いい子なんです。」
「……そうか。」
そうだろうな、と。何故か思った。
何も知らないのに、何故かそう感じた。
あのマティアスがあれ程大切にしている子だ。マティアスが恋をしている子だ。
「移転の間、あの部屋にいさせるのは酷です。
大丈夫だと言っても、きっと言葉通りじゃない。
あの部屋はこれから…サイカにとって恐怖でしかないでしょう。
強い子だけど、弱い子です。
明るくしていても、それが、僕たちを心配させまいと振る舞うから…そうなるでしょう。」
「……そうか。」
「少しの間で結構です。
あの子はとても美しい。優しく、明るく…誰もを惹き付ける。
今回のことで…事実を含んだ、色々な憶測が飛ぶでしょう。
店でサイカを守れるように、その準備が出来るまでの間で結構です。
陛下は王宮へと言ってくれるでしょう。でも、それはいけません。
サイカは娼婦。美しいけれど、娼婦なのです。」
「…ああ…どんな目を向けられるか…想像はつく。」
「ええ。クライス侯爵…どうか頼みます。
あの子を、少しの間守ってやってください。
好奇の目に晒されることなく、暫くの間、その心を休ませてあげられる環境に…侯爵の庇護の元で……厚かましいお願いと、重々承知しております…ですがど「もう結構。」
「…侯爵…」
「請け負った。どうか、安心してほしい。
俺の領地で養生させ、その間、何者からも守ると誓おう。」
「!!…ありがとう、御座います……感謝致します…!!」
思いもよらないこの出会いが、俺を幸せへと導いていく。
そのことを後々知ることになる。
応援ありがとうございます!
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