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106 マティアス⑩

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最初から何もかもが分かるなら、こんな苦労はしない。
最初から何もかもを見通せるなら、こんな苦悩もない。
俺は王であっても、神ではない。ただの一人の人間で、サイカを狂おしい程愛している一人の男だ。
愛しているから、愛する女にも苛立つし、時には失望もする。


「あのね、マティアス。」

「どうしたサイカ?」

「…マティアスに、話しておかないといけない事があるんです。
出来ればリュカやヴァレ、カイルにも…話さないといけない事。」

サイカが何を話したいのか、それは直ぐに分かった。
ディーノから定期的に送られてくる手紙の中に、その名前があったからだ。
サーファス・ラグーシャ。否、本来の名はサーファス・イグニス・ドライト。ドライト王国の第四王子の名が。
サーファス・イグニス・ドライトとの直接の面識はないが、サーファスという男が優秀な男であるのは知っている。
ドライト王国の中でも恐らく、一番国を思い、国を知ろうとしているのが彼であると思っていた。
王族ではあるが女王や次期国王である王太子を支える為に元々父親が持っていた爵位を受け継いだ。
否、爵位を復活させたといった方が正しい。
サーファス・イグニス・ドライトは王族でもあり、侯爵でもある。
自国を飛び出し、レスト帝国に医療を学びに来た彼はレスト帝国で評判の医師、クロウリー・アボットからも優秀であると認められている。


「サーファス様と出会ったのは娼婦だった頃で、御父様と一緒に御前試合に行った時です。
次に再会したのは月光館で診察を受ける事になった時。
クロウリー先生と一緒にいたのが、サーファス様でした。
彼から、好意を寄せられています。」

「そうか。…それで?サイカはその男をどう思っているんだ?」

「…正直に言うと、…同情、友情、色んな情がサーファス様にあります。
口説かれてときめいたりも。可愛い、愛しいと思う事もありました。
口説かれ、嬉しく思う自分も、いました。」


ほんの少し、失望した。そう言えばサイカは傷付くだろう。
サイカが優しい娘である事は知っている。
俺たちの恋心も同情や友情、色んな情から恋へ育った事も知っている。
何の為に今、話をしているのだろうか。サイカの中で決まっているだろう話であるのに。
この話に何の意味があるのだろうか。
恐らくもう、サーファスという男を受け入れる気持ちでいるサイカに失望したのはサイカを愛する男として当然の感情だった。

優しくされればすぐに好きになるのか。
甘い言葉を囁かれれば心が絆されるのか。
優しい娘なのは知っている。けれど、……この時はその残酷なまでの優しさが疎ましく思えた。
それは、つまり。サイカの中で本当の特別がいないという事だ。
特別ではなく、皆平等に…サイカは心を砕ける。
それはサイカの良い所であり、悪い所だった。
誰かに心を砕けるのは良いことだ。但し、それが“恋”や“愛”でないのならば。

感じたのは失望。否、怒りだった。
サイカが一番大切である俺の心を踏みにじったと感じた。
俺はサイカを何よりも誰よりも愛し、大切にしている。
けれどサイカは、そうではない。俺が一番ではないのだと。
俺たちだけでなく、誰にでも“愛”をばら蒔く事が出来る女なのかと怒りを感じた。

俺は今だって、サイカを誰にも渡したくない。
本当は、リュカやヴァレリア、カイルと共有もしたくない。
俺だけの女に、俺だけの妃に、妻にしたい。
葛藤し、悩み、また葛藤し、そして妥協した。納得のいく答えを導き出し、それが最善であると自分に言い聞かせた。
それなのに、サイカは俺の、そんな気持ちを理解してくれていないのだな。そんな失望感。何ともやるせない。


「呆れたでしょう?
失望させて…ごめんなさい。」

「………。」

「容姿が好みで、私に好意を持ってて。
そんな人に口説かれて、舞い上がってる。私はこの世界に来るまで誰かに口説かれた事もなくて、誰かとお付き合いした事もなくて。そんな言い訳をして、いい気になってたんだなって。
サーファス様から、手紙が届くようになった。
サーファス様の真剣な思いが伝わる手紙を読んで、私、自分にがっかりした。」

「……何に?」

「ちゃんと考えてない自分に、がっかりした。
私はもう娼婦じゃなくて、貴族のサイカになってるのに……娼婦の頃のままだった自分に気付いて、自分に失望した。
流されて、それでもいいや、多分何とかなるってそんな生き方が染み付いたままなんだって。
サーファス様に口説かれて、誰かに好かれる事に舞い上がって、流されて、それでもいいかって。
そんな自分に気付いて、色々考えた。」

その時のサイカの瞳は、凪ぎのように穏やかだった。
じっと俺の目を見るサイカは、今、俺にどう思われているかも知っている。
失望や怒り、虚しさ。全部を分かっている様子だった。

「誰かに嫌われるのは恐ろしい。
誰かに失望されるのも恐ろしい。皆に好かれたい。…大人になって割り切っていたはずなのに…そうじゃなかった。
言い聞かせていただけで、割り切れてなかったんです。
誰にでも好かれるなんてそんな事、ありはしないのに。
勘違いして、舞い上がって、喜んで、そして誰かを傷つける。それはマティアス、それはサーファス様。そして皆も。」

サーファス様とどうなりたいか、真剣に考えたとサイカは話し出す。
その話はサイカが日本にいた頃まで遡った。

「私がまだ十代の頃、大切な友人がいました。
子供の頃からの付き合いで、とても仲が良かったんです。」

共に育ち、共に成長してきたサイカと友人。
大人になってもずっと、側にいるのだと当たり前に思っていたのだと言う。

「その子はぽっちゃりとしてて、それがずっと悩みだったけど、いつも明るかった。
周りの心ない、冗談を、いつも笑い飛ばしてたから…強い子だなって思ってたんです。ずっと。…いつも、いつも笑ってたから。」

けれど目に見えている事が必ずしも真実ではない。
サイカが強いと思っていたその友人は…その実、とても繊細だったのだろう。
そしてある時、一本の糸が切れた。
友人である彼女の明るさを繋ぎ止めていた糸が、何かをきっかけに切れてしまった。

「塞ぎ込んで、学校に来なくなって。
でもきっと、自分で立ち直るんだろうって、……そんな馬鹿な事を考えてました。
私の中で、彼女はどこまでも強い印象だったから。
でも、そんな事なかった。考えれば分かる事だった。
私だって、誰かに支えられて乗り越えられた。彼女に支えられた事が、沢山、あったのに。」

「……。」

「今まで、私が相談した事はあっても…彼女から何か相談される事はなかった。
それを寂しいと思ったけど、いつか話してくれるって、呑気に待ってただけで。
本当は、私から行動しなくちゃいけなかった。
側にいるだけでも良かった。何も話さないかも知れないけど、側にいる事だけでも、しなくちゃいけなかった。」

きっと今も、酷く後悔をしているのだ。この優しい娘は。
友として、何もしなかった自分を。もう何年も経っているのにずっと悔やみ続けている。

「気付いた時にはもう…手遅れでした。
気付いてからも何度も自宅に行ったり…連絡したり。
だけど、一度も会えなかった。返事も、返っては来なかった。
それでも諦めたくなくて…だけど、彼女は地元を出て遠くに、連絡も…取れないようになっていました。
家族以外で、私が一番側にいたんです。なのに、…大切な友人が苦しんでいるその時に、私は……。」

ああ、理解した。
サイカの優しさの一部は…この後悔から来ているものもあったのだと。
環境や暮らし、周りの人々の影響も当然あるが…一番大きいのは、この後悔からだ。
だからサイカは、出会ってから“他人”ではなくなりつつあった俺を、俺たちに強く同情していた。友人が受けてきた苦しみは後悔として自分にも返ってきた。
彼女に何があったか。これまでの事を思い出し、どんな思いでいたかずっと考えて、想像してきたのだろう。
晴れない後悔がいつまでも心の中にあるのは、ずっと、その友人の事を考えていたからだ。

「サーファス様は、とても似ているんです。笑顔で…他の感情を隠す事。思った事を言わず、どうしようもない事として処理しようとする所。
言わないんじゃない。言えないんです。自分からは、言えない。似ているから、放っておけない。
マティアスたちもそうだった。同情が、出会った頃は大きかった。」

「……。」

「周りが傷付けるなら、私は癒してあげたい。周りは嫌悪しているかも知れないけど、私は好きだって。出会ったばかりの時はそんな風に…。
でも気付いたんです。…私は神様でもなくて、何の力もない一人の人間で。
私が抱えられるものは少ない。それこそ、この世界の全ての人なんて、無理なのに。」

「…ああ。」

「一番大切な事は、何処かにいる誰かじゃなくて、私の側にあるものを大切にする事。
私の大切なものを、守る事が一番大切。
あの子が伸ばした手を、私は取れなかった。
同じ後悔を、する所だった。私は、私の事は自分で責任をとらなくちゃいけない。
愛される事に慣れて、舞い上がって、楽しんで、そんな最低な人間になりたくない。」

その先を、聞きたくない。
それが決意の言葉だったとしても、聞きたくない。
分からないが、そう思った。

「サーファス様への情は、同情が大きい。
改めて考えて、今の気持ちはそうだと気付きました。
でも似ているから、放っておけない。それに…もう、知り合って、知ろうとしてしまっているから。余計に。
なら私はそれを…サーファス様にはっきりと伝えるべきで、…今のサーファス様を、恋愛対象として見ていないとも伝えます。
優柔不断で、ごめんなさい。振り回して、ごめんなさい。
…あのね、マティアス。」

「サイカ、」

「…マティアス。……私が、マティアスたちに愛される事に慣れて、胡座を掻くようになって、蔑ろにして、誰かの沢山の好意に舞い上がって、酔いしれて、喜んで、またそんな最低な女になったと思った時は…「止めろ。」

それがサイカの決意だとしても、聞きたくない。
俺を大切に思うなら、愛しているのなら、言わないでくれ。
その他大勢と一緒ではなく、俺が大切で愛しているのであれば、どうか。言わないでくれ。

「うん。…そうならないように…私、努力する。
マティアスたちにずっと愛され続けてもらえるように、努力するだけ。
傷付けてごめんなさい。」

「もし、先の言葉を聞かされればもっと失望した…。
失望して、そなたを閉じ込めておく所だった。
勝手に失望したのは俺だ。そなたが、俺だけでなく…他の誰かも平等に愛せるのだと一方的に思ってしまった。
でも違ったのだな…。」


後悔し続けてきたサイカだから、誰かに寄り添う事が出来る。
気持ちを考え、想像し、思いを汲み取る事に長けた。その能力を手に入れた。
サイカ自身が線引きをすれば、誰彼という事もなかったのだ。
自分には無理だ、これ以上は抱えられない、抱えてはいけないと線を引く事が出来れば。

「気付くのが遅くて、ごめんなさい。
貴族になって、もう何ヵ月も経っているのに…ちゃんと考えてなかった。本当に、ごめんなさい。
娼婦の時みたいにただ受け入れたんじゃ駄目だって、もう、それだけじゃ駄目だったのに。」

「でも、そなたは自分で気付いたではないか。
気付き、考えて。答えを出したではないか。
…ならいい。分かった上なら、それでいい。ちゃんと分かってくれたのなら、もういい。」

サイカは神でもなく、一人の人間だ。
そして俺も同じく。
何もかもを救えるわけではないし、先の未来が分かるわけでもない。
一人の人間で、サイカを愛する男だからこそ、失望し、苛立つ。
俺を一番の特別にして欲しい、一番愛する存在でいてほしいと思ってしまう。
平等ではなく、はっきりとした特別を欲しくなる。
サイカが話し始めた時は失望した。そなたは誰でも受け入れてしまうのか。誰でも手を伸べてしまうのか。
俺がいるのにまだ、他の誰かに心を砕くのか。
俺の婚約者であるのに、俺を愛していると言うのに、俺を蔑ろにするのか。
そう思うと、失望した。腹立たしい気持ちだった。
愛するとは綺麗な感情ばかりではない。
愛しているから憎らしい。愛しているから、些細な事で傷付く。愛しているから、こんなにももどかしい。

失望しても腹立たしく思っても、それでも。
それでも、こんなにも狂おしい程、サイカを愛している。
そしてサイカが自らの事をちゃんと考え気付いた今は、全てこの男に掛かっているだろう。
サイカと話をした数日後、その男はやって来た。
ドライト王国の王族として俺との謁見を望み、取引を持ち出してきた。



「サイカから聞きました。
サイカの今の気持ちを全て。俺と、友人を重ねている事も分かりました。振り回してごめんなさいと、謝罪を受けました。」

「そうか。……しかしその様子だと…そなたは諦めていない様だが。」

「ええ、諦めていません。
最初から同じ場所に立っていない事は分かっていますから。
寧ろ、そういう部分を感じてあわよくばと接していたのは俺の方です。
同情が大きいのは分かってましたし、誰かと重ねているのも知っていました。
…サイカ、嘘や隠し事が下手ですよね。」

「…まあ、否定はせん。」

「皆そうだと思うんです。最初から恋愛感情を持っている方が稀じゃないですか。ねぇ。
同情や友情、色んな情から始まるものがある。
ならそれは、俺とサイカの間もそうですし、そしてマティアス陛下やサイカの関係も、そういうものから始まったんですから。
だったら俺も、幸せになる機会は俺自ら掴まないと。」

「……。」

「娼婦でなくなったサイカが受け入れる、愛する男。
貴族になった今、それを許される人間は限られる。
それは陛下、貴方がいるからだ。
陛下の為にサイカは貴族になった。貴族になったサイカは陛下の婚約者になった。
全て陛下が望んだからですよね。」

サーファス・イグニス・ドライトは頭が切れる男だった。
俺がどんな男かを分析し、知って、どうするか考える。
出した一手が駄目なら次の一手を考え、行動する。
ドライト王国の第四王子は頭がいいと聞き及んでいた通り、頭の切れる男だった。


「サイカの情さえあれば何とかなると思っていた俺が悪いんです。だから出遅れた。
一番はマティアス陛下、陛下を攻略する事が要だったのに。」

にこりと笑う目の前の男は、俺とよく似たものを持っていた。
俺と似たものを目の奥で光らせていた。

「俺の気持ちは何一つ変わりませんよ。
重要なのは俺がサイカを愛しているという事です。
元より俺は、長期戦で考えているんですから。」


この男もまた、神ではない。
一人の人間で、サイカを愛する男。
狂おしい程、サイカを愛する一人の男だ。
だからこそ足掻いて、どこまでも抗って、サイカを手に入れようと動く。
未来なんて分からないから、見えないから。

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