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172 カイル⑧
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「ほら父さん、最初の挨拶は父さんがしないと!」
「あ、ああ。…コホン……あー…、…その、…カイル。
…いよいよ、明後日に結婚式だな…。」
「……うん。」
「…準備の怠りなどはなかったか?」
「……大丈夫。」
「…体調はどうだ。」
「……どこも悪くない。」
「…そうか……だが、…今日は余り飲み過ぎず、明日も仕事があるんだろう?
万全な体調で式に挑めるように「父さん、そんなんじゃ進まないでしょ!」…すまない。」
「もう!乾杯するのにどれだけ時間をかけるつもり?折角の料理が冷めちゃうよ!」
「あ、ああ、そうだな。
…当日も勿論伝えるが…この場でも一応、伝えておく。
カイル。…おめでとう。」
「おめでとう!兄さん!!」
「おめでとう、カイルさん。」
「おめでとうございます、お義兄様。」
「…ありがとう。」
サイカとの結婚を明後日に控えた今日、早めに仕事を終えた俺は久しぶりに実家に帰って来ていた。
余り来たくはなかったけど、父と弟のアレクが結婚式の前祝いをしたいと言ってくれたし、その気持ちは素直に嬉しかったので“ちょっと嫌”な気持ちくらいは我慢しようと思った。
初めてサイカを紹介したあの日以来、義母と義妹とは会ってなかったから少しの気まずさを感じていたけれど…俺は何も悪い事はしていないし、別に家族とも思ってないから嫌な態度をとられても気にする必要もないか…と思って実家に帰ってきたけれど、俺の到着を弟と出迎えた義妹は俺に頭を下げた。
『ほら、エメ。兄さんに会ったら言いたい事があったんでしょ?』
『え、ええ。…でも、』
『大丈夫。僕が隣にいるから。…ね?』
『…う、うん。
……あの、お義兄様、……その、私の言動で、大変不快な思いをさせてしまって…本当に申し訳ありませんでした…。
あれから、アレクにも怒られて、とても反省して…ですので、お義兄様にはきちんと謝らなくてはと…。
今日まで時間が過ぎてしまって、本当に申し訳なく思っています…。』
『……。』
多分、義妹は根本的な事が分かっていないんだろうな、と感じた。
何と言うか、謝るのも俺の事を考えて…とかじゃなくて自分本意な気がするし、“傷付けた”という言葉よりも“不快”という言葉が出てきたのは誰かの言葉や態度で酷く傷付けられた事がないからだろう。
それでもまあ、アレクに色々言われたのかは知らないけれど反省はしているみたいだったから、別にいいと応えておいた。
義母は義母で特に謝るとかはなかったけど、気まずそうにしながらもにこにこと笑顔で俺に話し掛けてきた。遠回しのような嫌味もなく気を遣っている様子だった。
「待ちに待った結婚だね、兄さん!
嬉しいでしょ?」
「ん、…嬉しい。やっと、サイカと夫婦になれる…。」
「兄さんが嬉しそうで本当、僕も嬉しいよ!
明日が楽しみだなぁ…!!
父さんなんて一月前くらいからそわそわしてたんだよ!?
準備はちゃんと進んでいるかとか、足りない物はないのかとか、そういうの兄さんちゃんとしてるかって心配してさ~!」
ちらりと父を見ると目を瞑って黙々と料理を食べている。
だけど、赤くなっている耳に気付いて恥ずかしがっているんだって分かった。
「…ありがと、父さん。」
「……。」
「…ちゃんと準備、出来てるよ。」
「…そうか。」
「…うん。足りないものも、ないと…思う。大丈夫。」
「…なら、いい。」
父と手紙のやり取りを始めて、知らなかった事も少しずつ分かるようになった。
不器用とは思っていたけど俺が思っていた以上に父は不器用だった事も、思いの外心配性だった事も、俺を、ちゃんと愛している事も。
お互い言葉や態度に出すのは難しいけれど、文字やちょっとしたやり取りで父親の、家族としての愛情を感じられるようにまでなった。これはとても凄い事だと思う。
「祝ってくれて、ありがとう。」
食事を終え、自室へ向かうその途中で足を止める。
使わなくなって随分と経ったドアの向こうは俺が十一の時に亡くなった実母の部屋。
幼い頃、よくこの部屋の前までやって来てはドアの隙間から母の様子を覗いた。
覗き、眺め、視線の先の母が“カイル”と俺の名を呼んでくれないか、抱き締めてくれないかと淡い期待を抱いたものだ。
俺の知る限りではあるけれど、結局母は一度も名前を呼んではくれなかったし、抱き締めてもくれなかった。本当に一度も。
生まれたばかりの頃はどうだったのかな。
一度くらいは、俺を抱き締めてくれたのかな。
もしも、俺が普通の容姿だったなら、あの人は俺を息子と認めて抱き締めてくれただろうか。
罵倒され、殴られ、殺されかけたりもしたのに未だにそんな事を思う自分がいて…どうしようもないなと溜め息が出た所で後ろから名前を呼ばれた。
「カイル…。」
「…父さん。」
「…部屋に戻らないのか?」
「…今から、…戻るとこ。」
「……そうか。
…カイル、お前は……ソフィアを恨んでいるか?」
「……。」
「…ソフィアの言葉や態度は…どれも、お前を酷く傷付けるものばかりだった…。
…俺が見てみぬ振りをしていたせいだ。今ならよく、分かる。あの頃の俺は、本当に愚かな夫で、父だった。」
父がドアノブを回すと軋む音と共にゆっくりとドアが開く。
明かりを付けたその先にあったのは…母が生きていた頃と変わらない、母の部屋。
この部屋の主は十七年前からいないのに、定期的に掃除されているのが分かった。
「…どうして…そのままに、してる…?」
「……ソフィアが死んでも…何故か、ずっと片付けられずにいた。このままにしておきたいと思ったんだ。
どうしてそのままにしているか…実は少し前まで分からなかったんだがやっと分かって……恐らくは…戒めなのだと思う。」
「…?」
「…ソフィアがこの部屋で一人、俺が来るのをひたすら待っていた事を知ろうともしなかった。どうすればいいか分からないからとそればかりで…自分の事ばかりで、逃げた結果、ソフィアとお前をずっと傷付けて、ソフィアは一人で死んでしまった。
…この部屋を開けるのは…いつも、勇気がいる。
でも、開けずにはいられない。」
「……。」
「この部屋に入るたび、自分の愚かさを思い知る。
何が夫だ。何が父だ。俺は夫にも父にもなれていなかった。そう、酷く思い知らされる。
深い後悔が押し寄せる。どうしようもない自分を思い出す。
この部屋には、俺の後悔がある。
後悔と、もう、二度と戻ってこない…思い出が。」
苦しい表情できつく閉じていた目を開いた父は、情けないような、けれど優しい表情をした。
「ソフィアは社交の華と呼ばれる程の美貌を持っていて、多くの男が彼女に夢中で…妻にと望んでいた。実際とても綺麗な女だと思ったし、目で追うくらい存在感があったんだ。
でも、一番魅力的だったのは自信に溢れている姿。ぴんと伸びた背筋がとても美しくて…多分、最初は憧れだった。」
初めて母を見た時の事を思い出しているのか、父は眩しそうに目を細める。
「それから恋に落ちるのは早かったよ…。
社交は苦手だが…彼女を一目見られるならと、いつも少し離れた所からソフィアを目で追っているだけで……あの頃は、俺が選ばれるなんてないと思っていたんだ。本当に…。」
「…でも、母さんは、父さんを選んだ…。」
「ああ…信じられない奇跡が起こった。
…俺は自分の想いを態度や言葉にする事が難しいと思う人間だ。どう言葉にすればいいか、態度に表せばいいか分からないから苦手だ…。
…だけど、ソフィアはそんな俺を選んでくれて、俺もソフィアを愛していた。…本当に幸せだった。」
「……。」
「彼女に相応しい夫になりたい。
懸命になって働いて、ソフィアに苦労させないようにしなくては。
忙しい日々が続くようになって…それでも夫婦で過ごす時間、ソフィアは笑顔で俺も幸せだった。
そして暫くして…カイル、ソフィアはお前を身籠ったんだ。」
「……、」
「ソフィアはとても嬉しそうに俺に報告してきた。“ヨハン、貴方と私の子がお腹にいるのよ!”って。とびきりの笑顔だった。
…ソフィアが俺の子を、という嬉しい気持ちはあった。…でも実感はなくて、父になる喜びも薄かった。」
「……。」
「ソフィアは毎日毎日、お前の話ばかりだった。
性別はどちらだろう、名前はもう決めたのか、早く生まれて来ないものか。
身なりを人一倍気にするソフィアが、身籠っている間…いつも履いていた高いヒールを控えるくらい…ソフィアは腹の中にいるお前を大切にしていたけれど、俺はソフィアの腹が大きくなっても…全く、父親になる実感が湧かなかった。」
「……そう。」
お腹の中にいた俺を大切にしていたらしい母さん。
だけど、生まれてきた子供は醜い化け物だった。
社交の華と呼ばれるくらい美しい母から生まれたのは、有り得ない程醜い化け物。
そのせいで、母は壊れてしまった。
俺のせいで、父と母の幸せは崩れてしまった。
全部全部、俺のせいだ。
俺が生まれたせいで、父も母も、不幸になってしまった。
「…ごめん、父さん。…ごめん、俺が、こんな容姿で、生まれたから。
…俺じゃなければ、母さんは、まだ…生きてたのに。」
「カイル、」
「…ごめんね、俺、こんな、不細工で…。
ごめん、母さん、…母さんは、美しい女、だったのに、…俺が生まれて…すごく、悲しかった、悔しかった、よね、こんなはずじゃ、なかったって、憎まれて、当然だ…。」
「カイル、違う…違うんだ、カイル…」
「違わない、…違わない。
…やっぱり、全部が、俺の、俺が生まれたから…、俺のせい……」
「違う!!」
痛いくらいがしりと掴まれた両肩。
強い口調に驚き、俯いていた顔を上げると父は涙を流していた。
「決してお前のせいじゃない!
ソフィアをあんな風に変えてしまったのは、お前のせいじゃない!ソフィアを追い詰めたのは俺の方だ…!!」
「……」
「産声が聞こえて、隣の部屋で仕事をしながら待っていた俺は、呼ばれてソフィアの部屋に入った。
…サイカ嬢を紹介してくれた時に、お前に伝えただろう…?
生まれたお前の容姿を見て、俺がどう思ったか。」
「…うん、」
父はあの時、生まれたばかりの俺を見て、俺の容姿に気付いて落胆したと言っていた。
正しくは落胆ではなく、醜い容姿で生まれた我が子の人生は、とても生きにくいものになるだろう…という心配が正しいけれど。
「ソフィアは…そんな俺の反応を見て酷いショックを受けたはずだ。
思い出すのは、ヨハンと俺を呼ぶソフィアのか細い声と、不安げな表情で…!
ソフィアはあの時、俺の言葉と態度を待っていたのに…、俺は…ゆっくり休めとだけしか言わなかった…!一番肝心な時にさえ、言葉も態度も…!」
「…父さん…」
「お前が悪いんじゃない…あの時の俺の反応にソフィアは絶望したんだ…。
きっと俺の反応を見た彼女はこう思っただろう…。
俺が、醜い容姿で生まれた我が子をよく思っていないのだと、自分が愛されていたのは美しいからだと、そして…醜い容姿の子を生んだ自分は…愛されないかも知れないと、」
すまない、すまないソフィア。
一番肝心な時に、言葉にも態度にも表さなかった。
醜い容姿をおぞましいと嫌悪したのではなく、この子の容姿では生きづらいだろう、そう思った事をきちんと伝えていれば。
君を愛しているとちゃんと伝えていれば。
俺と君の子を生んでくれてありがとうと、よく頑張ってくれたと、一言でも伝えていれば。
言葉にするのが難しくとも、ただ、側にいる事だけでもしてさえいれば。
「すまない、ソフィア、こんな男が夫で、すまない、カイル…すまない、こんな男が父で、すまない、戻れるなら、あの日に戻りたい…。あの日、カイルが生まれた日に戻って、ソフィア…君を、愛していると、カイルを、俺と君の子を生んでくれて、ありがとうと、肩を抱いて、そう…自分の気持ちをきちんと伝えたいのに…!」
「……父さん」
すまない、ソフィア、すまない。
すまない、カイル、すまない。
涙を流しながら何度も譫言のように謝る父を、俺は抱き締めた。
男二人が抱き合っている図は端から見れば何とも奇妙な光景だろう。
俺も父さんに似て言葉にするのは苦手だから、態度に出すのも苦手だけど、でも態度の方がまだ自分の気持ちを出せるから、抱き締める事が、今出来る俺の精一杯だけど。
父の母への想いを今日、初めて俺は知った。
ソフィアと母の名を呼ぶ父の震えた声に、幾つもの想いが込められている。
思い出と、後悔と、懺悔と母への愛。
その想いは言葉の中に収まらず、溢れてしまっている。
社交の華と呼ばれた美しい母。
きっとその容姿から沢山の男に見初められ、恋をされてきたのだろう。
だけど母が愛したのは父だった。
母が沢山いる男の中から父を選んだ理由は俺には分からない。
父は容姿も悪くないし、爵位も母の家より上だけれど、でも、多分そういうのでは選んでないんじゃないかってこの時に思った。
きっと、母は純粋に父に恋をして、愛したのだと思う。
「俺はいつも、いつも気付くのが遅くて…!
カイルが生まれて、変わった君を…俺は、自分のせいとも気付かずに…!
変わってしまったと勝手に思い込んで、話す事もせずに勝手に落胆して、傷付けられた気になっていた…!一番傷付いていたのは君だったのに、逃げてシエラとの縁談を受けて…!ソフィア、君は、どれだけ傷付いていただろうか…!全部、俺が悪かったのに…!!」
父は不器用で臆病で、こんなにも深く後悔しないと気付けない。
母を失ってから、母への愛を募らせるなんて。
ああ、貴方は本当に不器用な人だ。
「理解出来たのが、こんなにも遅くなって、すまない…!
ずっと、ずっと待ってくれていたのにっ…君はずっと、俺を…!」
「…うん。…母さんは、ずっと、父さんを待ってたよ…。」
思い出す。
母の部屋のドアを開け、母と目が合う。
一瞬だけ喜びのような光が母の目に宿って、だけどそこにいるのが俺だと分かった瞬間、母の目は色を失ったように陰る。
そんな事を何度も繰り返す内、誰が言わずとも自然と、母が父を待っている事が分かった。
俺は望まれていないけれど、父は望まれているのだとそれだけは理解していた。
どうしてなのか、その理由をずっと分からずにいたけれど…今、何となく分かった気がする。
「父さん、…もしかしたら…母さんが、父さんを待っていたのは…俺が生まれた日から、やり直したかったからじゃないかな…。」
「…ああ…、俺も、やっと、そうだったんじゃないかと…随分、遅かったが、」
父があの日に戻りたいと後悔しているように、母もまた、俺が生まれた日からやり直したかったのかも知れない。何となくだけどそんな気がした。根拠もないけど。本当に何となく。
俺という醜い子を生んだ自分の元へ愛する夫がやって来て、“俺と君の子を生んでくれてありがとう。よく頑張ってくれた。愛している。”と言葉と態度で示してくれるのを…あのドアが開く瞬間をずっと、待ち続けていたのかも知れない。
「遅くても、いい。ずっと、気付かずにいるより、ずっとずっと、いい…。」
母が父を待っていた理由は父と俺の希望で、真実は全く違うのかも知れないけれど。
もしも、そうであったなら。
俺は母に全く愛されていなかった訳ではないかも知れない。
もしも、そうだったなら。
カイルと名前を呼ばれて、沢山抱き締めてくれた今までがあったかも知れないから。
「…ああ、だけど…俺、やっぱり、今の人生でいいや…。
だって、もしかしたら、アレクが生まれなかったかも…。
俺、アレクが弟で良かったって、嬉しいって、思ってるから…いないのは、寂しい。」
「…ああ、ああ、そうだな。…カイルもアレクも、俺の大事な息子だ…。」
「うん。」
「カイル。…俺とお前は、思っている事を言葉にする事や態度に表すのが苦手という部分では似ている。」
「うん。」
「お前は…俺のようになるな。
失ってから気付く、臆病になって逃げて、取り返しの出来ない所まで来ないと気付けないような、そんな大馬鹿者にはなるな。
……まあ、カイルは俺と違って勇気があるから…似ている部分があっても全く違うと…そう、思っているが…。」
「…気を、付ける…。」
「大馬鹿者になりそうな時は…俺を、お前の父を思い出せ。
愛していた妻をその愚かさで失い、彼女との息子まで…失いかけていた馬鹿な男がいた事を忘れなければ…きっと大丈夫だ。
同じ轍を踏む事はしないだろう。」
「ふ…。うん、ちゃんと、覚えとく…。」
亡くなった母の部屋で親子二人、父の昔の事や俺とサイカの話を交え語らう。
父とこんなに長い時間話したのは初めてだった。
婚約者になったサイカを紹介するまでは家族という家族じゃなかった俺たちだけど、あの日から手紙のやり取りが始まり…少しずつ、わだかまりや思い違いをしていたものが崩れ、そして新しい家族の形が作られていった。
一方の努力、一方の思いがあるだけじゃ今の形にならない。
父と俺の関係は互いの歩み寄る思いと努力があってこそで、今、こうして話しにくいことを話せている事がこんなにも感慨深くて、嬉しい。
「結構遅くまで話込んでしまったな…。
…そろそろ休むか。」
「…うん、…そうする。……父さん、」
「うん?」
「…ありがとう。…今日、話せて良かった。
…嬉しかった。」
「……それは、俺の台詞だ。
お前に話して…今までずっと心にあったものが…少しすっきりとしたよ。
ありがとう、カイル。」
なんともくすぐったい。
胸がくすぐったくて、でも嫌じゃない。
父は窓に目を向けそのまま母の部屋に残った。
きっと朝が来るまで、あの部屋で母を思い出しながら過ごすんだろう。
深く後悔しながら、己の愚かさと向き合いながら、母への思い、その愛を募らせていくのだろう。
部屋を出て自室に戻ってベッドに寝転んでも、全く眠気は来なかった。
目を瞑るとこの家で過ごした日々を思い出すばかり。
苦しい思い出ばかりなのに、今日は何故か、涙が出そうになるくらい愛しく思える。
「…サイカ」
途端、サイカに会いたくなった。
陛下と一緒にいるだろうサイカに会いたくて堪らないけど、でも、会えない事は分かっているからどうしようもない。
徐に立ち上がり、家を出る。
足が自然と向かった先は花街だった。
すっかり暗くなった時間には沢山の男たちがいて、店の前や中には客になってくれる男たちに手招きする娼婦がいる。
「相変わらず…凄い数…」
サイカが襲われた事件もあって移転した月光館の前に着くと、店の前は大勢の客で賑わっていた。
きっと月光館で働く皆が心を一つにして頑張っているからだろう。
月光館でも当然、俺の姿を見て嫌な顔をされた事はあるけど、サイカに会いに来ている内に態度が変わった人たちも何人かいた。
オーナーは最初から嫌な態度なんてしなかったけど。
きっと普段からのサイカを知っているから、サイカに優しくしてもらった人がいるから、サイカの事が好きだから、俺への態度を改めた人もいたのだと思う。
ここにはサイカが“家族”と呼ぶくらい慕っている人たちがいる。
俺にとっても大切な場所だ。
「…楽しかったな…。本当に、楽しい事ばかりだった。」
移転してからの月光館ではただの客じゃなくて恋人としてサイカと過ごした思い出がある。
甘くて、ふわふわとして、幸せな恋人同士の日々をあの部屋で。
移転後の月光館で過ごした日々は短い間だったけど、全部大切な思い出。
懐かしく思いながら歩いて、サイカに初めて出会った、移転前の月光館があった場所で立ち止まる。
元々月光館があった場所は更地になり、今は新しい娼館が建つのだろう、まだ完成はしていないみたいだけど形にはなっていた。
「…あの辺りが、部屋だった…。」
見上げれば空だけがそこにあった。
サイカに出会ってから何度も楽しく過ごした思い出の部屋があったはずの場所には何もなくて、ただ夜空が広がっているだけだけど、だけどそこには一点、煌めく星があった。
思い出の部屋があったその場所に、美しい綺羅星がそこにあったのだ。
それがとても綺麗で、とてもとても綺麗で、
「…思い出も、あの綺麗な星も、きっと一生忘れない…。」
サイカに出会った月光館、サイカと恋人になって過ごした月光館、そこでの嬉しい日々、楽しい日々。
人生の転機となった、幸運な日々のこと。
俺の世界に希望という鮮やかな光が射し込んだ奇跡の日々。
きっともう二度と、個人的な用で花街に来る事はないだろう。
騎士団のトップである限りは仕事で来る事も多分ないかも知れない。
だから花街での、月光館でサイカと過ごした思い出は全部、この胸の中に詰めて、未来へ持っていく。
「…さようなら…。」
ありがとう。
俺の大切な子と過ごさせてくれて。
ありがとう。
俺の大好きな子と幸せな日々をくれて。
ありがとう。
愛するサイカと出会えた、最高の奇跡をくれて。
「ありがとう、ございました。」
愛する女と結婚したら、きっともう、二度とここに来る事はない。
だけど、ここで過ごした思い出だけは無くならないし、ずっとずっと、生涯忘れない。
未来へ全部持っていって、俺の中で、変わらない形で残っていく。
「あ、ああ。…コホン……あー…、…その、…カイル。
…いよいよ、明後日に結婚式だな…。」
「……うん。」
「…準備の怠りなどはなかったか?」
「……大丈夫。」
「…体調はどうだ。」
「……どこも悪くない。」
「…そうか……だが、…今日は余り飲み過ぎず、明日も仕事があるんだろう?
万全な体調で式に挑めるように「父さん、そんなんじゃ進まないでしょ!」…すまない。」
「もう!乾杯するのにどれだけ時間をかけるつもり?折角の料理が冷めちゃうよ!」
「あ、ああ、そうだな。
…当日も勿論伝えるが…この場でも一応、伝えておく。
カイル。…おめでとう。」
「おめでとう!兄さん!!」
「おめでとう、カイルさん。」
「おめでとうございます、お義兄様。」
「…ありがとう。」
サイカとの結婚を明後日に控えた今日、早めに仕事を終えた俺は久しぶりに実家に帰って来ていた。
余り来たくはなかったけど、父と弟のアレクが結婚式の前祝いをしたいと言ってくれたし、その気持ちは素直に嬉しかったので“ちょっと嫌”な気持ちくらいは我慢しようと思った。
初めてサイカを紹介したあの日以来、義母と義妹とは会ってなかったから少しの気まずさを感じていたけれど…俺は何も悪い事はしていないし、別に家族とも思ってないから嫌な態度をとられても気にする必要もないか…と思って実家に帰ってきたけれど、俺の到着を弟と出迎えた義妹は俺に頭を下げた。
『ほら、エメ。兄さんに会ったら言いたい事があったんでしょ?』
『え、ええ。…でも、』
『大丈夫。僕が隣にいるから。…ね?』
『…う、うん。
……あの、お義兄様、……その、私の言動で、大変不快な思いをさせてしまって…本当に申し訳ありませんでした…。
あれから、アレクにも怒られて、とても反省して…ですので、お義兄様にはきちんと謝らなくてはと…。
今日まで時間が過ぎてしまって、本当に申し訳なく思っています…。』
『……。』
多分、義妹は根本的な事が分かっていないんだろうな、と感じた。
何と言うか、謝るのも俺の事を考えて…とかじゃなくて自分本意な気がするし、“傷付けた”という言葉よりも“不快”という言葉が出てきたのは誰かの言葉や態度で酷く傷付けられた事がないからだろう。
それでもまあ、アレクに色々言われたのかは知らないけれど反省はしているみたいだったから、別にいいと応えておいた。
義母は義母で特に謝るとかはなかったけど、気まずそうにしながらもにこにこと笑顔で俺に話し掛けてきた。遠回しのような嫌味もなく気を遣っている様子だった。
「待ちに待った結婚だね、兄さん!
嬉しいでしょ?」
「ん、…嬉しい。やっと、サイカと夫婦になれる…。」
「兄さんが嬉しそうで本当、僕も嬉しいよ!
明日が楽しみだなぁ…!!
父さんなんて一月前くらいからそわそわしてたんだよ!?
準備はちゃんと進んでいるかとか、足りない物はないのかとか、そういうの兄さんちゃんとしてるかって心配してさ~!」
ちらりと父を見ると目を瞑って黙々と料理を食べている。
だけど、赤くなっている耳に気付いて恥ずかしがっているんだって分かった。
「…ありがと、父さん。」
「……。」
「…ちゃんと準備、出来てるよ。」
「…そうか。」
「…うん。足りないものも、ないと…思う。大丈夫。」
「…なら、いい。」
父と手紙のやり取りを始めて、知らなかった事も少しずつ分かるようになった。
不器用とは思っていたけど俺が思っていた以上に父は不器用だった事も、思いの外心配性だった事も、俺を、ちゃんと愛している事も。
お互い言葉や態度に出すのは難しいけれど、文字やちょっとしたやり取りで父親の、家族としての愛情を感じられるようにまでなった。これはとても凄い事だと思う。
「祝ってくれて、ありがとう。」
食事を終え、自室へ向かうその途中で足を止める。
使わなくなって随分と経ったドアの向こうは俺が十一の時に亡くなった実母の部屋。
幼い頃、よくこの部屋の前までやって来てはドアの隙間から母の様子を覗いた。
覗き、眺め、視線の先の母が“カイル”と俺の名を呼んでくれないか、抱き締めてくれないかと淡い期待を抱いたものだ。
俺の知る限りではあるけれど、結局母は一度も名前を呼んではくれなかったし、抱き締めてもくれなかった。本当に一度も。
生まれたばかりの頃はどうだったのかな。
一度くらいは、俺を抱き締めてくれたのかな。
もしも、俺が普通の容姿だったなら、あの人は俺を息子と認めて抱き締めてくれただろうか。
罵倒され、殴られ、殺されかけたりもしたのに未だにそんな事を思う自分がいて…どうしようもないなと溜め息が出た所で後ろから名前を呼ばれた。
「カイル…。」
「…父さん。」
「…部屋に戻らないのか?」
「…今から、…戻るとこ。」
「……そうか。
…カイル、お前は……ソフィアを恨んでいるか?」
「……。」
「…ソフィアの言葉や態度は…どれも、お前を酷く傷付けるものばかりだった…。
…俺が見てみぬ振りをしていたせいだ。今ならよく、分かる。あの頃の俺は、本当に愚かな夫で、父だった。」
父がドアノブを回すと軋む音と共にゆっくりとドアが開く。
明かりを付けたその先にあったのは…母が生きていた頃と変わらない、母の部屋。
この部屋の主は十七年前からいないのに、定期的に掃除されているのが分かった。
「…どうして…そのままに、してる…?」
「……ソフィアが死んでも…何故か、ずっと片付けられずにいた。このままにしておきたいと思ったんだ。
どうしてそのままにしているか…実は少し前まで分からなかったんだがやっと分かって……恐らくは…戒めなのだと思う。」
「…?」
「…ソフィアがこの部屋で一人、俺が来るのをひたすら待っていた事を知ろうともしなかった。どうすればいいか分からないからとそればかりで…自分の事ばかりで、逃げた結果、ソフィアとお前をずっと傷付けて、ソフィアは一人で死んでしまった。
…この部屋を開けるのは…いつも、勇気がいる。
でも、開けずにはいられない。」
「……。」
「この部屋に入るたび、自分の愚かさを思い知る。
何が夫だ。何が父だ。俺は夫にも父にもなれていなかった。そう、酷く思い知らされる。
深い後悔が押し寄せる。どうしようもない自分を思い出す。
この部屋には、俺の後悔がある。
後悔と、もう、二度と戻ってこない…思い出が。」
苦しい表情できつく閉じていた目を開いた父は、情けないような、けれど優しい表情をした。
「ソフィアは社交の華と呼ばれる程の美貌を持っていて、多くの男が彼女に夢中で…妻にと望んでいた。実際とても綺麗な女だと思ったし、目で追うくらい存在感があったんだ。
でも、一番魅力的だったのは自信に溢れている姿。ぴんと伸びた背筋がとても美しくて…多分、最初は憧れだった。」
初めて母を見た時の事を思い出しているのか、父は眩しそうに目を細める。
「それから恋に落ちるのは早かったよ…。
社交は苦手だが…彼女を一目見られるならと、いつも少し離れた所からソフィアを目で追っているだけで……あの頃は、俺が選ばれるなんてないと思っていたんだ。本当に…。」
「…でも、母さんは、父さんを選んだ…。」
「ああ…信じられない奇跡が起こった。
…俺は自分の想いを態度や言葉にする事が難しいと思う人間だ。どう言葉にすればいいか、態度に表せばいいか分からないから苦手だ…。
…だけど、ソフィアはそんな俺を選んでくれて、俺もソフィアを愛していた。…本当に幸せだった。」
「……。」
「彼女に相応しい夫になりたい。
懸命になって働いて、ソフィアに苦労させないようにしなくては。
忙しい日々が続くようになって…それでも夫婦で過ごす時間、ソフィアは笑顔で俺も幸せだった。
そして暫くして…カイル、ソフィアはお前を身籠ったんだ。」
「……、」
「ソフィアはとても嬉しそうに俺に報告してきた。“ヨハン、貴方と私の子がお腹にいるのよ!”って。とびきりの笑顔だった。
…ソフィアが俺の子を、という嬉しい気持ちはあった。…でも実感はなくて、父になる喜びも薄かった。」
「……。」
「ソフィアは毎日毎日、お前の話ばかりだった。
性別はどちらだろう、名前はもう決めたのか、早く生まれて来ないものか。
身なりを人一倍気にするソフィアが、身籠っている間…いつも履いていた高いヒールを控えるくらい…ソフィアは腹の中にいるお前を大切にしていたけれど、俺はソフィアの腹が大きくなっても…全く、父親になる実感が湧かなかった。」
「……そう。」
お腹の中にいた俺を大切にしていたらしい母さん。
だけど、生まれてきた子供は醜い化け物だった。
社交の華と呼ばれるくらい美しい母から生まれたのは、有り得ない程醜い化け物。
そのせいで、母は壊れてしまった。
俺のせいで、父と母の幸せは崩れてしまった。
全部全部、俺のせいだ。
俺が生まれたせいで、父も母も、不幸になってしまった。
「…ごめん、父さん。…ごめん、俺が、こんな容姿で、生まれたから。
…俺じゃなければ、母さんは、まだ…生きてたのに。」
「カイル、」
「…ごめんね、俺、こんな、不細工で…。
ごめん、母さん、…母さんは、美しい女、だったのに、…俺が生まれて…すごく、悲しかった、悔しかった、よね、こんなはずじゃ、なかったって、憎まれて、当然だ…。」
「カイル、違う…違うんだ、カイル…」
「違わない、…違わない。
…やっぱり、全部が、俺の、俺が生まれたから…、俺のせい……」
「違う!!」
痛いくらいがしりと掴まれた両肩。
強い口調に驚き、俯いていた顔を上げると父は涙を流していた。
「決してお前のせいじゃない!
ソフィアをあんな風に変えてしまったのは、お前のせいじゃない!ソフィアを追い詰めたのは俺の方だ…!!」
「……」
「産声が聞こえて、隣の部屋で仕事をしながら待っていた俺は、呼ばれてソフィアの部屋に入った。
…サイカ嬢を紹介してくれた時に、お前に伝えただろう…?
生まれたお前の容姿を見て、俺がどう思ったか。」
「…うん、」
父はあの時、生まれたばかりの俺を見て、俺の容姿に気付いて落胆したと言っていた。
正しくは落胆ではなく、醜い容姿で生まれた我が子の人生は、とても生きにくいものになるだろう…という心配が正しいけれど。
「ソフィアは…そんな俺の反応を見て酷いショックを受けたはずだ。
思い出すのは、ヨハンと俺を呼ぶソフィアのか細い声と、不安げな表情で…!
ソフィアはあの時、俺の言葉と態度を待っていたのに…、俺は…ゆっくり休めとだけしか言わなかった…!一番肝心な時にさえ、言葉も態度も…!」
「…父さん…」
「お前が悪いんじゃない…あの時の俺の反応にソフィアは絶望したんだ…。
きっと俺の反応を見た彼女はこう思っただろう…。
俺が、醜い容姿で生まれた我が子をよく思っていないのだと、自分が愛されていたのは美しいからだと、そして…醜い容姿の子を生んだ自分は…愛されないかも知れないと、」
すまない、すまないソフィア。
一番肝心な時に、言葉にも態度にも表さなかった。
醜い容姿をおぞましいと嫌悪したのではなく、この子の容姿では生きづらいだろう、そう思った事をきちんと伝えていれば。
君を愛しているとちゃんと伝えていれば。
俺と君の子を生んでくれてありがとうと、よく頑張ってくれたと、一言でも伝えていれば。
言葉にするのが難しくとも、ただ、側にいる事だけでもしてさえいれば。
「すまない、ソフィア、こんな男が夫で、すまない、カイル…すまない、こんな男が父で、すまない、戻れるなら、あの日に戻りたい…。あの日、カイルが生まれた日に戻って、ソフィア…君を、愛していると、カイルを、俺と君の子を生んでくれて、ありがとうと、肩を抱いて、そう…自分の気持ちをきちんと伝えたいのに…!」
「……父さん」
すまない、ソフィア、すまない。
すまない、カイル、すまない。
涙を流しながら何度も譫言のように謝る父を、俺は抱き締めた。
男二人が抱き合っている図は端から見れば何とも奇妙な光景だろう。
俺も父さんに似て言葉にするのは苦手だから、態度に出すのも苦手だけど、でも態度の方がまだ自分の気持ちを出せるから、抱き締める事が、今出来る俺の精一杯だけど。
父の母への想いを今日、初めて俺は知った。
ソフィアと母の名を呼ぶ父の震えた声に、幾つもの想いが込められている。
思い出と、後悔と、懺悔と母への愛。
その想いは言葉の中に収まらず、溢れてしまっている。
社交の華と呼ばれた美しい母。
きっとその容姿から沢山の男に見初められ、恋をされてきたのだろう。
だけど母が愛したのは父だった。
母が沢山いる男の中から父を選んだ理由は俺には分からない。
父は容姿も悪くないし、爵位も母の家より上だけれど、でも、多分そういうのでは選んでないんじゃないかってこの時に思った。
きっと、母は純粋に父に恋をして、愛したのだと思う。
「俺はいつも、いつも気付くのが遅くて…!
カイルが生まれて、変わった君を…俺は、自分のせいとも気付かずに…!
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母を失ってから、母への愛を募らせるなんて。
ああ、貴方は本当に不器用な人だ。
「理解出来たのが、こんなにも遅くなって、すまない…!
ずっと、ずっと待ってくれていたのにっ…君はずっと、俺を…!」
「…うん。…母さんは、ずっと、父さんを待ってたよ…。」
思い出す。
母の部屋のドアを開け、母と目が合う。
一瞬だけ喜びのような光が母の目に宿って、だけどそこにいるのが俺だと分かった瞬間、母の目は色を失ったように陰る。
そんな事を何度も繰り返す内、誰が言わずとも自然と、母が父を待っている事が分かった。
俺は望まれていないけれど、父は望まれているのだとそれだけは理解していた。
どうしてなのか、その理由をずっと分からずにいたけれど…今、何となく分かった気がする。
「父さん、…もしかしたら…母さんが、父さんを待っていたのは…俺が生まれた日から、やり直したかったからじゃないかな…。」
「…ああ…、俺も、やっと、そうだったんじゃないかと…随分、遅かったが、」
父があの日に戻りたいと後悔しているように、母もまた、俺が生まれた日からやり直したかったのかも知れない。何となくだけどそんな気がした。根拠もないけど。本当に何となく。
俺という醜い子を生んだ自分の元へ愛する夫がやって来て、“俺と君の子を生んでくれてありがとう。よく頑張ってくれた。愛している。”と言葉と態度で示してくれるのを…あのドアが開く瞬間をずっと、待ち続けていたのかも知れない。
「遅くても、いい。ずっと、気付かずにいるより、ずっとずっと、いい…。」
母が父を待っていた理由は父と俺の希望で、真実は全く違うのかも知れないけれど。
もしも、そうであったなら。
俺は母に全く愛されていなかった訳ではないかも知れない。
もしも、そうだったなら。
カイルと名前を呼ばれて、沢山抱き締めてくれた今までがあったかも知れないから。
「…ああ、だけど…俺、やっぱり、今の人生でいいや…。
だって、もしかしたら、アレクが生まれなかったかも…。
俺、アレクが弟で良かったって、嬉しいって、思ってるから…いないのは、寂しい。」
「…ああ、ああ、そうだな。…カイルもアレクも、俺の大事な息子だ…。」
「うん。」
「カイル。…俺とお前は、思っている事を言葉にする事や態度に表すのが苦手という部分では似ている。」
「うん。」
「お前は…俺のようになるな。
失ってから気付く、臆病になって逃げて、取り返しの出来ない所まで来ないと気付けないような、そんな大馬鹿者にはなるな。
……まあ、カイルは俺と違って勇気があるから…似ている部分があっても全く違うと…そう、思っているが…。」
「…気を、付ける…。」
「大馬鹿者になりそうな時は…俺を、お前の父を思い出せ。
愛していた妻をその愚かさで失い、彼女との息子まで…失いかけていた馬鹿な男がいた事を忘れなければ…きっと大丈夫だ。
同じ轍を踏む事はしないだろう。」
「ふ…。うん、ちゃんと、覚えとく…。」
亡くなった母の部屋で親子二人、父の昔の事や俺とサイカの話を交え語らう。
父とこんなに長い時間話したのは初めてだった。
婚約者になったサイカを紹介するまでは家族という家族じゃなかった俺たちだけど、あの日から手紙のやり取りが始まり…少しずつ、わだかまりや思い違いをしていたものが崩れ、そして新しい家族の形が作られていった。
一方の努力、一方の思いがあるだけじゃ今の形にならない。
父と俺の関係は互いの歩み寄る思いと努力があってこそで、今、こうして話しにくいことを話せている事がこんなにも感慨深くて、嬉しい。
「結構遅くまで話込んでしまったな…。
…そろそろ休むか。」
「…うん、…そうする。……父さん、」
「うん?」
「…ありがとう。…今日、話せて良かった。
…嬉しかった。」
「……それは、俺の台詞だ。
お前に話して…今までずっと心にあったものが…少しすっきりとしたよ。
ありがとう、カイル。」
なんともくすぐったい。
胸がくすぐったくて、でも嫌じゃない。
父は窓に目を向けそのまま母の部屋に残った。
きっと朝が来るまで、あの部屋で母を思い出しながら過ごすんだろう。
深く後悔しながら、己の愚かさと向き合いながら、母への思い、その愛を募らせていくのだろう。
部屋を出て自室に戻ってベッドに寝転んでも、全く眠気は来なかった。
目を瞑るとこの家で過ごした日々を思い出すばかり。
苦しい思い出ばかりなのに、今日は何故か、涙が出そうになるくらい愛しく思える。
「…サイカ」
途端、サイカに会いたくなった。
陛下と一緒にいるだろうサイカに会いたくて堪らないけど、でも、会えない事は分かっているからどうしようもない。
徐に立ち上がり、家を出る。
足が自然と向かった先は花街だった。
すっかり暗くなった時間には沢山の男たちがいて、店の前や中には客になってくれる男たちに手招きする娼婦がいる。
「相変わらず…凄い数…」
サイカが襲われた事件もあって移転した月光館の前に着くと、店の前は大勢の客で賑わっていた。
きっと月光館で働く皆が心を一つにして頑張っているからだろう。
月光館でも当然、俺の姿を見て嫌な顔をされた事はあるけど、サイカに会いに来ている内に態度が変わった人たちも何人かいた。
オーナーは最初から嫌な態度なんてしなかったけど。
きっと普段からのサイカを知っているから、サイカに優しくしてもらった人がいるから、サイカの事が好きだから、俺への態度を改めた人もいたのだと思う。
ここにはサイカが“家族”と呼ぶくらい慕っている人たちがいる。
俺にとっても大切な場所だ。
「…楽しかったな…。本当に、楽しい事ばかりだった。」
移転してからの月光館ではただの客じゃなくて恋人としてサイカと過ごした思い出がある。
甘くて、ふわふわとして、幸せな恋人同士の日々をあの部屋で。
移転後の月光館で過ごした日々は短い間だったけど、全部大切な思い出。
懐かしく思いながら歩いて、サイカに初めて出会った、移転前の月光館があった場所で立ち止まる。
元々月光館があった場所は更地になり、今は新しい娼館が建つのだろう、まだ完成はしていないみたいだけど形にはなっていた。
「…あの辺りが、部屋だった…。」
見上げれば空だけがそこにあった。
サイカに出会ってから何度も楽しく過ごした思い出の部屋があったはずの場所には何もなくて、ただ夜空が広がっているだけだけど、だけどそこには一点、煌めく星があった。
思い出の部屋があったその場所に、美しい綺羅星がそこにあったのだ。
それがとても綺麗で、とてもとても綺麗で、
「…思い出も、あの綺麗な星も、きっと一生忘れない…。」
サイカに出会った月光館、サイカと恋人になって過ごした月光館、そこでの嬉しい日々、楽しい日々。
人生の転機となった、幸運な日々のこと。
俺の世界に希望という鮮やかな光が射し込んだ奇跡の日々。
きっともう二度と、個人的な用で花街に来る事はないだろう。
騎士団のトップである限りは仕事で来る事も多分ないかも知れない。
だから花街での、月光館でサイカと過ごした思い出は全部、この胸の中に詰めて、未来へ持っていく。
「…さようなら…。」
ありがとう。
俺の大切な子と過ごさせてくれて。
ありがとう。
俺の大好きな子と幸せな日々をくれて。
ありがとう。
愛するサイカと出会えた、最高の奇跡をくれて。
「ありがとう、ございました。」
愛する女と結婚したら、きっともう、二度とここに来る事はない。
だけど、ここで過ごした思い出だけは無くならないし、ずっとずっと、生涯忘れない。
未来へ全部持っていって、俺の中で、変わらない形で残っていく。
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