向かい席

五味千里

文字の大きさ
4 / 7

第四話 傍観者

しおりを挟む
 聡太は、今でも克明に思い浮かぶ光景がある。丁度この夢列車で、響林に下りながら明子や朱莉達と力強く語り合った日々である。
 知識と経験、知性と感情、その全てを用いて言葉に血を通わせていた。あの日々が研究に従事する者としての姿勢と覚悟を彼に刻ませただろう。
 しかし今やただ記憶の泡沫。あの情熱は無知故のものだったのではないか、そう疑う時もあった。
 
 院での生活は、それまでと異なり鬱々としたものだった。孤独に読み、構想し、書く。そこに心通わせた対話が介在する余地は無かった。
 聡太の最も憂鬱な時間は、研究所だった。聡太の研究所には特殊な風潮があった。
 研究が遅れている者に対して、教授がそれについての冗談を言い、院生が大声で笑うのである。

「胸糞悪い瞬間だった。
 院生は、さして面白くもないジョークを口角を上げ、手を叩き、これでもかと笑う。嘲笑された人間は、下をただ俯きながら辱めに耐えるだけ。 『笑ってもいい人間』を作り出し、ゼミ内の秩序を保つことがあそこでのルールだったらしい———
 僕はただ、傍観者だった。
 あいつらがやっていることが、決して良いことではないと解していながら、それを諫める訳でもなく、ただ眺めていた。
 ……怖かった。あそこには僕より頭が切れる人間、勉学に励んだ人間がいて、いつ自分が笑われる側に立たされるか分からなかった。
 あの陰鬱とした日々が、徐々に精神を蝕み、毎日のように誓った想いをどこか若さ特有のものとして見るようになった。
 僕は、汚い人間だ。一度口にした己の正義すらまともに貫けない。そのくせ心の中だけでぶつぶつと呟くだけ———
 結局、僕はエゴイストで、自己本位で、人を助けるなんてできやしない……所詮、奴らと同じ部類だ」

 聡太は瞼に籠った涙で明子の表情が読めなかった。軽蔑しているのか、それとも朗らかに微笑んでいるのか、どちらにせよその奥底では聡太への落胆の想いだろう。

 しかし、聡太はそれでも構わなかった。想いを吐露していくうちに、彼の中で自らを罰したい欲求があった。
 一刻も早くこの罪から楽になりたかった。明子から蔑みの言葉を貰い、自らを恥じ、そうして明日を迎えたかったのだ。

 しかし明子は何も言わない。まだ罪が残っているでしょうと言わんばかりの沈黙である。

聡太は続ける。

「———晶の時もだった。
 彼は誠実で真面目で優しい人間だった。無闇に人を傷つけることに怒り、哀しむ男で、僕も君も彼から多くのことを学んだと思う」

 明子がゆっくりと頷く。

「彼は入社先でパワハラを受けらしい。
 先々週頃、晶から連絡が来たよ。
 酷いものだった。あからさまな差別、言葉の暴力、無意味な拘束時間。然るべきところに行けば罰は免れないようなものばかりだった。
 けれど、あいつは一人でその責を抱え込んでいた。自らの非を探し、人を憎まないように努めていた。
 その結果が、あの疲れ果てた声と電波越しに聞こえる涙だった。
 ———晶は人一倍繊細なくせに優しすぎたんだ。もっと暖かい場所が晶には必要だった……。
 あいつは、「死にたい」って一言呟いて、後はひたすら「ごめん」を繰り返した。
 なのに、僕は、何も言わなかった。
 言えなかったんじゃない、言わなかったんだ。
 頭に彼を助ける言葉を浮かばせながら、口に出さなかった。
 晶はきっと、僕にあの社会を否定して欲しかったんだ……あいつは優しすぎるから、あいつ自身で否定できないから、僕の手を借りようとしたんだ……
 僕はそれを知りつつ、助けを求める手を退けた……卑怯者、臆病、不義理」

 涙が枯れ、視界が明らかになると、向かい席に明子の姿はなかった。その代わりとして眼前にいたのは、聡太が心から慕う恩師だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

処理中です...