向かい席

五味千里

文字の大きさ
5 / 7

第五話 罪

しおりを挟む
「田崎先生……」

 聡太はいよいよ惨めな気持ちになった。明子どころか田崎にも自らの恥を晒し、彼らの落胆を招くことを考えると胸の奥に重たいものを感じる。

「……聞いていらっしゃたのですか」

 精一杯の質問だった。聡太の頭にはなぜ田崎がこの列車にいるのかなどさしたる関心ではない。
 重要なのは、かの恩師が目の前の教え子の醜態を知っているかどうかだった。
 田崎はその薄い頭をゆっくりと動かす。

「ええ、勿論」

 何たる羞恥、何たる不孝行!
 あれほど手塩にかけ、学問とは何か、研究者とはどうあるべきかを教え抜いた愛弟子が、都落ち、それも己の正義すら貫ぬこうとせずおめおめと帰郷した事実がこうも明らかに露呈したのだ。
 聡太はついぞ逃げ出したい気持ちに駆られた。ここから逃げ出し、近場の山に籠って残りの半生を過ごした方が幾分かましだった。

「逃げてはいけませんよ」

 穏やかだが、鋭い声だった。

 聡太は声の主をじっと見つめる。大学時代、何度も遭遇した感覚だった。
 自らの浅知恵をさも見透かされ、その度に聡太は肌が硬化し、血の引きを感じながら観念するのである。聡太は親の叱りを待つ子のように頭を下げた体勢で田崎の言葉を待つ。

 田崎は銀縁の丸眼鏡をくいっと上げ、微笑み、諭すように放つ。

「私から逃げることは一向に構いませんが、ここで逃げると君は君の正義から逃げることになる、違いますか」

 聡太は下げた顔を動かさず、細々と応答する。

「———一切違いません、私は自らの師と自らの正義、その二つから逃避しようとしました。羞恥の限り、この上ありません……しかし」

 孤独な青年は、涙にれた両目を向ける。

「しかし、私はこの罪を、正義からの逃走を、これまで何度も犯してきました。先生もお聞きになったでしょう。私はとっくの昔に罪人なのです。
———今更罪人が罪を重ねようが、変わらぬことではありませんか」

 罪を赦して欲しい、しかし、罪が赦されぬなら、せめて罪を重ねることを赦して欲しい、そういう懇願だった。
 
 聡太の心は困憊こんぱいしていた。己を罰するとも赦すともしないこの無限の苦しみに霹靂へきれきし、もういっそ、罪人としての道を歩みたかった。

 田崎がその眼鏡の裏の両眼でゆっくりと覗き込む。それは田崎が教え子を試すときの仕草だった。
 青年は身構える。不甲斐ない学徒にこの老いてなお桂林一枝けいりんいっしな教授先生が何を教え諭すのか、恐れながらも興味があった。

「時に、君は罪だ罪だと口にしてますが、その罪とは何ですか」

「はい、先生。私の罪は然るに自らの正義からの逃走です。そして、私の正義とは一重に名もなき弱者に寄り添い、彼ら彼女らに尽くすことです。故に私の罪はその姿勢を貫けぬことにあります。人に尽くすよりも己のエゴをとったことが私の罪です」

 聡太は、姿勢を正し、その濁った両目と田崎の眼鏡をまっすぐ直線で繋いだ。
 しんとした空気が全身に充満し、高官の質疑応答のように言葉がすらすると湧いて出る。

「なるほど、わかりました。では、その罪は誰が裁くのですか」

「それは、私と私の中の世間です。私の思考と倫理が私の罪を裁きます。そして、私の倫理を構成した多くの要素に先生のお言葉があります」

 聡太の言葉に偽りはなかった。聡太の田崎に対する尊敬は知性だけではなくその倫理、人間性によるものである。
 田崎は微笑み、そこに怒りの色は見当たらない。

「では、君はこれまでで何度その正義を全うし、罪を裁かずにすみましたか


 聡太は沈黙する。答える言葉が無かった。今思えば、自らの正義に添い、行動できたことなど一度もないかもしれない。微かな動揺が聡太の血液を巡る。
 田崎は続けた。

「思うに、正義とは葛藤ではないでしょうか。自ら立てた誓いによってその身を省み、裁くことに根幹がある。正義からの逃走は、葛藤の拒否か盲信です。
 聡太君、私はね、まだ君に心の灯火が残ってると思うのですよ。自らの過ちに苦しみ、悩み、傷つけるその姿には微量ながらほむらが見えます。貴方は、どうですか」

 田崎の言葉は、颯太の鼓膜と思考を揺らしたが、納得には至らなかった。

「やめてください、先生。私に炎なんぞ残っていません。あるのは燃え滓、真っ白な灰です。灰に期待しても仕方ありません……。
 先生、私は早く先生に失望して欲しいのです。失望して、見放されたいのです。私はとうの昔に失望しました、その後髪を引っ張るようなことはやめていただきたい」

 それから、聡太は一言挨拶を言ってそそくさと夢列車から出て行った。田崎の後ろ姿は何処か物寂しげで、颯太の心をちくりと刺した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

君の名を

凛子
恋愛
隙間風は嵐となる予感がした――

俺に抱かれる覚悟をしろ〜俺様御曹司の溺愛

ラヴ KAZU
恋愛
みゆは付き合う度に騙されて男性不信になり もう絶対に男性の言葉は信じないと決心した。 そんなある日会社の休憩室で一人の男性と出会う これが桂木廉也との出会いである。 廉也はみゆに信じられない程の愛情を注ぐ。 みゆは一瞬にして廉也と恋に落ちたが同じ過ちを犯してはいけないと廉也と距離を取ろうとする。 以前愛した御曹司龍司との別れ、それは会社役員に結婚を反対された為だった。 二人の恋の行方は……

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

カラフル

凛子
恋愛
いつも笑顔の同期のあいつ。

処理中です...