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<プロローグ>
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二百年振りに、聖女が異界から召喚されたその日。
私は、アストリッド・ラルセン子爵令嬢から、ただのアストリッドになった。
「ごめん、アストリッド……」
その日、実際に王宮でどんなやり取りがあったのかはわからない。
けれど、帰宅したステファンお兄様は心痛に耐えかねた様子で、そう私に頭を下げた。
来月に挙げる予定だった私の結婚式が、王命により、取りやめになったとの報告とともに。
「オリヴェルが、直接お前と話をしたいと望んでいる」
七歳上のオリヴェル・オーストレーム伯爵令息とは、婚約を結んで十二年。
両家の父親同士が決めた縁談だったし、年が離れていることもあり、婚約者とはいっても、恋人関係だったわけではない。
けれど、燃え上がるような恋情はなくとも、穏やかな信頼とともに、いつか、家族になるのだと思っていた人。
太陽の光のような眩い金の癖毛は背の中ほどまで伸び、首筋で一つに結わえられている。
切れ長で、萌えだしたばかりの木の芽のような明るい緑の瞳は、宝石のように神秘的な輝きを放つ。
通ったまっすぐな鼻筋に、薄い唇、すっきりとした頬のライン。
魔法騎士らしいしなやかなで均整の取れた体躯と持て余しそうに長い手足は、同じ騎士服を着た集団の中であっても、彼を際立たせる。
華やかな色合いに反して物静かで穏やかな彼は、いつも柔らかな笑みを浮かべているけれど、すべき時にはきちんと厳しい決断も下される方。
一方の私は、亡き母譲りの菫色の瞳こそ密かに誇りに思っているけれど、灰をまぶしたような濃灰色の髪がどう贔屓目に見ても地味だ。
背は大きくも小さくもなく、体形も痩せすぎでも豊満でもなく。
顔立ちだけでも華麗であればいいのだけれど、残念ながら特筆すべき特徴はない。
ようやく、ひねり出されたであろう賛辞が、
「聡明そうなご令嬢ですね」
というあたり、推して知るべしだろう。
そのため、美しい彼が平凡な容姿の私の婚約者であることを、どれほど、令嬢たちに揶揄されてきたかわからない。
「聖女様のお召しなのでしょう? オリヴェル様は、魔王討伐隊に参加するための準備を何もされていらっしゃらないわ。オーストレーム伯爵家の今後も含めて、これから、心身ともにお忙しくなるでしょうし……王命での婚約破棄なのですもの、事情は十分に理解できているつもりよ。だから、私に余計なお時間を割いていただく必要はないとお伝えして」
『アストリッド嬢は私の婚約者なのだから、何も遠慮する必要はないんだよ。いつでもいいから、呼んでね。駆けつけるから』
任務が重なって忙しそうなオリヴェル様に、『会いたい』の一言どころか手紙一通出せなくなってしまった私に、かつて、彼がかけてくれた言葉。
……けれど、それは、婚約者だったから。
婚約が破棄された今、私が望んでいいものじゃない。
「アストリッド、だが、」
本来ならば、聖女召喚の儀に立ち会う予定ではなかったオリヴェル様。
彼が参席することになったのは、私達の結婚が一年延びたからで、結婚が延期されたのは、母が亡くなってラルセン家が喪に服すことになったからだ。
「……きっと、そういう巡り合わせだったのよ」
何か言い掛けたお兄様の言葉を遮って、自分に言い聞かせるように、そう口にする。
仕方のないことだ。
私が、愛想を尽かされたわけじゃない。
だから……傷ついてなんか、いない。
左薬指の指輪に触れ、胸の奥底から湧き上がりそうになった言語化しがたい気持ちを、いつものように抑え込む。
容姿が美しいわけでも秀でた能力があるわけでもない私が、オリヴェル様の婚約者であるためには、瑕疵を突かれ、粗を探されないように、誰よりも清く正しくあらねばならなかった。
そんな私に今、できること。
それは、この世界のことを何一つご存知ない聖女に個人的な感情をぶつけることでも、想定外に魔王討伐隊の一員に選ばれてこれから多忙になるオリヴェル様とお会いすることでもない。
誰を責めることもなく潔く身を引いて、一日でも早く、聖女が魔王討伐隊を率いてこの世界に平和をもたらしてくださるよう、祈るだけ。
それが、『オリヴェル様に似つかわしくない婚約者』だった私にもっともふさわしい幕引き。
誰にも、ラルセン家に後ろ指を指させたりしない。
そのためには。
「お兄様、私、修道院に行くわ」
「! おい、いくらなんでも、それは……!」
「当て擦りに見えてしまうかしら? でも、実際問題、長年の婚約を破棄されてしまった私に、次の縁談なんて見つかるかどうか。いずれにせよ、お兄様が魔王討伐に出発されたら、お戻りになるまで、ラルセン家で慶事は行えないのだし、魔王討伐には何年もかかるわ。その頃には、十分に行き遅れですもの。今から修道院に行って、何か問題でもあるかしら?」
「いや、だから……っ!」
ステファンお兄様は、はぁ、と溜息をつくと、ガシガシと乱暴に栗茶の髪をかき乱す。
「……わかったよ。お前は、一度言い出したら聞かないからな……だが、還俗を前提に修道院に預ける、という形にしよう。父上もそれなら許可を出されるだろう」
「でも、」
「いいか、今回の件については、命を下された陛下だけではなく、アンスガル殿下も他の令息方も、胸を痛めていらっしゃるんだ。お前がこのまま、神に一生を捧げるとなったら、一人の令嬢の人生を奪ってしまったと負担に思われる。それは本意ではないんじゃないのか?」
「それは……」
ラルセン家は領地のない子爵位ではあるものの、代々、宮廷魔法師として仕えていることもあって、畏れ多くも、国王陛下にお声掛けいただく機会が多い。
オリヴェル様の婚約者として長かったので、彼と親しいアンスガル第一王子殿下を始めとするこの国を率いていく次世代の実力者たちとも、顔見知りだ。
兄も、オリヴェル様とは将来の義兄弟であり幼馴染として、浅からぬ仲だったから、思うところがあるのだろう。
「形式だけ、だ。別に、必ず還俗しろ、というわけじゃない。それなら、いいだろう?」
「……わかったわ、それなら……」
こうして私は、アストリッド・ラルセン子爵令嬢から、ただのアストリッドになった。
私は、アストリッド・ラルセン子爵令嬢から、ただのアストリッドになった。
「ごめん、アストリッド……」
その日、実際に王宮でどんなやり取りがあったのかはわからない。
けれど、帰宅したステファンお兄様は心痛に耐えかねた様子で、そう私に頭を下げた。
来月に挙げる予定だった私の結婚式が、王命により、取りやめになったとの報告とともに。
「オリヴェルが、直接お前と話をしたいと望んでいる」
七歳上のオリヴェル・オーストレーム伯爵令息とは、婚約を結んで十二年。
両家の父親同士が決めた縁談だったし、年が離れていることもあり、婚約者とはいっても、恋人関係だったわけではない。
けれど、燃え上がるような恋情はなくとも、穏やかな信頼とともに、いつか、家族になるのだと思っていた人。
太陽の光のような眩い金の癖毛は背の中ほどまで伸び、首筋で一つに結わえられている。
切れ長で、萌えだしたばかりの木の芽のような明るい緑の瞳は、宝石のように神秘的な輝きを放つ。
通ったまっすぐな鼻筋に、薄い唇、すっきりとした頬のライン。
魔法騎士らしいしなやかなで均整の取れた体躯と持て余しそうに長い手足は、同じ騎士服を着た集団の中であっても、彼を際立たせる。
華やかな色合いに反して物静かで穏やかな彼は、いつも柔らかな笑みを浮かべているけれど、すべき時にはきちんと厳しい決断も下される方。
一方の私は、亡き母譲りの菫色の瞳こそ密かに誇りに思っているけれど、灰をまぶしたような濃灰色の髪がどう贔屓目に見ても地味だ。
背は大きくも小さくもなく、体形も痩せすぎでも豊満でもなく。
顔立ちだけでも華麗であればいいのだけれど、残念ながら特筆すべき特徴はない。
ようやく、ひねり出されたであろう賛辞が、
「聡明そうなご令嬢ですね」
というあたり、推して知るべしだろう。
そのため、美しい彼が平凡な容姿の私の婚約者であることを、どれほど、令嬢たちに揶揄されてきたかわからない。
「聖女様のお召しなのでしょう? オリヴェル様は、魔王討伐隊に参加するための準備を何もされていらっしゃらないわ。オーストレーム伯爵家の今後も含めて、これから、心身ともにお忙しくなるでしょうし……王命での婚約破棄なのですもの、事情は十分に理解できているつもりよ。だから、私に余計なお時間を割いていただく必要はないとお伝えして」
『アストリッド嬢は私の婚約者なのだから、何も遠慮する必要はないんだよ。いつでもいいから、呼んでね。駆けつけるから』
任務が重なって忙しそうなオリヴェル様に、『会いたい』の一言どころか手紙一通出せなくなってしまった私に、かつて、彼がかけてくれた言葉。
……けれど、それは、婚約者だったから。
婚約が破棄された今、私が望んでいいものじゃない。
「アストリッド、だが、」
本来ならば、聖女召喚の儀に立ち会う予定ではなかったオリヴェル様。
彼が参席することになったのは、私達の結婚が一年延びたからで、結婚が延期されたのは、母が亡くなってラルセン家が喪に服すことになったからだ。
「……きっと、そういう巡り合わせだったのよ」
何か言い掛けたお兄様の言葉を遮って、自分に言い聞かせるように、そう口にする。
仕方のないことだ。
私が、愛想を尽かされたわけじゃない。
だから……傷ついてなんか、いない。
左薬指の指輪に触れ、胸の奥底から湧き上がりそうになった言語化しがたい気持ちを、いつものように抑え込む。
容姿が美しいわけでも秀でた能力があるわけでもない私が、オリヴェル様の婚約者であるためには、瑕疵を突かれ、粗を探されないように、誰よりも清く正しくあらねばならなかった。
そんな私に今、できること。
それは、この世界のことを何一つご存知ない聖女に個人的な感情をぶつけることでも、想定外に魔王討伐隊の一員に選ばれてこれから多忙になるオリヴェル様とお会いすることでもない。
誰を責めることもなく潔く身を引いて、一日でも早く、聖女が魔王討伐隊を率いてこの世界に平和をもたらしてくださるよう、祈るだけ。
それが、『オリヴェル様に似つかわしくない婚約者』だった私にもっともふさわしい幕引き。
誰にも、ラルセン家に後ろ指を指させたりしない。
そのためには。
「お兄様、私、修道院に行くわ」
「! おい、いくらなんでも、それは……!」
「当て擦りに見えてしまうかしら? でも、実際問題、長年の婚約を破棄されてしまった私に、次の縁談なんて見つかるかどうか。いずれにせよ、お兄様が魔王討伐に出発されたら、お戻りになるまで、ラルセン家で慶事は行えないのだし、魔王討伐には何年もかかるわ。その頃には、十分に行き遅れですもの。今から修道院に行って、何か問題でもあるかしら?」
「いや、だから……っ!」
ステファンお兄様は、はぁ、と溜息をつくと、ガシガシと乱暴に栗茶の髪をかき乱す。
「……わかったよ。お前は、一度言い出したら聞かないからな……だが、還俗を前提に修道院に預ける、という形にしよう。父上もそれなら許可を出されるだろう」
「でも、」
「いいか、今回の件については、命を下された陛下だけではなく、アンスガル殿下も他の令息方も、胸を痛めていらっしゃるんだ。お前がこのまま、神に一生を捧げるとなったら、一人の令嬢の人生を奪ってしまったと負担に思われる。それは本意ではないんじゃないのか?」
「それは……」
ラルセン家は領地のない子爵位ではあるものの、代々、宮廷魔法師として仕えていることもあって、畏れ多くも、国王陛下にお声掛けいただく機会が多い。
オリヴェル様の婚約者として長かったので、彼と親しいアンスガル第一王子殿下を始めとするこの国を率いていく次世代の実力者たちとも、顔見知りだ。
兄も、オリヴェル様とは将来の義兄弟であり幼馴染として、浅からぬ仲だったから、思うところがあるのだろう。
「形式だけ、だ。別に、必ず還俗しろ、というわけじゃない。それなら、いいだろう?」
「……わかったわ、それなら……」
こうして私は、アストリッド・ラルセン子爵令嬢から、ただのアストリッドになった。
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