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イェコフは、南部で最も栄えている街だ。
南部の大領主であるオーバリ辺境伯の治める地で、二年前、修道院に向かう時にも通過したのだけれど、魔王の影響はまったくといっていいほど感じられず、平時のようににぎわっている。
イェコフの中心部まで荷馬車に乗せてくれた御者さんにお礼をすると、院長は荷物を手に、
「さ、まずは食料を買いに行こう」
と言った。
修道院からのお遣いや、休日にアンニカと連れ立って、数回、足を運んだことがあるけれど、私は街にあまり詳しくない。
戸惑っていると、院長はためらうことなく、歩き始める。
「干し肉だったら、アンデル商店が王都好みの味じゃないかな。ドライフルーツならホレム商店一択だね」
「お詳しいんですね」
「ん~、まぁ、伊達に南部に長く住んでないから」
各自が持つ水筒以外にも、馬車に積んで置ける大きなサイズの水筒を一つ追加で購入する。
「こんな急な呼び出しなんだ、経費はすべて、請求させてもらおうじゃないか」
どこか悪い顔で、院長が笑う。
彼女がこういう人だから、静かな祈りの場所であっても、南部修道院は笑いが絶えない。
確かに私は遠巻きにされているけれど、社交界とは違い、そこには多分に同情が含まれている。
南部修道院に所属する女性のうち、誓願を立てて生涯、神に仕えると決めた人は四割に過ぎない。
残りの六割の女性は、修道女見習いの期間を経て、いずれはひっそりと貴族社会に戻っていく。
王命による婚約破棄、しかも、聖女の介入によって、という異例な事件は、南部の辺境にまで届いている。
状況は様々ながら、婚約で揉めた結果、修道院に身を寄せている女性も多いので、彼女たちにとって、私の身に起きた出来事は他人事ではなかったのだろう。
南部に来たばかりの頃は、彼女たちの窺うような視線が辛く、社交界同様に陰口を言われているのだと思って距離を取ってしまったけれど、今では、そうではなかったことに気づいている。
「じゃあ、そろそろ向かおうか」
目指す先は、中心部から少し離れたオーバリ辺境伯邸。
街の中心部からは、徒歩で一時間ほどだと院長は言った。
令嬢時代に一時間も歩いたことはないけれど、南部に来てからは、移動の基本は徒歩。
一時間程度なら、十分、許容範囲だ。
けれど、緩い勾配ではあるものの、丘の上に立つ辺境伯邸に到着したときには、少し息が上がってしまっていた。
院長は平然としている様子なのが、経験の差ということなのか、体力の差ということなのか。
なんだか、悔しい。
「オーバリ閣下にお目通り願います」
門衛に声を掛ける院長は、すっと背筋を伸ばし、まっすぐに前を見据えて堂々としている。
名乗らずとも南部修道院の院長であるとわかっているのか、それとも、事前に連絡していたのか。
待たされることなく門が開けられ、応接間へと通される。
「ご無沙汰しております、セシーリア様」
十分もせずに姿を見せたのが、オーバリ辺境伯なのだろう。
年は、四十代後半くらいだろうか。
どこかで見覚えのある顔立ちだけれど、浅黒い肌に茶褐色の髪、薄いヘーゼルの瞳は、南部に多い特徴だから、気のせいかもしれない。
「お久し振りです、閣下。こちらは、修道女見習いのアストリッドです」
「ようこそ、アストリッドさん」
「はじめてお目にかかります、オーバリ辺境伯閣下。アストリッドと申します」
院長とオーバリ辺境伯、二人の間に面識があるのは、何も不思議な話ではない。
院長が長く南部修道院にいるのは事実のようだし、貴族令嬢を預かっている以上、この地の領主であるオーバリ辺境伯とも交流があるのだろう。
けれど、単なる顔見知りというには、流れる空気が妙だ。
「こちらにも、王家の鳥が飛んで来ましたか?」
美しい所作で、紅茶を一口。
いつもと口調が違うだけで、その麗しい容姿もあいまって、修道服を着ているにもかかわらず、院長は高貴な貴婦人にしか見えない。
(やっぱり、高位貴族よね……?)
なんというか、私とは持って生まれた格が違う。
「えぇ、今朝方。ですが、本日中の出発は難しいです。馬車を準備していますが、今から出るとなると、難所のフェルヴァスティ峠を夜中に通過することになってしまいますので。お急ぎのところ、申し訳ないのですが、一晩こちらでお泊りいただいて、明朝早くに出立していただくのがよろしいかと」
「承知いたしました。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
淡々としているけれど、どこか目に見えない緊張感のある遣り取り。
オーバリ辺境伯はちらちらと視線を遣りながら、院長の表情を窺っているように見える。
南部の人はどちらかというと、明るく開放的で、系統立てるよりもフィーリングで語るタイプの人が多い印象なのだけれど、オーバリ辺境伯はちょっと違う気がする。
端正な容姿といい、穏やかな物腰といい、王宮の文官によくいるタイプだ。
(そういえば)
彼は先ほど、院長を「セシーリア様」と呼んでいた。
修道女は家門を離れて修道院に所属するから、家名ではなく名で呼ばれること自体は不思議ではない。
実際、私は修道院にいるほとんどの女性たちの出身家門を、知らない。
けれど、どこか違和感があるのは――
(あぁ、きっと、修道女になる前の院長をご存知なのね)
院長と接する人々は、彼女を役職である「院長先生」と呼ぶ。
それなのに、オーバリ辺境伯は個人名で呼んだ。
おそらく、貴族令嬢時代の院長をご存知なのだ。
それならば、対応が想定以上に丁寧なのも頷ける。
「長旅になりますから、ひとまず、晩餐までお休みください。何かご要望がありましたら、お気軽にお申しつけを」
「ありがとうございます」
仕事が残っている、というオーバリ辺境伯と別れて使用人に連れて来られたのは、立派な客間だった。
清貧を旨とする聖職者が滞在するには上等すぎるように思うけれど、院長職ともなれば、普通なのだろうか。
アンスガル殿下に名指しで呼ばれたのは私とはいえ、身分でいえば、私は院長の従者として同伴されている形の筈。
修道女見習いにこの部屋は、贅沢すぎる。
「アストリッド、当分はベッドで寝られないから、今のうちに休んでおくといい」
特に気にする様子もない院長に、思わず、尋ねてしまう。
「このように立派なお部屋をお借りしても、よろしいのでしょうか」
「大丈夫だよ、ランクでいえば、オーバリ邸の中で上から三番目の客間だから。聖職者を泊めるのに問題はない。アストリッドが気に病まないよう、閣下が気遣ってくださったみたいだね」
(なぜ、そんなことをご存知なの?)
凝視する私に、院長は苦笑を返した。
「おっと、うっかり口が滑った」
「院長先生?」
「……うちの子たちには、秘密だよ」
しーっ、と指先を唇に当てて、院長は微笑む。
その姿を見て、うっかりではなく、わざとなのだと気がついた。
「うちの子たち」というのは、南部修道院の同輩たちのことだろう。
誰も知らない、院長の過去。
「オーバリ閣下……ベネディクト・オーバリ殿は、義理の弟だったんだ」
「義理の、弟……?」
「彼の兄、クリストフェル・オーバリが、私の夫だった」
「!」
それはつまり、院長は過去、この屋敷で暮らしていた、ということ。
客間のランクを把握していて当然だ。
南部の大領主であるオーバリ辺境伯家に嫁げる身分なのだから、高位貴族の令嬢だった、という推測も間違っていない筈。
(でも……先ほどお会いした辺境伯閣下のお兄様の妻、ということよね……? 院長先生が、私が思っているより年上なのは確かなのでしょうけど、お年が離れたご夫婦だったのかしら)
「私は王都に住んでいたのだけど、幼い頃から、南部にはよく遊びに来ていた。だから、クリストフェルとベネディクトとは、長い付き合いでね。両家の親が相談して、私とクリストフェルの婚約を結んだんだ」
よくある話だ。
私とオリヴェル様のように、家と家の条件を勘案して、親が幼いうちに婚約者を決める、というのは。
「夫だった、といっても、結婚生活は長くなかった。大人しかったベネディクトと違って、クリストフェルは考えるよりも先に体が動くタイプでね。村を視察中に、木登りをして遊んでいた子供たちが足を滑らせて落下したのを助けて、当たりどころ悪く、そのまま、逝ってしまった。……まだ、新婚三ヶ月だったんだよ。式を挙げる前月のことだ」
淡々とした口調で、夫について語る院長。
けれど、それは、彼女が夫に想いを残していないからではなくて……きっと、あまりにも悲し過ぎたから。
「クリストフェルとは、恋人だったわけじゃない。恋愛結婚する令嬢を、羨ましいとも思っていた。あまりにも幼い頃に決められた婚約だったし、夫婦になるのが当然だと思っていたから、特に歩み寄る努力もしていなかった。他の異性に興味を持たなかったのは、彼の存在に十分に満足していたからだってことすら、わかっていなかった。……失ってから、初めて気がついたんだ。彼を、愛していたことに」
そう、寂しそうに笑う院長。
「子もいないし、オーバリ家の家督はベネディクトに継がれることになった。身の振り方を考えた時に、出戻ってまた誰かに嫁ぐか、修道女になるかの二択で、私は後者を選んだ。夫に操を立てる、といえば聞こえはいいけど、単に、彼との思い出から離れたくなかっただけだ。彼の愛した地で、彼のように振る舞いながら、骨を埋める。それが、私にとっての幸せだ」
院長が若い男性のような口調で話し、私たちに親身になって接してくれるのは、領民を大切にしていた亡夫を真似ていたからなのか。
その姿は、なんともいじらしく見えた。
「ベネディクトはね。私を可哀想に思って、今でも気を遣ってくれるけど、あまりにも時間が経ったからか、今の私はクリストフェルとの思い出に触れると、悲しみよりも喜びが先に立つ。彼を覚えている自分が嬉しい。自分の子は持てなかったけど、修道院に一時的に身を寄せる子は少なくないし、寂しくもない」
その微笑みは、先ほどまでの陰りを払拭したように穏やかなものだ。
「でもね、アストリッド」
院長の話を聞くだけのつもりが、不意に名を呼ばれて、背筋がぴんと伸びる。
「私は、もっと早く自分の気持ちに気づきたかった。そして、クリストフェルに想いを伝えたかった。それだけは、後悔しているんだよ」
じっと、私の心の内側を探るような目線。
親の決めた婚約者。
恋人ではなかった。
そして、結婚式を間近に控えた中での別れ――どこかで、聞いた話。
……そうか、院長は、私がオリヴェル様に想いを告げないまま、心を残すことを心配してくれているのか。
「院長先生……」
「私は、長く王都を離れているからね、オーストレーム伯爵令息について、何も知らない。彼と君が、本当はどんな関係だったのかもわからない。もしかすると、アストリッドにも、わかってないのかな。でもね、いい機会だから、考えてごらん。どうせ、馬車の中ではできることもないんだ。……後悔というのは、取り返しがつかない分、苦しいものだよ。私は、私の可愛がっている子が苦しむ姿は、見たくない」
南部の大領主であるオーバリ辺境伯の治める地で、二年前、修道院に向かう時にも通過したのだけれど、魔王の影響はまったくといっていいほど感じられず、平時のようににぎわっている。
イェコフの中心部まで荷馬車に乗せてくれた御者さんにお礼をすると、院長は荷物を手に、
「さ、まずは食料を買いに行こう」
と言った。
修道院からのお遣いや、休日にアンニカと連れ立って、数回、足を運んだことがあるけれど、私は街にあまり詳しくない。
戸惑っていると、院長はためらうことなく、歩き始める。
「干し肉だったら、アンデル商店が王都好みの味じゃないかな。ドライフルーツならホレム商店一択だね」
「お詳しいんですね」
「ん~、まぁ、伊達に南部に長く住んでないから」
各自が持つ水筒以外にも、馬車に積んで置ける大きなサイズの水筒を一つ追加で購入する。
「こんな急な呼び出しなんだ、経費はすべて、請求させてもらおうじゃないか」
どこか悪い顔で、院長が笑う。
彼女がこういう人だから、静かな祈りの場所であっても、南部修道院は笑いが絶えない。
確かに私は遠巻きにされているけれど、社交界とは違い、そこには多分に同情が含まれている。
南部修道院に所属する女性のうち、誓願を立てて生涯、神に仕えると決めた人は四割に過ぎない。
残りの六割の女性は、修道女見習いの期間を経て、いずれはひっそりと貴族社会に戻っていく。
王命による婚約破棄、しかも、聖女の介入によって、という異例な事件は、南部の辺境にまで届いている。
状況は様々ながら、婚約で揉めた結果、修道院に身を寄せている女性も多いので、彼女たちにとって、私の身に起きた出来事は他人事ではなかったのだろう。
南部に来たばかりの頃は、彼女たちの窺うような視線が辛く、社交界同様に陰口を言われているのだと思って距離を取ってしまったけれど、今では、そうではなかったことに気づいている。
「じゃあ、そろそろ向かおうか」
目指す先は、中心部から少し離れたオーバリ辺境伯邸。
街の中心部からは、徒歩で一時間ほどだと院長は言った。
令嬢時代に一時間も歩いたことはないけれど、南部に来てからは、移動の基本は徒歩。
一時間程度なら、十分、許容範囲だ。
けれど、緩い勾配ではあるものの、丘の上に立つ辺境伯邸に到着したときには、少し息が上がってしまっていた。
院長は平然としている様子なのが、経験の差ということなのか、体力の差ということなのか。
なんだか、悔しい。
「オーバリ閣下にお目通り願います」
門衛に声を掛ける院長は、すっと背筋を伸ばし、まっすぐに前を見据えて堂々としている。
名乗らずとも南部修道院の院長であるとわかっているのか、それとも、事前に連絡していたのか。
待たされることなく門が開けられ、応接間へと通される。
「ご無沙汰しております、セシーリア様」
十分もせずに姿を見せたのが、オーバリ辺境伯なのだろう。
年は、四十代後半くらいだろうか。
どこかで見覚えのある顔立ちだけれど、浅黒い肌に茶褐色の髪、薄いヘーゼルの瞳は、南部に多い特徴だから、気のせいかもしれない。
「お久し振りです、閣下。こちらは、修道女見習いのアストリッドです」
「ようこそ、アストリッドさん」
「はじめてお目にかかります、オーバリ辺境伯閣下。アストリッドと申します」
院長とオーバリ辺境伯、二人の間に面識があるのは、何も不思議な話ではない。
院長が長く南部修道院にいるのは事実のようだし、貴族令嬢を預かっている以上、この地の領主であるオーバリ辺境伯とも交流があるのだろう。
けれど、単なる顔見知りというには、流れる空気が妙だ。
「こちらにも、王家の鳥が飛んで来ましたか?」
美しい所作で、紅茶を一口。
いつもと口調が違うだけで、その麗しい容姿もあいまって、修道服を着ているにもかかわらず、院長は高貴な貴婦人にしか見えない。
(やっぱり、高位貴族よね……?)
なんというか、私とは持って生まれた格が違う。
「えぇ、今朝方。ですが、本日中の出発は難しいです。馬車を準備していますが、今から出るとなると、難所のフェルヴァスティ峠を夜中に通過することになってしまいますので。お急ぎのところ、申し訳ないのですが、一晩こちらでお泊りいただいて、明朝早くに出立していただくのがよろしいかと」
「承知いたしました。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
淡々としているけれど、どこか目に見えない緊張感のある遣り取り。
オーバリ辺境伯はちらちらと視線を遣りながら、院長の表情を窺っているように見える。
南部の人はどちらかというと、明るく開放的で、系統立てるよりもフィーリングで語るタイプの人が多い印象なのだけれど、オーバリ辺境伯はちょっと違う気がする。
端正な容姿といい、穏やかな物腰といい、王宮の文官によくいるタイプだ。
(そういえば)
彼は先ほど、院長を「セシーリア様」と呼んでいた。
修道女は家門を離れて修道院に所属するから、家名ではなく名で呼ばれること自体は不思議ではない。
実際、私は修道院にいるほとんどの女性たちの出身家門を、知らない。
けれど、どこか違和感があるのは――
(あぁ、きっと、修道女になる前の院長をご存知なのね)
院長と接する人々は、彼女を役職である「院長先生」と呼ぶ。
それなのに、オーバリ辺境伯は個人名で呼んだ。
おそらく、貴族令嬢時代の院長をご存知なのだ。
それならば、対応が想定以上に丁寧なのも頷ける。
「長旅になりますから、ひとまず、晩餐までお休みください。何かご要望がありましたら、お気軽にお申しつけを」
「ありがとうございます」
仕事が残っている、というオーバリ辺境伯と別れて使用人に連れて来られたのは、立派な客間だった。
清貧を旨とする聖職者が滞在するには上等すぎるように思うけれど、院長職ともなれば、普通なのだろうか。
アンスガル殿下に名指しで呼ばれたのは私とはいえ、身分でいえば、私は院長の従者として同伴されている形の筈。
修道女見習いにこの部屋は、贅沢すぎる。
「アストリッド、当分はベッドで寝られないから、今のうちに休んでおくといい」
特に気にする様子もない院長に、思わず、尋ねてしまう。
「このように立派なお部屋をお借りしても、よろしいのでしょうか」
「大丈夫だよ、ランクでいえば、オーバリ邸の中で上から三番目の客間だから。聖職者を泊めるのに問題はない。アストリッドが気に病まないよう、閣下が気遣ってくださったみたいだね」
(なぜ、そんなことをご存知なの?)
凝視する私に、院長は苦笑を返した。
「おっと、うっかり口が滑った」
「院長先生?」
「……うちの子たちには、秘密だよ」
しーっ、と指先を唇に当てて、院長は微笑む。
その姿を見て、うっかりではなく、わざとなのだと気がついた。
「うちの子たち」というのは、南部修道院の同輩たちのことだろう。
誰も知らない、院長の過去。
「オーバリ閣下……ベネディクト・オーバリ殿は、義理の弟だったんだ」
「義理の、弟……?」
「彼の兄、クリストフェル・オーバリが、私の夫だった」
「!」
それはつまり、院長は過去、この屋敷で暮らしていた、ということ。
客間のランクを把握していて当然だ。
南部の大領主であるオーバリ辺境伯家に嫁げる身分なのだから、高位貴族の令嬢だった、という推測も間違っていない筈。
(でも……先ほどお会いした辺境伯閣下のお兄様の妻、ということよね……? 院長先生が、私が思っているより年上なのは確かなのでしょうけど、お年が離れたご夫婦だったのかしら)
「私は王都に住んでいたのだけど、幼い頃から、南部にはよく遊びに来ていた。だから、クリストフェルとベネディクトとは、長い付き合いでね。両家の親が相談して、私とクリストフェルの婚約を結んだんだ」
よくある話だ。
私とオリヴェル様のように、家と家の条件を勘案して、親が幼いうちに婚約者を決める、というのは。
「夫だった、といっても、結婚生活は長くなかった。大人しかったベネディクトと違って、クリストフェルは考えるよりも先に体が動くタイプでね。村を視察中に、木登りをして遊んでいた子供たちが足を滑らせて落下したのを助けて、当たりどころ悪く、そのまま、逝ってしまった。……まだ、新婚三ヶ月だったんだよ。式を挙げる前月のことだ」
淡々とした口調で、夫について語る院長。
けれど、それは、彼女が夫に想いを残していないからではなくて……きっと、あまりにも悲し過ぎたから。
「クリストフェルとは、恋人だったわけじゃない。恋愛結婚する令嬢を、羨ましいとも思っていた。あまりにも幼い頃に決められた婚約だったし、夫婦になるのが当然だと思っていたから、特に歩み寄る努力もしていなかった。他の異性に興味を持たなかったのは、彼の存在に十分に満足していたからだってことすら、わかっていなかった。……失ってから、初めて気がついたんだ。彼を、愛していたことに」
そう、寂しそうに笑う院長。
「子もいないし、オーバリ家の家督はベネディクトに継がれることになった。身の振り方を考えた時に、出戻ってまた誰かに嫁ぐか、修道女になるかの二択で、私は後者を選んだ。夫に操を立てる、といえば聞こえはいいけど、単に、彼との思い出から離れたくなかっただけだ。彼の愛した地で、彼のように振る舞いながら、骨を埋める。それが、私にとっての幸せだ」
院長が若い男性のような口調で話し、私たちに親身になって接してくれるのは、領民を大切にしていた亡夫を真似ていたからなのか。
その姿は、なんともいじらしく見えた。
「ベネディクトはね。私を可哀想に思って、今でも気を遣ってくれるけど、あまりにも時間が経ったからか、今の私はクリストフェルとの思い出に触れると、悲しみよりも喜びが先に立つ。彼を覚えている自分が嬉しい。自分の子は持てなかったけど、修道院に一時的に身を寄せる子は少なくないし、寂しくもない」
その微笑みは、先ほどまでの陰りを払拭したように穏やかなものだ。
「でもね、アストリッド」
院長の話を聞くだけのつもりが、不意に名を呼ばれて、背筋がぴんと伸びる。
「私は、もっと早く自分の気持ちに気づきたかった。そして、クリストフェルに想いを伝えたかった。それだけは、後悔しているんだよ」
じっと、私の心の内側を探るような目線。
親の決めた婚約者。
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そして、結婚式を間近に控えた中での別れ――どこかで、聞いた話。
……そうか、院長は、私がオリヴェル様に想いを告げないまま、心を残すことを心配してくれているのか。
「院長先生……」
「私は、長く王都を離れているからね、オーストレーム伯爵令息について、何も知らない。彼と君が、本当はどんな関係だったのかもわからない。もしかすると、アストリッドにも、わかってないのかな。でもね、いい機会だから、考えてごらん。どうせ、馬車の中ではできることもないんだ。……後悔というのは、取り返しがつかない分、苦しいものだよ。私は、私の可愛がっている子が苦しむ姿は、見たくない」
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