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オーバリ辺境伯邸で一泊した翌朝、私と院長は急行馬車で王都に出発した。
院長の話していた通り、車内は広く、女性であれば横になっても狭苦しさは感じない。
座面に敷かれたふかふかの毛皮は、目が四つある羊に似た魔獣から取れたもので、夏は吸湿し、冬は保温して、快適性を保ってくれる高級品の優れものだ。
木製の座面の上に直接敷かれているので、貴族のベッドほどの柔らかさはないけれど、修道院の固いベッドに慣れた身ならば、まったく問題ない。
設えが大きい分、重量もあるうえに、速度を落とさずに走り続けるため、馬は六頭引きという贅沢さ。
この六頭を貸し馬のある大きな街で適宜繋ぎ換え、時折挟まれる休憩以外は、昼夜を問わずに走り続ける。
事前に、オーバリ辺境伯から伝信鳥が飛んでいるのだろう。
替え馬は準備万端に待っており、余分な時間が取られない。
王都へと向かう大きな街道を走るとはいえ、氷上を滑るように滑らかに走る、とはいかないけれど、乗合馬車や荷馬車に比べれば、振動はぐっと少なく、旅慣れない私でも体調を崩すことはなかった。
心配していたような魔獣の襲撃がなかったのは、各領でも警備の厳重な大きな街道を選んで走っているからなのか、まだ、ここまでは影響が出ていないからなのか。
後者であることを、切に願う。
馬を繋ぎ換える間に共同井戸を借りて修道服を洗濯し、車内に干すのにも慣れた頃、王都が見えてきた。
院長の過去の話を聞いたからといって、互いに急に打ち解けるわけもなく、当たり障りのない会話に終始する日々は、イェコフを出てから、五日目に終わりを迎える。
院長の予想は、合っていたということだ。
「そういえば、王都ではどちらに滞在するのでしょうか」
アンスガル殿下のお呼びであるため、訪問目的地は王宮だ。
けれど、王宮に上がる前に、身綺麗にしておきたい。
現在の私の身分は修道女見習い。
貴族令嬢のように格の高いドレスを身に着ける必要はないけれど、最低限、旅の埃を落すのが礼儀だろう。
ラルセン邸に寄っていいものなのか、それとも、王都にある修道院に立ち寄るのか。
急な呼び出しに、そこまで思い至らなかったことに気がついて尋ねると、院長は、
「問題ない。このまま、王宮に向かうよ」
と言った。
「え、ですが、湯浴みもできていませんし」
「大丈夫、殿下に面会する前に、身支度する時間はもらえるから」
王宮に上がる、というのは、王宮勤めでない限り、緊張感のあるものだと思う。
我が家は父も兄も王宮勤めの魔法師だから、「王宮に上がる」という言葉自体は聞き慣れている。
母が体調を崩してからは出勤前の見送りも私の仕事だったけれど、私自身が行く、というのは、そうそう経験がない。
しかも、単なる交流会ではなく、呼び出しなのだ。
それも、どうやら、聖女絡みらしい、という時点で、緊張もする。
しかし、院長は顔色も変えず、御者に、
「このまま、王宮に直接向かってください」
と、指示を出した。
全国から人や物が集まる王都とはいえ、六頭引きは珍しい。
大型馬車を指差す人々の驚嘆の声を聞きながら、どこか落ち着かない気持ちで、私は向かいの座席に座る院長に視線を向ける。
院長は、修道院の責任者という立場以上に、人に指示を出すことに慣れているように見える。
(……本当に、何者なのかしら)
王宮は、いつ見ても煌びやかだ。
建国以来、遷都したことはないというから、この地に城が築かれて長い。建築費用も時間も、十分に掛けられているのもあるのだろう。
過去の聖女たちが、王都まで影響が及ぶ前に、魔王討伐を成し遂げた証でもある。
馬車は一度、正門で身元確認を受けた後、そのまま、王宮敷地内を走り続けた。
私が過去、オリヴェル様に伴われて訪問したときとは、全然違う方面に向かっていることだけはわかるけれど、目的地がわからない。
ようやく、停車したのは、正門をくぐってから、優に三十分は経った後だった。
「アンスガル殿下のお召しにより参りました、アストリッドと申します」
「お待ちしておりました、ラルセン令嬢」
聖職者は世俗を離れるため、家名を名乗らなくなる。
それなのに、あえて、家名で呼ぶ意味は……
(……私は、還俗したわけじゃないのに)
修道女見習いではなく貴族令嬢の方が、彼らにとって都合がいい、ということだ。
聖職者は、王族を頂点とした国民の身分制度の枠外に立つ存在。
建前上、互いに尊重しているけれど、王族の一言の重みは、貴族相手と聖職者相手では、変わってくる。
(院長先生の推測が、当たっているのかしら……)
聖女の意向に添って婚約破棄されたことは、仕方がないと割り切ってはいる。
だからといって、傷つかなかったわけではない。
これ以上、私に何も求めて欲しくない、と思うのは、我儘なのだろうか。
「セシーリア様、ラルセン令嬢、どうぞ、こちらへ」
出迎えた男性の顔に、見覚えがある。
アンスガル殿下の側近の、フィリップ・オーバリ伯爵令息だ。
過去に、オリヴェル様に伴われた場で紹介を受けた。
(あ……そうだわ、『オーバリ』ということは、辺境伯閣下のご子息じゃない)
辺境伯、とは辺境の領地を守る特別な伯爵位の呼び名。
道理で、辺境伯閣下の顔立ちに見覚えがあったはずだ。
今でも、院長と元の嫁ぎ先であったオーバリ家の交流があるのであれば、オーバリ伯爵令息が彼女の名を親しく呼ぶのも当然だろう。
オーバリ伯爵令息に付き従って奥に進むと、客間に案内される。
「後ほど、お迎えに上がります」
との言葉を残し、オーバリ伯爵令息は部屋を辞した。
「長旅、お疲れでございましょう。湯浴みの準備を整えてございます」
部屋に待機していた侍女に声を掛けられて、院長は、ちら、と私に目を向けた。
「先にアストリッドを綺麗にしてあげてくださる? これから、アンスガル殿下にお目にかかりますから」
「いえ、院長先生がお先に、」
「私は付き添いで来ただけよ。あなたが招かれたのだから、準備万端にしないといけないわ」
「……承知いたしました」
綺麗に、といっても、化粧をするわけでも、着飾るわけでもないのだけれど、湯浴みは思っていた以上に心が安らいだ。
いくら、ゆとりのある車内だったとはいえ、知らないうちに筋肉の凝りが溜まっていたのだろう。
この先、どうなるのかわからない不安が、体にも影響していたのかもしれない。
贅沢にもたっぷりの湯に身を沈め、体の芯まで温めることで、疲労がとろとろと溶けだしていったような気がする。
湯から上がり、パリッと火熨斗を掛けられた修道服に着替え、髪を丁寧に梳いてもらうと、気持ちもまた、引き締まった。
アンスガル殿下との面会が、私にとって喜ばしいもののようには思えない。
けれど、みすぼらしくくたびれた姿で対面するのは、かつて、貴族令嬢として彼の方にお目通りしたことのある身として、できなかった。
(くだらないプライド……かしら)
しかし、そのプライドがあるからこそ、婚約破棄という事態を取り乱さずに受け入れることができたのだとも思う。
それに、いかにもやつれた様子では、不要な心労をかけかねない。
アンスガル殿下をはじめ、王家の皆様は喜んで私とオリヴェル様の婚約を破棄させたわけではないのだ。
「アンスガル殿下、セシーリア様とラルセン令嬢がお越しです」
私と同じように身支度を整えた院長は、修道服を身に着けているというのに、いつも以上にキラキラと輝いて見える。
それは、この王宮の中で、彼女だけは私の味方になってくれる、と信じられるからなのだろう。
私が招かれた理由を推測し、わざわざ、王都まで付き添ったうえに、私が後悔しないようにと忠告までしてくれたのだから。
改めて客間まで迎えに来てくださったオーバリ伯爵令息に伴われて訪れたのは、アンスガル殿下の私的な応接間だった。
かつて、オリヴェル様とともに訪れたことがあるから、間違いない。
私たちの訪れを受けて、ソファに腰を下ろしていらしたアンスガル殿下が、音も立てずにすっと立ち上がる。
背が高く、がっしりとした体躯に、王妃陛下譲りの赤銅色の髪。
緑の瞳は、オリヴェル様のペリドットの瞳とは異なり、エメラルドのように濃い。
精悍で日に焼けたお顔は凛々しく、彼が自ら剣を持ち、魔獣と戦う方であることを示している。
アンスガル殿下は、王子であると同時に、優秀な騎士でもあるのだ。
「久し振りだ、ラルセン令嬢。そして、ご健勝そうで何よりです、伯母上。いつものことですが、先触れくらい、出してくださいませんか。オーバリ辺境伯から連絡がなければ、お迎えの準備が間に合わないところでした」
(おば上……?)
ぎょっとして院長を見ると、彼女はいたずらが見つかった子供のように、ぺろり、と舌を出して見せた。
その様子を見て、アンスガル殿下が呆れたような声を上げる。
「まさか、伯母上、ラルセン令嬢に何も言わずについて来られたのですか?」
「あぁら、なぁんのことでしょぉ?」
(すっごい棒読み……)
アンスガル殿下は、ふぅ、と溜息を吐くと、私に取り繕った笑顔を向けた。
「驚いただろう? セシーリア伯母上は、父の姉なんだ」
「王姉殿下でいらっしゃったのですか⁈」
(ちょっと待って、オリヴェル様と同い年のアンスガル殿下は、今年で二十八歳。お父上である陛下が五十歳前後ということは……)
「あら、いけないわ、アストリッド。わたくしの年齢を計算しようとしているのね?」
ぴと、と、院長の細い人差し指が私の鼻先に触れる。
「!」
「言ったでしょう? この年になると馬車旅が辛いのよ、って」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶって笑う院長は、やはり、三十代前半にしか見えない。
(でも……王姉殿下なのであれば、魔王討伐隊について一般に知られている以上の情報をご存知であることも、王家の人々がどのように考えて動かれるか冷静に分析されることも、不思議ではないわ)
思い返せば、私たちの世話をしてくれた侍女たちと気安い様子だったのも、彼女が王族だからなのだろう。
南部の大領主であるオーバリ辺境伯家と王家の婚姻だって、十分にありえる話だ。
もしかすると、オーバリ伯爵令息がアンスガル殿下の側近になっているのも、この関係があったからなのかもしれない。
「暴露されてしまったからには、率直にお尋ねいたしますけれど。アンスガル殿下、修道院で静かに祈りの日々を送っているアストリッドをわざわざ呼びつけるなんて、一体、どういうおつもりなのです?」
王姉殿下とはいえ、現在の院長は聖職者。
王籍を離れた以上、王族であるアンスガル殿下に敬意を払わねばならない。
けれど、そこは身内だからなのか、院長の言葉は丁寧でありながらも平易だ。
院長の問いに、はきはきとした物言いのアンスガル殿下には珍しく、う、と言葉に詰まった。
「いや……その……」
お手紙に、『心苦しい』とあったのは、きっと本心なのだ。
その証拠に、なかなか本題を切り出せずに視線をさまよわせている。
「それは……」
その時、不意に廊下がざわざわと騒がしくなった。
引き留めるような声、慌てたような足音、そして――
バンッ、と乱暴な音とともに開けられた扉。
(え、何……⁈)
院長の話していた通り、車内は広く、女性であれば横になっても狭苦しさは感じない。
座面に敷かれたふかふかの毛皮は、目が四つある羊に似た魔獣から取れたもので、夏は吸湿し、冬は保温して、快適性を保ってくれる高級品の優れものだ。
木製の座面の上に直接敷かれているので、貴族のベッドほどの柔らかさはないけれど、修道院の固いベッドに慣れた身ならば、まったく問題ない。
設えが大きい分、重量もあるうえに、速度を落とさずに走り続けるため、馬は六頭引きという贅沢さ。
この六頭を貸し馬のある大きな街で適宜繋ぎ換え、時折挟まれる休憩以外は、昼夜を問わずに走り続ける。
事前に、オーバリ辺境伯から伝信鳥が飛んでいるのだろう。
替え馬は準備万端に待っており、余分な時間が取られない。
王都へと向かう大きな街道を走るとはいえ、氷上を滑るように滑らかに走る、とはいかないけれど、乗合馬車や荷馬車に比べれば、振動はぐっと少なく、旅慣れない私でも体調を崩すことはなかった。
心配していたような魔獣の襲撃がなかったのは、各領でも警備の厳重な大きな街道を選んで走っているからなのか、まだ、ここまでは影響が出ていないからなのか。
後者であることを、切に願う。
馬を繋ぎ換える間に共同井戸を借りて修道服を洗濯し、車内に干すのにも慣れた頃、王都が見えてきた。
院長の過去の話を聞いたからといって、互いに急に打ち解けるわけもなく、当たり障りのない会話に終始する日々は、イェコフを出てから、五日目に終わりを迎える。
院長の予想は、合っていたということだ。
「そういえば、王都ではどちらに滞在するのでしょうか」
アンスガル殿下のお呼びであるため、訪問目的地は王宮だ。
けれど、王宮に上がる前に、身綺麗にしておきたい。
現在の私の身分は修道女見習い。
貴族令嬢のように格の高いドレスを身に着ける必要はないけれど、最低限、旅の埃を落すのが礼儀だろう。
ラルセン邸に寄っていいものなのか、それとも、王都にある修道院に立ち寄るのか。
急な呼び出しに、そこまで思い至らなかったことに気がついて尋ねると、院長は、
「問題ない。このまま、王宮に向かうよ」
と言った。
「え、ですが、湯浴みもできていませんし」
「大丈夫、殿下に面会する前に、身支度する時間はもらえるから」
王宮に上がる、というのは、王宮勤めでない限り、緊張感のあるものだと思う。
我が家は父も兄も王宮勤めの魔法師だから、「王宮に上がる」という言葉自体は聞き慣れている。
母が体調を崩してからは出勤前の見送りも私の仕事だったけれど、私自身が行く、というのは、そうそう経験がない。
しかも、単なる交流会ではなく、呼び出しなのだ。
それも、どうやら、聖女絡みらしい、という時点で、緊張もする。
しかし、院長は顔色も変えず、御者に、
「このまま、王宮に直接向かってください」
と、指示を出した。
全国から人や物が集まる王都とはいえ、六頭引きは珍しい。
大型馬車を指差す人々の驚嘆の声を聞きながら、どこか落ち着かない気持ちで、私は向かいの座席に座る院長に視線を向ける。
院長は、修道院の責任者という立場以上に、人に指示を出すことに慣れているように見える。
(……本当に、何者なのかしら)
王宮は、いつ見ても煌びやかだ。
建国以来、遷都したことはないというから、この地に城が築かれて長い。建築費用も時間も、十分に掛けられているのもあるのだろう。
過去の聖女たちが、王都まで影響が及ぶ前に、魔王討伐を成し遂げた証でもある。
馬車は一度、正門で身元確認を受けた後、そのまま、王宮敷地内を走り続けた。
私が過去、オリヴェル様に伴われて訪問したときとは、全然違う方面に向かっていることだけはわかるけれど、目的地がわからない。
ようやく、停車したのは、正門をくぐってから、優に三十分は経った後だった。
「アンスガル殿下のお召しにより参りました、アストリッドと申します」
「お待ちしておりました、ラルセン令嬢」
聖職者は世俗を離れるため、家名を名乗らなくなる。
それなのに、あえて、家名で呼ぶ意味は……
(……私は、還俗したわけじゃないのに)
修道女見習いではなく貴族令嬢の方が、彼らにとって都合がいい、ということだ。
聖職者は、王族を頂点とした国民の身分制度の枠外に立つ存在。
建前上、互いに尊重しているけれど、王族の一言の重みは、貴族相手と聖職者相手では、変わってくる。
(院長先生の推測が、当たっているのかしら……)
聖女の意向に添って婚約破棄されたことは、仕方がないと割り切ってはいる。
だからといって、傷つかなかったわけではない。
これ以上、私に何も求めて欲しくない、と思うのは、我儘なのだろうか。
「セシーリア様、ラルセン令嬢、どうぞ、こちらへ」
出迎えた男性の顔に、見覚えがある。
アンスガル殿下の側近の、フィリップ・オーバリ伯爵令息だ。
過去に、オリヴェル様に伴われた場で紹介を受けた。
(あ……そうだわ、『オーバリ』ということは、辺境伯閣下のご子息じゃない)
辺境伯、とは辺境の領地を守る特別な伯爵位の呼び名。
道理で、辺境伯閣下の顔立ちに見覚えがあったはずだ。
今でも、院長と元の嫁ぎ先であったオーバリ家の交流があるのであれば、オーバリ伯爵令息が彼女の名を親しく呼ぶのも当然だろう。
オーバリ伯爵令息に付き従って奥に進むと、客間に案内される。
「後ほど、お迎えに上がります」
との言葉を残し、オーバリ伯爵令息は部屋を辞した。
「長旅、お疲れでございましょう。湯浴みの準備を整えてございます」
部屋に待機していた侍女に声を掛けられて、院長は、ちら、と私に目を向けた。
「先にアストリッドを綺麗にしてあげてくださる? これから、アンスガル殿下にお目にかかりますから」
「いえ、院長先生がお先に、」
「私は付き添いで来ただけよ。あなたが招かれたのだから、準備万端にしないといけないわ」
「……承知いたしました」
綺麗に、といっても、化粧をするわけでも、着飾るわけでもないのだけれど、湯浴みは思っていた以上に心が安らいだ。
いくら、ゆとりのある車内だったとはいえ、知らないうちに筋肉の凝りが溜まっていたのだろう。
この先、どうなるのかわからない不安が、体にも影響していたのかもしれない。
贅沢にもたっぷりの湯に身を沈め、体の芯まで温めることで、疲労がとろとろと溶けだしていったような気がする。
湯から上がり、パリッと火熨斗を掛けられた修道服に着替え、髪を丁寧に梳いてもらうと、気持ちもまた、引き締まった。
アンスガル殿下との面会が、私にとって喜ばしいもののようには思えない。
けれど、みすぼらしくくたびれた姿で対面するのは、かつて、貴族令嬢として彼の方にお目通りしたことのある身として、できなかった。
(くだらないプライド……かしら)
しかし、そのプライドがあるからこそ、婚約破棄という事態を取り乱さずに受け入れることができたのだとも思う。
それに、いかにもやつれた様子では、不要な心労をかけかねない。
アンスガル殿下をはじめ、王家の皆様は喜んで私とオリヴェル様の婚約を破棄させたわけではないのだ。
「アンスガル殿下、セシーリア様とラルセン令嬢がお越しです」
私と同じように身支度を整えた院長は、修道服を身に着けているというのに、いつも以上にキラキラと輝いて見える。
それは、この王宮の中で、彼女だけは私の味方になってくれる、と信じられるからなのだろう。
私が招かれた理由を推測し、わざわざ、王都まで付き添ったうえに、私が後悔しないようにと忠告までしてくれたのだから。
改めて客間まで迎えに来てくださったオーバリ伯爵令息に伴われて訪れたのは、アンスガル殿下の私的な応接間だった。
かつて、オリヴェル様とともに訪れたことがあるから、間違いない。
私たちの訪れを受けて、ソファに腰を下ろしていらしたアンスガル殿下が、音も立てずにすっと立ち上がる。
背が高く、がっしりとした体躯に、王妃陛下譲りの赤銅色の髪。
緑の瞳は、オリヴェル様のペリドットの瞳とは異なり、エメラルドのように濃い。
精悍で日に焼けたお顔は凛々しく、彼が自ら剣を持ち、魔獣と戦う方であることを示している。
アンスガル殿下は、王子であると同時に、優秀な騎士でもあるのだ。
「久し振りだ、ラルセン令嬢。そして、ご健勝そうで何よりです、伯母上。いつものことですが、先触れくらい、出してくださいませんか。オーバリ辺境伯から連絡がなければ、お迎えの準備が間に合わないところでした」
(おば上……?)
ぎょっとして院長を見ると、彼女はいたずらが見つかった子供のように、ぺろり、と舌を出して見せた。
その様子を見て、アンスガル殿下が呆れたような声を上げる。
「まさか、伯母上、ラルセン令嬢に何も言わずについて来られたのですか?」
「あぁら、なぁんのことでしょぉ?」
(すっごい棒読み……)
アンスガル殿下は、ふぅ、と溜息を吐くと、私に取り繕った笑顔を向けた。
「驚いただろう? セシーリア伯母上は、父の姉なんだ」
「王姉殿下でいらっしゃったのですか⁈」
(ちょっと待って、オリヴェル様と同い年のアンスガル殿下は、今年で二十八歳。お父上である陛下が五十歳前後ということは……)
「あら、いけないわ、アストリッド。わたくしの年齢を計算しようとしているのね?」
ぴと、と、院長の細い人差し指が私の鼻先に触れる。
「!」
「言ったでしょう? この年になると馬車旅が辛いのよ、って」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶって笑う院長は、やはり、三十代前半にしか見えない。
(でも……王姉殿下なのであれば、魔王討伐隊について一般に知られている以上の情報をご存知であることも、王家の人々がどのように考えて動かれるか冷静に分析されることも、不思議ではないわ)
思い返せば、私たちの世話をしてくれた侍女たちと気安い様子だったのも、彼女が王族だからなのだろう。
南部の大領主であるオーバリ辺境伯家と王家の婚姻だって、十分にありえる話だ。
もしかすると、オーバリ伯爵令息がアンスガル殿下の側近になっているのも、この関係があったからなのかもしれない。
「暴露されてしまったからには、率直にお尋ねいたしますけれど。アンスガル殿下、修道院で静かに祈りの日々を送っているアストリッドをわざわざ呼びつけるなんて、一体、どういうおつもりなのです?」
王姉殿下とはいえ、現在の院長は聖職者。
王籍を離れた以上、王族であるアンスガル殿下に敬意を払わねばならない。
けれど、そこは身内だからなのか、院長の言葉は丁寧でありながらも平易だ。
院長の問いに、はきはきとした物言いのアンスガル殿下には珍しく、う、と言葉に詰まった。
「いや……その……」
お手紙に、『心苦しい』とあったのは、きっと本心なのだ。
その証拠に、なかなか本題を切り出せずに視線をさまよわせている。
「それは……」
その時、不意に廊下がざわざわと騒がしくなった。
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