王命により、婚約破棄されました。

緋田鞠

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 聖女の侍女になるにあたって、一つだけ、条件をつけた。
 それは、『還俗しない』ということ。
 原則として、魔王討伐隊に同行する聖職者は、回復魔法や浄化魔法が使える上級司祭に限られる。
 また、修道女は神に仕える身なので、貴人に仕える侍女にはなれない。
 私は回復魔法も浄化魔法も使えないため、上級司祭と同じ仕事はできないのだし、求められているのは聖女の侍女になることなので、アンスガル殿下が必要としているのは貴族令嬢である『ラルセン子爵令嬢』としての私だ。
 しかし、それはあくまでもアンスガル殿下の目的。
 聖女が私を侍女に望む理由は、アンスガル殿下とはまったく異なる。
 彼女は私に、新しい縁談を見つける、と話していた。
 オリヴェル様との婚約を壊した代償として、と。
 けれど、私はそんなこと、望んでいない。
 オリヴェル様以外の男性と家庭を築く自分を想像できないし、築きたいとも思っていない。

「私は、新たな婚約者、ましてや恋人など、欠片も望んでおりません。聖女様にお仕えすることで、私の将来について思い悩まれるのは本意ではないのです。ですから、修道女見習いのままで、」
「かまわない」

 前のめりの返答に驚くと、実際にアンスガル殿下が身を乗り出すようにして私を見ていた。

「むしろ、こちらからお願いしたい。先例のないことではあるが、修道女見習いは厳密には聖職者ではないから、聖女の侍女になるにあたって問題はないだろう」
「ですが、」
「なぜ、家門を離れ、修道院に属する君を家名で呼ぶのか、と疑問なのだろう? 立派な淑女であるラルセン令嬢には違和感があろうな。だが、申し訳ない、その理由はオリヴェルに聞いてくれ」
「え?」

 なぜ、オリヴェル様に。
 聖女を呼びに来た後、そのまま、部屋の隅に残っていたオリヴェル様にちら、と視線を向けると、アンスガル殿下は立ち上がった。

「伯母上、少々、お力をお借りしたいので、私の執務室までいらしていただけますか。オリヴェル、久方ぶりのとの再会だ。仕事に戻るのはゆっくりでいい。フィリップ、行くぞ」

 あれよあれよという間に、応接間には私とオリヴェル様の二人が取り残される。
 唖然としていると、オリヴェル様はしばし、ためらう様子を見せた後、アンスガル殿下がいらしたソファにゆっくりと腰を下ろした。

「久し振りだね、アストリッド嬢。慌ただしい旅程だったろうに、思っていたよりも顔色が良くて、安心したよ」
「……ご無沙汰しております、オーストレーム卿」

 昔と同じように、私を『アストリッド嬢』と呼ぶ懐かしい声に、胸にこみ上げるものがある。
 けれど、幼馴染であっても婚約者ではない私が、結婚適齢期である彼の名を口にすることはできない。
 だからこそ、家名で呼んだ私にオリヴェル様は眉を顰め、下唇が一瞬、小さく震えるのが見えた。

「……家名ではなく、名で呼んではもらえないかな。私たちは、幼馴染、だろう? 二人とも、婚約者がいないんだ。それくらいは許される筈だよ」
「では……オリヴェル卿とお呼びすればよろしいでしょうか」

 何か言いたげで、けれど、結局それを口にすることはせずに、一つ、頷く。

「うん、それでいいよ……今は」

 気持ちを切り替えるように、オリヴェル様は微笑んだ。

「顔を合わせる間もなく南部に発ってしまって、心配していた。元気にしていたようだね。修道院には手紙も送れないから、様子を窺うことができなくて」
「はい、お陰様で、心穏やかに過ごしております」

(……どうして、そんなに切なそうな顔をなさるの)

 まるで、傷ついたみたいに。

「ステファンから聞いたと思うけれど……あの時、あなたに話しておきたかったことがあるんだ。今、聞いてくれるかい?」

 あの時、といわれて、あの日の兄の言葉を思い出した。

『オリヴェルが、直接お前と話をしたいと望んでいる』

 お忙しいオリヴェル様のお時間をいただく必要はない、と断った時の話だろう。
 今さら、という思いと、今聞いておかねばもう機会はない、という思いの板挟みになって曖昧に頷くと、オリヴェル様は静かな目で頷いた。
 自分で切り出しておきながら、己を鼓舞するように視線を上にあげる。
 そして、魔法騎士団の制服の首元を緩め、中から細い鎖を引き出した。
 鎖はネックレスの一部のようで、トップにあたる部分には――

「それは……」

(私がお返しした指輪……?)

 金の台座に、オリヴェル様の瞳によく似た明るい緑の魔石を連ねてはめこんだ細い指輪。
 オリヴェル様みずから討伐した魔獣から取れた魔石を、装飾品として加工してくださったのだと聞いた。
 社交界入りの宴の前に贈られた指輪は、婚約の証としてではなく、お守りとして日常的に持っていて欲しい、といただいた物だった。
 婚約記念品ではないのだから、破棄される際にお返しする必要は本来なかったのだけれど、常に身に着けていたし、装飾品という特別な物だからこそ、そばに置いておくのが辛くてお返ししたのだ。
 オリヴェル様は、その指輪に細い鎖を通して首に掛けている。

(まさか、いつも、身に着けていらっしゃるの?)

「……私は、この指輪を返してもらったつもりはない。預かっているだけだと思っている」
「!」

 オリヴェル様は目を閉じて、一つ息を深く吸い込むと、思い切ったように話し出した。

「今の私には、アストリッド嬢の婚約者という、公に保証された身分がない。けれど、その座を他の誰かに譲るつもりは毛頭ないよ」

(それって……)

 まるで、私との婚約を続けたいと言っているような。
 私たちの婚約破棄は、王命によるものだ。
 けれど、その王命に逆らうとでも言いたげな言葉に息を飲む。

「修道女見習いという今のあなたの身分は、私にとって都合がいいんだ。誰もあなたの意思に反して、求婚できないということだから。でも……あなたが自ら還俗したいと望む状況になったら、ただの幼馴染では、それを止めることはできない」

 拳に力を入れたオリヴェル様の手袋がすれて、ぎり、と音を立てる。
 私が自ら、還俗したいと望む状況。
 それはつまり、聖女の意図通り、私が誰かと恋に落ちた時を指している。
 今の私には、そんな可能性は到底考えられないけれど、物事に絶対はないことを、二年前に思い知った。

「もちろん、あなたには選ぶ権利がある。それは、わかっている。重々、わかっているんだ。それでも、覚えていて欲しい。私は……長年の約束を違えるつもりはないよ。それを、陛下を含め、魔王討伐隊の人々も皆、よく知っている。だからこそ、あなたが戸惑うとわかっていながらも、頑なに家名で呼んでいるんだよ」

 その後、こほん、と咳払いしたオリヴェル様は、小声で、

「……私が、嫌がるからね」

と付け足した。
 家名で呼ばないとなると、名で呼ぶことになる。
 私の身分が修道女見習いではなく貴族令嬢であれば、下の名で呼ぶことは関係性の親しさを意味する。
 それは嫌だ、というオリヴェル様の姿は、幼い子供が駄々をこねているようで、これまで『大きなお兄さん』と思っていた姿とはかけ離れていて。

(……なぜ、かしら)

 婚約破棄された今の方が、彼との距離を近く感じるなんて。
 それはきっと、恋だとか愛だとか、甘くてふわふわした気持ちではない。
 『長年の婚約を守る』。
 真面目なオリヴェル様らしい責任感の発露だ。
 そう、それ以上の意味なんてない。
 ――だから、勘違いしてはいけない。
 
「わかりました。心に留め置いておきます」

 それでも、彼が私を忘れていなかったことが、私との未来を想像していたことが、嬉しい。
 小さく微笑みを返すと、オリヴェル様はホッとしたように頷いたのだった。
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