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王城から自宅に帰ると、レニ・バーデンホスト嬢の情報を得る為、側仕えのマティアスを呼んだ。
「お呼びですか」
「あぁ。マティアス、レニ・バーデンホスト侯爵令嬢について、調べて欲しいのだが」
マティアスは、私がアーベルバッハ公爵位を継いでからずっと、補佐をしてくれている。
私が噂を嫌う事を誰よりも理解し、情報には全て、出所を併記するので、信頼が厚い。
彼の元にいる部下達も、いずれも優秀な者ばかりだ。
「レニ・バーデンホスト侯爵令嬢ですか…?」
マティアスの顔が、曇った。
「理由を、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「彼女と結婚するよう、王命を頂いた」
マティアスが、小さく息を飲む。
「…それは…」
言い淀むマティアスに、思わず、眉を寄せた。
普段、冷静なマティアスが動揺するとは、何か理由がある筈だ。
例えば…そうだな、愛する婚約者を失って、傷心の余り、自死を図ったが未遂に終わった、とか。
文字通り、『傷物』と言う事だ。
私達の神は、自らの手で命の期限を決める事を、お許しにならない。
私には、兄の遺したアーベルバッハ公爵家を守ると言う責務があるから、心の片隅でイルザの元に行きたいと望んでいても、決して選べない道だ。
「ジークムント様は、レニ・バーデンホスト侯爵令嬢について、どのような事をご存知ですか」
マティアスは、姿勢を正すと、改まった口調でこう問うた。
「全く知らない。従兄上から伺うまで、名を聞いた事もなかった。ただ、先日、バーデンホスト侯爵にお会いした際に連れていらしたご令嬢は、レニ嬢ではなかったようだ。候は、『一人娘だ』と言っていたのだがな。あとは…そう、従兄上は、『結婚直前の婚約者を亡くした』と仰っていた」
マティアスは、暫く考えるように沈黙していたが、
「…少々気になる事がありましたので、個人的に調査しておりました。まさか、ジークムント様とご縁があるとは思っておりませんでしたが…今となれば、虫の知らせのようなものだったのでしょうか」
と言った。
虫の知らせ、など、曖昧な表現をするマティアスは珍しい。
「私が調査した事実を、申し上げます」
「聞こう」
「レニ・バーデンホスト侯爵令嬢のお母上は、マルグリット様。エアハルト伯爵家より嫁がれた方です」
「エアハルト伯爵家?」
確か、二十年程前に取り潰しになった家が、そのような家名だった覚えがある。
私が子供の頃の話だから、詳しくは知らない。
「エアハルト家は、元々は、裕福な商人が男爵位を授与された家でした。革新的な手法で国内の流通環境を改善し、その功績を理由に、マルグリット様のお父上の代で、伯爵位に陞爵されたのです」
商売の成功を理由に爵位を得た家を、成り上がり貴族と呼ぶ者もいるが、王家が功績を認めたのだから、素直に称賛すべきだろう。
ましてや、男爵位だったものが伯爵位を与えられるまでの功績なのだから、私達もその恩恵を受け取っている筈だ。
「バーデンホスト侯爵家の嫡男であるルードウィック様は、学院でマルグリット様の一学年上。ルードウィック様からお声を掛けた事で親しくなり、交際に発展しました。そして、マルグリット様の成人と同時にご結婚なさいました」
貴族の子女が、全員通う事を求められている学院。
その学院で出会い、結婚するとは、よくある話だ。
…だが、恋愛結婚だったと言うのに、妾を囲っていたと言うのか?
レニ嬢が二十一で、リアーヌ嬢が今年社交界デビューの十八ならば、三歳しか違わない。
政略結婚ならばいいと言うわけではないが、余りに情が薄い。
「ジークムント様は、二十二年前のバーデンホスト侯爵家の状況を、ご存知ですか」
「二十二年前、か…」
マティアスは、元々、従兄上の学友だった。
優秀な男で、学院を卒業後は、王宮に文官として仕官していた。
恐らく、従兄上の側近候補だったのだろうが、急遽、爵位を継ぐ事になり、右も左も判らない私に彼を推薦してくれたのもまた、従兄上だ。
私より六つ年上のマティアスは、当時、十六。
社交界デビューはしていないものの、大人の階段を上り始めていた事は確かだろう。
「あぁ…確か、投資に失敗して、大きな負債を抱えたのが、その時期だったのでは」
「その通りです。しかし、マルグリット様との結婚後、バーデンホスト家は負債を一挙に返済し、豊かな財政を取り戻しました」
「エアハルト家が、バーデンホスト家に援助した、と言う事か?」
「公には、そのような事実はございません。バーデンホスト侯爵…当時は先代でしたが、そのような事を大っぴらに話されるような方ではございませんでしたし」
言葉を切って、マティアスは苦い顔をした。
「表から見えた事実は、二十二年前、ルードウィック様がエアハルト家のご令嬢を娶った後にバーデンホスト家の財政が回復した事、そして、二十年前、エアハルト家が横領や贈収賄、奴隷売買の罪に問われ、取り潰された事です。エアハルト伯爵は最期まで無実を訴えていらっしゃいましたが、大した検証もされないままに有罪となり、嫁いで家を出ていたマルグリット様以外の全員が連座で処刑されました」
「!あぁ…」
私の記憶は、誤ってはいなかったらしい。
「そのような杜撰な断罪など…バーデンホスト家は、エアハルト家に救済の手を差し伸べなかったのか?」
「先頭に立って糾弾したのが、バーデンホスト侯爵でしたからね」
例え、姻戚であろうと、奴隷売買にまで手を染めていたのならば、優先すべきは情ではなく、法だ。
だが、無実を訴えている相手への検証もないとは、おかしいのではないか。
それだけ、確固たる証拠があったと言う事か。
「マルグリット夫人は、了承したのか」
早くに失った家族と言うものへの思い入れが、人よりも強い事は自覚している。
その私にとって、夫人の態度は解せないものだった。
「さて…バーデンホスト家に嫁がれてからのマルグリット様は、公の場に一切、姿をお見せになっていないので、どのように思われていたのか。そもそも、ご実家が糾弾されているとご存知だったかどうかも判りません」
「どう言う事だ?バーデンホスト家は侯爵家。結婚した以上、公の場に、ルードウィック殿お一人と言うわけにはいかないだろう」
「お一人ではございませんでしたよ」
「何?」
「クラフト男爵家のウルリーケ様と言うご令嬢を伴われていたのです。現在のバーデンホスト夫人ですね。ルードウィック様は、常々、公言されておりました。『私は、真実の愛を見誤った。ウルリーケこそ、私の真実の妻だ』と」
目を伏せたマティアスの頬に、失笑が浮かぶ。
普段、冷静な彼にしては、珍しい表情だ。
「ルードウィック様とマルグリット様は、恋愛結婚、と言う事になっておりました。ですが、結婚して借金を返済した途端、マルグリット様は姿を見せなくなり、ウルリーケ様を堂々と伴って社交の場に出ていらした。その間、半年となかったと言う事は…違ったのでしょう」
言葉の端々に、マティアスがこの婚姻を不快に思っていた気持ちが伝わって来る。
個人的に調査していたとは…まさか。
「…マティアスは、マルグリット夫人に心を寄せていたのか?」
「いえ、私ではなく、」
言い掛けたマティアスが、口を閉ざす。
「…ともあれ…私は学院で、一つ上の学年に在籍していたマルグリット様の事を存じ上げておりました。成績優秀で気立ても良く、周囲に慕われるご令嬢でした。ですが、申し上げた通り、バーデンホスト侯爵家に嫁いで以降の彼女の情報は、ございません。ご実家の事をどう思われていたのか、ご夫君の事をどう思われていたのか、ご自分の扱いについてどう思われていたのか、全く不明なのです」
「だが、幾ら侯爵家とは言え、バーデンホスト家のやりようは、誰がどう見ても、おかしいだろう」
「仰る事は判りますが、当時の私はまだ、王宮に仕官したばかりでした。おかしいと訴えても上司には取り合われず、何も出来ないままに、驚異的な速度で、全ては終わってしまった。…レオンハルト殿下も、あの件に関しては、今でもお心残りがあるのではないでしょうか。王宮内の腐敗を実感した、と仰っていましたから」
「…何と言う事だ…」
確かに。
従兄上が政務に携わるようになってから、王宮内の風通しは良くなっていると聞いた。
それまでの王宮は、陛下が病弱であるのを良い事に、賄賂が横行し、縁故で重大事が決定され、貴族が私腹を肥やす事が常態化していたそうだ。
「それで…マルグリット夫人は」
「嫁いで直ぐに、女児を出産しております。そのご令嬢が、レニ様です。ウルリーケ様がリアーヌ様を出産した際には、正式な婚姻関係にないと言うのに、バーデンホスト侯爵は大々的にお披露目の宴を催したのですが…マルグリット様がご令嬢を出産されていた事が判ったのは、つい最近なのですよ」
「…何?」
虚弱に生まれついた子供の存在を、ある程度、成長するまで公表しないのは、よく聞く話だ。
事実、月が満ちずに生まれ、病弱だった私は、三歳を迎えるまで、存在を秘されていた。
だが、貴族の子女ならば、余程の事情がなければ、十三の年には学院に入学しなければならない。
学院と言う開かれた場所に通うようになれば、例え、それまで、披露されていなかろうと、その存在は公のものとなる。
貴族の社会は、広いようで狭いのだから。
「バーデンホスト侯爵家の内部が、どうなっていたのかは存じ上げません。表に出て来るのは、バーデンホスト侯爵と、結婚前から妻として扱われていたウルリーケ様だけでしたから。恐らく、多くの方は、ウルリーケ様が後妻だとご存知ないでしょう。マルグリット様の事をご存知の方も、エアハルト家の取り潰しがありましたから、結婚はされたけれど、直ぐに離縁されたと思っているでしょうね。ところが、実際には、マルグリット様がお亡くなりになるまで、バーデンホスト侯爵との婚姻は継続しています。何故、ウルリーケ様を真実の妻と呼びながら、マルグリット様を離縁なさらなかったのかは、判りません。確かなのは、マルグリット様は、ご結婚後、十一年目にお亡くなりになっている事、その後、バーデンホスト侯爵はウルリーケ様を正式に妻に迎えた事、レニ様が学院に通っていない事だけです」
「通っていない?」
子女を学院に通わせる事は、貴族としての義務だ。
幾ら、愛の褪せた正妻との間に生まれた子供であろうと、離縁せず、家名を許しているのならば、それは変わらない。
侯爵家の嫡子として育ったルードウィック殿が、その義務を理解していないとは考えにくい。
やはり、病弱なのか。
学院に通えない程の。
社交界デビューをしていないのも、それが理由なのか。
私は、子供を望んでいるわけではないから病弱だろうと構わないが、慣れた環境から離しても大丈夫なのか。
「レニ様の名が初めて社交界に出たのは、僅か三ヶ月前の事。ギュンター・ファルク殿の婚約者として、でした」
「ファルク…?」
聞き覚えのない家名だ。
高位貴族や王宮に出仕している家、また、目立った仕事はしておらずとも王都周辺の家であれば、網羅している。
他国であったとしても、侯爵家が縁を結ぶような家ならば、知っている筈なのだが。
「中央に出て来る事は殆どございませんので、ご存知なくとも当然かと。ファルク家は、北の辺境伯の陪臣を務めている男爵家なのです。ギュンター殿はその三男で、家は長男が継ぐ事になっております」
「社交界デビューもしていない、学院にも通えない程に病弱と思われるご令嬢が、どうして辺境の男爵家の三男坊と縁組するんだ?」
バーデンホスト侯爵家の所領は南部にある。
領地絡みで縁があったと言うわけでもなかろう。
「さて。バーデンホスト家側が、是非に、とギュンター殿との縁談を望んだそうですが」
「侯爵家の娘を嫁がせたい程に、才ある男なのか?」
「学院での成績は中より下、騎士団の入団試験にも落ちております」
「…それは…」
その話だけでは、侯爵家の娘が爵位の壁を越えてまで嫁ぐべき男のようには、見えない。
爵位は一般的に、その家の財政状況を示す指針となる。
侯爵家で育った病弱な箱入り娘を、王宮に出仕する才のない男爵家の三男が、どのように養うと言うのか。
それを押してでも望む程に、人柄の良い男なのだろうか。
「では、その男は、どう生活するつもりだったんだ?」
「貴族籍を出て、平民になるつもりだったようです」
「何?」
「平民として商売をする予定で、準備をしていました。そこに持ち込まれたのが、レニ様との縁談です。但し、バーデンホスト家に入るのではなく、レニ様を娶れ、と言うものですが」
「…バーデンホスト侯爵は、娘を平民に嫁がせるつもりだったのか…?」
「平民になるつもりだと、ご存知だったのかどうか。そもそも、ギュンター・ファルク殿には、将来を誓い合った恋人がおりました。商家の娘で、両家の親公認の元、支店の一つを任せて貰う、と言う所まで、話は進んでいたのです」
「何だと…?」
あり得ない。
平民として商売、と言うのは、恋人の実家ありきの話ではないか。
そこまで話が進んでいる恋人のいる男、しかも、条件面だけで見れば略奪する程の価値があるようには見えない男を、何故、バーデンホスト侯爵は。
そこまで、レニ嬢は、ギュンターと言う男を恋うていたのか。
バーデンホスト侯爵は、何はさておき、娘の恋を叶えてやろうとした、と言う事か?
将来よりも、目先の幸福を優先させる程に、彼女は先が短いのだろうか。
「…レニ嬢は、結婚直前の婚約者を亡くしたと聞いたのだが…その男の事か?」
「さようでございます。ギュンター殿とレニ様の婚約が注目を浴びたのは、ある夜会で、ギュンター殿が、『バーデンホスト侯爵に縁談を押し付けられた。この縁談に不満があるけれど拒絶出来ない。だが、自分は恋人を愛している』と、大演説したからです。彼はその後、出奔しました」
「…醜聞だな。バーデンホスト家は動かなかったのか」
社交界の人々は、噂が好きだ。
劇的なものであればある程、喜んで広める。
ギュンターの恋人が平民と言うのもまた、ロマンス好きな人々の関心を誘うだろう。
「その場に、リアーヌ様がいらっしゃいました。『お姉様がギュンター様を見初めて、諦めるよう説得しても聞いてくださらなくて…お父様も、心苦しく思いながら、ファルク様に無理にお願いしたのです』と泣き崩れましてね。ジークムント様も、リアーヌ様とはご面識があるのですよね?」
「一度、挨拶を受けただけだ」
「彼女は今年社交界デビューしたご令嬢の中で、最も注目を浴びているご令嬢です。華やかな薔薇色の髪に輝くエメラルドの瞳、と持て囃されている彼女が泣けば、人々、特に男性は、コロリとリアーヌ様の言い分を信じました」
身分を乗り越えて愛し合う恋人達を引き裂く、悪女。
親の説得も聞き入れず、己の主張を押し通す、我儘な娘。
誰も、レニ嬢を見た事がない故に、噂は加速したのだ、とマティアスは言った。
「ギュンター殿が出奔して一週間後、彼の遺体が発見されました。崖崩れに遭い、川に流されたのです。ギュンター殿の手には、女性サイズの指輪が固く握られていた、と言う発見時の噂で、余計に、レニ様の評判は悪化しました」
「それは…」
此処まで追い詰められるとは、何と憐れな。
互いを想い合っている恋人を引き裂いたなど、その婚約者は酷い女だ。
社交界でどのような噂が好まれるのか、私は良く知っている。
「ジークムント様」
「何だ」
「正直に申し上げて、レニ様の社交界での評判は、最悪です。彼女がただの一度も、公の場に姿を見せていないにも関わらず」
「…そのようだな」
例え、王命であろうと。
例え、飾りであろうと。
我が家がアーベルバッハである以上、レニ嬢は更に注目を浴びるだろう。
「…守って欲しい決め事はあるが、私は必要以上に、彼女に関わるつもりはない」
レニ嬢は、一方的に恋慕した男の頬を、爵位の差で殴って、強引に縁談を結ぼうとした横暴な娘なのかもしれない。
学院に通わず、一度も社交界に顔を出した事もないのは、親でさえ、手を焼く程に我儘放題な娘だからなのかもしれない。
だが、彼女がどのような人物だろうと、養子を取るまでの一年、大人しくしていてさえくれれば、それでいい。
私にとって、イルザ以外の女性が何をしようと、どうでもいいのだから。
「お呼びですか」
「あぁ。マティアス、レニ・バーデンホスト侯爵令嬢について、調べて欲しいのだが」
マティアスは、私がアーベルバッハ公爵位を継いでからずっと、補佐をしてくれている。
私が噂を嫌う事を誰よりも理解し、情報には全て、出所を併記するので、信頼が厚い。
彼の元にいる部下達も、いずれも優秀な者ばかりだ。
「レニ・バーデンホスト侯爵令嬢ですか…?」
マティアスの顔が、曇った。
「理由を、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「彼女と結婚するよう、王命を頂いた」
マティアスが、小さく息を飲む。
「…それは…」
言い淀むマティアスに、思わず、眉を寄せた。
普段、冷静なマティアスが動揺するとは、何か理由がある筈だ。
例えば…そうだな、愛する婚約者を失って、傷心の余り、自死を図ったが未遂に終わった、とか。
文字通り、『傷物』と言う事だ。
私達の神は、自らの手で命の期限を決める事を、お許しにならない。
私には、兄の遺したアーベルバッハ公爵家を守ると言う責務があるから、心の片隅でイルザの元に行きたいと望んでいても、決して選べない道だ。
「ジークムント様は、レニ・バーデンホスト侯爵令嬢について、どのような事をご存知ですか」
マティアスは、姿勢を正すと、改まった口調でこう問うた。
「全く知らない。従兄上から伺うまで、名を聞いた事もなかった。ただ、先日、バーデンホスト侯爵にお会いした際に連れていらしたご令嬢は、レニ嬢ではなかったようだ。候は、『一人娘だ』と言っていたのだがな。あとは…そう、従兄上は、『結婚直前の婚約者を亡くした』と仰っていた」
マティアスは、暫く考えるように沈黙していたが、
「…少々気になる事がありましたので、個人的に調査しておりました。まさか、ジークムント様とご縁があるとは思っておりませんでしたが…今となれば、虫の知らせのようなものだったのでしょうか」
と言った。
虫の知らせ、など、曖昧な表現をするマティアスは珍しい。
「私が調査した事実を、申し上げます」
「聞こう」
「レニ・バーデンホスト侯爵令嬢のお母上は、マルグリット様。エアハルト伯爵家より嫁がれた方です」
「エアハルト伯爵家?」
確か、二十年程前に取り潰しになった家が、そのような家名だった覚えがある。
私が子供の頃の話だから、詳しくは知らない。
「エアハルト家は、元々は、裕福な商人が男爵位を授与された家でした。革新的な手法で国内の流通環境を改善し、その功績を理由に、マルグリット様のお父上の代で、伯爵位に陞爵されたのです」
商売の成功を理由に爵位を得た家を、成り上がり貴族と呼ぶ者もいるが、王家が功績を認めたのだから、素直に称賛すべきだろう。
ましてや、男爵位だったものが伯爵位を与えられるまでの功績なのだから、私達もその恩恵を受け取っている筈だ。
「バーデンホスト侯爵家の嫡男であるルードウィック様は、学院でマルグリット様の一学年上。ルードウィック様からお声を掛けた事で親しくなり、交際に発展しました。そして、マルグリット様の成人と同時にご結婚なさいました」
貴族の子女が、全員通う事を求められている学院。
その学院で出会い、結婚するとは、よくある話だ。
…だが、恋愛結婚だったと言うのに、妾を囲っていたと言うのか?
レニ嬢が二十一で、リアーヌ嬢が今年社交界デビューの十八ならば、三歳しか違わない。
政略結婚ならばいいと言うわけではないが、余りに情が薄い。
「ジークムント様は、二十二年前のバーデンホスト侯爵家の状況を、ご存知ですか」
「二十二年前、か…」
マティアスは、元々、従兄上の学友だった。
優秀な男で、学院を卒業後は、王宮に文官として仕官していた。
恐らく、従兄上の側近候補だったのだろうが、急遽、爵位を継ぐ事になり、右も左も判らない私に彼を推薦してくれたのもまた、従兄上だ。
私より六つ年上のマティアスは、当時、十六。
社交界デビューはしていないものの、大人の階段を上り始めていた事は確かだろう。
「あぁ…確か、投資に失敗して、大きな負債を抱えたのが、その時期だったのでは」
「その通りです。しかし、マルグリット様との結婚後、バーデンホスト家は負債を一挙に返済し、豊かな財政を取り戻しました」
「エアハルト家が、バーデンホスト家に援助した、と言う事か?」
「公には、そのような事実はございません。バーデンホスト侯爵…当時は先代でしたが、そのような事を大っぴらに話されるような方ではございませんでしたし」
言葉を切って、マティアスは苦い顔をした。
「表から見えた事実は、二十二年前、ルードウィック様がエアハルト家のご令嬢を娶った後にバーデンホスト家の財政が回復した事、そして、二十年前、エアハルト家が横領や贈収賄、奴隷売買の罪に問われ、取り潰された事です。エアハルト伯爵は最期まで無実を訴えていらっしゃいましたが、大した検証もされないままに有罪となり、嫁いで家を出ていたマルグリット様以外の全員が連座で処刑されました」
「!あぁ…」
私の記憶は、誤ってはいなかったらしい。
「そのような杜撰な断罪など…バーデンホスト家は、エアハルト家に救済の手を差し伸べなかったのか?」
「先頭に立って糾弾したのが、バーデンホスト侯爵でしたからね」
例え、姻戚であろうと、奴隷売買にまで手を染めていたのならば、優先すべきは情ではなく、法だ。
だが、無実を訴えている相手への検証もないとは、おかしいのではないか。
それだけ、確固たる証拠があったと言う事か。
「マルグリット夫人は、了承したのか」
早くに失った家族と言うものへの思い入れが、人よりも強い事は自覚している。
その私にとって、夫人の態度は解せないものだった。
「さて…バーデンホスト家に嫁がれてからのマルグリット様は、公の場に一切、姿をお見せになっていないので、どのように思われていたのか。そもそも、ご実家が糾弾されているとご存知だったかどうかも判りません」
「どう言う事だ?バーデンホスト家は侯爵家。結婚した以上、公の場に、ルードウィック殿お一人と言うわけにはいかないだろう」
「お一人ではございませんでしたよ」
「何?」
「クラフト男爵家のウルリーケ様と言うご令嬢を伴われていたのです。現在のバーデンホスト夫人ですね。ルードウィック様は、常々、公言されておりました。『私は、真実の愛を見誤った。ウルリーケこそ、私の真実の妻だ』と」
目を伏せたマティアスの頬に、失笑が浮かぶ。
普段、冷静な彼にしては、珍しい表情だ。
「ルードウィック様とマルグリット様は、恋愛結婚、と言う事になっておりました。ですが、結婚して借金を返済した途端、マルグリット様は姿を見せなくなり、ウルリーケ様を堂々と伴って社交の場に出ていらした。その間、半年となかったと言う事は…違ったのでしょう」
言葉の端々に、マティアスがこの婚姻を不快に思っていた気持ちが伝わって来る。
個人的に調査していたとは…まさか。
「…マティアスは、マルグリット夫人に心を寄せていたのか?」
「いえ、私ではなく、」
言い掛けたマティアスが、口を閉ざす。
「…ともあれ…私は学院で、一つ上の学年に在籍していたマルグリット様の事を存じ上げておりました。成績優秀で気立ても良く、周囲に慕われるご令嬢でした。ですが、申し上げた通り、バーデンホスト侯爵家に嫁いで以降の彼女の情報は、ございません。ご実家の事をどう思われていたのか、ご夫君の事をどう思われていたのか、ご自分の扱いについてどう思われていたのか、全く不明なのです」
「だが、幾ら侯爵家とは言え、バーデンホスト家のやりようは、誰がどう見ても、おかしいだろう」
「仰る事は判りますが、当時の私はまだ、王宮に仕官したばかりでした。おかしいと訴えても上司には取り合われず、何も出来ないままに、驚異的な速度で、全ては終わってしまった。…レオンハルト殿下も、あの件に関しては、今でもお心残りがあるのではないでしょうか。王宮内の腐敗を実感した、と仰っていましたから」
「…何と言う事だ…」
確かに。
従兄上が政務に携わるようになってから、王宮内の風通しは良くなっていると聞いた。
それまでの王宮は、陛下が病弱であるのを良い事に、賄賂が横行し、縁故で重大事が決定され、貴族が私腹を肥やす事が常態化していたそうだ。
「それで…マルグリット夫人は」
「嫁いで直ぐに、女児を出産しております。そのご令嬢が、レニ様です。ウルリーケ様がリアーヌ様を出産した際には、正式な婚姻関係にないと言うのに、バーデンホスト侯爵は大々的にお披露目の宴を催したのですが…マルグリット様がご令嬢を出産されていた事が判ったのは、つい最近なのですよ」
「…何?」
虚弱に生まれついた子供の存在を、ある程度、成長するまで公表しないのは、よく聞く話だ。
事実、月が満ちずに生まれ、病弱だった私は、三歳を迎えるまで、存在を秘されていた。
だが、貴族の子女ならば、余程の事情がなければ、十三の年には学院に入学しなければならない。
学院と言う開かれた場所に通うようになれば、例え、それまで、披露されていなかろうと、その存在は公のものとなる。
貴族の社会は、広いようで狭いのだから。
「バーデンホスト侯爵家の内部が、どうなっていたのかは存じ上げません。表に出て来るのは、バーデンホスト侯爵と、結婚前から妻として扱われていたウルリーケ様だけでしたから。恐らく、多くの方は、ウルリーケ様が後妻だとご存知ないでしょう。マルグリット様の事をご存知の方も、エアハルト家の取り潰しがありましたから、結婚はされたけれど、直ぐに離縁されたと思っているでしょうね。ところが、実際には、マルグリット様がお亡くなりになるまで、バーデンホスト侯爵との婚姻は継続しています。何故、ウルリーケ様を真実の妻と呼びながら、マルグリット様を離縁なさらなかったのかは、判りません。確かなのは、マルグリット様は、ご結婚後、十一年目にお亡くなりになっている事、その後、バーデンホスト侯爵はウルリーケ様を正式に妻に迎えた事、レニ様が学院に通っていない事だけです」
「通っていない?」
子女を学院に通わせる事は、貴族としての義務だ。
幾ら、愛の褪せた正妻との間に生まれた子供であろうと、離縁せず、家名を許しているのならば、それは変わらない。
侯爵家の嫡子として育ったルードウィック殿が、その義務を理解していないとは考えにくい。
やはり、病弱なのか。
学院に通えない程の。
社交界デビューをしていないのも、それが理由なのか。
私は、子供を望んでいるわけではないから病弱だろうと構わないが、慣れた環境から離しても大丈夫なのか。
「レニ様の名が初めて社交界に出たのは、僅か三ヶ月前の事。ギュンター・ファルク殿の婚約者として、でした」
「ファルク…?」
聞き覚えのない家名だ。
高位貴族や王宮に出仕している家、また、目立った仕事はしておらずとも王都周辺の家であれば、網羅している。
他国であったとしても、侯爵家が縁を結ぶような家ならば、知っている筈なのだが。
「中央に出て来る事は殆どございませんので、ご存知なくとも当然かと。ファルク家は、北の辺境伯の陪臣を務めている男爵家なのです。ギュンター殿はその三男で、家は長男が継ぐ事になっております」
「社交界デビューもしていない、学院にも通えない程に病弱と思われるご令嬢が、どうして辺境の男爵家の三男坊と縁組するんだ?」
バーデンホスト侯爵家の所領は南部にある。
領地絡みで縁があったと言うわけでもなかろう。
「さて。バーデンホスト家側が、是非に、とギュンター殿との縁談を望んだそうですが」
「侯爵家の娘を嫁がせたい程に、才ある男なのか?」
「学院での成績は中より下、騎士団の入団試験にも落ちております」
「…それは…」
その話だけでは、侯爵家の娘が爵位の壁を越えてまで嫁ぐべき男のようには、見えない。
爵位は一般的に、その家の財政状況を示す指針となる。
侯爵家で育った病弱な箱入り娘を、王宮に出仕する才のない男爵家の三男が、どのように養うと言うのか。
それを押してでも望む程に、人柄の良い男なのだろうか。
「では、その男は、どう生活するつもりだったんだ?」
「貴族籍を出て、平民になるつもりだったようです」
「何?」
「平民として商売をする予定で、準備をしていました。そこに持ち込まれたのが、レニ様との縁談です。但し、バーデンホスト家に入るのではなく、レニ様を娶れ、と言うものですが」
「…バーデンホスト侯爵は、娘を平民に嫁がせるつもりだったのか…?」
「平民になるつもりだと、ご存知だったのかどうか。そもそも、ギュンター・ファルク殿には、将来を誓い合った恋人がおりました。商家の娘で、両家の親公認の元、支店の一つを任せて貰う、と言う所まで、話は進んでいたのです」
「何だと…?」
あり得ない。
平民として商売、と言うのは、恋人の実家ありきの話ではないか。
そこまで話が進んでいる恋人のいる男、しかも、条件面だけで見れば略奪する程の価値があるようには見えない男を、何故、バーデンホスト侯爵は。
そこまで、レニ嬢は、ギュンターと言う男を恋うていたのか。
バーデンホスト侯爵は、何はさておき、娘の恋を叶えてやろうとした、と言う事か?
将来よりも、目先の幸福を優先させる程に、彼女は先が短いのだろうか。
「…レニ嬢は、結婚直前の婚約者を亡くしたと聞いたのだが…その男の事か?」
「さようでございます。ギュンター殿とレニ様の婚約が注目を浴びたのは、ある夜会で、ギュンター殿が、『バーデンホスト侯爵に縁談を押し付けられた。この縁談に不満があるけれど拒絶出来ない。だが、自分は恋人を愛している』と、大演説したからです。彼はその後、出奔しました」
「…醜聞だな。バーデンホスト家は動かなかったのか」
社交界の人々は、噂が好きだ。
劇的なものであればある程、喜んで広める。
ギュンターの恋人が平民と言うのもまた、ロマンス好きな人々の関心を誘うだろう。
「その場に、リアーヌ様がいらっしゃいました。『お姉様がギュンター様を見初めて、諦めるよう説得しても聞いてくださらなくて…お父様も、心苦しく思いながら、ファルク様に無理にお願いしたのです』と泣き崩れましてね。ジークムント様も、リアーヌ様とはご面識があるのですよね?」
「一度、挨拶を受けただけだ」
「彼女は今年社交界デビューしたご令嬢の中で、最も注目を浴びているご令嬢です。華やかな薔薇色の髪に輝くエメラルドの瞳、と持て囃されている彼女が泣けば、人々、特に男性は、コロリとリアーヌ様の言い分を信じました」
身分を乗り越えて愛し合う恋人達を引き裂く、悪女。
親の説得も聞き入れず、己の主張を押し通す、我儘な娘。
誰も、レニ嬢を見た事がない故に、噂は加速したのだ、とマティアスは言った。
「ギュンター殿が出奔して一週間後、彼の遺体が発見されました。崖崩れに遭い、川に流されたのです。ギュンター殿の手には、女性サイズの指輪が固く握られていた、と言う発見時の噂で、余計に、レニ様の評判は悪化しました」
「それは…」
此処まで追い詰められるとは、何と憐れな。
互いを想い合っている恋人を引き裂いたなど、その婚約者は酷い女だ。
社交界でどのような噂が好まれるのか、私は良く知っている。
「ジークムント様」
「何だ」
「正直に申し上げて、レニ様の社交界での評判は、最悪です。彼女がただの一度も、公の場に姿を見せていないにも関わらず」
「…そのようだな」
例え、王命であろうと。
例え、飾りであろうと。
我が家がアーベルバッハである以上、レニ嬢は更に注目を浴びるだろう。
「…守って欲しい決め事はあるが、私は必要以上に、彼女に関わるつもりはない」
レニ嬢は、一方的に恋慕した男の頬を、爵位の差で殴って、強引に縁談を結ぼうとした横暴な娘なのかもしれない。
学院に通わず、一度も社交界に顔を出した事もないのは、親でさえ、手を焼く程に我儘放題な娘だからなのかもしれない。
だが、彼女がどのような人物だろうと、養子を取るまでの一年、大人しくしていてさえくれれば、それでいい。
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