婚約者を喪った私が、二度目の恋に落ちるまで。

緋田鞠

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「ようこそ、おいで下さいました、アーベルバッハ公爵!」
 揉み手せんばかりの勢いで私を出迎えたのは、この家の当主であるルードウィック・バーデンホスト侯爵だった。
 私よりも年長だと言うのに、此処まで遜るのは、今回の縁談が王命によるものだからなのだろう。
「お久し振りです、バーデンホスト侯爵。この度は、急な事で驚かれたでしょう」
「いやいや、娘は既に嫁いでいる予定でおりましたので」
「そう言って頂けると、こちらも安堵致しました」
 バーデンホスト侯爵は、若い頃はさぞ、女性に持て囃されただろうと思われる整った顔立ちをしているのだが、不摂生をしているのか、顎が弛み、腹回りも出て来ている。
 それを、恰幅の良さと捉えるか、だらしなさと捉えるかは、人によりそうだ。
 従兄上と二つしか違わないと言うのに、生活と言うものは人を大きく変えてしまうらしい。
「まさか、陛下直々にご命令を頂くとは驚きました」
「…そうですね」
 バーデンホスト侯爵は、王宮に伺候していない。
 南の領地を治める領主として、領地経営に専念している筈だ。
 だからこそ、陛下と顔を合わせる機会は夜会の挨拶程度しかない。
 私は、レオンハルト従兄上から話を伺ったが、恐らくバーデンホスト侯爵は、陛下から直接、今回の縁談を持ちかけられたのだろう。
「どうぞ、こちらへ」
 ご機嫌な様子なのは、醜聞を得た娘の嫁ぎ先が無事に決まった為なのか、アーベルバッハ公爵家との伝手が出来た為なのか。
 案内された応接間には、小柄な少女が、影のようにひっそりと立ち尽くしていた。
 他には、メイドのお仕着せを着た女性が二人と、執事の姿だけ。
 と言う事は…まさか、この娘が、レニ嬢?
 二十一と聞いているが、どう多く見積もっても十五位にしか見えない。
 小柄なだけではなく、全体的に細く薄く、存在感が儚いのだ。
 長袖に足首まで覆う濃い紅色のワンピースドレス姿だが、サイズが合っていないのか、体がドレスの中でぷかぷかと泳いでいるし、袖口からは指先しか見えていない。
 装飾の多いドレスに、半ば、埋もれてしまっている。
 艶のない栗色の髪、前髪が長くて瞳の色はよく見えないものの、茶色だろうか。
 妹であるリアーヌ嬢に比べると、地味と言わざるを得ない。
 こけた頬、かさついた唇に、施された不似合いな化粧が、却って彼女を幼く見せる。
 …この娘が、両親の説得に応じず、恋人のいる男と強引に婚約を結んだ娘…?
 人は見た目に依らないとは言うが、その肩書が余りにそぐわない事に愕然とする。
 だが、病弱、と言う推測は合っているかもしれない。
 彼女の細さと小ささは、婚約者を亡くしたショックで、食が細って寠れたと言うより、生来の発育不良を感じさせる。
「アーベルバッハ公。こちらが、我がバーデンホスト家の長女、レナです」
 
 レニ、と聞いていたのだが。
 聞き間違いか?
 リアーヌ嬢によれば、バーデンホスト侯爵は、娘の為に、嫌がる男に無理矢理縁談を承服させた父親だ。
 娘の名を間違える筈がない。
「初めまして。ジークムント・アーベルバッハです」
 取り敢えず、自己紹介すると、バーデンホスト侯爵に目で促された少女が、細い声で名乗った。
「…お初に、お目に掛かります、公爵様。レニと申します」
 やはり、レニか。
 か細く折れそうな体からは考えられない位、綺麗な礼を執る。
「いやぁ、レナには縁談があったのですがね。婚姻直前に、婚約者が不慮の事故で亡くなりまして…気を落していた所に、此度の縁談ですからな。陛下には、感謝しかありません」
 今度は、聞き間違いではない。
 バーデンホスト侯爵は、自分が娘の名を間違えて紹介した事に、気が付いていないらしい。
 だが、娘の名を間違えるなど、ありえるのだろうか。
「…陛下は、レニ嬢の話を耳に挟んで、私と同じ境遇である事に心を痛められたそうです」
「流石、陛下はお優しい。甥御であらせられる公の事を、常に案じていらっしゃるのですな。公のお心の傷を癒すには、レナは役者不足でしょうが、今後、無粋な縁談を持ち込まれる事はございません」
 …つまり、最初から娘を、飾りの妻でよい、と嫁がせる気なのか。
 何故、レニ嬢の目の前で、そのような無情を言えるのか。
 ははは、と何が面白いのか声を上げるバーデンホスト侯爵に、眉を顰める。
 いや…私が彼女を愛せないのは、最初から判っていた事だ。
 私に、何か言う資格がある筈もない。
 けれど、無性にバーデンホスト侯爵の言葉は気に障った。
「アーベルバッハの家は、静かですから…レニ嬢にも、心穏やかに過ごして頂けると思います」
 バーデンホスト侯爵には答えず、レニ嬢の顔を見て言うと、彼女は、形容し難い表情で私を見返した。
 それは、怒りでも、悲しみでも、恋しい人を喪った空虚でもなく。
 何だ、あれは、どう言う意味なのだろう。
「バーデンホスト侯爵、折り入ってお願いが」
「はて、何でしょうか」
「陛下からは、可能な限り早く、レニ嬢を我が家に迎え入れるよう、お言葉を頂いております。ですが、何分、男の一人住まいですから、ご婦人を受け入れる準備が出来ておりません。用意を整えてから、一ヶ月後に改めてお迎えに上がりますので、それまでの間、我が家の侍女を一人、レニ嬢につけさせて頂いてもよろしいでしょうか?一人でも慣れた顔が多ければ、新しい家へと移っても、レニ嬢も安心されるのでは、と」
 私の背後に控えるアーベルバッハ家の侍女に視線を遣って、バーデンホスト侯爵に紹介する。
 レニ嬢が病弱であると言う推測から、彼女の身の回りの世話や看病の仕方、気を遣うべき事柄を覚えさせる為に連れて来ていたのだ。
「おぉ、それは…」
 バーデンホスト侯爵は、笑顔のまま固まると、ちら、と視線を上に遣った。
 何事かを計算したのだろう、直ぐに向き直り、
「娘の為に、有難いお申し出です」
と、鷹揚に頷く。
「感謝致します」
「えぇと、それで、ですね」
「何でしょうか」
「レナの、持参金なのですが」
 バーデンホスト侯爵の目が、小狡そうに細められた。
「我が家には、もう一人、娘がおりまして。以前、公にもご挨拶をさせて頂いたリアーヌと申すのですが…あの娘もまた、縁談が調った所でして。我が家には娘しかおらず、婿を取る為、準備に、その…」
「あぁ、ご安心を。持参金は不要です。どうぞ、レニ嬢のお支度は、全てこちらでさせてください」
「有難うございます。流石、アーベルバッハ公爵家ですな!」
 そもそも、我が国の持参金は、嫁ぎ先での生活を保障する為に用意するもの。
 婚家に入る性質の金ではないが、嫁ぐ本人の輿入れ準備に充てられる事が多い。
 輿入れ準備以外の若夫婦の生活基盤を整えるのは、受け入れる側の掛かりになる為、リアーヌ嬢が婿取りするバーデンホスト家の出費は、屋敷の改装や婚約式、結婚式の用意など、少なくはない筈だ。
 それは、レニ嬢を迎え入れる準備をする我が家も同じ事ではある。
 だが、バーデンホスト侯爵と、金銭の事で揉めたくはない。
 これも全て、一年後の養子縁組に向けての布石だ。
「私の仕事の都合で、式は当面執り行う事が出来ないのですが」
「構いません。ご縁があるだけで、レナには勿体ないお話なのですから」
「では、一ヶ月後に、婚姻誓約書を交わすと言う事でよろしいですか」
「えぇ、勿論です」
 ちら、と、レニ嬢の顔を見たが、彼女は少し視線を伏せて、黙って座っている。
「あぁ…っと。もし、よろしければ、レナと庭を散策などなさっては」
 突然の申し出に驚いたが、断るまでもない。
「よろしいのですか?…では、レニ嬢。エスコートさせて頂いても?」
 レニ嬢は、無言で頷くと、差し出した腕に軽く指先を触れさせた。
 エスコートと言うには、余りに頼りない触れ方だが、イルザ以外の女性をまともにエスコートした事のない私には、どうすればさり気なく直してやれるのか、判らない。
「では、バーデンホスト侯爵。ご息女を暫し、お借り致します」

 庭に出ると、季節の花が色とりどりに咲いていた。
 私は、この国の男性として小柄な方だが、その私から見ても、レニ嬢は随分と小さい。
 ドレスの裾の装飾に不自然な所があるのを見ると、裾上げだけ、急拵えでしたのだろう。
 …このドレスは、明らかに誰か他の令嬢の為に作られたものだ。
「お勧めの場所はありますか?」
「…申し訳、ございません。庭に出る事は、ないものですから、ご案内出来そうに、ありません」
 漸く、喋ってくれた。
 自己紹介以来、二回目に聞く彼女の声は、少し掠れている。
「お風邪でも引かれていますか?」
「…え?」
「声が、掠れて聞こえたもので」
 そう言うと、レニ嬢は、ハッとした顔をして、一度口を開いてから、直ぐに噤んだ。
「レニ嬢?」
「…いいえ、風邪では、ありません。公爵様に、移す事は、ございませんので、ご安心ください。体は、強い方なのです。ですが…私は、余り、人と話す事がないので…」
 あぁ、そう言う事か。
 確かに、ずっと無言でいると、喉が張り付いたようになって、声が出ない。
 途切れたような話し方も、そのせいなのだろう。
 しかし。
 体が強い、と言う自己申告が、ここまで不似合いな人もいない。
「急なお話で、驚かれた事でしょう」
「そう、ですね…」
 会話が、続かない。
 彼女とは、十一も年が離れている。
 学院に通った事もなく、社交界に出た事もない年の離れたご令嬢と、何を話題にするべきなのか。
 互いに無言のまま、目的地もなく、庭の小径をゆっくりと歩いていると、バタ、ガタ、と大きな音が、傍らの屋敷から聞こえて、驚いて目を上げた。
 庭にいるとは言え、客が来ている時に、何をしていると言うのか。
「…部屋を、移動しているのでしょう」
 私の疑問を読んだのか、レニ嬢が感情の見えない淡々とした声でそう言った。
「移動?」
「アーベルバッハ公爵家にお仕えの方に、私の部屋を、見せるわけにはいかない、と…」
 不意に、レニ嬢が言葉を途切れさせる。
「レニ嬢?」
「…申し訳、ございません、余計な事を、申しました。お忘れください」
 忘れるわけがない。
 侍女をつけたい、と申し出た途端に、部屋の移動等、怪しんでくれと言っているようなものだ。
 だが、レニ嬢の固い表情に、口を噤んだ。
 ――…この娘は、巷で噂されるような悪女には、どうにも見えない。
 彼女の装いも、態度も、全てが、他人を騙す為の計算づくとは、思えなかった。
 何故、彼女は表に出る事なく、悪女と言う呼称に甘んじてしまっているのか。
 私には関係がない、と思っていたが、バーデンホスト侯爵の態度も含めて、疑問がじわじわと滲み出る。
 我儘を通してやる程、可愛がっている娘に、サイズの合わないドレスを着せ、不健康なまでに痩せているのを放置する親がいるだろうか?
 娘を説得しきれず、嫌がる男を無理矢理婚約者に仕立て上げたと言うのに、肝心の娘の名を間違えて覚えているなんて、ありえない。
 バーデンホスト家と姻戚になる以上、無関係だと黙殺していいとも思えなかった。
「私は、王宮で主に、外交に携わっております」
 これまでの会話の流れと、全く関係のない事を話すと、レニ嬢は少し首を傾げる。
「外交、と言っても、諸外国を飛び回る役目ではなく、他国からの賓客を持て成したり、他国間と結ばれる協定の条件の調整をしたり、と言った仕事です」
「…はい」
 レニ嬢は、何と返せばいいのか判らなかったのだろう。
 戸惑うように小さく返す。
「その為、屋敷にも時折、外国からのお客様が見える事があります」
「あ…」
 バーデンホスト侯爵が、私との結婚生活をどのような形でレニ嬢に伝えていたのかは判らないが、彼女の表情は、思い掛けない事を言われた、と言うようなものに見えた。
「それは…私も、お客様のお相手をする事がある、と言う意味でしょうか?」
「そうですね、時には、そのような事もあるかもしれません。ご夫婦で見えているお客様の、ご夫人の話し相手をお願いする事も、可能性としてはあります」
「そう、ですか…」
 レニ嬢の声が、不安そうに揺れている。
「勿論、貴方に無理をさせるつもりはありませんし、気が進まなければ、断っても構いません。ですが、王命での結婚である以上、いつまでも私の結婚を公にせずに、貴方を屋敷の奥深くに隠しておく事は出来ないのだ、とだけ、理解しておいてください。ご心配ならば、屋敷に移ってから、教師を招く事も出来ますから」
「…はい」
 歩いているうちに、東屋へと辿り着いた。
 屋敷からはまだ、大きな物音がしている。
 もう少し、庭で過ごすべきなのだろう。
 据えられたガーデンテーブルに誘うと、レニ嬢は躊躇うように、足踏みした。
「少し、話をしませんか?」
「…はい」
 レニ嬢に仕える為に連れて来たアーベルバッハ家の侍女は、使用人の控室にいる。
 レニ嬢について来ているであろう侍女に、茶の用意を頼もうと背後を振り返ったが、そこには誰もいない。
 …幾ら、婚約者になったとは言え、未婚の男女を二人きりにするとは、バーデンホスト家はレニ嬢の安全をどう考えているのだ。
 だが、レニ嬢は、そこに侍女がいない事に、何の思いもないらしい。
 眉を顰めた私に、不思議そうな顔を見せただけだった。
「…結婚する前に、話しておかなければ、ならない事があります」
 大きく息を吸って姿勢を改めると、私の顔が真剣になった事が判ったのか、レニ嬢もまた、背筋を伸ばした。
 全体的に細く、少し強い風が吹けば倒れそうな、頼りない体をしているが、その姿勢は意外な程に凛としている。
「私は…八年前に、結婚直前の婚約者を喪いました」
 レニ嬢は、静かに私の目を見つめ返した。
 驚いた気配はないから、恐らく、バーデンホスト侯爵から聞いていたのだろう。
「婚約者を亡くした者同士と言う事で、王命で貴方と添う事になりましたが…私の愛は、喪った彼女に捧げられております。彼女しか、愛せない。…ですから…私に、男女としての情は、望まないでください」
 一度、言葉を切る。
 これだけは、婚姻誓約書を書く前に、私の口から伝えなければならない、と、心に決めていた。
 だが、我ながら、酷い言い草だ。
 レニ嬢が、長い前髪の下で、目を大きく見張ったのが判った。
「ですが、家族として、貴方を大切にしていく事をお約束します」
 どれだけ、綺麗な言葉で誤魔化そうと、結婚する前から「飾りになれ」と言われて、喜んで受け入れる令嬢はいないだろう。
 バーデンホスト侯爵の事を言えやしない。
 私だって結局は、自分の都合を一方的に押し付けているだけだ。
 けれど。
 レニ嬢は、ふわり、と、花が綻ぶように…笑ったのだ。
「畏まりました。公爵様のお邪魔にならないよう、精一杯努めます」
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