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『レニへ。
 封筒の表書きは、読みましたか?
 貴方の全てを晒す事が出来る、信頼の置ける方がいますか?
 その方は、貴方の怒りも嘆きも弱さも、全てを受け止めてくれますか?

 貴方は、そう信じる事が出来ますか?

 もしも、条件を満たさないようならば、今直ぐ、この手紙を封筒にしまいなさい。
 これは、警告です。
 約束を守らなかった人間がどうなるか、私は知りません』


 十歳にもならない娘に残す手紙としては、随分と攻撃的な文言が、一枚目に書かれている。
 同時に、これを読んだ上でなお、レニが私を信頼出来る相手として選んでくれた事が、嬉しかった。


『警告を読んだ上で、続きに目を通しているのだと、信じます。
 この先、私の記す真実を読んで、貴方がどう感じるのか、私には、推測しか出来ません。
 けれど、貴方が傷つき、嘆き、怒るであろうと予想しています。
 どうか、貴方の信じる方が、貴方を支えてくれますように。

 レニ。
 ここに記す事は、嘘偽りのない真実です。
 貴方が真実を知り、どう行動するか、またはしないのか、私が見る事はありません。
 何が正解であるとも、思いません。
 どうか、この先の人生を、後悔せずに生きてください。

 私は、エアハルト伯爵家の長女として生まれました。
 エアハルト家は、貴方の曽々祖父の時代に、商人として財を成した事で、男爵位を頂いた家です。
 そして、貴方の祖父の代で、功績により、伯爵位を賜りました。
 貴族となって百年が経っていますが、エアハルト家を成金貴族だと下に見る貴族は少なくありません。
 その事を、私が理解しているつもりで、十分に判っていなかった事が、不幸の始まりでした。
 私が、貴方の父親であるルードウィック・バーデンホスト様と知り合ったのは、学院の五年生の時の事。
 友人の、ウルリーケ・クラフト男爵令嬢の紹介でした。
 ウルリーケと私は、一年生の時から親しくしていましたから、彼女に、
「マルグリットを是非、紹介して欲しい、と言う方がいるのよ」
と言われたら、喜んで受け入れる以外、考えられませんでした。
 ルードウィック様は、柔らかな笑顔で整ったお顔立ちの方でした。
 それまで、友人こそたくさんいたものの、恋愛関係となると奥手だった私は、一目で彼に好意を持ちました。
 そして、ルードウィック様に、結婚を前提に交際して欲しい、と申し込まれ、年齢から考えても、家格の釣り合いから見ても、丁度いいお話だろう、と受けてしまったのです。
 …これが、過ちでした。
 当時、ある方に、
「交際も婚約も、慎重に見極めた方がいい」
と忠告を受けていたにも関わらず、初めて寄せられた好意に、浮かれていたのでしょう。
 一学年上のルードウィック様は卒業後、バーデンホスト家の領地経営に携わる事が決まっていました。
 一日でも早く結婚したい。君が成人したら、その日にでも。
 そんな言葉に、私は、夢を見てしまいました。
 本来ならば、私からも、父に婚約について話しておかなければならなかったのに、父に異性の話をするのは気恥ずかしく、「バーデンホスト家から話をしておいて欲しい」とルードウィック様に任せていなければ、結果は違ったかもしれません。
 私が教わっていたマナーでは、結婚前提の交際は家と家のものだから、家長同士で話をする、となっていたので、当然、バーデンホスト侯爵と父の間で、話が成立していると思い込んでいたのです。
 振り返れば、ルードウィック様の行動には、おかしな所がたくさんありました。
 彼は、エアハルト家を訪問した事がありません。
 デートする時も、王宮図書館で待ち合わせをしてから出掛けるのが、お決まりのコースでした。
 私が図書館が好きだから、気を回してくれているのだ、と、何故、思い込めたのか…今では、判ります。そう思うよう、誘導されていたのだ、と。
 私が成人したら結婚したい。そう言いながらも、一向に婚約式が執り行われる気配がない為、父に確認した所、初めて、バーデンホスト侯爵との間で、婚約の話題が出ていない事を知りました。
 私とルードウィック様の交際を知った父は、慌てて、バーデンホスト家について調査しました。
 その結果、バーデンホスト家は、多額の借金を抱えている事が判明しました。
 更に、ルードウィック様は元々、ウルリーケと交際していた、と言う事も。
 ルードウィック様は、エアハルト家から借金の融資を受ける為に、目的を隠して私に声を掛けたのでは?
 筋を通していない、と父は激怒して、口約束だけだった婚約は、なかった事になる筈、でした。
 ところが、調査結果を突き付けて問い詰めた私に、ルードウィック様は、こう言いました。
「確かに、ウルリーケと交際していたけれど、今は君しか見えない」
「借金があるのは事実だが、君の家に迷惑を掛けるつもりはない」
「君がお父上よりも私を信じてくれるなら、絶対に幸せにする。この手は使いたくなかったけど、その為には、既成事実を作るしかないな…」
 …私は、愚かにもその言葉を、信じました。
 既成事実、と言う言葉が何を意味するか判っていながら、彼に純潔を捧げました。
 貴族令嬢にとって、純潔を失うとは、何を意味するか。
 きっと、この手紙を読む年齢になった貴方にも、判る事でしょう。
 これで幸せになれるのだ、と、何故、信じてしまったのか、自分の事ながら、よく判りません。
 交際中からルードウィック様は、私が彼の希望を拒むと、厳しく、冷たくなって、謝罪して従うと、「さっきは悪かったね。でも、君が判ってくれて嬉しいよ」と本当に嬉しそうに笑って優しくしてくれたので、彼に反抗する事を、恐れていたのは確かです。
 けれど…ルードウィック様の要望に従った私に、彼は態度を一変させ、「お前の役割は終わった、これでウルリーケを迎えに行ける」と言ったのです。
 「幸せにする」と言う言葉は嘘だった、と判った時には、もう、遅かった…。
 ウルリーケが私をルードウィック様に紹介したのは、エアハルト家が、お金を持っているから。
 そして、元は平民だったエアハルト家が、クラフト家を差し置いて伯爵位まで賜った逆恨みから…。
 私は、恋人だと思っていた男性と、親友だと思っていた女性に、裏切られました。
 いいえ、彼等には、私を裏切ったつもりはないでしょう。
 最初から、私の事は利用するだけのつもりで、彼等はずっと、恋人同士だったのですから。
 ルードウィック様は嫡男ですから、男爵家のウルリーケとの結婚を、反対されていたのだそうです。
 そこで、一度、伯爵家の私と結婚し、借金を返済、その後、後妻としてウルリーケを迎え入れる計画でした。
 借金を返済すれば、バーデンホスト家に置けるルードウィック様の発言力は高まります。
 更に、後妻としてであれば、クラフト家との爵位の差は然程、問題にならないと考えたのでしょう。
 私は、ルードウィック様の子を授かっている可能性があるとして、バーデンホスト家の屋敷に連れ去られ、一度も実家に戻る事のないまま、嫁ぐ事になりました。
 父は、私の名誉を守ろうと掛け合ってくれたようですが…無駄でした。
 バーデンホスト家は、借金こそあったものの、歴史ある貴族。
 対するエアハルト家は、裕福ではあるものの、新興貴族。
 父が何を言っても、何処に訴え出ても、聞く耳を持ってくれる貴族はいませんでした。
 寧ろ、娘を使ってよくぞ取り入ったものだ、と言われていたようです。
 確かに、私は、無理矢理襲われたわけではありません。
 自ら、彼に許したのですから。
 そうとは知らない貴族が、口を揃えて同じ事を言ったと言う事は、恐らく、賄賂が渡っていたのでしょう。
 でも、対抗して父が賄賂を渡してしまったら、今度は、「買収しようとした」として、エアハルト家が窮地に陥ります。
 貴族社会で不要な軋轢を生まないよう、商いに専念していたエアハルト家には、王宮の中枢への伝手もありませんでした。
 厳重な警備に囲まれたバーデンホストの屋敷に、実力行使で突入する事も出来ません。
 何しろ、私と言う人質がいるのです。
 父は、結婚が避けられないと判って以降、せめて、私が安全に暮らせるように、少しでも強い立場を得られるように、と、多額の持参金を持たせてくれましたが、それらは全て取り上げられ、バーデンホスト家の借金返済に充てられました。
 これで、妊娠していなければ、また何か、違ったのかもしれません。
 けれど、私のお腹には、貴方がいた。
 ――…正直に言いましょう。
 子供が生まれれば、ルードウィック様は心を入れ替えて、ウルリーケと別れ、私の事を見てくれるのでは、と言う甘い期待を持っていました。
 裏切られた、と、騙された、と、頭で判っていても、それまでの彼の優しさが、愛を囁く言葉が、全て嘘だったのだと、私は信じる事が出来なかった。
 私が愛した彼が、全て幻想だったなんて、思えなかった。
 子供の顔を見れば、また、あの優しい彼に戻ってくれるのでは、と、浅はかにも、望んでしまった…。
 そうしなければ、変化していく心と体に、耐えられなかったのです。
 けれど、ルードウィック様は、変わりませんでした。
 彼は、生まれた赤ん坊の性別だけ聞いて、行ってしまいました。
 もしも、男児だった場合、その子はバーデンホスト家の嫡男になりますから、生まれた子供が女の子だった事で、安心したようです。
 ウルリーケを妻にしたい彼にとって、私が継嗣を生む事は問題だったのでしょう。
 レニ、と言う名は、私がつけました。
 男児ではなかった為、父は再び、私と孫――レニ、貴方を、取り戻す算段を立て始めました。
 借金は完済したのだから、もう、用はないだろう、離縁して欲しい、と願い出た父を見て、私と貴方が、エアハルト家の弱点である、と理解したのでしょうね。
 ルードウィック様は、孫が可愛くないのか、と父に、育児費用と称して金銭の援助を求め始めました。
 人は、贅沢に慣れるもの。
 特に、自分の働きで得たわけではない金銭は、湯水のように使うものです。
 いつしか、ルードウィック様は、エアハルト家を金の卵を産む雌鶏のように思い始め、乗っ取りを計画するようになりました。
 お父上と共謀し、ありもしない罪を捏造して、エアハルト家を糾弾、断罪し、唯一人、残る私が相続した財産を、奪おうとしたのです。
 不幸な事に、杜撰な糾弾は、受け入れられてしまった。
 エアハルト家が、方々で恨まれていたと言う事なのでしょう。
 逃れようがないと知った父は、財産を全て、ある教会に寄付しました。
 私と貴方がバーデンホスト家から逃げ出した際に、教会で匿って貰えるように、との目論見がありました。
 家から出して貰えなかった私が、何故、この事を知っているか、不思議ですか?
 私を憐れに思ったバーデンホスト家の使用人の一人が、仕事を辞める前に、エアハルト家の使用人を通じて、一度だけ、密かに父からの手紙を渡してくれた事で、私は父の計画を知りました。
 そして、父と母、幼い弟は、死罪になったのです。
 断罪については、ルードウィック様が、笑いながら私に報告したので、事実なのでしょう。
 勿論、嘘であって欲しかったけれど、その後の彼の行動を見れば、現実は甘いものではないと言わざるを得ません。
 狙い通りにエアハルト家を断絶させたルードウィック様は、続いて、私が相続した筈の財産を望み、密かに毒を盛り始めました。
 父を見殺しにした貴族社会であっても、殺人は別です。
 あからさまな毒物を使用したり、あからさまな虐待を行ったりしては、罪に問われるのはバーデンホスト家。
 だからこそ、時間が掛かるとしても、疑われない程度に少量ずつ。
 そして、私が死んだ後は、配偶者として堂々と遺産を相続するつもりなのです。
 ルードウィック様が、ウルリーケと彼女の生んだ子供のいる別邸から、時折、本邸に顔を出すのは、中毒症状の進行具合を確認する為です。
 決して、私が貴方に繰り返したように、愛する私と貴方の顔を見に来たわけではありません。
 …そう判っていながら、毒を受け続けた理由を、貴方に理解して貰うのは難しいでしょうね。

 私は、全てに絶望してしまった。
 この世に生きる意味を、見いだせなくなってしまった。
 緩やかに死に迎えるのなら、それでいい、と思ってしまった…。
 
 貴方が一人残されると言う事実も、私をこの世界に繋ぎ止める事は出来ませんでした。
 人の気持ちと言うものは、複雑ですね。
 私は、お腹を痛めて生んだ貴方が、愛おしい。
 けれど、同じ位、憎くて堪らない。
 貴方がいなければ、私の人生は違った、と言う思いを、どうしても、拭い去る事が出来ません。
 あの時、妊娠さえしていなければ、逃げ出せたのでは、と。
 もしも、男の子だったら、嫡男を生んだ正妻として、大切にされたのでは、と。
 頭では、判っています。
 悪いのは、ルードウィック様を信じた私。
 貴方は、愚かな私の被害者。
 けれど、私の過ちのせいで、私を真実愛してくれた家族が殺されてしまった事実に、心が耐えられません。
 貴方に、健やかに暮らして欲しい、と思う気持ちは、全くの嘘ではありません。
 しかし、誰よりも愛していたからこそ、誰よりも憎いあの人の血が流れる子供だと思うと、時折、身の内から暴力的なまでの憎悪が湧いてしまいます。
 こんな私が、貴方の為に生きる事は出来ません。
 私は、母になれなかった。
 何よりも我が子を優先する母に、なれなかった。
 エアハルト家の亡い今、貴方を連れて逃げられる先は、教会、そして修道院しかないけれど、その道を選べなかったのは、私が、貴族以外の生活を知らず、自らの手で生活する勇気がなかったから。
 そして、衰え切った体では、修道院での生活よりも、今の生活の方がましなのでは、と尻込みしているからです。
 少なくとも今、自由はなくとも、私達の衣食住は、保障されています。
 ルードウィック様が、暴力を振るうわけでもありません。
 放っておけば、いずれ、エアハルト家の財産が手に入ると思っているのですから。
 血を見る事を嫌う彼が、貴方に手を上げる事も考えにくい。
 ならば、年頃になった貴方が、侯爵令嬢として、相応の幸福を得られる可能性が残されています。
 …いいえ、醜い言い訳に過ぎませんね。
 ただ私が、これ以上の苦労をしたくなかっただけなのでしょう。
 何かを考える事が、どんどん億劫になっています。
 私はもう、私である事を、止めてしまいたい。
 
 ごめんなさい。
 貴方は、何一つ悪くない。
 けれど、私は貴方に、負の感情しか残して上げられない。

 私は、もう直ぐ死ぬでしょう。
 この手紙も、一息には書けず、何日も何日も時間を掛けて書いている有様です。
 きっと、私の死後、ルードウィック様は驚くでしょうね。
 私が相続している筈のエアハルト家の財産が、何一つないのですから。
 私の死後、彼が、血を引いた娘である貴方を、蔑ろにしないだけの人間性を持っている事を、望みます。

 どうか、貴方の信じる方が、貴方を支えてくれますように。

        マルグリット』

 長い、長い手紙だった。
 時折、線が震えているのは、マルグリット夫人が、レニを傷つける言葉を、敢えて選んだからなのか。
 心の内を正直に書こうとしているようだが、それだけではなく、夫人は必要以上に憎まれようとしているように見える。
 これは…懺悔か。
 私が手紙を読んでいる間、レニは青い顔で俯いて、小さく震えていた。
 視線が定まらないのは、受けた衝撃の大きさによるものだろう。
 彼女は、何も知らなかった。
 母の実家が、冤罪によって断絶した事も。
 母が、裏切りを知った上でなお、嫁がざるを得なかった事も。
 母が、彼女を愛し、同時に、激しく憎んでいた事も。
「レニ…」
 バーデンホスト家での生活は、決して容易いものではなかった。
 苦しい日々を乗り越えられたのは、母に愛されている、と言う心の支えがあったからだ。
 その支えを失ったレニは、自分すら、見失いそうになっている。
 確かに立っていた筈の地面が、ずぶずぶと泥濘ぬかるんでいく。
 …それは、私にとって、覚えのある感情だった。
「レニ」
 もう一度、名を呼ぶと、のろのろと視線を動かして、こちらを見る。
 薄暗い室内では、レニの神秘的な瞳の色は、よく見えない。
 だが、いつも以上に翳って見えるのは、彼女が自失しているからなのだろう。
 何かを言おうと口を開いて、その唇が小さく震えている。
「わた、し…」
 迷い子のように頼りなく、か細い声。
 思わず、その両肩に手を置いて、彼女の顔を覗き込む。
「私の事を、信じてくれたんだろう?だから、私に見せてくれたんだろう?」
 そう問うと、レニの瞳に、僅かに光が戻った気がした。
「大丈夫。私は、此処にいる。苦しければ、苦しいと言ってくれ。悲しければ、悲しいと言ってくれ。何も言いたくなければ、何も言わなくていい。…私は、貴方の傍にいるよ」
「ジークムント様…っ」
 じわり、と、レニの目が潤んだかと思うと、大粒の涙が零れ落ちた。
 初めて見る、レニの涙。
 女性の涙は、イルザで見慣れたと思っていたけれど、どうしようもなく、胸が痛む。
「…っふ…っ」
 こんな時でも、声を殺そうとするレニを抱き寄せると、彼女は、堰を切ったように激しく泣き出した。
 レニの顔を押し当てた左肩が、生暖かく濡れていくのが判る。
「レニ…」
 柔らかな髪を撫でた。
 繰り返し、繰り返し、何度も。
 全てを此処で、吐き出してしまえ。
 貴方の嘆きは、私が受け止めるから。
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