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***
ヒルデ・ブランカは、王都に程近いモノルカ領を治めるブランカ侯爵家の三女として生まれた。
爵位を持つ者の仕事は、大きく分けて二つ。
王宮に出仕する傍ら自領を統治するか、自領の統治に専念するか。
ブランカ侯爵家当主は、代々、後者を選択しているが、ヒルデの父デミアスがこれまでの当主と異なる点が一つある。
デミアスは、領地ではなく、王都の別邸で日常を過ごす事を選択した初めての当主だった。
どの屋敷を生活拠点にしても、問題はない。
だが、王都で贅沢な暮らしをする一方で、領地や領民の生活を顧みないのは大きな問題だろう。
デミアスばかりではなく、母のリドレットもまた、王都で華々しい生活を送る事を愛する人だった。
モノルカは、王都から馬車で半日もあれば着くにも関わらず、全く顔を出さずに、生活費と称して遊興費ばかりを送金させるのだ。
先代ブランカ侯爵に忠誠を誓っていた使用人達が、デミアス夫妻を見限って離職していったのも、当然と言える。
結果として、モノルカには、デミアスの目を盗んで私腹を肥やそうとする者ばかりが残った。
だが、デミアスは自領に興味がない為、それに気づかない。
領地は荒れ果て、領民は疲弊し、土地を捨てて逃げ出す者達までいたと言う。
侯爵家であっても、その状態で嫁ぎ先を探すのは、難しい。普通であれば、結婚相手の家の財政状況は、真っ先に調べる事だ。
長女は、今程、状況が悪化していない時に嫁ぎ先が見つかった。
次女は、幼馴染相手に、結婚後、実家との関係を断つ事を条件に嫁いでいった。
そして、三女であるヒルデは…実家の財政状況と、自領を顧みない家と言う悪評から、相手が見つかりそうになかった。
唯一残った娘として、入り婿を探していたが、このような家に入ってくれる男性など、いない。
裕福な商人が、爵位目当てに困窮した下位貴族の元に入り婿となるのは、決して少なくない話だ。
だが、侯爵家の負債は大き過ぎるし、侯爵と言う地位もまた高すぎる。
十六になった年に、家を出る事を決意したのは、家の力では結婚相手を見つけるのは難しいと判断したからだ。
侯爵家の娘が働く必要はない、とリドレットは反対したが、デミアスはリドレットよりは現状を理解していたのか、自分の代で家を潰す決意をしたからか、嫁ぎ先は自分で見つけろ、とだけ言って、身元保証書に名前を書いた。
ヒルデは、結婚相手を見つける為に、王宮の侍女になったのだ。
初めは、花形職業である騎士がいいかな、と考えていた。しかし、実際に近くで見てみると、逞しい体は、姉妹の中で育ったヒルデには恐ろしいし、何より武力を貴ぶ気質が野卑に見えたので、選択肢から外した。
次に、すらりとした人の多い文官に目を向けてみた。けれど、彼らの会話はヒルデには難しすぎて興味を削がれたので、選択肢から外した。
贅沢を言える立場ではない、と頭では判っているものの、親に用意された相手ではなく、自分で見つけるのだから、少しばかり我儘を言っても構わないだろう、と思ったからだ。
そのうち、偶然から第五王女エイダの侍女に抜擢された。
贅沢三昧だった両親の影響で、服飾や化粧に造詣が深かったヒルデを、エイダが気に入ったのだ。
エイダ付きの侍女として王城に出入りする中で、思い掛けなく間近に接する事になったのが、王弟令息のランドールだった。
間近と言っても、直接、言葉を交わした事などない。
エイダや女官の後ろから、こっそりと頭を上げて覗き見するだけだ。
だが、その眩いばかりの美しさ、長身でありながら騎士達のようにこちらを圧迫しない均整の取れた体つき、小難しい言葉をこれ見よがしに使う事なく相手に合わせて噛み砕く真の賢さに、ヒルデは恋焦がれた。
ランドールに憧れる王宮の侍女は、数えきれない程いるが、ヒルデにとって僥倖――ランドールにとっては不幸――だったのは、他の侍女よりも遭遇する確率が高かった事だろう。
彼の姿を間近で見て、エイダと交わす声を聞く中で、いつしかヒルデは、ランドールの隣に立つ自分を夢想するようになっていった。
それは、城下で流行している娯楽小説のような物語。
妹のように可愛がっている従妹王女に付き従う物静かな侍女を、見染めるランドール。
私はただの侍女なのです、身分違いですわ、と、涙ながらに身を引こうとする侍女を、君しかいないのだ、と、熱烈に求めてくれるランドール。
最初は、夢想と判った上でランドールに恋していた筈なのに、日に日に、妄想はヒルデの中で現実になっていく。
ランドールに会う為に、従兄を慕うエイダを煽り、遭遇する機会を増やした。
ランドールに近づく令嬢達を蹴り落とす為に、彼が茶会や夜会で接触した令嬢の名を、捏造した噂と共にエイダに伝え、妨害工作を謀った。
勿論、エイダの行動を咎めて注意する女官や侍女はいたが、エイダに、
「エイダ様のお気持ちを慮る事の出来ない者を、お傍におく必要はございません」
と言って、遠ざけさせた。
三つ下の世間知らずな姫君を、ヒルデの意図するように動かすのは、至極簡単な事だった。
エイダに気に入られる為、常にエイダを褒めそやし、彼女の意見を全肯定する一方で、女官に昇格させようと言われても、御身のお世話をする方が好きなのです、と、侍女の立場に留まったのは、裏工作が露見する可能性を下げる為だ。
だが。
ある日突然、エイダが多忙を理由にランドールに会えなくなった事で、ヒルデの完璧だった作戦に綻びが生まれた。
ヒルデの作戦とは、エイダの立場を利用して、国内のランドールと家格の釣り合いが取れる令嬢全てを排除し、その後、エイダを有力なランドールの婚約者候補に押し上げる。婚約直前にエイダのこれまでの悪行を「良心が咎める」として暴露、婚約話を反故にする、と言うものだった。
ヒルデは、没落気味とは言え、侯爵家の令嬢。家格は十分だ。
結婚相手がいない、と困るランドールの前に姿を見せれば、自分が婚約者になれると考えた。
十六となり成人を迎えたエイダの社交界デビューは、イアンの在位記念式典になる筈だ。
社交界に出てしまえば、エイダ自身の縁談が、本格的に進み始めてしまう。
だから、それまでに婚約の話を具体的にしておきたかったのに、話を進める機会がない。
有力な婚約者候補の令嬢達を牽制し、エイダの結婚への不安を煽ってランドールとの婚約を求めるように仕向け…ここまで順調に進んでいた筈なのに、ランドールと会えなくなった事で、事態が膠着する。
焦りがあったのは、確かだ。
ランドールが女性と離宮に行ったとの噂を聞いて、婚約話を進めなければ、と気が急いていた。
その上、記念式典の夜会で、ランドールはエスコートしていたエイダ以外に、たった一人の令嬢としか踊らなかったのだ。
ダンスの最中の様子を見ていれば、その令嬢がランドールの本命である事は明らかだったが、これまで、候補に挙がった事のない素性不明な令嬢であった事に、ヒルデは焦った。
それはつまり、ランドールが家格の釣り合いに、拘りがない事を示す。
他国の王族との結婚はありえないのだから、王族であるエイダよりも優先される身分の女性などこの国にいない。
この一点のみで進めてきた計画が、脆くも崩れ去ろうとしている。
焦りの余り、エイダを煽り過ぎた自覚はある。
ランドールの婚約者を呼び出し、別の男と密会している現場をランドールに見せれば、相手の女性を見限ってエイダの元に戻ってくるだろう、と、吹き込んだのはヒルデだ。
ヒルデ自身が手配した相手役の男に、女の身柄は好きにしていい、と告げたのは、これまで特定の女性と親しくする気配のなかったランドールの本命となった女が、憎かったからだ。
だが…何故、こんな事に。
「ヒルデ・ブランカ。エイダがこれまで行ってきた妨害工作を、裏で誘導し、指示していたのはお前だとの調べはついている。何か、申し開きはあるか」
何故…恋い慕うランドールに、氷のような眼差しで糾弾されるのか。
「…何も…ございません…」
目の前に提示された書類に、震えながらヒルデは視線を落とす。
「お前がした事で、私の婚約者の身に危険が迫った。お前が手配した男が、全てを自供した。自らの野望の為に、他人を貶め危険に晒す行為を、国として許すわけにはいかない。私の婚約者を害そうとしたお前を、私は断じて許さない」
初めて、その視界に入れたと言うのに。
エイダの行動は、侍女であるヒルデの誘導によるものと判明し、王家は騒然となった。
ヒルデが、エイダ付きの侍女となって三年。
彼女は、特に目立つ所のない大人しい侍女に見えていたからだ。
マグダレナは、母として、王族の先達として、娘の周囲の人間を見極められなかった己の不明を恥じたが、他の誰も気づかなかった事なのだから、ヒルデが一枚上手だったと言う事だろう。
「…私があの時、採用を勧めなければ」
沈痛な面持ちで呟いたのは、ユリアスだ。
エイダがヒルデを侍女に望んだ時、ランドールはブランカ家の状況を理由に反対した。
ヒルデ本人がどれだけ真面目に勤めようと、彼女の両親がどのように関わってくるか読めないからだ。
特に、王宮に仕官しているわけではないブランカ侯爵の動向は、なかなか伝わってくるものではない。
エイダの周囲に、危険因子を置きたくないと言うランドールに対し、親と子は別の人間なのだから、可能性を汲んだ方がいい、実家から独立したいのであれば応援するべきだ、とヒルデの採用を勧めたのはユリアスだった。
彼は、騎士団長と言う立場もあり、肩書よりも本人の能力を重視する傾向がある。
自分の能力でもってエイダの目に留まったのだから、採用を認めた方がいい、とのユリアスの意見に、最終的にランドールも納得したのだから、ユリアスに責任があるわけではないのだが、彼は、自分が推した結果を知って、衝撃を受けたようだった。
「…わたくしも、エイダの変化には気が付いておりました。けれど、それは成人を前にして、意気込みが溢れているのだとばかり…あの子がランディお兄様をお慕いしているのは、周知の事実でしたし、違和感はありつつも、不自然とは思わなかったのです。ユーリお兄様の責任では、ございませんわ」
消沈した顔つきの第四王女ソフィアが、ユリアスを慰めるように言葉を掛ける。
「そうだな。わしらは皆、エイダの変化に気が付いておった。それを、思春期の娘だから、と済ましてしまった事が問題だったわけだ。娘ばかり育てて、『このようなものだろう』と先入観があったのがいかんかった」
イアンが重々しく頷いた。
「…して、ランドール。レナルド陛下とアマリア嬢は、エイダの処遇を何と望んでおられる?」
イアンに問われて、ランドールが姿勢を正す。
「レナルド陛下は、アマリアの意思にお任せになる、と。アマリアは、エイダの周囲につける者の選定を、改めるように望んでおります」
「…それだけなのか?アマリア嬢は、危うく身を損ねる所だったのだろう?」
「えぇ。アマリアが言うには、エイダ本人の成長を望み、おもねるのではなく意見を述べられるような者をつける事こそ、自分の意見を全肯定されてきたエイダにとって一番、辛い事だろう、と」
「確かにな…」
顎鬚を触りながら、イアンが唸るように低く返した。
「惜しいな…そなたの婚約者でなければ、アマリア嬢こそ、エイダの側付きにしたいものを」
「冗談でもお止め下さい、陛下。兄上の婚儀が済み次第、私も結婚するのですから」
これまで、結婚に全く興味を持って来なかったランドールが、一刻も早くアマリアを妻にと望む姿に、険しい顔をしていた王族達の顔に笑みが浮かぶ。
この場に集まっているのは、国王夫妻、王弟夫妻、ユリアス、ランドール、ソフィアの七人だった。
エイダは申告通り、王城の自室で謹慎している。
「そのように焦らずとも、これまでずっと、先延ばしにしてきたのだろうに」
揶揄うイアンに、ランドールは眉を顰めた。
「現実的な問題として、レナルド陛下がアマリアを姪として公表なさるのです。チートス王家との繋がりを望む者達が、国内外を問わず、求婚してくる事は目に見えております」
「それもそうか。チートス王家との繋がりと、婚約発表は同時にせねばならんな」
「そもそもは、婚約の為に母君の事を公表するのですから。私との事がなければ、アマリアもトゥランジア伯も、事実の公表を望まないでしょう」
「であろうな」
冷静に説いているように見えて、その実、ただアマリアとの結婚を早く進めたいだけのランドールを微笑ましく見て、エリクが口を開く。
「取り敢えず、現時点で判明している事を整理したい。ランドールの婚約者となるアマリア・トゥランジア嬢は、チートスのレナルド陛下の姪として公表される。レナルド陛下は、姪であるアマリア嬢が我が国で安全に暮らしていけるか不安視されており、懸念材料であるエイダの態度の原因であった侍女ヒルデ・ブランカは、身柄を拘束済み。但し、一人と限ったわけでもないゆえ、エイダの従者は全員、採用を見直した方がよかろう。後は…」
「チートスには、釘を刺した方がよいな」
「例の従者か」
イアンとエリクの会話に首を傾げるマグダレナとソフィアに、ランドールが目顔でイアンの許可を得て、話し始める。
「私が先日まで三か月程、王城の自室に籠っていた事を覚えておいでですか」
マグダレナに問うと、彼女は戸惑うように頷いた。
「えぇ…エイダが、ランディに会えないと嘆いておりましたもの」
「記念式典に向けての執務が多忙ゆえ、と説明しておりましたが、事実は異なります」
「それは、どう言う…」
「三か月半前、チートスのアンジェリカ王女が、お忍びで城に訪問されました」
「え?」
「目的は私との面談だったのですが…その席で、アンジェリカ王女の従者より襲撃されました」
「何て事…!」
「魔法石による攻撃を受け、一時的に視力と聴力を失ったのです。動機は未だ判明しておりません。それ故に、事件を公表する事も出来ず、妃殿下にも事実を伏せておりました」
「そのような事はいいのです。今はもう、大丈夫なのですか?」
真っ青になったマグダレナが、隣席のソフィアと手を握り合って、真剣な眼差しでランドールを見つめる。
その視線には、純粋に案じる気持ちしか浮かんでいない。
「エルフェイスとサングラの尽力の結果、後遺症も残っておりません。ですが、我が国が魔術の後進国である事をまざまざと実感致しました。事件を起こした従者は、我が国の管理下にあります。動機を解明し、その情報をもとに、チートスから魔術教育への支援を取り付ける事が出来ればよいのですが」
最後の言葉は、集まった王族全員に向けて発する。
ロイスワルズは長年、農業大国として大陸での立場を固めてきた。
自国内で殆ど魔法石が取れない環境のせいもあるが、魔術師の人数も技術も、チートスの比ではない。
もしも、今回の事件をきっかけとして、チートスとの間に魔法石輸入の為の太い伝手を作れるのであれば、怪我の功名と言えるだろう。
「陛下、それを念頭にお願いがあるのですが」
「何だ」
「これまで、捕らえた従者の尋問は調査官が行っておりましたが、あの者が口を割る事はなく、正直、手詰まりの感があります。そこで、私自身に尋問を行わせて頂けないでしょうか」
「…だが、お前を害そうとした者だぞ。護衛をつけるとは言え、危険ではないか」
「昨日、アマリアと共にサングラの元を訪れた時、一つ、思いついた…と言うか、気づかされた事がありまして」
「気づかされた事?」
きっかけは、アマリアの一言だった。
温室を出て、魔法陣を完成させる為にサングラの元を訪れた時の事。
アマリアは、ランドールに贈られた首飾りの魔法石に、サングラが慎重な手つきで一本、線を刻み込むのを、興味深そうに眺めていた。
魔法陣を完成させたサングラが、詰めていた息をフゥ、と吐き出し、顔に掛けていた拡大鏡を外すのを確認して、問い掛ける。
「その鑿は、何か特別な魔術が掛かっているのですか?」
先程、サングラが線を刻み込む為に使用していた鑿を指差すと、サングラは横に首を振る。
「いやいや、これはただの鑿ですよ。魔法石は固い故、道具もそれなりのものを使わねばならんのですが、魔術専用の特別な物と言うわけではありませんな。重要なのは、刻み込む魔法陣そのもの。形さえ正しければ、何で刻もうと効果は同じです」
「刻み込む対象は、魔法石である必要がありますか?魔法石の表面に、例えば墨で描くのではダメでしょうか?」
「そうですな、魔力を持つ魔法石に、魔法陣の形に傷をつける事で、魔術が発動するのですよ。なので、魔法石の使用は必須です。私は、この鑿以外を使用した事はありませんが、知人は小刀の方が使い勝手が良いと言っておりますな」
「刻み込む為の魔法石の大きさはいかがですか?サングラ様は、どれ位の小ささまで使用された事があるのでしょう?」
母方が魔術師の家系と知ったが故の、軽い好奇心かと思いきや、アマリアは真剣な顔で幾つも質問を重ねていく。
最初は微笑ましく見ていたランドールも、首を傾げた。
「アマリア?何か、気になる事が?」
「えぇ…少し、気になっている事があって…。申し訳ありません、お忙しい時に」
困ったように眉を顰めるのを見て、慌てて否定する。
「いや、このような機会がないと、我々が魔術について知る事もない。サングラ、良ければ、アマリアの疑問に答えてやってくれるか」
「えぇ、勿論。私は魔術師ですから、魔術に興味を持って頂けるのであれば、何でも嬉しいですよ。それで…えぇと、大きさですか。基本的に、魔法石に含有される魔力は石の大きさに比例すると言われておりますな。なので、理論上は、石が大きければ大きい程、発動する魔術の規模も大きくなる筈です。ですが、魔法石は貴石と同じく、鉱脈の中に埋蔵されている自然物。地脈を巡る魔力が凝って、結晶化したものです。色は様々あれど、含有する魔力に殆ど差はございません。大きさも、貴石と同程度とお考え下さい。私がこれまでの魔術師人生で見た最も大きな魔法石で、鶏の卵位の大きさでしたでしょうかね」
頷くアマリアを見て、サングラが話を続けた。
「大きさと比例するわけですから、小石になる程、複雑な魔術は発動しにくくなります。勿論、魔法陣を刻むのもまた、難しい。小麦の粒に文字を書くようなものでして。私自身が手掛けたもので、最も小さいものが、小指の爪程の大きさです。魔法陣は、最も簡易的な灯りの魔法陣を刻みました。意外に重宝するのですよ」
小指の爪、と聞いて、アマリアが己の指先を見つめる。
「あの…ランドール殿下」
「何だろうか?」
「捕らえられている従者、アイヴァンですが、彼が片耳のみの耳飾りをつけていた事を覚えておいでですか?」
「耳飾り?いや…サングラ、そなたはどうだ?」
ランドールは問われて、記憶を確認するように軽く視線を上に向けた後、諦める様に首を振って、サングラに尋ねた。
「耳飾り…あぁ…そう言えば、確か右耳につけておりましたな。男性で耳飾りとは、ロイスワルズでは洒落者の方以外にお目に掛かりませんので、チートスの習慣なのか、アンジェリカ王女殿下のご趣味なのか、と、ちら、と思ったのを思い出しました」
「その耳飾りが、どうかしたのか?」
「考え過ぎだといいのですが…アイヴァンの耳飾りは、丁度、小指の爪程の大きさでした。魔法陣を刻む事の出来る大きさなのではないか、と」
「…アイヴァンが、まだ、魔法石を身に着けている…?」
ロイスワルズでは、魔法石は希少なものである。
その為、灯りや浄水、調理などの実用に回すと、装飾に利用出来る石など残らない。
ランドールですら、アマリアの守護石の話を聞いて、装飾品として魔法石を身に着ける発想を得たのだから、魔術に縁が薄い調査官が見落としていても不思議はない。
「ずっと、何故、アイヴァンは殿下を襲ったのか、考えておりました。面談の場での様子を見て、殿下がアンジェリカ王女殿下のお申し出をお断りなさった事に腹を立てたのだと思っていたのですが…」
言葉を濁すアマリアに、ランドールが続きを促す。
「もしかすると、逆、なのではないかと」
「逆?」
「不思議だったのです。もしも、あの場に守護石がなかったのならば、アンジェリカ王女殿下もまた、魔法石の攻撃にさらされていた筈です。幾ら、アーダムとアイヴァンが身を挺してお守りしたとしても、かすり傷一つ負わない事は無理だったのではないでしょうか。では、何故、アイヴァンはアンジェリカ王女殿下のおられる前で、あのような事をしたのか。護衛の少ない場で殿下と対面する機会は、他にないから、と思い込んでおりましたが、それにしても状況が悪過ぎます。私の話をレナルド陛下に伺っていたとしても、守護石の事までは確信が持てなかった筈です。そのような賭けは、無謀でしょう」
「…確かに、そうだな。レナルド陛下の話を伺って、アマリアの守護石を計算に入れていたものと思い込んでいたが…結果としてアンジェリカ王女が怪我を負っていないだけで、あの時点ではどうなるか判らなかったと言う事か。…ん?では、逆、と言うのは…」
「はい。アイヴァンは、晩餐の最中、何度か眉を軽く顰めておりました。主に、アンジェリカ王女殿下が求婚なさって、それを殿下がお断りになった時に。私はそれを見て、心酔する主の意思を汲まない殿下に腹を立てているのだとばかり思っていたのですが、もしかすると…アンジェリカ王女殿下のお振る舞いに、思う所があったのかもしれません」
エイダの話を聞いていた時に、ふと思ったのだ。
自らを否定する者を切り捨てる主に長く仕える為には、自分の内心を押し殺すしか方法がないのではないか、と。
忠心より意見を述べようと、受け止める側がそれを聞き入れ、改善するかは別の話だ。
アーダムは不明だが、アイヴァンは、アンジェリカの言動に反対する思いがあったのではないか、と、ふと思いついた。
だが、では何故、調査官の尋問に答えようとしないのか。
アンジェリカに忠誠を誓っている為ではないのであれば、他に何か、理由があるのではないのか。
その時、アイヴァンの耳元に光っていた耳飾りを思い出した。
彼の紫水晶のような綺麗な瞳よりも、一段濃い紫の石を。
「もしも…あの耳飾りが魔法石で、それを身に着けているが故に、話が出来ないのだとしたら」
アマリアの言わんとする事を察して、ランドールは唸った。
アイヴァンは、記念式典直前に、レナルドからアマリアに接触するよう密命を受けていたと話したが、酷く怯えていたようだったと、報告した調査官に聞いていた。
その時は、自国の王の来訪を聞いて、処罰を恐れていたのだろうと考え、特に気にも留めなかった。
だが、もしも、その怯えが、身に着けている魔法石の魔術を恐れていたからなのだとしたら。
「…アイヴァンに会う必要があるな。私の職責を越える為、一存では決められないが、陛下にご相談してみよう」
…
このようなやり取りがあったのだ、と、ランドールが説明すると、イアンとエリクが低く唸った。
この双子は、お互いに似せようと努力を続けている為か、ふとした仕草や言動が一致する事が多い。
「サングラは、その意見に対して、何と言った」
「可能性はある、と。サングラの把握している中にも幾つか、相手の行動を縛る魔法陣が存在するようです」
「そのようなものがあるのか。…まぁ、そうだろうな。灯りをつけるだけの力であれば、チートスがあれ程の大国になる事もあるまい。判った、面会を認めよう。ユリアス、騎士団の中から、腕の立つ者を寄越してくれ」
「はい、陛下」
「エリク、状況次第で、チートス…もとい、レナルド陛下への交渉材料となる。草稿を作り始めてくれ」
「承知」
王族の男性達が、顔を見合わせて頷くと、すっと立ち上がる。
その様子を、マグダレナ、リリーナ、ソフィアがじっと眺めていた。
「陛下、わたくしは、エイダの側付きの者の検討を始めてよろしいでしょうか」
「マグダレナ、そちらはそなたに頼むとしよう。リリーナ殿、マグダレナを手助けしてやってくれるか」
「承知致しました」
ヒルデ・ブランカは、王都に程近いモノルカ領を治めるブランカ侯爵家の三女として生まれた。
爵位を持つ者の仕事は、大きく分けて二つ。
王宮に出仕する傍ら自領を統治するか、自領の統治に専念するか。
ブランカ侯爵家当主は、代々、後者を選択しているが、ヒルデの父デミアスがこれまでの当主と異なる点が一つある。
デミアスは、領地ではなく、王都の別邸で日常を過ごす事を選択した初めての当主だった。
どの屋敷を生活拠点にしても、問題はない。
だが、王都で贅沢な暮らしをする一方で、領地や領民の生活を顧みないのは大きな問題だろう。
デミアスばかりではなく、母のリドレットもまた、王都で華々しい生活を送る事を愛する人だった。
モノルカは、王都から馬車で半日もあれば着くにも関わらず、全く顔を出さずに、生活費と称して遊興費ばかりを送金させるのだ。
先代ブランカ侯爵に忠誠を誓っていた使用人達が、デミアス夫妻を見限って離職していったのも、当然と言える。
結果として、モノルカには、デミアスの目を盗んで私腹を肥やそうとする者ばかりが残った。
だが、デミアスは自領に興味がない為、それに気づかない。
領地は荒れ果て、領民は疲弊し、土地を捨てて逃げ出す者達までいたと言う。
侯爵家であっても、その状態で嫁ぎ先を探すのは、難しい。普通であれば、結婚相手の家の財政状況は、真っ先に調べる事だ。
長女は、今程、状況が悪化していない時に嫁ぎ先が見つかった。
次女は、幼馴染相手に、結婚後、実家との関係を断つ事を条件に嫁いでいった。
そして、三女であるヒルデは…実家の財政状況と、自領を顧みない家と言う悪評から、相手が見つかりそうになかった。
唯一残った娘として、入り婿を探していたが、このような家に入ってくれる男性など、いない。
裕福な商人が、爵位目当てに困窮した下位貴族の元に入り婿となるのは、決して少なくない話だ。
だが、侯爵家の負債は大き過ぎるし、侯爵と言う地位もまた高すぎる。
十六になった年に、家を出る事を決意したのは、家の力では結婚相手を見つけるのは難しいと判断したからだ。
侯爵家の娘が働く必要はない、とリドレットは反対したが、デミアスはリドレットよりは現状を理解していたのか、自分の代で家を潰す決意をしたからか、嫁ぎ先は自分で見つけろ、とだけ言って、身元保証書に名前を書いた。
ヒルデは、結婚相手を見つける為に、王宮の侍女になったのだ。
初めは、花形職業である騎士がいいかな、と考えていた。しかし、実際に近くで見てみると、逞しい体は、姉妹の中で育ったヒルデには恐ろしいし、何より武力を貴ぶ気質が野卑に見えたので、選択肢から外した。
次に、すらりとした人の多い文官に目を向けてみた。けれど、彼らの会話はヒルデには難しすぎて興味を削がれたので、選択肢から外した。
贅沢を言える立場ではない、と頭では判っているものの、親に用意された相手ではなく、自分で見つけるのだから、少しばかり我儘を言っても構わないだろう、と思ったからだ。
そのうち、偶然から第五王女エイダの侍女に抜擢された。
贅沢三昧だった両親の影響で、服飾や化粧に造詣が深かったヒルデを、エイダが気に入ったのだ。
エイダ付きの侍女として王城に出入りする中で、思い掛けなく間近に接する事になったのが、王弟令息のランドールだった。
間近と言っても、直接、言葉を交わした事などない。
エイダや女官の後ろから、こっそりと頭を上げて覗き見するだけだ。
だが、その眩いばかりの美しさ、長身でありながら騎士達のようにこちらを圧迫しない均整の取れた体つき、小難しい言葉をこれ見よがしに使う事なく相手に合わせて噛み砕く真の賢さに、ヒルデは恋焦がれた。
ランドールに憧れる王宮の侍女は、数えきれない程いるが、ヒルデにとって僥倖――ランドールにとっては不幸――だったのは、他の侍女よりも遭遇する確率が高かった事だろう。
彼の姿を間近で見て、エイダと交わす声を聞く中で、いつしかヒルデは、ランドールの隣に立つ自分を夢想するようになっていった。
それは、城下で流行している娯楽小説のような物語。
妹のように可愛がっている従妹王女に付き従う物静かな侍女を、見染めるランドール。
私はただの侍女なのです、身分違いですわ、と、涙ながらに身を引こうとする侍女を、君しかいないのだ、と、熱烈に求めてくれるランドール。
最初は、夢想と判った上でランドールに恋していた筈なのに、日に日に、妄想はヒルデの中で現実になっていく。
ランドールに会う為に、従兄を慕うエイダを煽り、遭遇する機会を増やした。
ランドールに近づく令嬢達を蹴り落とす為に、彼が茶会や夜会で接触した令嬢の名を、捏造した噂と共にエイダに伝え、妨害工作を謀った。
勿論、エイダの行動を咎めて注意する女官や侍女はいたが、エイダに、
「エイダ様のお気持ちを慮る事の出来ない者を、お傍におく必要はございません」
と言って、遠ざけさせた。
三つ下の世間知らずな姫君を、ヒルデの意図するように動かすのは、至極簡単な事だった。
エイダに気に入られる為、常にエイダを褒めそやし、彼女の意見を全肯定する一方で、女官に昇格させようと言われても、御身のお世話をする方が好きなのです、と、侍女の立場に留まったのは、裏工作が露見する可能性を下げる為だ。
だが。
ある日突然、エイダが多忙を理由にランドールに会えなくなった事で、ヒルデの完璧だった作戦に綻びが生まれた。
ヒルデの作戦とは、エイダの立場を利用して、国内のランドールと家格の釣り合いが取れる令嬢全てを排除し、その後、エイダを有力なランドールの婚約者候補に押し上げる。婚約直前にエイダのこれまでの悪行を「良心が咎める」として暴露、婚約話を反故にする、と言うものだった。
ヒルデは、没落気味とは言え、侯爵家の令嬢。家格は十分だ。
結婚相手がいない、と困るランドールの前に姿を見せれば、自分が婚約者になれると考えた。
十六となり成人を迎えたエイダの社交界デビューは、イアンの在位記念式典になる筈だ。
社交界に出てしまえば、エイダ自身の縁談が、本格的に進み始めてしまう。
だから、それまでに婚約の話を具体的にしておきたかったのに、話を進める機会がない。
有力な婚約者候補の令嬢達を牽制し、エイダの結婚への不安を煽ってランドールとの婚約を求めるように仕向け…ここまで順調に進んでいた筈なのに、ランドールと会えなくなった事で、事態が膠着する。
焦りがあったのは、確かだ。
ランドールが女性と離宮に行ったとの噂を聞いて、婚約話を進めなければ、と気が急いていた。
その上、記念式典の夜会で、ランドールはエスコートしていたエイダ以外に、たった一人の令嬢としか踊らなかったのだ。
ダンスの最中の様子を見ていれば、その令嬢がランドールの本命である事は明らかだったが、これまで、候補に挙がった事のない素性不明な令嬢であった事に、ヒルデは焦った。
それはつまり、ランドールが家格の釣り合いに、拘りがない事を示す。
他国の王族との結婚はありえないのだから、王族であるエイダよりも優先される身分の女性などこの国にいない。
この一点のみで進めてきた計画が、脆くも崩れ去ろうとしている。
焦りの余り、エイダを煽り過ぎた自覚はある。
ランドールの婚約者を呼び出し、別の男と密会している現場をランドールに見せれば、相手の女性を見限ってエイダの元に戻ってくるだろう、と、吹き込んだのはヒルデだ。
ヒルデ自身が手配した相手役の男に、女の身柄は好きにしていい、と告げたのは、これまで特定の女性と親しくする気配のなかったランドールの本命となった女が、憎かったからだ。
だが…何故、こんな事に。
「ヒルデ・ブランカ。エイダがこれまで行ってきた妨害工作を、裏で誘導し、指示していたのはお前だとの調べはついている。何か、申し開きはあるか」
何故…恋い慕うランドールに、氷のような眼差しで糾弾されるのか。
「…何も…ございません…」
目の前に提示された書類に、震えながらヒルデは視線を落とす。
「お前がした事で、私の婚約者の身に危険が迫った。お前が手配した男が、全てを自供した。自らの野望の為に、他人を貶め危険に晒す行為を、国として許すわけにはいかない。私の婚約者を害そうとしたお前を、私は断じて許さない」
初めて、その視界に入れたと言うのに。
エイダの行動は、侍女であるヒルデの誘導によるものと判明し、王家は騒然となった。
ヒルデが、エイダ付きの侍女となって三年。
彼女は、特に目立つ所のない大人しい侍女に見えていたからだ。
マグダレナは、母として、王族の先達として、娘の周囲の人間を見極められなかった己の不明を恥じたが、他の誰も気づかなかった事なのだから、ヒルデが一枚上手だったと言う事だろう。
「…私があの時、採用を勧めなければ」
沈痛な面持ちで呟いたのは、ユリアスだ。
エイダがヒルデを侍女に望んだ時、ランドールはブランカ家の状況を理由に反対した。
ヒルデ本人がどれだけ真面目に勤めようと、彼女の両親がどのように関わってくるか読めないからだ。
特に、王宮に仕官しているわけではないブランカ侯爵の動向は、なかなか伝わってくるものではない。
エイダの周囲に、危険因子を置きたくないと言うランドールに対し、親と子は別の人間なのだから、可能性を汲んだ方がいい、実家から独立したいのであれば応援するべきだ、とヒルデの採用を勧めたのはユリアスだった。
彼は、騎士団長と言う立場もあり、肩書よりも本人の能力を重視する傾向がある。
自分の能力でもってエイダの目に留まったのだから、採用を認めた方がいい、とのユリアスの意見に、最終的にランドールも納得したのだから、ユリアスに責任があるわけではないのだが、彼は、自分が推した結果を知って、衝撃を受けたようだった。
「…わたくしも、エイダの変化には気が付いておりました。けれど、それは成人を前にして、意気込みが溢れているのだとばかり…あの子がランディお兄様をお慕いしているのは、周知の事実でしたし、違和感はありつつも、不自然とは思わなかったのです。ユーリお兄様の責任では、ございませんわ」
消沈した顔つきの第四王女ソフィアが、ユリアスを慰めるように言葉を掛ける。
「そうだな。わしらは皆、エイダの変化に気が付いておった。それを、思春期の娘だから、と済ましてしまった事が問題だったわけだ。娘ばかり育てて、『このようなものだろう』と先入観があったのがいかんかった」
イアンが重々しく頷いた。
「…して、ランドール。レナルド陛下とアマリア嬢は、エイダの処遇を何と望んでおられる?」
イアンに問われて、ランドールが姿勢を正す。
「レナルド陛下は、アマリアの意思にお任せになる、と。アマリアは、エイダの周囲につける者の選定を、改めるように望んでおります」
「…それだけなのか?アマリア嬢は、危うく身を損ねる所だったのだろう?」
「えぇ。アマリアが言うには、エイダ本人の成長を望み、おもねるのではなく意見を述べられるような者をつける事こそ、自分の意見を全肯定されてきたエイダにとって一番、辛い事だろう、と」
「確かにな…」
顎鬚を触りながら、イアンが唸るように低く返した。
「惜しいな…そなたの婚約者でなければ、アマリア嬢こそ、エイダの側付きにしたいものを」
「冗談でもお止め下さい、陛下。兄上の婚儀が済み次第、私も結婚するのですから」
これまで、結婚に全く興味を持って来なかったランドールが、一刻も早くアマリアを妻にと望む姿に、険しい顔をしていた王族達の顔に笑みが浮かぶ。
この場に集まっているのは、国王夫妻、王弟夫妻、ユリアス、ランドール、ソフィアの七人だった。
エイダは申告通り、王城の自室で謹慎している。
「そのように焦らずとも、これまでずっと、先延ばしにしてきたのだろうに」
揶揄うイアンに、ランドールは眉を顰めた。
「現実的な問題として、レナルド陛下がアマリアを姪として公表なさるのです。チートス王家との繋がりを望む者達が、国内外を問わず、求婚してくる事は目に見えております」
「それもそうか。チートス王家との繋がりと、婚約発表は同時にせねばならんな」
「そもそもは、婚約の為に母君の事を公表するのですから。私との事がなければ、アマリアもトゥランジア伯も、事実の公表を望まないでしょう」
「であろうな」
冷静に説いているように見えて、その実、ただアマリアとの結婚を早く進めたいだけのランドールを微笑ましく見て、エリクが口を開く。
「取り敢えず、現時点で判明している事を整理したい。ランドールの婚約者となるアマリア・トゥランジア嬢は、チートスのレナルド陛下の姪として公表される。レナルド陛下は、姪であるアマリア嬢が我が国で安全に暮らしていけるか不安視されており、懸念材料であるエイダの態度の原因であった侍女ヒルデ・ブランカは、身柄を拘束済み。但し、一人と限ったわけでもないゆえ、エイダの従者は全員、採用を見直した方がよかろう。後は…」
「チートスには、釘を刺した方がよいな」
「例の従者か」
イアンとエリクの会話に首を傾げるマグダレナとソフィアに、ランドールが目顔でイアンの許可を得て、話し始める。
「私が先日まで三か月程、王城の自室に籠っていた事を覚えておいでですか」
マグダレナに問うと、彼女は戸惑うように頷いた。
「えぇ…エイダが、ランディに会えないと嘆いておりましたもの」
「記念式典に向けての執務が多忙ゆえ、と説明しておりましたが、事実は異なります」
「それは、どう言う…」
「三か月半前、チートスのアンジェリカ王女が、お忍びで城に訪問されました」
「え?」
「目的は私との面談だったのですが…その席で、アンジェリカ王女の従者より襲撃されました」
「何て事…!」
「魔法石による攻撃を受け、一時的に視力と聴力を失ったのです。動機は未だ判明しておりません。それ故に、事件を公表する事も出来ず、妃殿下にも事実を伏せておりました」
「そのような事はいいのです。今はもう、大丈夫なのですか?」
真っ青になったマグダレナが、隣席のソフィアと手を握り合って、真剣な眼差しでランドールを見つめる。
その視線には、純粋に案じる気持ちしか浮かんでいない。
「エルフェイスとサングラの尽力の結果、後遺症も残っておりません。ですが、我が国が魔術の後進国である事をまざまざと実感致しました。事件を起こした従者は、我が国の管理下にあります。動機を解明し、その情報をもとに、チートスから魔術教育への支援を取り付ける事が出来ればよいのですが」
最後の言葉は、集まった王族全員に向けて発する。
ロイスワルズは長年、農業大国として大陸での立場を固めてきた。
自国内で殆ど魔法石が取れない環境のせいもあるが、魔術師の人数も技術も、チートスの比ではない。
もしも、今回の事件をきっかけとして、チートスとの間に魔法石輸入の為の太い伝手を作れるのであれば、怪我の功名と言えるだろう。
「陛下、それを念頭にお願いがあるのですが」
「何だ」
「これまで、捕らえた従者の尋問は調査官が行っておりましたが、あの者が口を割る事はなく、正直、手詰まりの感があります。そこで、私自身に尋問を行わせて頂けないでしょうか」
「…だが、お前を害そうとした者だぞ。護衛をつけるとは言え、危険ではないか」
「昨日、アマリアと共にサングラの元を訪れた時、一つ、思いついた…と言うか、気づかされた事がありまして」
「気づかされた事?」
きっかけは、アマリアの一言だった。
温室を出て、魔法陣を完成させる為にサングラの元を訪れた時の事。
アマリアは、ランドールに贈られた首飾りの魔法石に、サングラが慎重な手つきで一本、線を刻み込むのを、興味深そうに眺めていた。
魔法陣を完成させたサングラが、詰めていた息をフゥ、と吐き出し、顔に掛けていた拡大鏡を外すのを確認して、問い掛ける。
「その鑿は、何か特別な魔術が掛かっているのですか?」
先程、サングラが線を刻み込む為に使用していた鑿を指差すと、サングラは横に首を振る。
「いやいや、これはただの鑿ですよ。魔法石は固い故、道具もそれなりのものを使わねばならんのですが、魔術専用の特別な物と言うわけではありませんな。重要なのは、刻み込む魔法陣そのもの。形さえ正しければ、何で刻もうと効果は同じです」
「刻み込む対象は、魔法石である必要がありますか?魔法石の表面に、例えば墨で描くのではダメでしょうか?」
「そうですな、魔力を持つ魔法石に、魔法陣の形に傷をつける事で、魔術が発動するのですよ。なので、魔法石の使用は必須です。私は、この鑿以外を使用した事はありませんが、知人は小刀の方が使い勝手が良いと言っておりますな」
「刻み込む為の魔法石の大きさはいかがですか?サングラ様は、どれ位の小ささまで使用された事があるのでしょう?」
母方が魔術師の家系と知ったが故の、軽い好奇心かと思いきや、アマリアは真剣な顔で幾つも質問を重ねていく。
最初は微笑ましく見ていたランドールも、首を傾げた。
「アマリア?何か、気になる事が?」
「えぇ…少し、気になっている事があって…。申し訳ありません、お忙しい時に」
困ったように眉を顰めるのを見て、慌てて否定する。
「いや、このような機会がないと、我々が魔術について知る事もない。サングラ、良ければ、アマリアの疑問に答えてやってくれるか」
「えぇ、勿論。私は魔術師ですから、魔術に興味を持って頂けるのであれば、何でも嬉しいですよ。それで…えぇと、大きさですか。基本的に、魔法石に含有される魔力は石の大きさに比例すると言われておりますな。なので、理論上は、石が大きければ大きい程、発動する魔術の規模も大きくなる筈です。ですが、魔法石は貴石と同じく、鉱脈の中に埋蔵されている自然物。地脈を巡る魔力が凝って、結晶化したものです。色は様々あれど、含有する魔力に殆ど差はございません。大きさも、貴石と同程度とお考え下さい。私がこれまでの魔術師人生で見た最も大きな魔法石で、鶏の卵位の大きさでしたでしょうかね」
頷くアマリアを見て、サングラが話を続けた。
「大きさと比例するわけですから、小石になる程、複雑な魔術は発動しにくくなります。勿論、魔法陣を刻むのもまた、難しい。小麦の粒に文字を書くようなものでして。私自身が手掛けたもので、最も小さいものが、小指の爪程の大きさです。魔法陣は、最も簡易的な灯りの魔法陣を刻みました。意外に重宝するのですよ」
小指の爪、と聞いて、アマリアが己の指先を見つめる。
「あの…ランドール殿下」
「何だろうか?」
「捕らえられている従者、アイヴァンですが、彼が片耳のみの耳飾りをつけていた事を覚えておいでですか?」
「耳飾り?いや…サングラ、そなたはどうだ?」
ランドールは問われて、記憶を確認するように軽く視線を上に向けた後、諦める様に首を振って、サングラに尋ねた。
「耳飾り…あぁ…そう言えば、確か右耳につけておりましたな。男性で耳飾りとは、ロイスワルズでは洒落者の方以外にお目に掛かりませんので、チートスの習慣なのか、アンジェリカ王女殿下のご趣味なのか、と、ちら、と思ったのを思い出しました」
「その耳飾りが、どうかしたのか?」
「考え過ぎだといいのですが…アイヴァンの耳飾りは、丁度、小指の爪程の大きさでした。魔法陣を刻む事の出来る大きさなのではないか、と」
「…アイヴァンが、まだ、魔法石を身に着けている…?」
ロイスワルズでは、魔法石は希少なものである。
その為、灯りや浄水、調理などの実用に回すと、装飾に利用出来る石など残らない。
ランドールですら、アマリアの守護石の話を聞いて、装飾品として魔法石を身に着ける発想を得たのだから、魔術に縁が薄い調査官が見落としていても不思議はない。
「ずっと、何故、アイヴァンは殿下を襲ったのか、考えておりました。面談の場での様子を見て、殿下がアンジェリカ王女殿下のお申し出をお断りなさった事に腹を立てたのだと思っていたのですが…」
言葉を濁すアマリアに、ランドールが続きを促す。
「もしかすると、逆、なのではないかと」
「逆?」
「不思議だったのです。もしも、あの場に守護石がなかったのならば、アンジェリカ王女殿下もまた、魔法石の攻撃にさらされていた筈です。幾ら、アーダムとアイヴァンが身を挺してお守りしたとしても、かすり傷一つ負わない事は無理だったのではないでしょうか。では、何故、アイヴァンはアンジェリカ王女殿下のおられる前で、あのような事をしたのか。護衛の少ない場で殿下と対面する機会は、他にないから、と思い込んでおりましたが、それにしても状況が悪過ぎます。私の話をレナルド陛下に伺っていたとしても、守護石の事までは確信が持てなかった筈です。そのような賭けは、無謀でしょう」
「…確かに、そうだな。レナルド陛下の話を伺って、アマリアの守護石を計算に入れていたものと思い込んでいたが…結果としてアンジェリカ王女が怪我を負っていないだけで、あの時点ではどうなるか判らなかったと言う事か。…ん?では、逆、と言うのは…」
「はい。アイヴァンは、晩餐の最中、何度か眉を軽く顰めておりました。主に、アンジェリカ王女殿下が求婚なさって、それを殿下がお断りになった時に。私はそれを見て、心酔する主の意思を汲まない殿下に腹を立てているのだとばかり思っていたのですが、もしかすると…アンジェリカ王女殿下のお振る舞いに、思う所があったのかもしれません」
エイダの話を聞いていた時に、ふと思ったのだ。
自らを否定する者を切り捨てる主に長く仕える為には、自分の内心を押し殺すしか方法がないのではないか、と。
忠心より意見を述べようと、受け止める側がそれを聞き入れ、改善するかは別の話だ。
アーダムは不明だが、アイヴァンは、アンジェリカの言動に反対する思いがあったのではないか、と、ふと思いついた。
だが、では何故、調査官の尋問に答えようとしないのか。
アンジェリカに忠誠を誓っている為ではないのであれば、他に何か、理由があるのではないのか。
その時、アイヴァンの耳元に光っていた耳飾りを思い出した。
彼の紫水晶のような綺麗な瞳よりも、一段濃い紫の石を。
「もしも…あの耳飾りが魔法石で、それを身に着けているが故に、話が出来ないのだとしたら」
アマリアの言わんとする事を察して、ランドールは唸った。
アイヴァンは、記念式典直前に、レナルドからアマリアに接触するよう密命を受けていたと話したが、酷く怯えていたようだったと、報告した調査官に聞いていた。
その時は、自国の王の来訪を聞いて、処罰を恐れていたのだろうと考え、特に気にも留めなかった。
だが、もしも、その怯えが、身に着けている魔法石の魔術を恐れていたからなのだとしたら。
「…アイヴァンに会う必要があるな。私の職責を越える為、一存では決められないが、陛下にご相談してみよう」
…
このようなやり取りがあったのだ、と、ランドールが説明すると、イアンとエリクが低く唸った。
この双子は、お互いに似せようと努力を続けている為か、ふとした仕草や言動が一致する事が多い。
「サングラは、その意見に対して、何と言った」
「可能性はある、と。サングラの把握している中にも幾つか、相手の行動を縛る魔法陣が存在するようです」
「そのようなものがあるのか。…まぁ、そうだろうな。灯りをつけるだけの力であれば、チートスがあれ程の大国になる事もあるまい。判った、面会を認めよう。ユリアス、騎士団の中から、腕の立つ者を寄越してくれ」
「はい、陛下」
「エリク、状況次第で、チートス…もとい、レナルド陛下への交渉材料となる。草稿を作り始めてくれ」
「承知」
王族の男性達が、顔を見合わせて頷くと、すっと立ち上がる。
その様子を、マグダレナ、リリーナ、ソフィアがじっと眺めていた。
「陛下、わたくしは、エイダの側付きの者の検討を始めてよろしいでしょうか」
「マグダレナ、そちらはそなたに頼むとしよう。リリーナ殿、マグダレナを手助けしてやってくれるか」
「承知致しました」
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