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***
ユリアスの婚儀翌日。
公休日となっている為、アマリアはいつもよりゆっくりと目覚めた。
婚約が公表された事で、何らかの動きがあるだろう、と、ギリアンにも言われている。
社交界に知り合いらしい知り合いのいないアマリアだ。
いついつの茶会でお話したご令嬢やら、どこそこの夜会でダンスしたご令息やら、そう言った記憶にない人物の接触はない筈だが、補佐官室の伝手を辿っての接触は想定している。
王宮に仕官するような人物であれば、無理難題は吹っ掛けないと思われるものの、その縁者となると、どのような行動に出るやら判らない。
地方の伯爵令嬢が、他国の王家を後ろ盾につけて王族に嫁ぐのだから、ある程度の騒動は想定済みだ。
これらを、自分の力だけで上手にあしらっていけるようにならなければならない。
ランドールは、いつでも手を差し伸べてくれるだろうが、彼を支える為に隣に立つと決めたのだから、頼りきりになるわけにはいかない。
昨夜、散会後直ぐに動き出した者であれば、今朝、夜会や茶会の招待状が届くだろう。
朝食を食べたら、それらを処理しなくては…。
頭の中で手順を考えながら身支度を整え、階下へと向かうアマリアの耳に、騒ぐ声が聞こえた。
「お待ち下さい…っ!お約束もない方をお通しするわけには参りません…!」
いつになく焦った声を荒らげているのは、王都の屋敷の執事だ。
「約束?私は婚約者だぞ…!」
何事かと目を細めるアマリアの視界に、予想もしなかった人物の顔が飛び込んで来た。
「…デレク様…?」
最後に顔を見たのは、二年前だったか三年前だったか。
顔を見た、と言っても、彼はいつも不機嫌そうにアマリアから顔を背けていたから、真正面からまともに顔を見たのは、一体いつが最後だったのか、覚えていない。
記憶よりも、幾分ふっくらとしたように見えるが、不機嫌そうな表情はそのままだ。
「お部屋にお戻り下さい、アマリア様…!」
慌てた執事の言葉に、デレクは、目の前にいる女性がアマリアと気づいて、叫んだ。
「アマリア、婚約したとはどう言う事だ…!」
アマリアは、想定外の言葉に戸惑う。
「どう、とは…どう言う意味でしょう?」
アマリアに答えるように、デレクの背後から、彼によく似た男性が顔を覗かせた。
直接会話した事はないが、外見の特徴から考えれば、アイノス家の長男サミュエルだろう。
「アマリア嬢、貴女は、我がアイノス家のデレクと婚約されている筈だ。それが何故…」
如何にも、アマリアの心変わりに心を痛めていると言わんばかりの兄弟に、アマリアは首を傾げた。
「婚約につきましては、」
破棄されたのは、そちらでしょう。
そう続けようとしたアマリアを遮るように、デレクが声を大きくする。
「今なら、まだ間に合う。婚約しただけで、婚姻は結んでいないのだから。私ならば、トゥランジア家の事情を一番把握している」
「…そうは仰いますが…」
デレクは、チートス国王の縁者であるアマリアに価値を見出したのだろう。
だが、互いに利点のあった婚約を破棄したデレクの言葉に、今更、何の意味があると思ったのか。
アマリアが、デレクの申し出に感謝すると思ったのだろうか。
想定の斜め上を行くデレクの言動に、どう返そうかと言葉に詰まるアマリアをどう思ったのか、勢いづいたらしいサミュエルが、言葉を繋げる。
「トゥランジア家に必要なのは、婿入り出来る男子だろう?」
サミュエルの声に押されるように、デレクもまた、
「お前は、長い事、私との結婚を待っていただろう?多少待たせたかもしれないが、今なら直ぐに婿入り出来る!」
その時だった。
「卿らの心配は、無用と言う他はないな」
大音声と言うわけではないのによく通る声が、アイノス家の兄弟の背後から掛けられた。
驚いて振り返る兄弟の視界に、これまで出会った事がない程に美しい男が佇んでいる。
朝日を反射する銀髪、きらきらと光を放っているかのように輝く蜜色の瞳、作り物のように整った美貌。
長身で均整の取れた体を包む衣服は、簡素にしているが上質である事が一目で見て取れる。
息を飲む兄弟をよそに、アマリアは美しい礼を取った。
「ご機嫌麗しゅう、殿下」
「おはよう、アマリア。名を呼んでくれと、いつも言っているだろう?」
いつもならもっと砕けた挨拶をするが、アマリアは敢えて、「王族を敬う為の」堅苦しい挨拶をした。
それに気づいた上でランドールが親し気に挨拶を返すと、殿下、と聞いた兄弟が固まった。
デレクはランドールの出席する夜会や茶会に参加した経験はないし、サミュエルは昨日の祝宴に参列したものの、彼が立てる場所からでは、王族の顔等、判然としない。
だが、『殿下』と呼ばれる若い男性は王弟令息しかあり得ないし、何より、サミュエルは昨夜、ランドールとアマリアの婚約発表の場に立ち会っていたのだ。
身動き一つ取れない兄弟の横を悠然と歩いて、ランドールはアマリアに向き合った。
「私の愛しい婚約者殿は、今日も美しいな」
大仰に褒め、アマリアの手を取って、そっと甲に口づけると、アマリアが視線を伏せて頬を染める。
「昨日以上にランドール様が素敵に見えるのは、何故でございましょう」
ランドールの芝居に乗るつもりなのだろう。
普段ならば絶対にしない会話は全て、アイノス兄弟に聞かせる為のものだ。
「それは勿論、私が名実共に貴女のものであると、人々に広く知らしめる事が出来たからだろう。安心感が、貴女の評価を底上げしてくれているのだな。…そこの二人は、私達の仲を引き裂きたいようだが」
「まぁ…わたくしがランドール様の伴侶となるには、相応しくないと思われているのですね」
悲しそうに眉を顰めて項垂れるアマリアの肩を、ランドールは慰めるように優しく抱く。
「そのような事はない、アマリア。私には貴女が必要だ」
「あ、アマリア!チートスとの縁を盾に結婚を迫り、殿下にご迷惑を掛けるなど、もっての外だぞ!ランドール殿下は、チートスとの縁が拗れる事を恐れ、仕方なしに縁談をお受けになっただけだろう。目を覚ませ、殿下のように何方でも望めるお立場の方が、たかだか伯爵令嬢のお前を望まれるわけがない!婚姻を結んだ所で、真の夫婦にはなれまい。お前を受け入れられるのは、伯爵家の私位のものだ。私は、チートスの事がなくとも、お前と婚約したではないか。何年、お前と婚約していると思っているのだ!お前の身は、私が引き受けてやるから、殿下を煩わせるな!」
衝撃から先に立ち直ったのは、デレクだった。
嫁の来手のない男?
とんでもない。この男こそ、国内で最も、花嫁を選び放題ではないか。
そんなランドールが、女としての魅力に欠けるアマリアを望む理由など、チートスとの縁以外にあるわけもない。
ならば、付け入る隙はあるだろう。
どうにか、こちらの思惑に気づかれぬよう、耳障りのいい言葉で包み込んで、アマリアの心に訴え掛けようとする。
相手が王族である以上、デレクが勝てる事など、身分が釣り合う事と、付き合いの長さ位だ。
「…そうですわね、わたくしはたかだか伯爵家の娘。王族であるランドール様に相応しくないと思われる方は大勢いらっしゃいますでしょう。けれど、デレク様。ご厚意には感謝致しますが、デレク様が責任をお感じになる必要はございません。政略結婚を厭われたデレク様のご意思を、わたくしは尊重致します」
『ですから、どうぞ、放っておいてください』
貴族らしい婉曲的表現を、何処まで彼が理解したものか。
「どうぞ、わたくしの事など、お忘れになって。デレク様のお幸せを願っておりますわ」
綺麗に微笑むアマリアに、ランドールが、
「アマリアは、優しいな」
と、甘い声を掛ける。
「で、ですが、ランドール殿下は王族だ。伯爵家に婿入りなさる事は出来ませんでしょう。それでは、トゥランジア家が終わる。アマリア嬢、貴女はコバルを見捨てる気かっ。婿入り出来るデレクと結婚する事こそが、コバルの将来の為になる筈だっ」
サミュエルの言葉に、ランドールが、溜息を吐いた。
「何か誤解があるようだが、私と結婚しても、トゥランジア家がコバル領の領主である事実は変わらん。後継者の事も、心配には及ばない。何、私達の間に生まれた子供が継げばいいだけの話だ」
ランドールがアマリアの顔を覗き込んで微笑むと、アマリアは恥ずかしそうに視線を伏せる。
「しかし!王族と言えど、婚約の優先権は我がアイノス家にある筈…!どれだけ政略的に有意義かは存じませんが、チートス王の姪だからと、横取りなさるとは、」
「デレク・アイノス。卿には感謝している。卿が、アマリアとの婚約を破棄したお陰で、私は彼女を娶る事が出来る」
「は…いや…あの…」
まさか、雲の上の存在である王族に、自分の名が知られているとは思っていなかったのだろう。
真っ青になったデレクが、ランドールの「感謝する」と言う言葉とは裏腹に刺すような視線に耐え切れず、俯く。
「お、お待ち下さい、ランドール殿下。デレクが、アマリア嬢との婚約を破棄した、と言うのは…?」
何も知らないサミュエルが、裏返った声でランドールに問うた。
「…卿は、二人の婚約が破棄されている事を知らなかったのか?アイノス家から、王宮に婚約を破棄する旨、報告があったのは、一年以上前だぞ。書面に問題はなかった故、これを受理している」
「そんな…」
サミュエルは、力が抜けたのか、床に崩れ落ちた。
ミナン領次期領主であり、現在も父の片腕として領政に携わっているサミュエルは、デレクとアマリアの結婚を心待ちにしていた。
灌漑とやらを取り入れれば、ミナンもコバル同様に富むのだと信じていた。
自分でも専門書を手に取ってみたがさっぱり意味が判らず、はっきり言ってしまえば、トゥランジア家の知識を当てにしていたのだ。
数年でその知識が何もしなくとも向こうからやってくるのだ、と、高を括っていた所があるのも否めない。
だから、自ら領地の改革に乗り出す事なく、悠然と構えていたのも事実だ。
いずれ、自動的に富が舞い込むのだ、と。
それが、まさか。
「で、出鱈目でございます!我がアイノス家が、婚約を破棄するなど…!」
秘密裡に婚約破棄の書類を送ったのは、デレクだ。
だが、兄の手前、それを認めるわけにはいかず、誰かの陰謀だ、と、声を上げるしか術がない。
「出鱈目、か。アイノス家の印章が捺してあった故、受理したのだが、王宮の文官の目が、印章の偽造も見破れない節穴だとでも言いたいのか?随分と、虚仮にしているな。あぁ、筆跡の鑑定も済んでいる。デレク・アイノス、あれは卿の字だな?」
筆跡鑑定まで持ち出されては、デレクは青い顔で黙り込むしかない。
事実、彼が書いたのだから。
「アマリアは、婚約破棄を受けた故に、王宮に侍女として上がったのだ。その縁で、此度の婚約が調った。…あぁ、卿らは勘違いしているようだから、ここではっきりと言っておく。アマリアがチートス国王の姪御であり、レナルド陛下の寵愛を受けていると知ったのは、婚約が決まってからだ」
「!」
サミュエルとデレクは、衝撃に青褪めた顔を更に強張らせ、反射的にランドールの顔を見た。
ランドールは、薄い唇の端を僅かに上げ、笑みの形を作っているが、その瞳は氷の刃のように鋭く、兄弟を感情の籠らない視線で見返している。
彼らは、ランドールから感じる目に見えない圧力に、氷血の貴公子、と言う字名の意味を思い知った。
チートス国王の姪であるが故に、結ばれた婚約ではない。
それはつまり、ただの伯爵令嬢であるアマリアと、婚約しようと考えたと言う事。
「政略結婚?冗談ではない。私は心から、アマリアを愛している。卿らの薄汚い打算に、アマリアを巻き込むな。…デレク・アイノス。ミナンに戻り、父親に己の所業を告げるがよい」
ランドールの声音は静かで、声を張っているわけでもない。
なのに、背筋が震える程に恐ろしく、兄弟は、両掌に汗を掻きながら、震え上がる。
ランドールの怒りが、ひしひしと伝わってくる。
彼は、言葉の通り、アマリアを一人の女性として愛しているのだ。
その彼女を、政略的な意味しか持てないと貶めた。
あまつさえ、それを盾に結婚を迫ったとまで言った。
その上、耳障りのいい言葉で誤魔化したものの、アイノス家がアマリアを政略的に求めている事は完全に伝わってしまっている。
デレクの勘当で済めば良いが、ランドールの怒りようを見ると、領地取り上げの上にお家断絶もあるかもしれない。
「ミナンの民も、領地の改革に精を出してくれる領主を求めているだろう」
暗に、お前達は何をしていた、と問われ、いっその事、意識を遮断したい、と、サミュエルは思った。
領地改革の技術がある事を知りながら、十全の努力をしたかと問われると、頷く事は出来ない。
アマリアの事を、弟の婚約者と言うよりも、技術提供者と考えていた節も否めない。
一人の意思を持つ人間なのだと、受け止めた記憶はない。
トゥランジア家を次代に繋ぐのと引き換えに、ミナンに富をもたらしてくれる女性と言う記号でしか、見た事が。
アイノス家は後継者を、トゥランジア家は富を。
その、交換条件だと。
父であるタイタンもそうだ。
ギリアンと離れて暮らすアマリアに、口では「実の父と思って、いつでも頼って欲しい」と言いながら、実際に、アマリアが困っていないか尋ねた事などない。
将来の義理の父としての社交辞令である事は、明らかだった。
その事に初めて気づいて、サミュエルは愕然とした。
そして、ランドールの怒りの強さを実感する。
愛する人を、人として尊重していない存在など、許せるわけもない。
「…ランドール様。わたくしは、気にしておりませんから」
やんわりとアマリアが口を挟むと、震えていた兄弟の目に、僅かに光が戻る。
「ミナンの民は、トゥランジア家が治める方が喜ぶと思うが」
「ミナンに灌漑技術を広める為に、王都を離れる事をお許し下さるのでしたら」
「それは困る。ミナンは王都から馬車で七日だろう。どれ程の期間、私の元を離れるつもりなのだ。貴女が隣にいない事に、一日たりとも耐えられはしない」
縋るように見つめる兄弟を流すように見遣り、アマリアは艶やかに微笑んだ。
「わたくしも、ランドール様のお側を離れるのは辛うございます」
この時、初めて二人は、まともにアマリアの顔を見た。
あれだけ、痩せぎすで令嬢らしさの欠片もないと思っていたアマリアは、美しい女性に成長していた。
大きな瞳、通った鼻筋、厚めの唇は蠱惑的だ。
丁寧に梳られた深い赤の髪は艶めき、ほっそりとしているものの、女性らしい円やかさを帯びている事が服の上からでも判る体。
赤に紫が混じった瞳は神秘的に輝き、白く透けるような肌によく映える。
隣に寄り添うランドールの美貌は言うまでもないが、彼と並び立っても遜色ない事に気づいて、彼女を見誤っていた事を思い知り、愕然とする。
表情に乏しく不愛想な不器量と思っていたアマリアが、儚げな美貌の持ち主だった事に気づいて、ポカン、と口を開いたまま、固まった兄弟を、ランドールが鼻で嗤った。
「…では、処分については、適切な部署に任せるとしよう。アマリアを慕うのは私だけではない。補佐官室になくてはならない人材だ。領地に戻られては、執務が滞る」
聞き捨てならない言葉に、デレクが思わず声を上げる。
「お、お待ち下さい。補佐官室とは?アマリアは、侍女ではないのですか」
王宮に仕官する夢を持っていた男だ。
補佐官室の仕事がどのようなものなのか位は、知っている。
「仮にも婚約者を名乗っておきながら、そんな事も知らんのか。アマリアは、最初は侍女として入ったが、補佐官と知識に遜色がないのでな。今は、文官の仕事も任せている。まだ、女性文官の制度が整っていない故、肩書は侍女のままだが、今の王宮で彼女をそう捉えている者はいない」
ランドールの言葉に、自慢気な響きがあるのは気のせいではないだろう。
王宮に仕官出来ると言う事は、優秀である事と同義。
言い訳を重ねて、登用試験に挑戦すらしなかったデレクとは、違う。
「これで判っただろう。卿は、アマリアの真の価値に気づく事がなかった。美しさも、優秀さも、何よりもその心根の優しさに、気づく事がなかった。王族や貴族の結婚に、政略的意味合いが強い事は、私も承知している。だが、政略結婚であれば、相手を粗略に扱ってよいと言うわけではない。それが理解出来ないままでは、卿には、真に理解し合える相手等、現れまい」
デレクはそう聞いて、ルイズの顔を思い出す。
アマリアをお飾りの正妻にして、ルイズは愛人にすればよいと考えた、その下種な思い付きを、全て見透かされている気がした。
「ランドール殿下…アマリア、様…この度は、本当に失礼な事を致しました…」
か細い声で、サミュエルが首を垂れる。
「私共の心得違いであったと…重く受け止めております。処分は如何様にもお受け致しますが、領民に不利益のないよう、伏してお願い申し上げます」
「卿に言われるまでもない。民に罪はない」
ランドールは、興味を失ったように冷めた視線でアイノス兄弟を見遣ると、顎で、家の外を指した。
「アマリアは優しい。だからこそ、卿らに重い処分等望まん。だが、彼女が卿らの仕打ちに傷つかなかったわけではないのだ。その事を、努々忘れるな」
項垂れたように頭を深く下げたデレクに、アマリアが声を掛ける。
「デレク様。お父上にどうぞ、長きに渡り、お世話になりましたとお伝え下さいませ」
びくり、と、デレクの肩が震えた。
おずおずと視線を上げると、アマリアが何の含みもない微笑みを浮かべている。
だが、この言葉をそのまま受け止める者など、いないだろう。
実際の所、アイノス家は何一つ、「お世話」等していないのだから。
これ以上ない、皮肉だった。
アマリアとの歩み寄りを拒み、彼女を酷い言葉と態度で貶め、それでいながら、婚約を解消したい、と、父に自分の気持ちを述べる事もしなかった。
長い間、トゥランジア家との結婚を望んでいた父を謀り、婚約破棄の書類すら偽造した。
ただただ目先の結婚から逃れたくて、逃れた先に待ち受けるものなど、考えた事がなかった。
今となれば、判る。
タイタンは、デレクの意思を確認せぬまま結んだ婚約に負い目を持ち、息子の気持ちが追いつくまで、待っていたのだろう。
一人前として扱い、結婚の時期をデレクに任せたのは、デレク自身の心の整理を待っていたからだ。
その事すら気づかず、己の周囲、全てを敵と見做していた。
もしも、心を開き、きちんと真正面から向き合う事が出来ていれば、ここまで問題が拗れる事はなかっただろうに。
だが、今更だ。
今更気づいても、過去をなかった事には出来ない。
そして、己の浅薄さを、気づかなかった事にも、出来ないのだ。
気づいてしまった以上、デレクは一生、己の愚かさと向き合って生きていかねばならない。
「判ったのであれば、領地に戻って報告せよ」
「は。お言葉に従います」
未だ、愕然としたままのデレクの袖を引いて、サミュエルがトゥランジア家を辞す。
兄弟が屋敷を辞したのを見て、黙って控えていたアレクシスが、ランドールとアマリアに声を掛けた。
「いやぁ、息のあった追い込みでしたね。惚れ惚れしました。アマリア様も、殿下の悪ぅい所をよく学ばれたようで…最後の一言、痺れましたね」
アマリアが僅かに首を傾げるのを見て、苦笑する。
ある程度、予想はしていたが、彼女に皮肉のつもりはなかったらしい。
だが、突かれて痛みを感じる場所は、よく判っているのだろう。
「アレクシス」
ランドールは、腹心の顔を見て、溜息を吐く。
「お前の言う通り、朝一で動いて正解だったな」
「そうでしょうとも。…まぁ、予想の斜め上でしたが」
アマリアは改めて、二人に挨拶をした。
「おはようございます、ランドール様、アレクシス様。お陰で、助かりました」
サミュエルとデレクを前にしていた間は、肩を抱くランドールを頼るように寄り添い、庇護が似合う令嬢の風情だったが、二人の姿が見えなくなってからは、己の足で姿勢よく立っている。
先程まで漂っていた甘い空気は霧散して、そこには一つの同じ目標へと突き進む同士としての連帯感があった。
「最大の懸念は、これで去ったと考えていいでしょう」
アレクシスが、手元の書類を確認しながら、不敵に笑う。
「あとは、エイダ様の妨害にもめげず、殿下を諦めてなかったご令嬢及びそのご家族が三つばかり。こちらは、トゥランジア家に直接乗り込んでくるかどうか、微妙な所ですね。アマリア様への面通し希望者は…あんな感じです」
アレクシスが玄関を指すと、執事が困った顔でアマリアを伺った。
「あの…アマリア様。ご面会希望の旨を記した手紙を持参した使者の方が、大勢いらしています。お受け取りしてもよろしいものでしょうか」
長い事、王都のトゥランジア邸はギリアンの休憩所としてのみ、機能してきた。
妻のいないギリアンが、屋敷で茶会や夜会を催す事はなかったし、書記官としての仕事が多忙で、寝る為に帰宅するだけだったからだ。
なので、執事はこのような事態に慣れていない。
アマリアがランドールの顔を伺うと、彼はゆるく首を振った。
「私が出よう」
「ですが、ランドール様、」
「その為に来たのだから。勿論、常に私が傍にいるわけではない。だから、自分であしらっていけるようになって欲しいのは確かだ。だが、今日の人数は…些か、荷が重いだろうからな」
アマリアの手を取って、ランドールがにこりと笑う。
「一緒に、表に出てくれるか?」
「勿論です」
「では、思う存分、私達の仲を見せつけてやる事にしよう」
アレクシスがそれを聞いて警備担当の騎士に素早く指示を出すのを確認すると、ランドールは執事に扉を開けるよう促した。
「アマリア様、是非とも当家の主人の招待状をお受け取り下さい」
「当家の主人から、贈り物をお持ちしております」
ざわざわと、大勢の使者がトゥランジア邸の決して広くない玄関前に集まっていたが、玄関から顔を出したアマリアをエスコートしているのが、美貌の青年である事に気づいて、シン…と静かになった。
彼らの立場で、ランドールの顔を直接見る機会はない。しかし、トゥランジア邸から出て来る銀髪に蜜色の瞳の青年など、ランドール以外にあり得ない。
「諸君」
ランドールの声が、息を飲んで彼らの動向を伺っている人々の間に広がっていく。
「私達の婚約を祝ってくれて、嬉しく思う。だが、アマリアは暫く、王城に越す準備の為、多忙となる。心苦しいが、個人宅で催される茶会や夜会に参加する余裕はなく、礼状を認める時間もないのだ。いずれ、王宮で催される会に出席する事はあろうから、諸君らの主には、その席で会えるのを楽しみにしていると、私からの言葉として伝えて欲しい」
婉曲的に、一切の招待も贈り物も受け付けない、と告げると、ランドールはアマリアの手を引いて、大勢集まった使者達全員に見えるよう、一歩前に誘った。
アマリアの腰に腕を回し、優しく抱き寄せる。続けて、彼女のこめかみに一つ口づけを落とすと、その様子を見ていた人々から溜息が漏れた。
彼らは主家に戻った後、ランドールとアマリアの婚約は本物であり、ランドールはアマリアを溺愛している、と声高に告げる事になるだろう。
即ち、アマリアの交友にランドールが目を光らせていると言う事。
無理矢理、縁を繋ごうとすれば、不興を買って望むような益は齎されない。
こうして、アマリアはどう対処しようか悩んでいた招待状と贈り物攻勢から、無事に逃れる事が出来たのだった。
ユリアスの婚儀翌日。
公休日となっている為、アマリアはいつもよりゆっくりと目覚めた。
婚約が公表された事で、何らかの動きがあるだろう、と、ギリアンにも言われている。
社交界に知り合いらしい知り合いのいないアマリアだ。
いついつの茶会でお話したご令嬢やら、どこそこの夜会でダンスしたご令息やら、そう言った記憶にない人物の接触はない筈だが、補佐官室の伝手を辿っての接触は想定している。
王宮に仕官するような人物であれば、無理難題は吹っ掛けないと思われるものの、その縁者となると、どのような行動に出るやら判らない。
地方の伯爵令嬢が、他国の王家を後ろ盾につけて王族に嫁ぐのだから、ある程度の騒動は想定済みだ。
これらを、自分の力だけで上手にあしらっていけるようにならなければならない。
ランドールは、いつでも手を差し伸べてくれるだろうが、彼を支える為に隣に立つと決めたのだから、頼りきりになるわけにはいかない。
昨夜、散会後直ぐに動き出した者であれば、今朝、夜会や茶会の招待状が届くだろう。
朝食を食べたら、それらを処理しなくては…。
頭の中で手順を考えながら身支度を整え、階下へと向かうアマリアの耳に、騒ぐ声が聞こえた。
「お待ち下さい…っ!お約束もない方をお通しするわけには参りません…!」
いつになく焦った声を荒らげているのは、王都の屋敷の執事だ。
「約束?私は婚約者だぞ…!」
何事かと目を細めるアマリアの視界に、予想もしなかった人物の顔が飛び込んで来た。
「…デレク様…?」
最後に顔を見たのは、二年前だったか三年前だったか。
顔を見た、と言っても、彼はいつも不機嫌そうにアマリアから顔を背けていたから、真正面からまともに顔を見たのは、一体いつが最後だったのか、覚えていない。
記憶よりも、幾分ふっくらとしたように見えるが、不機嫌そうな表情はそのままだ。
「お部屋にお戻り下さい、アマリア様…!」
慌てた執事の言葉に、デレクは、目の前にいる女性がアマリアと気づいて、叫んだ。
「アマリア、婚約したとはどう言う事だ…!」
アマリアは、想定外の言葉に戸惑う。
「どう、とは…どう言う意味でしょう?」
アマリアに答えるように、デレクの背後から、彼によく似た男性が顔を覗かせた。
直接会話した事はないが、外見の特徴から考えれば、アイノス家の長男サミュエルだろう。
「アマリア嬢、貴女は、我がアイノス家のデレクと婚約されている筈だ。それが何故…」
如何にも、アマリアの心変わりに心を痛めていると言わんばかりの兄弟に、アマリアは首を傾げた。
「婚約につきましては、」
破棄されたのは、そちらでしょう。
そう続けようとしたアマリアを遮るように、デレクが声を大きくする。
「今なら、まだ間に合う。婚約しただけで、婚姻は結んでいないのだから。私ならば、トゥランジア家の事情を一番把握している」
「…そうは仰いますが…」
デレクは、チートス国王の縁者であるアマリアに価値を見出したのだろう。
だが、互いに利点のあった婚約を破棄したデレクの言葉に、今更、何の意味があると思ったのか。
アマリアが、デレクの申し出に感謝すると思ったのだろうか。
想定の斜め上を行くデレクの言動に、どう返そうかと言葉に詰まるアマリアをどう思ったのか、勢いづいたらしいサミュエルが、言葉を繋げる。
「トゥランジア家に必要なのは、婿入り出来る男子だろう?」
サミュエルの声に押されるように、デレクもまた、
「お前は、長い事、私との結婚を待っていただろう?多少待たせたかもしれないが、今なら直ぐに婿入り出来る!」
その時だった。
「卿らの心配は、無用と言う他はないな」
大音声と言うわけではないのによく通る声が、アイノス家の兄弟の背後から掛けられた。
驚いて振り返る兄弟の視界に、これまで出会った事がない程に美しい男が佇んでいる。
朝日を反射する銀髪、きらきらと光を放っているかのように輝く蜜色の瞳、作り物のように整った美貌。
長身で均整の取れた体を包む衣服は、簡素にしているが上質である事が一目で見て取れる。
息を飲む兄弟をよそに、アマリアは美しい礼を取った。
「ご機嫌麗しゅう、殿下」
「おはよう、アマリア。名を呼んでくれと、いつも言っているだろう?」
いつもならもっと砕けた挨拶をするが、アマリアは敢えて、「王族を敬う為の」堅苦しい挨拶をした。
それに気づいた上でランドールが親し気に挨拶を返すと、殿下、と聞いた兄弟が固まった。
デレクはランドールの出席する夜会や茶会に参加した経験はないし、サミュエルは昨日の祝宴に参列したものの、彼が立てる場所からでは、王族の顔等、判然としない。
だが、『殿下』と呼ばれる若い男性は王弟令息しかあり得ないし、何より、サミュエルは昨夜、ランドールとアマリアの婚約発表の場に立ち会っていたのだ。
身動き一つ取れない兄弟の横を悠然と歩いて、ランドールはアマリアに向き合った。
「私の愛しい婚約者殿は、今日も美しいな」
大仰に褒め、アマリアの手を取って、そっと甲に口づけると、アマリアが視線を伏せて頬を染める。
「昨日以上にランドール様が素敵に見えるのは、何故でございましょう」
ランドールの芝居に乗るつもりなのだろう。
普段ならば絶対にしない会話は全て、アイノス兄弟に聞かせる為のものだ。
「それは勿論、私が名実共に貴女のものであると、人々に広く知らしめる事が出来たからだろう。安心感が、貴女の評価を底上げしてくれているのだな。…そこの二人は、私達の仲を引き裂きたいようだが」
「まぁ…わたくしがランドール様の伴侶となるには、相応しくないと思われているのですね」
悲しそうに眉を顰めて項垂れるアマリアの肩を、ランドールは慰めるように優しく抱く。
「そのような事はない、アマリア。私には貴女が必要だ」
「あ、アマリア!チートスとの縁を盾に結婚を迫り、殿下にご迷惑を掛けるなど、もっての外だぞ!ランドール殿下は、チートスとの縁が拗れる事を恐れ、仕方なしに縁談をお受けになっただけだろう。目を覚ませ、殿下のように何方でも望めるお立場の方が、たかだか伯爵令嬢のお前を望まれるわけがない!婚姻を結んだ所で、真の夫婦にはなれまい。お前を受け入れられるのは、伯爵家の私位のものだ。私は、チートスの事がなくとも、お前と婚約したではないか。何年、お前と婚約していると思っているのだ!お前の身は、私が引き受けてやるから、殿下を煩わせるな!」
衝撃から先に立ち直ったのは、デレクだった。
嫁の来手のない男?
とんでもない。この男こそ、国内で最も、花嫁を選び放題ではないか。
そんなランドールが、女としての魅力に欠けるアマリアを望む理由など、チートスとの縁以外にあるわけもない。
ならば、付け入る隙はあるだろう。
どうにか、こちらの思惑に気づかれぬよう、耳障りのいい言葉で包み込んで、アマリアの心に訴え掛けようとする。
相手が王族である以上、デレクが勝てる事など、身分が釣り合う事と、付き合いの長さ位だ。
「…そうですわね、わたくしはたかだか伯爵家の娘。王族であるランドール様に相応しくないと思われる方は大勢いらっしゃいますでしょう。けれど、デレク様。ご厚意には感謝致しますが、デレク様が責任をお感じになる必要はございません。政略結婚を厭われたデレク様のご意思を、わたくしは尊重致します」
『ですから、どうぞ、放っておいてください』
貴族らしい婉曲的表現を、何処まで彼が理解したものか。
「どうぞ、わたくしの事など、お忘れになって。デレク様のお幸せを願っておりますわ」
綺麗に微笑むアマリアに、ランドールが、
「アマリアは、優しいな」
と、甘い声を掛ける。
「で、ですが、ランドール殿下は王族だ。伯爵家に婿入りなさる事は出来ませんでしょう。それでは、トゥランジア家が終わる。アマリア嬢、貴女はコバルを見捨てる気かっ。婿入り出来るデレクと結婚する事こそが、コバルの将来の為になる筈だっ」
サミュエルの言葉に、ランドールが、溜息を吐いた。
「何か誤解があるようだが、私と結婚しても、トゥランジア家がコバル領の領主である事実は変わらん。後継者の事も、心配には及ばない。何、私達の間に生まれた子供が継げばいいだけの話だ」
ランドールがアマリアの顔を覗き込んで微笑むと、アマリアは恥ずかしそうに視線を伏せる。
「しかし!王族と言えど、婚約の優先権は我がアイノス家にある筈…!どれだけ政略的に有意義かは存じませんが、チートス王の姪だからと、横取りなさるとは、」
「デレク・アイノス。卿には感謝している。卿が、アマリアとの婚約を破棄したお陰で、私は彼女を娶る事が出来る」
「は…いや…あの…」
まさか、雲の上の存在である王族に、自分の名が知られているとは思っていなかったのだろう。
真っ青になったデレクが、ランドールの「感謝する」と言う言葉とは裏腹に刺すような視線に耐え切れず、俯く。
「お、お待ち下さい、ランドール殿下。デレクが、アマリア嬢との婚約を破棄した、と言うのは…?」
何も知らないサミュエルが、裏返った声でランドールに問うた。
「…卿は、二人の婚約が破棄されている事を知らなかったのか?アイノス家から、王宮に婚約を破棄する旨、報告があったのは、一年以上前だぞ。書面に問題はなかった故、これを受理している」
「そんな…」
サミュエルは、力が抜けたのか、床に崩れ落ちた。
ミナン領次期領主であり、現在も父の片腕として領政に携わっているサミュエルは、デレクとアマリアの結婚を心待ちにしていた。
灌漑とやらを取り入れれば、ミナンもコバル同様に富むのだと信じていた。
自分でも専門書を手に取ってみたがさっぱり意味が判らず、はっきり言ってしまえば、トゥランジア家の知識を当てにしていたのだ。
数年でその知識が何もしなくとも向こうからやってくるのだ、と、高を括っていた所があるのも否めない。
だから、自ら領地の改革に乗り出す事なく、悠然と構えていたのも事実だ。
いずれ、自動的に富が舞い込むのだ、と。
それが、まさか。
「で、出鱈目でございます!我がアイノス家が、婚約を破棄するなど…!」
秘密裡に婚約破棄の書類を送ったのは、デレクだ。
だが、兄の手前、それを認めるわけにはいかず、誰かの陰謀だ、と、声を上げるしか術がない。
「出鱈目、か。アイノス家の印章が捺してあった故、受理したのだが、王宮の文官の目が、印章の偽造も見破れない節穴だとでも言いたいのか?随分と、虚仮にしているな。あぁ、筆跡の鑑定も済んでいる。デレク・アイノス、あれは卿の字だな?」
筆跡鑑定まで持ち出されては、デレクは青い顔で黙り込むしかない。
事実、彼が書いたのだから。
「アマリアは、婚約破棄を受けた故に、王宮に侍女として上がったのだ。その縁で、此度の婚約が調った。…あぁ、卿らは勘違いしているようだから、ここではっきりと言っておく。アマリアがチートス国王の姪御であり、レナルド陛下の寵愛を受けていると知ったのは、婚約が決まってからだ」
「!」
サミュエルとデレクは、衝撃に青褪めた顔を更に強張らせ、反射的にランドールの顔を見た。
ランドールは、薄い唇の端を僅かに上げ、笑みの形を作っているが、その瞳は氷の刃のように鋭く、兄弟を感情の籠らない視線で見返している。
彼らは、ランドールから感じる目に見えない圧力に、氷血の貴公子、と言う字名の意味を思い知った。
チートス国王の姪であるが故に、結ばれた婚約ではない。
それはつまり、ただの伯爵令嬢であるアマリアと、婚約しようと考えたと言う事。
「政略結婚?冗談ではない。私は心から、アマリアを愛している。卿らの薄汚い打算に、アマリアを巻き込むな。…デレク・アイノス。ミナンに戻り、父親に己の所業を告げるがよい」
ランドールの声音は静かで、声を張っているわけでもない。
なのに、背筋が震える程に恐ろしく、兄弟は、両掌に汗を掻きながら、震え上がる。
ランドールの怒りが、ひしひしと伝わってくる。
彼は、言葉の通り、アマリアを一人の女性として愛しているのだ。
その彼女を、政略的な意味しか持てないと貶めた。
あまつさえ、それを盾に結婚を迫ったとまで言った。
その上、耳障りのいい言葉で誤魔化したものの、アイノス家がアマリアを政略的に求めている事は完全に伝わってしまっている。
デレクの勘当で済めば良いが、ランドールの怒りようを見ると、領地取り上げの上にお家断絶もあるかもしれない。
「ミナンの民も、領地の改革に精を出してくれる領主を求めているだろう」
暗に、お前達は何をしていた、と問われ、いっその事、意識を遮断したい、と、サミュエルは思った。
領地改革の技術がある事を知りながら、十全の努力をしたかと問われると、頷く事は出来ない。
アマリアの事を、弟の婚約者と言うよりも、技術提供者と考えていた節も否めない。
一人の意思を持つ人間なのだと、受け止めた記憶はない。
トゥランジア家を次代に繋ぐのと引き換えに、ミナンに富をもたらしてくれる女性と言う記号でしか、見た事が。
アイノス家は後継者を、トゥランジア家は富を。
その、交換条件だと。
父であるタイタンもそうだ。
ギリアンと離れて暮らすアマリアに、口では「実の父と思って、いつでも頼って欲しい」と言いながら、実際に、アマリアが困っていないか尋ねた事などない。
将来の義理の父としての社交辞令である事は、明らかだった。
その事に初めて気づいて、サミュエルは愕然とした。
そして、ランドールの怒りの強さを実感する。
愛する人を、人として尊重していない存在など、許せるわけもない。
「…ランドール様。わたくしは、気にしておりませんから」
やんわりとアマリアが口を挟むと、震えていた兄弟の目に、僅かに光が戻る。
「ミナンの民は、トゥランジア家が治める方が喜ぶと思うが」
「ミナンに灌漑技術を広める為に、王都を離れる事をお許し下さるのでしたら」
「それは困る。ミナンは王都から馬車で七日だろう。どれ程の期間、私の元を離れるつもりなのだ。貴女が隣にいない事に、一日たりとも耐えられはしない」
縋るように見つめる兄弟を流すように見遣り、アマリアは艶やかに微笑んだ。
「わたくしも、ランドール様のお側を離れるのは辛うございます」
この時、初めて二人は、まともにアマリアの顔を見た。
あれだけ、痩せぎすで令嬢らしさの欠片もないと思っていたアマリアは、美しい女性に成長していた。
大きな瞳、通った鼻筋、厚めの唇は蠱惑的だ。
丁寧に梳られた深い赤の髪は艶めき、ほっそりとしているものの、女性らしい円やかさを帯びている事が服の上からでも判る体。
赤に紫が混じった瞳は神秘的に輝き、白く透けるような肌によく映える。
隣に寄り添うランドールの美貌は言うまでもないが、彼と並び立っても遜色ない事に気づいて、彼女を見誤っていた事を思い知り、愕然とする。
表情に乏しく不愛想な不器量と思っていたアマリアが、儚げな美貌の持ち主だった事に気づいて、ポカン、と口を開いたまま、固まった兄弟を、ランドールが鼻で嗤った。
「…では、処分については、適切な部署に任せるとしよう。アマリアを慕うのは私だけではない。補佐官室になくてはならない人材だ。領地に戻られては、執務が滞る」
聞き捨てならない言葉に、デレクが思わず声を上げる。
「お、お待ち下さい。補佐官室とは?アマリアは、侍女ではないのですか」
王宮に仕官する夢を持っていた男だ。
補佐官室の仕事がどのようなものなのか位は、知っている。
「仮にも婚約者を名乗っておきながら、そんな事も知らんのか。アマリアは、最初は侍女として入ったが、補佐官と知識に遜色がないのでな。今は、文官の仕事も任せている。まだ、女性文官の制度が整っていない故、肩書は侍女のままだが、今の王宮で彼女をそう捉えている者はいない」
ランドールの言葉に、自慢気な響きがあるのは気のせいではないだろう。
王宮に仕官出来ると言う事は、優秀である事と同義。
言い訳を重ねて、登用試験に挑戦すらしなかったデレクとは、違う。
「これで判っただろう。卿は、アマリアの真の価値に気づく事がなかった。美しさも、優秀さも、何よりもその心根の優しさに、気づく事がなかった。王族や貴族の結婚に、政略的意味合いが強い事は、私も承知している。だが、政略結婚であれば、相手を粗略に扱ってよいと言うわけではない。それが理解出来ないままでは、卿には、真に理解し合える相手等、現れまい」
デレクはそう聞いて、ルイズの顔を思い出す。
アマリアをお飾りの正妻にして、ルイズは愛人にすればよいと考えた、その下種な思い付きを、全て見透かされている気がした。
「ランドール殿下…アマリア、様…この度は、本当に失礼な事を致しました…」
か細い声で、サミュエルが首を垂れる。
「私共の心得違いであったと…重く受け止めております。処分は如何様にもお受け致しますが、領民に不利益のないよう、伏してお願い申し上げます」
「卿に言われるまでもない。民に罪はない」
ランドールは、興味を失ったように冷めた視線でアイノス兄弟を見遣ると、顎で、家の外を指した。
「アマリアは優しい。だからこそ、卿らに重い処分等望まん。だが、彼女が卿らの仕打ちに傷つかなかったわけではないのだ。その事を、努々忘れるな」
項垂れたように頭を深く下げたデレクに、アマリアが声を掛ける。
「デレク様。お父上にどうぞ、長きに渡り、お世話になりましたとお伝え下さいませ」
びくり、と、デレクの肩が震えた。
おずおずと視線を上げると、アマリアが何の含みもない微笑みを浮かべている。
だが、この言葉をそのまま受け止める者など、いないだろう。
実際の所、アイノス家は何一つ、「お世話」等していないのだから。
これ以上ない、皮肉だった。
アマリアとの歩み寄りを拒み、彼女を酷い言葉と態度で貶め、それでいながら、婚約を解消したい、と、父に自分の気持ちを述べる事もしなかった。
長い間、トゥランジア家との結婚を望んでいた父を謀り、婚約破棄の書類すら偽造した。
ただただ目先の結婚から逃れたくて、逃れた先に待ち受けるものなど、考えた事がなかった。
今となれば、判る。
タイタンは、デレクの意思を確認せぬまま結んだ婚約に負い目を持ち、息子の気持ちが追いつくまで、待っていたのだろう。
一人前として扱い、結婚の時期をデレクに任せたのは、デレク自身の心の整理を待っていたからだ。
その事すら気づかず、己の周囲、全てを敵と見做していた。
もしも、心を開き、きちんと真正面から向き合う事が出来ていれば、ここまで問題が拗れる事はなかっただろうに。
だが、今更だ。
今更気づいても、過去をなかった事には出来ない。
そして、己の浅薄さを、気づかなかった事にも、出来ないのだ。
気づいてしまった以上、デレクは一生、己の愚かさと向き合って生きていかねばならない。
「判ったのであれば、領地に戻って報告せよ」
「は。お言葉に従います」
未だ、愕然としたままのデレクの袖を引いて、サミュエルがトゥランジア家を辞す。
兄弟が屋敷を辞したのを見て、黙って控えていたアレクシスが、ランドールとアマリアに声を掛けた。
「いやぁ、息のあった追い込みでしたね。惚れ惚れしました。アマリア様も、殿下の悪ぅい所をよく学ばれたようで…最後の一言、痺れましたね」
アマリアが僅かに首を傾げるのを見て、苦笑する。
ある程度、予想はしていたが、彼女に皮肉のつもりはなかったらしい。
だが、突かれて痛みを感じる場所は、よく判っているのだろう。
「アレクシス」
ランドールは、腹心の顔を見て、溜息を吐く。
「お前の言う通り、朝一で動いて正解だったな」
「そうでしょうとも。…まぁ、予想の斜め上でしたが」
アマリアは改めて、二人に挨拶をした。
「おはようございます、ランドール様、アレクシス様。お陰で、助かりました」
サミュエルとデレクを前にしていた間は、肩を抱くランドールを頼るように寄り添い、庇護が似合う令嬢の風情だったが、二人の姿が見えなくなってからは、己の足で姿勢よく立っている。
先程まで漂っていた甘い空気は霧散して、そこには一つの同じ目標へと突き進む同士としての連帯感があった。
「最大の懸念は、これで去ったと考えていいでしょう」
アレクシスが、手元の書類を確認しながら、不敵に笑う。
「あとは、エイダ様の妨害にもめげず、殿下を諦めてなかったご令嬢及びそのご家族が三つばかり。こちらは、トゥランジア家に直接乗り込んでくるかどうか、微妙な所ですね。アマリア様への面通し希望者は…あんな感じです」
アレクシスが玄関を指すと、執事が困った顔でアマリアを伺った。
「あの…アマリア様。ご面会希望の旨を記した手紙を持参した使者の方が、大勢いらしています。お受け取りしてもよろしいものでしょうか」
長い事、王都のトゥランジア邸はギリアンの休憩所としてのみ、機能してきた。
妻のいないギリアンが、屋敷で茶会や夜会を催す事はなかったし、書記官としての仕事が多忙で、寝る為に帰宅するだけだったからだ。
なので、執事はこのような事態に慣れていない。
アマリアがランドールの顔を伺うと、彼はゆるく首を振った。
「私が出よう」
「ですが、ランドール様、」
「その為に来たのだから。勿論、常に私が傍にいるわけではない。だから、自分であしらっていけるようになって欲しいのは確かだ。だが、今日の人数は…些か、荷が重いだろうからな」
アマリアの手を取って、ランドールがにこりと笑う。
「一緒に、表に出てくれるか?」
「勿論です」
「では、思う存分、私達の仲を見せつけてやる事にしよう」
アレクシスがそれを聞いて警備担当の騎士に素早く指示を出すのを確認すると、ランドールは執事に扉を開けるよう促した。
「アマリア様、是非とも当家の主人の招待状をお受け取り下さい」
「当家の主人から、贈り物をお持ちしております」
ざわざわと、大勢の使者がトゥランジア邸の決して広くない玄関前に集まっていたが、玄関から顔を出したアマリアをエスコートしているのが、美貌の青年である事に気づいて、シン…と静かになった。
彼らの立場で、ランドールの顔を直接見る機会はない。しかし、トゥランジア邸から出て来る銀髪に蜜色の瞳の青年など、ランドール以外にあり得ない。
「諸君」
ランドールの声が、息を飲んで彼らの動向を伺っている人々の間に広がっていく。
「私達の婚約を祝ってくれて、嬉しく思う。だが、アマリアは暫く、王城に越す準備の為、多忙となる。心苦しいが、個人宅で催される茶会や夜会に参加する余裕はなく、礼状を認める時間もないのだ。いずれ、王宮で催される会に出席する事はあろうから、諸君らの主には、その席で会えるのを楽しみにしていると、私からの言葉として伝えて欲しい」
婉曲的に、一切の招待も贈り物も受け付けない、と告げると、ランドールはアマリアの手を引いて、大勢集まった使者達全員に見えるよう、一歩前に誘った。
アマリアの腰に腕を回し、優しく抱き寄せる。続けて、彼女のこめかみに一つ口づけを落とすと、その様子を見ていた人々から溜息が漏れた。
彼らは主家に戻った後、ランドールとアマリアの婚約は本物であり、ランドールはアマリアを溺愛している、と声高に告げる事になるだろう。
即ち、アマリアの交友にランドールが目を光らせていると言う事。
無理矢理、縁を繋ごうとすれば、不興を買って望むような益は齎されない。
こうして、アマリアはどう対処しようか悩んでいた招待状と贈り物攻勢から、無事に逃れる事が出来たのだった。
応援ありがとうございます!
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