獣人辺境伯と精霊に祝福された王女

緋田鞠

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 胸騒ぎがした。
 ずっと避けていたシャーロットの悲鳴が聞こえた気がして、ヴィンセントは焦燥と共に、屋敷を飛び出す。
 シャーロット。
 小さな可愛いお姫様。
 初めて会った日の事を、鮮明に覚えている。
 その頃のヴィンセントは、日々、鬱屈した気持ちで過ごしていた。
 ヴィンセントは、辺境伯の父ザイオンと、隣領アテムの領主の娘だったメリーダの間に生まれた。
 両親は、異種族間結婚だった。だが、隣領に住む幼馴染と言う事もあり、互いに互いの事をよく知っていて、子供の目から見ても仲の良い夫婦だった。
 半獣人として生まれる子供の容姿は、両親のどちらに似るか、個人差が大きい。
 ある者は純血の獣人とほぼ変わらない容姿を持ち、ある者は純血の人族とほぼ変わらない容姿を持つ。
 ヴィンセントの場合、獣人族に特徴的な外見は瞳にしかなく、獣人族達がそれを残念に思っている事に、幼い頃から気が付いていた。
 実際の所、ヴィンセントは能力的には、膂力も体力も平均的な獣人族のそれを大幅に上回っていたのだが、「見た目」のインパクトは大事らしい。
 それでも、領主夫妻のただ一人の子として、領民から大切にされていたと思う。
 その関係が変わり始めたのは、ヴィンセントが十三歳の頃。
 いつものように領地の視察に赴いたザイオンが、番に出会ったのだ。
 相手は、十四歳の鼠族、イリナ。
 ヴィンセントと、たった一つしか違わない娘が、ザイオンの番の相手だった。
 獣人族が番に出会うと、お互いに、稲妻に打たれたかのような衝撃と共に本能で理解するらしい。
 イリナはまだ恋をした事がなく、番として出会ったザイオンに夢中になった。
 一方のザイオンは、イリナが番である事を認めた上で、妻子と別れて彼女を選ぶ事はない、と断言していた。
 イリナが番である事は本能で理解している。だが、愛はメリーダにある、と。
 イリナと、番を大切にする一部の獣人族達は、ザイオンの選択に納得しなかった。
 番は、運命。
 番は、魂の片割れ。
 番と子が出来れば、その子は最強の獣人族になる。
 なのに、何故、番を選ばないのか。
 毎日毎日、イリナを始め、番至上主義の者が領主館を訪れ、メリーダを責める。
「領主様を愛しているのなら、彼の隣を番に明け渡すべきだ」
「番の大切さを理解出来ないなんて、所詮、人族。獣人族の伴侶に相応しくないな」
「番と出会ったのに結ばれないなんて、そんな事、許されるわけがないわ」
 初めのうちは、受け流していたメリーダも、そんな日々が二年も続くと、心身に不調を来すようになる。
「…ごめんなさい。貴方の気持ちを疑うわけではないの。でも…もう、疲れてしまった」
 そう言って、実家に帰ったメリーダを、ザイオンは引き留める事はなかった。
「…ヴィンセント。母さんには少し、休息が必要だ。安心して母さんが帰って来られるように、きちんとイリナと話し合わなくては」
 ヴィンセントもまた、イリナに、毎日のように、責められていた。
「あたしとザイオン様の間に生まれる子は、最強なんだ」
「あたしの子がいたら、あんたが辺境伯になれないから、ザイオン様を無理矢理引き留めてるんだろ」
「所詮は人間の子供だね、あんたに番の大切さなんか、判らない」
「ほんと、可哀そう。人間には番がいないんだから」
 ヴィンセントの目から見て、イリナは母のように父を愛しているとは、見えなかった。
 ザイオンとメリーダの間にある愛には、陽だまりのような温もりがあった。
 相手を慈しみ、思いやり、優しく癒すような愛。
 だが、イリナからザイオンへの愛は、轟々と燃え盛る炎のような、近づく者全てを焼き尽くす苛烈なまでの熱があった。
 どちらが、『正しい愛の形』だったのか、ヴィンセントには判らない。
 だが、イリナの愛には、互いを燃やし尽くすような狂気を感じていた。
 恐ろしくて、近づく事が出来ない。
 それが、番同士の愛だと言うのならば、それは何て、刹那的なものなのか。
 恐らくは、ザイオンもそれを危惧していたのだろう。
 ザイオンには、既に守るべき存在があったのだから。
 イリナは、番に出会った事で視野狭窄となり、『番』と言う存在に執着している。
 相手の事情も感情も、『番』を理由にして、蔑ろにしている。
 だが、ヴィンセントは、獣人族にとって、番がどれだけ本能に食い込んでいる存在なのかも知っているから、イリナの恋着が容易に解消されない事も理解していた。
 メリーダと引き離され、己の存在を否定され、ザイオンがどれだけ働きかけても止まないイリナの攻撃に疲れ切った頃、ヴィンセントは初めて、王宮を訪れた。
 ザイオンは、ヴィンセントを一人、ノーハンに残すのは危険だと考えて伴ったのだろう。
 王宮では、国王夫妻の末王女のお披露目パーティが催される事になっている。
 三歳になる王女は、精霊に祝福されていると貴族の間で噂になっていた。
 ノーハンで、精霊は身近な存在だ。
 身近な存在故に、人族とはまた異なる伝承が残っている。
 獣人族の間では、精霊と相性の良い者を、『精霊の愛し子』と呼ぶ。
 精霊は、愛し子に力を貸してくれるので、農業をすれば野菜がよく育ち、漁をすれば魚がよく獲れるのだ、と聞いていた。
 愛し子は、純血の獣人族の中には存在しない。
 獣人族は、人族よりも精霊に近いから、と言うのがその理由だ。
 獣人族として生まれただけで、既に精霊の愛し子である。それ故、それ以上の祝福を与える必要はない、と言う事らしい。
 しかし、それは単なる伝承であり、誰も本当の所は知らない。
 これまでに、精霊の愛し子であると認められた純血の獣人族が知られていないだけの話だ。
 獣人族にとって、精霊の愛し子に与えられる祝福は、「ほんの少し、運がいい」程度のものだから、大して興味を持つ者がいなかった、と言うのが大きい。
 獣人族にとって、願いは自らの手で叶えるもの。
 収穫を増やしたければ、その分、自分が働けばいいだけの事だ。
 だが、精霊に祝福された王女に与えられた祝福は、想像以上のものだった。
 彼女が微笑むと、蕾が満開に咲く。
 彼女が歩くと、足跡に花が咲く。
 人族に与えられる祝福だからなのか、王女が特別だからなのか。
 この祝福を、今後、どう扱っていけばいいのか。
 人族よりも精霊に近い立場として、国王ハビエルから相談を受ける為に、ザイオンは招かれたのだ。
 パーティ会場には人族ばかりで、獣人族はザイオンとヴィンセントのみ。
 人族の領地を訪れる時に必ず着用するスカーフの下の耳は、人族と同じものなのに、彼等はヴィンセントを奇異の目で眺める。
「貴族気取りの獣人が…」
 獣の耳ではなくとも鋭い聴覚は、彼らが侮蔑的に吐き出す言葉までも伝える。
 ノーハンでは人族として忌避され、王都では獣人族として忌避され。
 自分は一体、何者なのか。
 半獣人として生まれたが、獣人族であるザイオンと、人族であるメリーダが、愛し合った結果なのに。
 その両者から、共に拒まれる苦しみは、同じ立場の者でなければ判らない。
 両親は離れて暮らさざるを得なくなり、ヴィンセントの足元はグラグラと揺らいでいる。
 居場所なんか、何処にも、ない。
 知らず、パーティ会場で俯いていたヴィンセントに、幼い声が掛けられた。
「あじめまちて!ろってです!きょおは、ぱーてぃにきてくえてあいがとじゃいまちた!」
 弾むような声。
 音がきらきらと輝いているように感じて、ヴィンセントは顔を上げる。
 目の前に、チョコレート色の巻き毛に、ペリドットのように明るい緑の瞳、薔薇色の頬を持つ、愛らしい幼女が立っていた。
 彼女に気づいた途端、ヴィンセントの視界から、彼女以外の色が消える。
 その瞳に吸い込まれるように、視線を逸らす事が出来ない。
 己の心臓の音が、耳元でバクバクと響いた。
「シャーロット王女殿下。この度は、お誕生日おめでとうございます」
 水中で聞く音のように、ぼんやりと父の声が聞こえる。
 シャーロット王女。
 この子が、精霊に祝福された姫なのか。
 心臓を鷲掴みにされたように、苦しい。

 あぁ、彼女だ。
 彼女が、俺の。

「ヴィンセント」
 気づくと、シャーロットは次の招待客の元に向かっていた。
 呆然としているヴィンセントに、ザイオンが声を掛ける。
「どうした。このような場での挨拶も、教えてあった筈だが」
「あ…申し訳ありません、父上」
 謝罪しながらも、上の空のヴィンセントに、ザイオンは眉を顰めた。
「…ヴィンセント?」
 目でシャーロットの姿を追い続けるヴィンセントを見て、ザイオンは重い溜息を吐く。
「ヴィンセント…あの方は、王女だ。ノーハンと縁のあるお方ではない」
「判って、おります」
 判っている。
 頭では、理解している。
 だが、心の奥で、何かが、誰かが叫んでいる。
 見つけた。
 ここにいた。
 獰猛な程の思いが、胸の奥底から湧き上がってくる。
 言葉とは裏腹に、熱の籠った目をしたヴィンセントの様子を見て、ザイオンは何かに気づいたらしい。
「人族に、番はない。例え、お前が番と判っていても、その想いを理解される事はない」
 静かなザイオンの声に、そんな事は知っている、と、もどかしく頷く。
 憎んですらいたイリナに、初めて同情した。
 ここに、ここに運命があるのに。
 この人以外、愛する事は出来ないのに。
 もしも、シャーロットがただの貴族だったならば、求婚出来ただろうか。
 ヴィンセントは獣人族とは言え、マハト貴族だ。
 だが、シャーロットは王族。この国の王女だ。
 王女が獣人族に降嫁した例など、過去に存在しない。
 どうすればいい。
 彼女を、自分の手で幸せにしたい。
 彼女が傍にいてくれるなら、何だって出来る。
 彼女が、欲しい。
 頭の中が、シャーロットで一杯になる。
 その時だった。
「やぁぁぁ…っ!」
 悲鳴が上がる。
 シャーロットの声だ、と、ヴィンセントはハッとなって顔を上げた。
 慌てふためく人混みに視界が邪魔され、何が起こったのか見えない。
「やらぁってばぁ!」
 焦って動こうとするヴィンセントの肩を、ザイオンが押さえた。
 彼は素早く周囲に目を走らせ、護衛騎士の位置を確認すると、ヴィンセントの腕を掴んだまま、混乱の現場に向かって駆け出す。
「シャーロット!」
 二人が駆けつけるよりも前に、憤怒で顔を真っ赤にしたハビエルが駆けつけた。
 ハビエルを見て、シャーロットは泣きながら微笑み、彼の左足に飛びつく。
「ととたま!」
 安堵に緩んだハビエルの顔色が、一瞬にして青褪めた。
「陛下?!」
「シャーロット…少し、離れておくれ」
「やっ!」
「シャーロット、離れなさい」
 シャーロットが、恐々と抱き着いていたハビエルの左足から一歩下がる姿を見て、追いついたアナリーゼが、両手を広げる。
「シャーロット、こちらにいらっしゃい」
「かかたま…」
「ならん、アナリーゼ」
「陛下…?」
「シャーロットに、触れては、いけない」
 脂汗を垂らすハビエルの体が、ドサリと芝生に倒れ込むのを見た人々から、悲鳴が上がった。
 そのまま、はくはくと荒く息をする姿に、様子を伺っていたザイオンが駆け寄る。
「陛下、緊急時ですので、失礼致します」
 内心の焦りを押し隠し、ザイオンは、ハビエルが両手で押さえていたトラウザーズの左裾をまくった。
「これは…」
 ハビエルの左足が、眩いばかりの黄金色に輝いている。
「何て事だ…」
 ザイオンの額に汗が流れるのを、茫然としながらヴィンセントは見ていた。
 何が、起きた。
 シャーロットの悲鳴。
 倒れている男。
 黄金に変わったハビエルの足。
 一体、何が。
 周囲の人族の視線が、不穏なものに変化している。
 脅え、恐れ…そのような視線が幼い王女に向けられ、震えるシャーロットの大きな瞳から、涙が零れ落ちた。
 小さな愛らしい姫が、一人で耐えている姿に、ヴィンセントは胸が張り裂ける思いがする。
 許せない。
 シャーロットを苦しめる全てが、許せない。
 彼女は、誰よりも何よりも、幸せにならなくてはいけないのに。
「ヴィンセント」
 ザイオンが、拳をぎりぎりと握りしめている息子の名を呼んだ。
「はい、父上」
「姫君を、安全な場所へ。乳母殿、案内をお願い出来ますか」
 父の言葉に、ヴィンセントは感謝する。
 傷ついているシャーロットを、この場に置いておく事なんて、出来ない。
 ヴィンセントは、躊躇なくシャーロットに手を差し伸べた。
「姫様、お手をお貸し下さいませ。お部屋まで、私とご一緒して頂けますか」
 出来るだけ、穏やかな声を心掛けた。
 これ以上、シャーロットを脅えさせたくない。
「…ろってはもぉ、おへやなの?」
「姫様は、大勢のお客様にとても上手にご挨拶なさいましたからね。もうお昼寝の時間ではありませんか?」
「ろって、まらねむく…ふぁ、いもん」
 言いながらも欠伸をして、目元をこするシャーロットに、ヴィンセントはにこりと微笑む。
「おや、欠伸をなさっておいでですね。このままでは、お庭で眠ってしまわれるかもしれませんよ?」
「えぇ~?ろって、くましゃんとねる…」
「では、お部屋までお連れしましょうね。手を繋いでいきましょう。もしも、途中で眠くなったら、ご遠慮なく仰って下さい。私が、抱っこして差し上げます」
「うん…」
 小さな小さな手。
 こんな小さな姫に、精霊は、何と大きなものを背負わせたのか。
「おにぃちゃんのて、あったかいのね」
 ヴィンセントと繋いだ手を軽く振りながら、シャーロットは少し気分が上昇したのか、小さく笑った。
 三歳とは思えない影のある笑みに、ヴィセントは先程の出来事がシャーロットに与えた傷の大きさを思い知る。
「くましゃんとおんなしね」
 予想通り、途中で眠りに落ちたシャーロットの小さな体を抱き上げて、起こさないようにそっと移動し、寝台に下ろす。
 枕元に、シャーロットが言っていた「くましゃん」のぬいぐるみがあって、寝ている彼女の腕に、抱かせた。

 ロッテ様。
 私は、熊です。
 熊族のヴィンセントと申します。
 私は、貴女のくまさんにはなれませんか?
 貴女の心を癒す存在には、なれませんか?

 シャーロットの目尻に残る涙を、親指でそっと拭った。
 何故、彼女がこんなにも、苦しまなくてはならないのだ。
 心の中で、大きな悲鳴を上げながら。
 お披露目パーティは、途中で散会となった。
 ザイオンから、ハビエルがシャーロットを今後暫く、表舞台に出さないと決めたと聞いた。
 婚約の申し入れも断るそうだ、と暗に「勝手な事をするなよ」と釘を刺され、ヴィンセントは俯く。
 頭では、判っている。
 シャーロットは、王家の姫。
 ヴィンセントは、マハト貴族とは言え、領地から殆ど出る事のない獣人族。
 ましてや、十二も年が離れている。
 政略的に有効な結婚でもないのだから、余程の功を立てねば、降嫁を願い出る事すら出来ない。
「一つ、陛下に進言する事にする。先程のお力を見る限り、人族の社会では、姫君をお育てするのに困難が伴うだろう。ノーハンであれば、獣人族の社会であれば、お力を気にする事なく、成長なさるかもしれない。姫君の為に、ノーハンを頼って頂く選択を提示しておく方がよかろう」
 もしも、ザイオンの提言が受け入れられたら、バーナディス辺境伯家で身柄を預かる事になる。
 そうすれば、彼女の成長と幸せを、間近に守る事が出来る。
 番として、受け入れられなかったとしても、それならば、耐えられるかもしれない。
 だが、人族の貴族達は、ザイオンの提案を一蹴した。
 回りくどい言い方をしていたが、要するに、獣人族に国の要人を預けるなど、危険だ、と言う事だ。
 人族との軋轢を鑑み、ザイオンは、あっさりと身を引いた。
 ハビエルに、「ノーハンはいつでも、お待ちしております」と告げて。
 ハビエルは、「王都で埒が明かなければ、頼む事もあろう」と返答したと言う。
 それ以来、ヴィンセントは、シャーロットへの求婚が許される日を待ちながら、日々、研鑽を積み、鍛錬に励んでいた。
 王都から帰還したばかりの頃に、幼馴染の狼族のロビンに、いかに王女が愛らしかったのか、興奮して語った気がするが、「幼女趣味だったのか。俺は、大人のお姉さんの方がいい」と切り捨てられて終わった。
 それを聞いて、そうか、三歳に恋慕するのは危険人物に見えるよな、と、自制するだけの理性はあった。
 ヴィンセントにとっては、シャーロットの年齢など些事で、一番肝心なのは、彼女がこの世に存在している、と言う事だったのだが。

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