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「ミカエラ・ウェインズです。アルフォンス様のお友達になりに来ました」
「…友達?」
アルフォンス様は、いつも浮かべている笑みを僅かに強張らせて問い返した。
七歳の少年に、二十五歳の成人女性が友達になりたい、と言って、この反応で済ませるのは流石だ。
何しろ、私にはその年頃の子供がいてもおかしくない。
そんないい年の大人が、知り合っていつしか友人になったのならともかく、いきなり友達になろうとは、どう好意的に受け止めても、危ない人だろう。
少なくとも私なら、お近づきになりたくない。
「とは言え、友達と言うのは、『友達になろう!』『よし!今日から友達だ!』と言うものではありません」
アルフォンス様の戸惑いを無視して、話を進める。
私には、アラベラ様からのご指名と言う大義名分があるのだ。
「あ、あぁ、そうだろうね」
「なので、まずはアルフォンス様と私が、共に楽しめる遊びを探したいと思います」
「遊び…折角だけれど、僕には遊ぶような時間は、」
「あら、アルフォンス様。よい施政者と言うものは、公私をきちんと分けられるものですよ」
王子の言葉を遮るなど、不敬もいい所だ。
その上、丁寧に話してはいるけれど、私は敬語すら使っていない。
おまけに、本来ならば、『アルフォンス王太子殿下』と呼ばねばならない所を、ご本人の許可も得ずに『アルフォンス様』と呼んでいる。
勿論、私のこれらの行動は全て、アラベラ様のお許しを得ての事だけれど、アルフォンス様は、そんな事をご存知ない。
アルフォンス様にはいずれ、同年代の高位貴族で、政治的な関係の悪くない家の令息達から、『ご学友』が選ばれる。
高位貴族の令息ともなれば、王族への態度をきちんと教育され、己の立場を重々に理解した上で接する事になるだろう。
その中から、真の意味で心を許せる友と出会えればいいものの、誰もがそのような幸運に出会えるわけではない。
少なくとも、ウェインズ男爵令嬢である私に、そのような友はいない。
…いや、最も心許していたダリウス様はいるけれど、私の心の扉は、十歳のあの日に閉じてしまった。
それ以来、誰と接しても開く事が出来なかったのは、防衛本能からなのだろうか。
ともあれ、私のこの不敬すれすれ、いや、不敬そのものの態度は、型にはまった関係以外を体験して貰おう、との考えがあっての事だ。
「それでは、今日の遊びです。そうですね、お天気もいいですし、中庭で木刀の手合わせはどうでしょう?」
「ぼ、木刀?それも、手合わせ?でも、ウェインズ…夫人は、女性だろう」
「私は独身です。友達ですから、どうぞミカエラと呼んでください」
「ミカエラ、さん…?」
「さんは要りません。ただのミカエラです。それに、流石に現役の騎士様との手合わせは無理でも、アルフォンス様のお相手なら十分務まると思いますよ?」
少し挑発めいた表情で言うと、アルフォンス様は少し、むっとしたようだった。
優し気な風貌だけれど、剣術師範が期待を掛ける程の腕を持っていると言う事は、元来、負けん気が強い性格の筈だ。
「…挑発には乗らないよ。さっきも言ったけれど、僕には遊んでいる時間はないから」
苛立ちを瞬時に押さえ込んで、アルフォンス様は再び、微笑を浮かべる。
なかなか手強い。
七歳当時の私なら、即、食って掛かっていた筈だ。
「では、一度だけ。一本勝負で私が負けたら、今日の所は大人しく引き下がります。それとも、どうせ勝てないのだから、しっぽを巻いて逃げ出しますか?」
あからさまな煽りに、アルフォンス様は、大きな溜息を吐いた。
私が、簡単には引き下がらない事を理解したのだろう。
笑顔以外の表情を引き出せた事に、内心、歓喜する。
アラベラ様は、様々な言葉でアルフォンス様の本音を引き出そうとしていたようだけれど、流石に、王子殿下を煽った人間は、そうはいまい。
「僕は、不毛な行動は取らない事にしている。貴方との勝負を受けて、僕に一体、何の利益がある?」
「そうですね…少なくとも、私に勝てばノーレイン公爵閣下に自慢出来ると思いますよ」
「…ダリウス叔父上に?」
アルフォンス様の声が、少し高くなった。
ダリウス様がボーディアンとの戦役に向かわれてから生まれたアルフォンス様は、人々の噂話に上るダリウス様に、強い憧れを抱いていたらしい。
身近な存在であるユリシーズ様よりも、遠くにいて、年に何度も会えないからこそ、憧憬が募るのかもしれない。
「どうして?」
「その問いに答える為には、勝負をして貰わないと」
「…判った。けど、一回だけだからね」
結果から言うと、私が勝った。
幾ら剣術師範が目を掛け、七歳児に求めるレベル以上を課しているとは言え、身長も体重も比べるべくもないのだから、当然だ。
それも、勝ち方も大人げなく、接戦に見せ掛けておきながら最後の最後で余裕を見せて勝つ、と言う、最も嫌味な勝ち方を敢えて選んだ。
「何で…普通の、貴族女性は、手合わせどころか、木刀だって、持った事、ない筈だ…」
半ば茫然として、息を切らしながら地面に座り込むアルフォンス様に、右手を差し伸べる。
アルフォンス様は素直に私の手を取り、掌の肉刺に気づいたようだ。
ハッとした顔で、じっと握った手を見る。
「私の父は、ランドン・ウェインズ男爵です。父の名は知らずとも、『マグノリアの奇跡』でサディアス・ノーレイン閣下の盾となった従騎士の存在は、知っているのでは?」
「…知っている。その人だろう?叔父上に剣の手ほどきをしたと言うのは。僕もノーレイン家にいた時に、師範になって欲しいとお願いしたのだけれど、断られてしまった。勿論、今の師範の指導には満足しているけどね」
すかさずフォローが入るのは、アルフォンス様の評価で、教師陣の処遇が変わる事を既に知っているからか。
「父も、もう年ですから。アルフォンス様の運動量に体がついていかないのです」
「そうか…」
あからさまにがっかりするわけにはいかない、と言う顔をしながらも、やはり、肩が落ちている。
…なるほど、そこはまだ七歳の子供だ。
想定外の問答であれば、案外、揺さぶれるかもしれない。
「私も、父に手ほどきを受けています。女性は騎士になれませんけど、父には私の他に子がいませんからね。少しでも国の役に立てれば、と思ったのでしょう。ノーレイン公爵閣下が剣を学び始めたのは五歳ですが、私は三歳で木刀を握りましたよ」
「三歳?!」
「よっぽど、お転婆だったのでしょう」
そう言って、令嬢らしくない顔でニヤリと笑ってみせると、アルフォンス様は一瞬、唖然としたような顔をしてから破顔した。
あぁ、初めてだ。
このような年齢相応の屈託ない笑顔は。
貴公子らしい笑みではないかもしれないけれど、心をそのまま表情に出せる時間は、誰にだって必要だ。
「二年程、中断していましたが、最近また、素振りを再開しました。思うようには動けませんが、少しずつ、体が思い出して来た感じがします。父はもう私の相手をしてくれませんし、対人試合は久し振りで、楽しかったです」
マイルズが、女らしくしろ、と言って私が運動するのを嫌がっていた為に、二年の結婚生活の間、素振りも乗馬も止めていた。
夫婦らしい生活ではなくとも、敢えて夫との間に波風を立てたいとは思わなかったのだ。
今は一人だから、好きなように好きな事が出来る。
「…僕も、楽しかった。僕の相手はいつも師範だから、手加減されるのが当たり前なのだが、何だかモヤモヤしていてね。あれは…悔しい、と言う気持ちなのだね。ミカエラと手合わせして、判った」
悔しい、と言いながら、アルフォンス様は、何処かすっきりした顔をしている。
「…僕はまだまだ、教わらなければならない事がたくさんあるな…」
「当然です。マスカネル王国の男性の平均寿命がどれ位か、知っていますか?」
「え?えぇと…六十七、八?」
「正解です。では、六十七引く七は?」
「は?七?あぁ、僕が七歳だからか。六十だろう?」
「流石に簡単でしたね。そうですよ、あと六十年あるんですから、学ぶ事を残しておかなければ、人生の最後につまらなくなります」
「つまらない、か…」
アルフォンス様は、苦笑した。
そう、時間はまだまだあるのだから、焦る必要はないんですよ。
成人するまでだって、あと十年以上あるんですから。
「ですが、実際の所、サディアス様は五十八歳で、先王陛下は六十四歳で冥府に渡られました。平均と言うのは飽くまで数値。確実に自分が生き延びられる保証ではありません」
ミカだって、まさか自分が四十で亡くなるなんて、思ってなかっただろう。
「ですから、今、学ばねばならない事を『明日でいいや』と先延ばしにするのも、よろしくないですね。何事も、程ほどにすべきでしょう。ましてや、王族や高位貴族と言うのは、実に心に負担の掛かるお仕事です。負担を掛けているのは心だけだと思っていても、心と体は不可分ですからね、体にも影響があるんです」
「フカブン、とは?」
「分けられない、と言う事です。アルフォンス様は、心と体が別々だと思いますか?それとも、くっついていると思いますか?」
意地悪な質問だ。
懸命に、心の動きを顔に出すまいとしている子供に対してする質問ではない。
「…くっついている、と思う。ちょっと寝不足の時でも、背筋を伸ばすと気持ちがシャンとするから。きっと、体に力を入れなかったら、眠気に負けている」
なるほど。
だが、七歳が寝不足とはよろしくない。
「そうですね。悲しいと涙が出る、とか、嬉しいと笑ってしまう、なんて事もあります。不安な時に頭を撫でられると心が落ち着くのは、気持ちが体を変化させるのではなく、体がリラックスする事で心に影響を与える例でしょう」
「うん…」
「と言う事で」
「うん?」
私が広げた両手に、アルフォンス様が首を傾げた。
「今日のアルフォンス様は私と一緒に遊んでくれたので、お礼にハグしたいのですが、いいですか?私は、アルフォンス様の友人になりたいのです。友人なら、ハグ位は許されるのでは?」
アルフォンス様は、耳の先を赤く染めてから、ちら、と周囲を見回した。
王子殿下を侍女姿の私が木刀でコテンパンに伸す為に、中庭は人払いしてある。
建物に囲われた場所だから、出入り口さえ押さえておけば、賊の侵入もないのだ。
「何が、『と言う事で』なのかは判らないけれど、僕が負けたのだし、勝者への褒美と言う事で………いいよ」
色々と言い訳をしながら、恥ずかしそうにそっと近づいて来たアルフォンス様の、肉付きの薄い背に軽く腕を回して、ぽんぽん、と優しく叩く。
私のお腹の辺りに、金色の頭が遠慮がちにそっと寄せられた。
反応を見る限り、スキンシップが苦手なわけではないらしい。
香水とは違う甘いような香りは、子供特有の体臭だろうか。
母になった事のない私には、よく判らない。
「正直な所、アルフォンス様の剣の腕は、思っていた以上でした」
「……っ本当?」
「えぇ。とても素直な剣ですね。師範の指導をしっかりと聞き、再現しようとしている事がよく判ります」
「…僕は、もっと強くなれるかな?叔父上みたいに?」
「えぇ、勿論。ですが、アルフォンス様はまだまだ成長途中。体がぐんぐん伸びていく時期ですからね、一度出来た事が、手足の長さのバランスが変わる事で、出来なくなる事もあります」
「そうなの?」
「そうなんです。あと数年もすれば、一晩でぐんと背が伸びる時期が来ますよ。私にもありましたけど、膝だとか踵が痛くて泣きました。成長中の体には、休憩を取る事も大事です。無理を重ねると怪我をする危険性が高まります。だから、ね」
アルフォンス様の肩に手を掛けて体を離し、じっと顔を見つめた。
「疲れた時には疲れたと。痛い時には痛いと。周りに言う事も大事なんですよ。何しろ、アルフォンス様はこの先、六十年、人生を楽しむんですから」
だから、もう少し、ゆっくり歩いて行きましょう?
「六十年…そうか…」
何か、憑き物が取れたように、アルフォンス様はポツリと言うと、
「そうか…」
もう一度繰り返して、パチパチと目を瞬いた。
その目が潤んでいる事に、気づかない振りをする。
きっと、これから、少しずつでも良い方向へと変わっていける筈だ。
「…友達?」
アルフォンス様は、いつも浮かべている笑みを僅かに強張らせて問い返した。
七歳の少年に、二十五歳の成人女性が友達になりたい、と言って、この反応で済ませるのは流石だ。
何しろ、私にはその年頃の子供がいてもおかしくない。
そんないい年の大人が、知り合っていつしか友人になったのならともかく、いきなり友達になろうとは、どう好意的に受け止めても、危ない人だろう。
少なくとも私なら、お近づきになりたくない。
「とは言え、友達と言うのは、『友達になろう!』『よし!今日から友達だ!』と言うものではありません」
アルフォンス様の戸惑いを無視して、話を進める。
私には、アラベラ様からのご指名と言う大義名分があるのだ。
「あ、あぁ、そうだろうね」
「なので、まずはアルフォンス様と私が、共に楽しめる遊びを探したいと思います」
「遊び…折角だけれど、僕には遊ぶような時間は、」
「あら、アルフォンス様。よい施政者と言うものは、公私をきちんと分けられるものですよ」
王子の言葉を遮るなど、不敬もいい所だ。
その上、丁寧に話してはいるけれど、私は敬語すら使っていない。
おまけに、本来ならば、『アルフォンス王太子殿下』と呼ばねばならない所を、ご本人の許可も得ずに『アルフォンス様』と呼んでいる。
勿論、私のこれらの行動は全て、アラベラ様のお許しを得ての事だけれど、アルフォンス様は、そんな事をご存知ない。
アルフォンス様にはいずれ、同年代の高位貴族で、政治的な関係の悪くない家の令息達から、『ご学友』が選ばれる。
高位貴族の令息ともなれば、王族への態度をきちんと教育され、己の立場を重々に理解した上で接する事になるだろう。
その中から、真の意味で心を許せる友と出会えればいいものの、誰もがそのような幸運に出会えるわけではない。
少なくとも、ウェインズ男爵令嬢である私に、そのような友はいない。
…いや、最も心許していたダリウス様はいるけれど、私の心の扉は、十歳のあの日に閉じてしまった。
それ以来、誰と接しても開く事が出来なかったのは、防衛本能からなのだろうか。
ともあれ、私のこの不敬すれすれ、いや、不敬そのものの態度は、型にはまった関係以外を体験して貰おう、との考えがあっての事だ。
「それでは、今日の遊びです。そうですね、お天気もいいですし、中庭で木刀の手合わせはどうでしょう?」
「ぼ、木刀?それも、手合わせ?でも、ウェインズ…夫人は、女性だろう」
「私は独身です。友達ですから、どうぞミカエラと呼んでください」
「ミカエラ、さん…?」
「さんは要りません。ただのミカエラです。それに、流石に現役の騎士様との手合わせは無理でも、アルフォンス様のお相手なら十分務まると思いますよ?」
少し挑発めいた表情で言うと、アルフォンス様は少し、むっとしたようだった。
優し気な風貌だけれど、剣術師範が期待を掛ける程の腕を持っていると言う事は、元来、負けん気が強い性格の筈だ。
「…挑発には乗らないよ。さっきも言ったけれど、僕には遊んでいる時間はないから」
苛立ちを瞬時に押さえ込んで、アルフォンス様は再び、微笑を浮かべる。
なかなか手強い。
七歳当時の私なら、即、食って掛かっていた筈だ。
「では、一度だけ。一本勝負で私が負けたら、今日の所は大人しく引き下がります。それとも、どうせ勝てないのだから、しっぽを巻いて逃げ出しますか?」
あからさまな煽りに、アルフォンス様は、大きな溜息を吐いた。
私が、簡単には引き下がらない事を理解したのだろう。
笑顔以外の表情を引き出せた事に、内心、歓喜する。
アラベラ様は、様々な言葉でアルフォンス様の本音を引き出そうとしていたようだけれど、流石に、王子殿下を煽った人間は、そうはいまい。
「僕は、不毛な行動は取らない事にしている。貴方との勝負を受けて、僕に一体、何の利益がある?」
「そうですね…少なくとも、私に勝てばノーレイン公爵閣下に自慢出来ると思いますよ」
「…ダリウス叔父上に?」
アルフォンス様の声が、少し高くなった。
ダリウス様がボーディアンとの戦役に向かわれてから生まれたアルフォンス様は、人々の噂話に上るダリウス様に、強い憧れを抱いていたらしい。
身近な存在であるユリシーズ様よりも、遠くにいて、年に何度も会えないからこそ、憧憬が募るのかもしれない。
「どうして?」
「その問いに答える為には、勝負をして貰わないと」
「…判った。けど、一回だけだからね」
結果から言うと、私が勝った。
幾ら剣術師範が目を掛け、七歳児に求めるレベル以上を課しているとは言え、身長も体重も比べるべくもないのだから、当然だ。
それも、勝ち方も大人げなく、接戦に見せ掛けておきながら最後の最後で余裕を見せて勝つ、と言う、最も嫌味な勝ち方を敢えて選んだ。
「何で…普通の、貴族女性は、手合わせどころか、木刀だって、持った事、ない筈だ…」
半ば茫然として、息を切らしながら地面に座り込むアルフォンス様に、右手を差し伸べる。
アルフォンス様は素直に私の手を取り、掌の肉刺に気づいたようだ。
ハッとした顔で、じっと握った手を見る。
「私の父は、ランドン・ウェインズ男爵です。父の名は知らずとも、『マグノリアの奇跡』でサディアス・ノーレイン閣下の盾となった従騎士の存在は、知っているのでは?」
「…知っている。その人だろう?叔父上に剣の手ほどきをしたと言うのは。僕もノーレイン家にいた時に、師範になって欲しいとお願いしたのだけれど、断られてしまった。勿論、今の師範の指導には満足しているけどね」
すかさずフォローが入るのは、アルフォンス様の評価で、教師陣の処遇が変わる事を既に知っているからか。
「父も、もう年ですから。アルフォンス様の運動量に体がついていかないのです」
「そうか…」
あからさまにがっかりするわけにはいかない、と言う顔をしながらも、やはり、肩が落ちている。
…なるほど、そこはまだ七歳の子供だ。
想定外の問答であれば、案外、揺さぶれるかもしれない。
「私も、父に手ほどきを受けています。女性は騎士になれませんけど、父には私の他に子がいませんからね。少しでも国の役に立てれば、と思ったのでしょう。ノーレイン公爵閣下が剣を学び始めたのは五歳ですが、私は三歳で木刀を握りましたよ」
「三歳?!」
「よっぽど、お転婆だったのでしょう」
そう言って、令嬢らしくない顔でニヤリと笑ってみせると、アルフォンス様は一瞬、唖然としたような顔をしてから破顔した。
あぁ、初めてだ。
このような年齢相応の屈託ない笑顔は。
貴公子らしい笑みではないかもしれないけれど、心をそのまま表情に出せる時間は、誰にだって必要だ。
「二年程、中断していましたが、最近また、素振りを再開しました。思うようには動けませんが、少しずつ、体が思い出して来た感じがします。父はもう私の相手をしてくれませんし、対人試合は久し振りで、楽しかったです」
マイルズが、女らしくしろ、と言って私が運動するのを嫌がっていた為に、二年の結婚生活の間、素振りも乗馬も止めていた。
夫婦らしい生活ではなくとも、敢えて夫との間に波風を立てたいとは思わなかったのだ。
今は一人だから、好きなように好きな事が出来る。
「…僕も、楽しかった。僕の相手はいつも師範だから、手加減されるのが当たり前なのだが、何だかモヤモヤしていてね。あれは…悔しい、と言う気持ちなのだね。ミカエラと手合わせして、判った」
悔しい、と言いながら、アルフォンス様は、何処かすっきりした顔をしている。
「…僕はまだまだ、教わらなければならない事がたくさんあるな…」
「当然です。マスカネル王国の男性の平均寿命がどれ位か、知っていますか?」
「え?えぇと…六十七、八?」
「正解です。では、六十七引く七は?」
「は?七?あぁ、僕が七歳だからか。六十だろう?」
「流石に簡単でしたね。そうですよ、あと六十年あるんですから、学ぶ事を残しておかなければ、人生の最後につまらなくなります」
「つまらない、か…」
アルフォンス様は、苦笑した。
そう、時間はまだまだあるのだから、焦る必要はないんですよ。
成人するまでだって、あと十年以上あるんですから。
「ですが、実際の所、サディアス様は五十八歳で、先王陛下は六十四歳で冥府に渡られました。平均と言うのは飽くまで数値。確実に自分が生き延びられる保証ではありません」
ミカだって、まさか自分が四十で亡くなるなんて、思ってなかっただろう。
「ですから、今、学ばねばならない事を『明日でいいや』と先延ばしにするのも、よろしくないですね。何事も、程ほどにすべきでしょう。ましてや、王族や高位貴族と言うのは、実に心に負担の掛かるお仕事です。負担を掛けているのは心だけだと思っていても、心と体は不可分ですからね、体にも影響があるんです」
「フカブン、とは?」
「分けられない、と言う事です。アルフォンス様は、心と体が別々だと思いますか?それとも、くっついていると思いますか?」
意地悪な質問だ。
懸命に、心の動きを顔に出すまいとしている子供に対してする質問ではない。
「…くっついている、と思う。ちょっと寝不足の時でも、背筋を伸ばすと気持ちがシャンとするから。きっと、体に力を入れなかったら、眠気に負けている」
なるほど。
だが、七歳が寝不足とはよろしくない。
「そうですね。悲しいと涙が出る、とか、嬉しいと笑ってしまう、なんて事もあります。不安な時に頭を撫でられると心が落ち着くのは、気持ちが体を変化させるのではなく、体がリラックスする事で心に影響を与える例でしょう」
「うん…」
「と言う事で」
「うん?」
私が広げた両手に、アルフォンス様が首を傾げた。
「今日のアルフォンス様は私と一緒に遊んでくれたので、お礼にハグしたいのですが、いいですか?私は、アルフォンス様の友人になりたいのです。友人なら、ハグ位は許されるのでは?」
アルフォンス様は、耳の先を赤く染めてから、ちら、と周囲を見回した。
王子殿下を侍女姿の私が木刀でコテンパンに伸す為に、中庭は人払いしてある。
建物に囲われた場所だから、出入り口さえ押さえておけば、賊の侵入もないのだ。
「何が、『と言う事で』なのかは判らないけれど、僕が負けたのだし、勝者への褒美と言う事で………いいよ」
色々と言い訳をしながら、恥ずかしそうにそっと近づいて来たアルフォンス様の、肉付きの薄い背に軽く腕を回して、ぽんぽん、と優しく叩く。
私のお腹の辺りに、金色の頭が遠慮がちにそっと寄せられた。
反応を見る限り、スキンシップが苦手なわけではないらしい。
香水とは違う甘いような香りは、子供特有の体臭だろうか。
母になった事のない私には、よく判らない。
「正直な所、アルフォンス様の剣の腕は、思っていた以上でした」
「……っ本当?」
「えぇ。とても素直な剣ですね。師範の指導をしっかりと聞き、再現しようとしている事がよく判ります」
「…僕は、もっと強くなれるかな?叔父上みたいに?」
「えぇ、勿論。ですが、アルフォンス様はまだまだ成長途中。体がぐんぐん伸びていく時期ですからね、一度出来た事が、手足の長さのバランスが変わる事で、出来なくなる事もあります」
「そうなの?」
「そうなんです。あと数年もすれば、一晩でぐんと背が伸びる時期が来ますよ。私にもありましたけど、膝だとか踵が痛くて泣きました。成長中の体には、休憩を取る事も大事です。無理を重ねると怪我をする危険性が高まります。だから、ね」
アルフォンス様の肩に手を掛けて体を離し、じっと顔を見つめた。
「疲れた時には疲れたと。痛い時には痛いと。周りに言う事も大事なんですよ。何しろ、アルフォンス様はこの先、六十年、人生を楽しむんですから」
だから、もう少し、ゆっくり歩いて行きましょう?
「六十年…そうか…」
何か、憑き物が取れたように、アルフォンス様はポツリと言うと、
「そうか…」
もう一度繰り返して、パチパチと目を瞬いた。
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きっと、これから、少しずつでも良い方向へと変わっていける筈だ。
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