幸せは、歩いて来ない。ならば、迎えに行きましょう。

緋田鞠

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「園遊会に、参加しようかな」
 勤務終了後、帰宅の為の馬車でダリウス様と向き合うと、私はいきなり、そう切り出した。
「!そう、か」
 二週間、私を急かす事のなかったダリウス様は、驚いたように目を見開いた後、ホッとした顔で微笑む。
「良かった」
「でも、一つだけ、聞かせて欲しいの」
「…何だ?」
「どうして、私なの?」
 ダリウス様は、虚を衝かれたように黙り込むと、視線を少しうろうろさせてから、
「言わなかったか?」
と言った。
「俺にとって、お前は特別だからだ。お前が隣にいれば、何にでも立ち向かえる。今回の園遊会には、ボーディアンの王女もメディセ公爵令嬢も出席する。縁談を持ち掛けて来た以上、接触が全くないとは考えにくい。お前がいれば、俺は、冷静に対処出来る」
 『特別』。
「それは、何で?」
「何で、って…」
「考えてもみて?私達は、十年、顔を合わせてなかった。その前の五年も、殆ど言葉を交わさなかった。それが、久し振りに再会したのに、昔よりもずっと過保護にされてるんだよ?何があったのか、って思うじゃない。私が出戻りだから、不憫に思ってるの?」
「それは違う!」
 ダリウス様は、きっぱりと否定した後、何かを言い掛けるように口を開けて、また思い直したように閉じた。
「私ね」
 ダリウス様の言葉には反応を返さず、自分の言葉をただ続ける。
「十歳のお茶会で、突き飛ばされて気絶した事があるでしょう?」
「あぁ」
「その時、サディアス様と貴方がしていた会話を、聞いちゃったの」
「!…ミカエラ…」
 ダリウス様は、苦しそうな顔をした。
「貴方は公爵令息で、状況次第で公爵家当主になる人。私は、いつ終わるかも判らない名誉爵位の男爵家の娘。それまで、身分なんて考えた事もなかったけど、でも、この国で生きていく以上、知らずに生きられないものなんだ、って事をその時知ったわ。貴方の周囲の人間に悪意を向けられても、私には対抗するだけの力がない。だから、貴方は私から距離を取った」
 そっと目を伏せるダリウス様を、しっかりと見つめる。
「私を守る為に」
 項垂れるように、ダリウス様が更に視線を落とした。
「北へと出立する日、貴方は私に『幸せになれ』と言った。だから私、幸せにならなきゃ、って思ったの。何をどうやったって、私が男爵令嬢である事も、周囲がそう評価する事も変わらないんだから、男爵令嬢らしく幸せになろう、って結婚して…失敗した」
 ハッとしたような顔でダリウス様が顔を上げ、再び、視線を落とす。
 …あぁ、やっぱり、そうだ。
 ダリウス様は、私の結婚生活が失敗に終わった事を、悔やんでいる。
 ダリウス様には何の責任もないと言うのに、まるで、自分の力が及ばなかったせいだ、と言うような顔で。
 この人は、私の幸せ全てに責任を感じているのか。
「後悔、しているか」
「何を?」
「離縁…した事を」
「全然。結婚した事は後悔してるけどね」
「っだが…お前は、夫を愛していたのでは…だからこそ、結婚を望んだのではないのか」
「誰がそんな大嘘吐いたの?父さん?」
「違う、お前がメッセージカードに書いて寄越しただろう。『私に相応しい人と結婚します。幸せになります』と」
 思い出した。
 ダリウス様との細い細い縁を切りたくなくて、毎年、戦地にいる彼に送り続けた誕生日のメッセージカード。
 けれど、既婚者となる以上、幼馴染とは言え、異性と繋がりを持つわけにはいかないから、その理由として結婚する事を記したのだ。
 己の中の、未練を断ち切るつもりで。
「面会したマイルズ…今はボクストンか。彼は、女性に好まれそうな優男だった。お前が好むのは、こう言う男だったのか、と思って、」
「相応しい、って言うのは、いつ終わるかも判らない男爵家の娘に相応しい身分の人、って事よ。マイルズは、私の叔母に紹介された商人の息子。平民と貴族と、丁度その中間の私にお似合いだと思ったの。結局、身分でしか彼を見ていなかったから、結婚生活は最初から破綻してた」
「じゃあ、何でランドンは、お前が幸せにしてる、なんて言ったんだ」
「『娘は夫と不仲です。同じ家に住みながら、もう何か月も顔を合わせていません』なんて言える筈がないでしょう?」
「だが、ランドンは嘘などつけないだろう。だから、俺は彼の言葉を信じて、」
「そうね。だから、私はいつも、父さんに言ってたわ。『マイルズと結婚したお陰で、美味しいものも食べられるし、使用人も増えたし、幸せね』って」
「…!」
 父の前では、結婚生活が辛いだなんて、おくびにも出さなかった。
 母が亡くなって直ぐ、喪明けも済まないうちに、私達は籍だけを入れた。それが、母の遺言だったからだ。
 父は、自身の気鬱で手一杯で、娘夫婦の仲が破綻している事に随分と長く気づかなかった。
 おかしい、と思うようになったのは、結婚後、一年は過ぎた後だろう。
「…私の事で、気を煩わせたくなかったの」
 ダリウス様は言葉に詰まった後、大きく深く、息を吐いた。
「そう、だな…俺が、目の前の敵に集中出来たのは、お前を守る人間がちゃんといる、と思っていたからだ」
 ――この人は。
 不器用な位に真っ直ぐで、情の深い人だ。
 妹のように可愛がっていた私の幸せを、ずっとずっと、願い続けてくれた人。
 私が傷つけられないように、距離を置いた。
 私が結婚した事で、私を守る人が新しく出来た、と安心した。
 私が離縁した事で、改めて私を守らねば、と囲い込んだ。
 でもね、ダリウス様。
 私は、貴方の可愛い妹には、なれない。
 もうずっと昔に、妹ではいられなくなったのよ。
 貴方に、恋心を抱いたその時から。
「ねぇ、話してくれないと、判らない。私は、そんなに察しがいい方じゃないから。自分に都合のいいように解釈するよ?」
「都合のいい、って…」
「私の事が、好きなんでしょう?」
 ぴく、と、ダリウス様の眉が動いた。
「妹として、じゃなくて、一人の女性として、好きなんでしょう?」
 自信?
 そんなもの、欠片もあるわけがない。
 でも、気を抜くと自惚れてしまいそうになる。
 本棟の、親族が泊まる客間を与えられた。
 食卓でダリウス様とフェリシア様と同席し、まるで公爵家の一員のように扱われた。
 一流の仕立て屋の手によるドレスと宝飾品を、次々に与えられた。
 公爵家の紋章入り馬車で、護衛付きの送迎をされた。
 「お前を守る為なら何だってする」と、「お前の代わりなど、誰もいない」と、「お前がいれば、何にでも立ち向かえる」と、言葉を貰った。
 ダリウス様が私をエスコートする腕は、いつだって思いやりに溢れて優しかった。
 それで、勘違いしないでいられる程、私は強くない。
 …だから、貴方の手でこの想いを断ち切って欲しい。
「…ミカエラ…」
 ダリウス様は、驚いたように目を見開いた。
「一人の、女性として…?それは…だが…いや…」
 続いて、気が抜けたように呟いて、額を手で押さえる。
「そう、か…そう言う事か…」
 一人で何かに納得して、嬉しそうに微笑んだ。
 先程まで曇っていた顔が、パッと明るく晴れ渡る。
 私の前では表情を出す方だとは言え、これまでに経験がない位の変化だった。
「え、何?」
「いや、本当にそうだ、と思ってな。あぁ、俺は今まで、一体何を気負っていたんだろうな」
「な、何が?」
「ん?だから、俺が、お前を一人の女性として愛している、と言う事だ」
「……はっ?!」
 ダリウス様は、右手を軽く握って、そこに目を落とした。
「ずっと、縛られていた。父上に、ミカエラを守りたいなら遠ざけるべきだ、と言われて、俺はその理由に納得してしまったからな」
 ポツポツと、ダリウス様が言葉を続ける。
「貴族は、高位になる程、規律や使命に縛られて不自由になるものだ。天衣無縫で自由なお前を、公爵家の枠に閉じ込めていい筈がないと思いながらも、俺はずっと、お前を手離せずにいた。それが、あの十五年前の茶会でお前への害意を目の当たりにして、怯んだんだ」
 ほんの小さな傷だったのに、大怪我をしたかのように真っ青な顔をしていたダリウス様を思い出す。
「貴族社会は、表面は華やかでも、裏では足を引っ張り合い、貶し合う輩に事欠かない。物事には裏表があると考えた事すらないお前に、到底、向いている場所ではない。重々判っていたのに、俺ならば、お前を守れると驕っていた。なのに、実際には、お前を傷つけてしまった。最初は小さな怪我だとしても、その害意がどう成長するか、判らなくて恐ろしかった。いつか、お前を失うのではないかと、怖くて仕方なかった。だから、お前を幸せにする為だ、と距離を置いたんだ。俺から離れれば、狙われる可能性は下がるからな」
 判ってる。
 理解したから、私は黙って、離れる事を受け入れたのだ。
「疎遠にしてみた所で、お前の事が頭から離れる事はなかった。戦地にいる間、お前の平穏な日々を守る為だ、と剣を振るった。王都に戻る事になって、お前の幸せを確認する為だ、とランドンに招待状を送った」
 ダリウス様は、苦笑した。
「ミカエラは、俺を変えてくれたから。ミカエラは、あに様と慕ってくれたから。ミカエラは、可愛い妹分だから…。そう、ずっと自分に言い訳して来た。…怖かったんだ。もしも、妹じゃない、と気づいてしまったら、この関係が崩れてしまう。俺は兄貴分だから、と、大手を振って隣に立つ権利を失ってしまう。でもな、どんな縁談が来たって、思うんだ。『ミカエラなら、こんな事は言わない』『ミカエラなら、こんな事はしない』。誰と会話をしても、上辺だけで心に響くものが何もない。誰にも、興味を持てない。そんな気持ちで、縁談なんか考えられる筈もない」
 ダリウス様の左手がそっと伸ばされて、向かいの座席に座る私の右こめかみの辺りを撫でる。
 そこには、薄い傷跡が、残っている。
「本当に、鈍いな、俺は。他人に興味を持てないわけじゃない。七歳のあの日、初めて会った時から、俺はお前が好きだったんだ。お前以外に、全く興味を持てない程に。妹なんかじゃ、なかった。俺は、兄貴になれなかった」
 すり、と、こめかみを撫でた手が、頬を包み込んだ。

「ミカエラ。ずっとずっと、お前が好きだった。お前だけを、愛している。だから、俺の隣に、いて欲しい」

 真っ直ぐな目で、私を見つめるダリウス様。
 私は、息も出来ずにただ、彼の顔を見つめ返した。
「…それ、って…どう、言う意味?」
 隣に、って、それは。
 それは、園遊会の時だけ、と言う意味ではなくて?
「結婚してくれ」
 世界中から、音が消えた。
 ミカの記憶を含めれば三度目の求婚だけれど、心臓が破裂しそうな程にドキドキして、どれだけ口を開いても空気が入って来ないのは、初めての経験だった。
「で、も、」
「俺はもう、誰かにお前の幸せを託そうとは思わない。俺の手で、お前と共に幸せになる。お前が幸せなら、誰と添うてもいいだなんて、もう思えない」
「だけど、」
「『でも』も『だけど』もなしだ。ミカエラ。返事は、『はい』か『いいえ』しかない。…出来れば、『はい』と言ってくれ」
 少しだけ、自信なさそうに。
 大きな体のダリウス様が、窺うように私を見つめている。
「…ミカエラ?」
 ねだるように言うと、もう一度、頬を撫でる。
「……はい」
 答えた瞬間、涙が溢れた。
 ダリウス様への想いが胸一杯に詰まって、零れ落ちるように涙へと変わっていく。
「私も…私も、大好き…」
 ダリウス様の手が、私の両肩に伸びたかと思うと、ぐいっと抱き寄せられた。
 白い騎士服の胸に涙でぐちゃぐちゃの顔を押し付けられて、溢れた先から吸い取られていく。
「…お前に泣かれるのには、弱かった筈だが…」
 耳元で、低い声が囁いた。
「俺への想いで泣いてくれるのは、存外、嬉しいものだな」
「なに、それ…」
 大きな手が、何度も何度も、髪を撫でる。
 その心地良さに、体の力を抜いてダリウス様の胸に凭れかかると、くす、と笑い声が聞こえた。
「…あぁ、やはり、お前は可愛いな」
 そっと額に押し当てられた熱は、何処か懐かしいものだった。
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