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自由時間のエディスが、ポチの顔を見よう、と前庭に出た所で。
「……っ」
微かな声が聞こえて来て、耳を澄ました。
どうやら、女性の泣き声のようで、慌てて声の出所を探す。
ない、とは思うけれど、ここは兵営、男所帯。
女性が乱暴されていないか、と、咄嗟に考えてしまったのだ。
探し出した泣き声の主は、大きな木の陰で、蹲って声を殺して泣いていた。
見た所、年齢は十代後半。
日除けのボンネットに、旅装用の体を締め付けないドレスは、街娘が着る物よりも上等だが、高位令嬢には見えない。
恐らく、下位貴族のご令嬢だろう。
エディスは素早く視線を走らせて、彼女の服装に乱れがない事、殴られたような痕がない事を確認する。
「どうされましたか?」
エディスが声を掛けると、ご令嬢は、びくり、と、肩を竦ませた。
「あぁ、失礼。驚かせましたね。私は、エディス・ラングリード。東域騎士団の所属です」
怪しい者ではありませんよ、と言う主張と同時に、西域騎士団の人間ではありませんから、何か聞いたとしても、大きな問題にはしませんよ、とも主張しておく。
通りすがりのお節介ですよ。
にこ、と、東域のご令嬢が見惚れる笑みを浮かべた事で、泣いていたご令嬢の頬が、うっすらと赤く染まった。
エディスに自覚はないけれど、見た目だけで言えば、見目麗しい騎士様なのだ。
「あぁ、目を擦ってはいけません。今、濡らした布をお持ちしましょう。兎の目は、貴方にはお似合いになりませんよ」
そう言いながら、彼女の気を軽くしようとお道化たようにウィンクしてみせると、ご令嬢の頬が真っ赤に熟れる。
ジェレマイアが見ていたら、また、無自覚に誑し込んでる…と、溜息を吐いた事だろう。
エディスが、冷たい井戸水で濡らしたハンカチを持って戻ると、ご令嬢は所在なさ気な顔で、大木に背を預けていた。
人目につかないように、騎士達が鍛錬に使うのとは違う裏庭に誘い、ベンチを勧める。
ご令嬢は謝意を述べて、ハンカチを受け取り、赤くなった目元に当てた。
そのまま暫く、エディスは彼女から少し離れた場所で周囲を見張るように立ち、落ち着くのを静かに待つ。
「本当に…有難う、ございました…あの、ご迷惑をお掛けして…」
「いえ、全く、迷惑などではありませんよ。深淵の森と対峙する騎士の任務は、魔獣の討伐ですが、同時に、女性を守れなくては、騎士とは名乗れません」
エディスの言葉に、ご令嬢は、ほ、と肩の力を抜く。
「ご挨拶もせずに、失礼致しました…わたくしは、王都の近くにある所領をお預かりしております、シレーニョ子爵家の娘、エリナと申します。こちらには…婚約者様にお会いしたくて、参りました」
王都の近くから、馬車を利用したとすれば、片道およそ一週間。
まだ若いご令嬢には、厳しい道のりだった筈だ。
「婚約者殿、ですか」
「はい…テイルス子爵家のご子息、スフェン様です」
スフェン・テイルスの名に、エディスは覚えがあった。
現在、騎士二年目。
エディスが主に訓練をつけている新人騎士よりは、経験値が勝るが、エディスからすれば、どんぐりの背比べ。
ただ、己に驕る事なく、真面目に訓練にも討伐にも取り組んでいる若者だったように思う。
「私が伺っていいものか判りませんが…スフェンには、お会いになれたのですか?」
さり気なく、スフェンとは面識がある、先輩です、とのニュアンスを覗かせると、エリナはまた目を潤ませて、こくりと頷いた。
「スフェン様とは、騎士団に入団される事が決まった後、父を通じて婚約を結びました。以来、お手紙を通じて、交流を温めて来たつもり…なのです。ですが、四ヶ月程前から、お手紙が滞っていて…。余り、わたくしからお手紙を出しても、ご迷惑かもしれませんし、ですが、お手紙を頂かないと、ご、ご無事なのか、どうか、も…っ」
エリナの瞳から、とうとう涙が零れ落ちた。
四ヶ月前。
恐らく、地竜が目覚めて、西域騎士団全体が緊張に包まれていた頃だ。
スフェンはまだ、若手騎士。
毎日を生き延びるのに必死だったのだろう、と、エディスは考える。
だが、それとこれとは別の話。
婚約者を必要以上に心配させては、いけない。
「お手紙を出しても…お返事がございません、し…なので、わたくし、居ても立ってもいられずに、先触れのお手紙だけ出して、お返事も聞かずにこちらを訪れてしまったのです…」
もしかすると、手紙も出せないような危険な状態なのかもしれない、と不安になって。
兵営に辿り着き、立哨の騎士に呼び出して貰った所、スフェンは自分の足で歩いて現れた。
見た様子では、大きな怪我を負ったようでもなく、ホッとしたのに。
スフェンは、エリナの顔を見ても、喜ばなかった。
眉を顰めて、早く帰れ、と言ったのだ、と言う。
何かあったら、実家に連絡が行くし、実家からシレーニョ家に連絡が行く。
だから、手紙を出せずとも、案じなくていい、と、言い捨てて、背を向けられた。
「わ…わたくし…ご迷惑、だったみたいで…よい、関係を築けている、と、思っていたのですが…お、お慕いして、いるのは、わたくし、だけ、で…」
エリナの瞳から、大粒の涙が流れる。
エリナは、ぽつりぽつりと、スフェンとの出会いから、これまでの出来事を話してくれた。
手紙が滞るまでは、結婚の時期について、互いに心待ちにしながら話し合っていたのに、と涙を零すエリナ。
式には大切な人達を呼ぼう、ドレスのデザインは一緒に決めよう、結婚記念の装飾品は何がいい?――。
なのに。
何の言葉もないままに、帰れ、と言われてしまった。
大怪我を負ったのでは、と思った時には、生きた心地がしなかった。
けれど、もしも、彼が騎士を辞めざるを得ない状況ならば、支えていくつもりだった。
馬車の中でずっと、その事ばかり考えていたのに、彼に、突き放された――…。
エディスは、エリナを痛ましく思うと同時に、スフェンの心情もまた、理解が出来ていた。
スフェンは恐らく、地竜の一件を通じて、騎士が本当に危険な職なのだと言う事を、自覚したのだ。
頭では、死の危険と隣り合わせだと言う事は、判っていた筈だ。
けれど、初めて、真に迫って理解した彼は、エリナの事を考えたのだろう。
このまま、何事もなく結婚に至ったとして。
ある日、魔獣討伐で命を落したら、エリナはどうなるのか。
これ以上、心を寄せない方がいいのではないか。
寧ろ、冷たい婚約者だと思われて、婚約解消した方がいいのでは。
スフェンだけではない。
エディスが長年、騎士団で面倒を見て来た新人騎士達が、婚約後、命の危機に面した後に、陥る事が多い状況だった。
「なるほど…」
エディスは、エリナの言葉を受け止めると、少し困ったように笑った。
「私は、エリナ様のお気持ちも、スフェンの気持ちも、どちらも理解出来ます。お二人は、落ち着いて話し合う時間が必要なようですね」
「あ、の…?では、スフェン様は…わたくしの事を、お嫌いになったのでは…」
「…その言葉は、スフェンの口からお聞きになった方がよろしいでしょう。私に、彼の気持ちを決めつける事は出来ません」
「あ…はい、そうですわね」
エリナは、ぐ、と手にしたハンカチを握りしめると、こくん、と一つ頷いた。
出会いが泣き顔だったから、か弱いご令嬢かと思っていたが、意外に気丈な性質のようだ。
「エリナ様、折角、西域騎士団までおいでになったのです。私でよろしければ、兵営をご案内致しましょう」
「あの…よろしいのですか?こちらは、その…お仕事なさる場でしょう?」
「大丈夫ですよ。機密に当たる部分にはお連れ出来ませんが、こちらには、騎士となった者のご家族やご婚約者が訪れる事も儘あります。一般見学コース、のようなものがあるのです」
「そうなのですね」
涙が止まったエリナの顔から、赤みが薄れたのを確認し、エディスは立ち上がる。
「お手をどうぞ」
東域のご令嬢にするように、恭しくエスコートの手を差し伸べると、エリナは一瞬躊躇った後、はにかんで手を重ねた。
エディスが女性を伴い、兵営を案内している。
そんな目撃談は、あっと言う間に兵営中を駆け巡った。
何しろ、相手はエディス。
ラングリードのおっかさんであり、最近では、西域若手騎士のおっかさんとなりつつある、あのエディスだ。
食事内容の管理から、取れかけたボタン付けまで、何でも相談に乗ってくれる。
「エディス様の婚約者かな?」
「いや、でも、ハンカチをくれるような人はいない、って苦笑されてただろ?」
「そんなわけないと思うんだよな~。ウォルト様達が既婚者なのに、エディス様が結婚出来ないわけないだろ」
「訓練の時は、何かがブワッて出ててめっちゃ怖いけど、実は優しいしな。あれでモテないわけがない」
「え、じゃあ、隠してるって事?」
「んー、でも、エディス様って、絶対、嘘とか吐かないタイプだろ」
「…取り敢えず、さり気ない振りして、見に行ってみようぜ」
兵営の一般見学コースなら、誰もが熟知している。
家族が訪れた時に案内する事もあるし、そもそも、入団前に自分達も案内された。
魔獣を相手に深淵の森周辺で戦う騎士に、方向感覚は必須なのだ。
そうして、兵営のあちらこちらに、何気ない素振りでうろうろする集団が幾つか形成された。
そんな中の一つに、エリナの婚約者であるスフェンもいたのである。
「おい、スフェン。エディス様の婚約者、見たくねぇのかよ?」
「ん…」
同室の友人に引っ張り出されるがままに着いて来たが、スフェンの頭の中は今、それどころではない。
エリナ・シレーニョ。
スフェンの婚約者の事で、頭が一杯なのだ。
スフェンは、テイルス子爵家の次男として生まれた。
子供がなかなか生まれないサンクリアーニ王国の貴族において、二人目の子供を授かった両親は大喜びしたが、当の本人としては、将来について悩んだ時期があった。
このまま行けば、家は兄が継ぐ。
なら、スフェンに出来る事は、一人娘しかいない貴族家に婿入りするか、騎士となるか。
婿入りを望む家は少なくないが、爵位が上の者から決まっていくのが自然な流れである事を考えると、子爵家のスフェンが端から当てにしていいものではない。
騎士となって身を立てよう、と決心して励み、無事に入団試験に合格した時、父に紹介されたのが、エリナだった。
エリナは、シレーニョ子爵家の一人娘。
婿入り出来る男児を探していたシレーニョ子爵と、次男の行く末を心配した父が意気投合した結果、結ばれた縁談だった。
出鼻を挫かれた、と思ったのは、確かだ。
騎士爵は一代のみ。子に継げる爵位ではない。
だから、生涯、結婚しない事も考えていた。
テイルス家の縁戚に騎士はいないが、魔獣が恐ろしい存在である事は知っている。
騎士は、死と隣り合わせ。
そのような仕事を目指すのだから、結婚する余裕があるとも思えなかった。
なのに。
父は、嬉しそうな顔で、
「お前の結婚相手を見つけて来たぞ!婿入りが希望だが、なぁに、一家の当主になれるのなら、構わんだろう?別に、婿に行ったからと言って、お前との縁を切らねばならんわけでなし」
と言ったのだ。
父の事は、好きだ。
だから、父が自分の事を案じた結果の縁談を、会いもせずに蹴る事も出来なかった。
だから、父の顔を立てるつもりで、エリナに会い…恋に落ちた。
エリナは、可愛らしかった。
高位貴族令嬢のように洗練された美貌とは言えないが、野花の素朴な愛らしさがあった。
傍にいて、ホッと落ち着ける温かな空気に、柔らかな笑み。
騎士になる為の鍛錬に夢中で、恋の一つもして来なかったスフェンに、エリナは眩しかった。
エリナもまた、スフェンを憎からず思ってくれている事が、まめに送ってくれる手紙から伝わる。
スフェンの身を案じ、お守りを作る姿は健気で、早く結婚したい、家族になりたい、と思っていた。
だが。
地竜の出現が、スフェンの考えを乱す。
頭では、判っていたつもりだった。
魔獣は危険だ。魔獣を討伐する騎士も、当然、危険だ。
けれど、目の前で地竜に弾き飛ばされ、骨を折り、肉を抉られた友人達を見て、怖気を震った。
もしも、ここで自分が大怪我をして、二度と剣を手に取れなくなったら?
もしも、ここで自分が死んだら?
エリナは、どうなる?
いや、寧ろ、亡くなった方が次に進みやすい。
最悪なのは、命はあっても何も出来ない状態になる事だ。
まだ、何も始まっていないのに、エリナに負担だけを強いる事になりはしないか。
エリナの負担になりたくない。
エリナに…嫌われたくない。
その考えに囚われる余り、エリナから届く手紙に、返事が書けなくなった。
心配した彼女が、一週間もの道程を経て会いに来てくれたと言うのに、冷たい言葉しか掛けられなかった。
本当は、会いに来てくれると知って、とても嬉しかったのに。
きっとエリナは、ショックを受けただろう。
自宅に戻ったら、婚約解消を申し出る筈だ。
久し振りに、顔が見れたのに。
あの愛らしい顔に、涙が浮かんだのが、最後の記憶だなんて。
沈んだ気持ちで、ただ友人の背中を追っていたスフェンは、囃すような声に顔を上げた。
友人の示す先に、エリナが、いた。
彼女よりも頭一つ背の高い黒髪の騎士の腕に、そっと手を添え、頬を染めて柔らかく笑っている。
エディスだ。
スフェンは余り会話した事はないが、バシリスク討伐の様子を、遠くから見ていた。
あのような騎士になりたいと、思っていた。
「あ…」
頭を殴られたような、衝撃。
諦めた振りをして、本当は欠片も諦められていなかった事に気が付く。
エディスがエリナに何か言うと、エリナは思案気な顔をして、大きく頷いた。
その様子を、微笑んで見守るエディス。
カッと頭に血が上る。
エディスの事は、尊敬していた。
けれど、それとこれとは別だ。
「…あっ」
兵営に不似合いな女性の声に、顔を上げると、エリナがこちらに駆け寄って来る所だった。
「スフェン様、あの、お話が…!」
まさか、このまま、婚約解消が告げられるのか。
びくり、と、思わず肩が竦む。
自分でそう仕向けた筈なのに、何の覚悟も出来ていない。
「…今、忙しいから」
逃げているのは、判っている。
情けなくて仕方ない。
「ほぅ。じゃあ、俺が休憩を与える。スフェン・テイルス、今直ぐ、そのご令嬢と話し合って来い」
冷え切った声で名を呼ばれて、スフェンは慌てて顔を上げる。
ジェレマイアが、エディスの肩に手を置いて、何故かこちらを睨みつけていた。
これは、目を逸らしたら殺される…!
「…副団長…」
「いつまで、お前の婚約者のお守りをさせるつもりだ?遠路遥々、会いに来たのだろう?早い所、話し合え。エディスには、俺の先約がある」
「…ジェレマイア。私は今、休憩時間の筈では…?」
エディスは休暇中だから、新人訓練は行っていないけれど、ジェレマイアに付き合って、書類整理だけはしている。
午後の書類整理まで、時間があると思ったから、エリナを案内していたのだが。
「休憩時間だな」
「なら、私が何処で誰と何をしてようと、構わないじゃないですか」
「いや、よくない。貴方は直ぐに、誰かしらを誑し込む」
「…人聞きの悪い…ただのお節介ですよ」
「そのお節介の結果、貴方に心酔する者が増えるんだろ」
ジェレマイアが、口の中でボソボソと呟いた言葉は、エディスには聞こえない。
頑ななジェレマイアに溜息を吐くと、エディスはエリナとスフェンに向かって、
「まぁ、でも、話し合いは大事だよ。応接室を用意するから、お互いにちゃんと思った事を言うべきだ」
と言った。
逃げられない、と悟ったスフェンが頷く。
いや、エリナを手離したくないと言う本音に気づいた以上、逃げてはいけない。
きちんと、今の気持ちを、伝えなくては。
その結果、エリナがどう判断しようと。
ジェレマイアに着いて来たリックが、二人を応接室まで連れて行く。
その背を見送って、ジェレマイアは呆れたようにエディスに向き合った。
「本当に、他人を放っておけない性質なんだな」
「否定は出来ません」
「詳しい事は判らんが…よくある話じゃないのか?無理矢理修復したとしても、相手を信頼出来ない関係など、直ぐに破綻する」
「そうですね。でも、話を聞く限り、互いに想い合った結果、すれ違っているだけですから。騎士にとって、心通わせる配偶者がいる、と言うのは大切な事です。同じだけの強さで想い合える人と出会ったのであれば、その縁を大切にして欲しい、と思うのは当然でしょう?」
「…配偶者は大事、か?」
「大事ですよ。待っている人がいると思うからこそ、生きて帰ろうと言う気持ちがより強くなる。始まりは、何だっていいんです。きっかけが、父親同士が交わした婚約だとしても、そこから二人の気持ちが重なり合っていくのなら、それでいい。ちゃんと家族になれます。まぁ、あの二人に関して言えば、スフェンは言葉足らずですけどね。此処はやはり、男性側からきちんと、伝えなくては。女性から行動するのは、はしたない、と言う風潮はまだまだ根強いですから」
ジェレマイアは、まじまじとエディスの顔を見て、
「なるほどな…」
と、小さく言った。
エディスは、その顔を見て、ピン、と来る。
これは、もう一押ししておけば、結婚へと意識が向かうのではないだろうか?
「ジェレマイアには、『生きて再び会いたい』と想う人はいませんか?」
「あぁ…うん…確かに…」
そのまま、何かを考え込む様子のジェレマイアに、エディスは心の中で快哉を叫ぶ。
具体的に頼まれたわけではないが、恐らくは、エディスが此処に呼ばれた理由は、ジェレマイアに結婚を前向きに考えさせる為なのだろうから。
ジェレマイアの執務机に高々と積まれた身上書。
その中に、彼の将来の伴侶がいるのだろうか。
胸が、ちくん、と痛んだ気がして、エディスは首を傾げる。
彼が幸せなら、それでいい筈なのに。
「……っ」
微かな声が聞こえて来て、耳を澄ました。
どうやら、女性の泣き声のようで、慌てて声の出所を探す。
ない、とは思うけれど、ここは兵営、男所帯。
女性が乱暴されていないか、と、咄嗟に考えてしまったのだ。
探し出した泣き声の主は、大きな木の陰で、蹲って声を殺して泣いていた。
見た所、年齢は十代後半。
日除けのボンネットに、旅装用の体を締め付けないドレスは、街娘が着る物よりも上等だが、高位令嬢には見えない。
恐らく、下位貴族のご令嬢だろう。
エディスは素早く視線を走らせて、彼女の服装に乱れがない事、殴られたような痕がない事を確認する。
「どうされましたか?」
エディスが声を掛けると、ご令嬢は、びくり、と、肩を竦ませた。
「あぁ、失礼。驚かせましたね。私は、エディス・ラングリード。東域騎士団の所属です」
怪しい者ではありませんよ、と言う主張と同時に、西域騎士団の人間ではありませんから、何か聞いたとしても、大きな問題にはしませんよ、とも主張しておく。
通りすがりのお節介ですよ。
にこ、と、東域のご令嬢が見惚れる笑みを浮かべた事で、泣いていたご令嬢の頬が、うっすらと赤く染まった。
エディスに自覚はないけれど、見た目だけで言えば、見目麗しい騎士様なのだ。
「あぁ、目を擦ってはいけません。今、濡らした布をお持ちしましょう。兎の目は、貴方にはお似合いになりませんよ」
そう言いながら、彼女の気を軽くしようとお道化たようにウィンクしてみせると、ご令嬢の頬が真っ赤に熟れる。
ジェレマイアが見ていたら、また、無自覚に誑し込んでる…と、溜息を吐いた事だろう。
エディスが、冷たい井戸水で濡らしたハンカチを持って戻ると、ご令嬢は所在なさ気な顔で、大木に背を預けていた。
人目につかないように、騎士達が鍛錬に使うのとは違う裏庭に誘い、ベンチを勧める。
ご令嬢は謝意を述べて、ハンカチを受け取り、赤くなった目元に当てた。
そのまま暫く、エディスは彼女から少し離れた場所で周囲を見張るように立ち、落ち着くのを静かに待つ。
「本当に…有難う、ございました…あの、ご迷惑をお掛けして…」
「いえ、全く、迷惑などではありませんよ。深淵の森と対峙する騎士の任務は、魔獣の討伐ですが、同時に、女性を守れなくては、騎士とは名乗れません」
エディスの言葉に、ご令嬢は、ほ、と肩の力を抜く。
「ご挨拶もせずに、失礼致しました…わたくしは、王都の近くにある所領をお預かりしております、シレーニョ子爵家の娘、エリナと申します。こちらには…婚約者様にお会いしたくて、参りました」
王都の近くから、馬車を利用したとすれば、片道およそ一週間。
まだ若いご令嬢には、厳しい道のりだった筈だ。
「婚約者殿、ですか」
「はい…テイルス子爵家のご子息、スフェン様です」
スフェン・テイルスの名に、エディスは覚えがあった。
現在、騎士二年目。
エディスが主に訓練をつけている新人騎士よりは、経験値が勝るが、エディスからすれば、どんぐりの背比べ。
ただ、己に驕る事なく、真面目に訓練にも討伐にも取り組んでいる若者だったように思う。
「私が伺っていいものか判りませんが…スフェンには、お会いになれたのですか?」
さり気なく、スフェンとは面識がある、先輩です、とのニュアンスを覗かせると、エリナはまた目を潤ませて、こくりと頷いた。
「スフェン様とは、騎士団に入団される事が決まった後、父を通じて婚約を結びました。以来、お手紙を通じて、交流を温めて来たつもり…なのです。ですが、四ヶ月程前から、お手紙が滞っていて…。余り、わたくしからお手紙を出しても、ご迷惑かもしれませんし、ですが、お手紙を頂かないと、ご、ご無事なのか、どうか、も…っ」
エリナの瞳から、とうとう涙が零れ落ちた。
四ヶ月前。
恐らく、地竜が目覚めて、西域騎士団全体が緊張に包まれていた頃だ。
スフェンはまだ、若手騎士。
毎日を生き延びるのに必死だったのだろう、と、エディスは考える。
だが、それとこれとは別の話。
婚約者を必要以上に心配させては、いけない。
「お手紙を出しても…お返事がございません、し…なので、わたくし、居ても立ってもいられずに、先触れのお手紙だけ出して、お返事も聞かずにこちらを訪れてしまったのです…」
もしかすると、手紙も出せないような危険な状態なのかもしれない、と不安になって。
兵営に辿り着き、立哨の騎士に呼び出して貰った所、スフェンは自分の足で歩いて現れた。
見た様子では、大きな怪我を負ったようでもなく、ホッとしたのに。
スフェンは、エリナの顔を見ても、喜ばなかった。
眉を顰めて、早く帰れ、と言ったのだ、と言う。
何かあったら、実家に連絡が行くし、実家からシレーニョ家に連絡が行く。
だから、手紙を出せずとも、案じなくていい、と、言い捨てて、背を向けられた。
「わ…わたくし…ご迷惑、だったみたいで…よい、関係を築けている、と、思っていたのですが…お、お慕いして、いるのは、わたくし、だけ、で…」
エリナの瞳から、大粒の涙が流れる。
エリナは、ぽつりぽつりと、スフェンとの出会いから、これまでの出来事を話してくれた。
手紙が滞るまでは、結婚の時期について、互いに心待ちにしながら話し合っていたのに、と涙を零すエリナ。
式には大切な人達を呼ぼう、ドレスのデザインは一緒に決めよう、結婚記念の装飾品は何がいい?――。
なのに。
何の言葉もないままに、帰れ、と言われてしまった。
大怪我を負ったのでは、と思った時には、生きた心地がしなかった。
けれど、もしも、彼が騎士を辞めざるを得ない状況ならば、支えていくつもりだった。
馬車の中でずっと、その事ばかり考えていたのに、彼に、突き放された――…。
エディスは、エリナを痛ましく思うと同時に、スフェンの心情もまた、理解が出来ていた。
スフェンは恐らく、地竜の一件を通じて、騎士が本当に危険な職なのだと言う事を、自覚したのだ。
頭では、死の危険と隣り合わせだと言う事は、判っていた筈だ。
けれど、初めて、真に迫って理解した彼は、エリナの事を考えたのだろう。
このまま、何事もなく結婚に至ったとして。
ある日、魔獣討伐で命を落したら、エリナはどうなるのか。
これ以上、心を寄せない方がいいのではないか。
寧ろ、冷たい婚約者だと思われて、婚約解消した方がいいのでは。
スフェンだけではない。
エディスが長年、騎士団で面倒を見て来た新人騎士達が、婚約後、命の危機に面した後に、陥る事が多い状況だった。
「なるほど…」
エディスは、エリナの言葉を受け止めると、少し困ったように笑った。
「私は、エリナ様のお気持ちも、スフェンの気持ちも、どちらも理解出来ます。お二人は、落ち着いて話し合う時間が必要なようですね」
「あ、の…?では、スフェン様は…わたくしの事を、お嫌いになったのでは…」
「…その言葉は、スフェンの口からお聞きになった方がよろしいでしょう。私に、彼の気持ちを決めつける事は出来ません」
「あ…はい、そうですわね」
エリナは、ぐ、と手にしたハンカチを握りしめると、こくん、と一つ頷いた。
出会いが泣き顔だったから、か弱いご令嬢かと思っていたが、意外に気丈な性質のようだ。
「エリナ様、折角、西域騎士団までおいでになったのです。私でよろしければ、兵営をご案内致しましょう」
「あの…よろしいのですか?こちらは、その…お仕事なさる場でしょう?」
「大丈夫ですよ。機密に当たる部分にはお連れ出来ませんが、こちらには、騎士となった者のご家族やご婚約者が訪れる事も儘あります。一般見学コース、のようなものがあるのです」
「そうなのですね」
涙が止まったエリナの顔から、赤みが薄れたのを確認し、エディスは立ち上がる。
「お手をどうぞ」
東域のご令嬢にするように、恭しくエスコートの手を差し伸べると、エリナは一瞬躊躇った後、はにかんで手を重ねた。
エディスが女性を伴い、兵営を案内している。
そんな目撃談は、あっと言う間に兵営中を駆け巡った。
何しろ、相手はエディス。
ラングリードのおっかさんであり、最近では、西域若手騎士のおっかさんとなりつつある、あのエディスだ。
食事内容の管理から、取れかけたボタン付けまで、何でも相談に乗ってくれる。
「エディス様の婚約者かな?」
「いや、でも、ハンカチをくれるような人はいない、って苦笑されてただろ?」
「そんなわけないと思うんだよな~。ウォルト様達が既婚者なのに、エディス様が結婚出来ないわけないだろ」
「訓練の時は、何かがブワッて出ててめっちゃ怖いけど、実は優しいしな。あれでモテないわけがない」
「え、じゃあ、隠してるって事?」
「んー、でも、エディス様って、絶対、嘘とか吐かないタイプだろ」
「…取り敢えず、さり気ない振りして、見に行ってみようぜ」
兵営の一般見学コースなら、誰もが熟知している。
家族が訪れた時に案内する事もあるし、そもそも、入団前に自分達も案内された。
魔獣を相手に深淵の森周辺で戦う騎士に、方向感覚は必須なのだ。
そうして、兵営のあちらこちらに、何気ない素振りでうろうろする集団が幾つか形成された。
そんな中の一つに、エリナの婚約者であるスフェンもいたのである。
「おい、スフェン。エディス様の婚約者、見たくねぇのかよ?」
「ん…」
同室の友人に引っ張り出されるがままに着いて来たが、スフェンの頭の中は今、それどころではない。
エリナ・シレーニョ。
スフェンの婚約者の事で、頭が一杯なのだ。
スフェンは、テイルス子爵家の次男として生まれた。
子供がなかなか生まれないサンクリアーニ王国の貴族において、二人目の子供を授かった両親は大喜びしたが、当の本人としては、将来について悩んだ時期があった。
このまま行けば、家は兄が継ぐ。
なら、スフェンに出来る事は、一人娘しかいない貴族家に婿入りするか、騎士となるか。
婿入りを望む家は少なくないが、爵位が上の者から決まっていくのが自然な流れである事を考えると、子爵家のスフェンが端から当てにしていいものではない。
騎士となって身を立てよう、と決心して励み、無事に入団試験に合格した時、父に紹介されたのが、エリナだった。
エリナは、シレーニョ子爵家の一人娘。
婿入り出来る男児を探していたシレーニョ子爵と、次男の行く末を心配した父が意気投合した結果、結ばれた縁談だった。
出鼻を挫かれた、と思ったのは、確かだ。
騎士爵は一代のみ。子に継げる爵位ではない。
だから、生涯、結婚しない事も考えていた。
テイルス家の縁戚に騎士はいないが、魔獣が恐ろしい存在である事は知っている。
騎士は、死と隣り合わせ。
そのような仕事を目指すのだから、結婚する余裕があるとも思えなかった。
なのに。
父は、嬉しそうな顔で、
「お前の結婚相手を見つけて来たぞ!婿入りが希望だが、なぁに、一家の当主になれるのなら、構わんだろう?別に、婿に行ったからと言って、お前との縁を切らねばならんわけでなし」
と言ったのだ。
父の事は、好きだ。
だから、父が自分の事を案じた結果の縁談を、会いもせずに蹴る事も出来なかった。
だから、父の顔を立てるつもりで、エリナに会い…恋に落ちた。
エリナは、可愛らしかった。
高位貴族令嬢のように洗練された美貌とは言えないが、野花の素朴な愛らしさがあった。
傍にいて、ホッと落ち着ける温かな空気に、柔らかな笑み。
騎士になる為の鍛錬に夢中で、恋の一つもして来なかったスフェンに、エリナは眩しかった。
エリナもまた、スフェンを憎からず思ってくれている事が、まめに送ってくれる手紙から伝わる。
スフェンの身を案じ、お守りを作る姿は健気で、早く結婚したい、家族になりたい、と思っていた。
だが。
地竜の出現が、スフェンの考えを乱す。
頭では、判っていたつもりだった。
魔獣は危険だ。魔獣を討伐する騎士も、当然、危険だ。
けれど、目の前で地竜に弾き飛ばされ、骨を折り、肉を抉られた友人達を見て、怖気を震った。
もしも、ここで自分が大怪我をして、二度と剣を手に取れなくなったら?
もしも、ここで自分が死んだら?
エリナは、どうなる?
いや、寧ろ、亡くなった方が次に進みやすい。
最悪なのは、命はあっても何も出来ない状態になる事だ。
まだ、何も始まっていないのに、エリナに負担だけを強いる事になりはしないか。
エリナの負担になりたくない。
エリナに…嫌われたくない。
その考えに囚われる余り、エリナから届く手紙に、返事が書けなくなった。
心配した彼女が、一週間もの道程を経て会いに来てくれたと言うのに、冷たい言葉しか掛けられなかった。
本当は、会いに来てくれると知って、とても嬉しかったのに。
きっとエリナは、ショックを受けただろう。
自宅に戻ったら、婚約解消を申し出る筈だ。
久し振りに、顔が見れたのに。
あの愛らしい顔に、涙が浮かんだのが、最後の記憶だなんて。
沈んだ気持ちで、ただ友人の背中を追っていたスフェンは、囃すような声に顔を上げた。
友人の示す先に、エリナが、いた。
彼女よりも頭一つ背の高い黒髪の騎士の腕に、そっと手を添え、頬を染めて柔らかく笑っている。
エディスだ。
スフェンは余り会話した事はないが、バシリスク討伐の様子を、遠くから見ていた。
あのような騎士になりたいと、思っていた。
「あ…」
頭を殴られたような、衝撃。
諦めた振りをして、本当は欠片も諦められていなかった事に気が付く。
エディスがエリナに何か言うと、エリナは思案気な顔をして、大きく頷いた。
その様子を、微笑んで見守るエディス。
カッと頭に血が上る。
エディスの事は、尊敬していた。
けれど、それとこれとは別だ。
「…あっ」
兵営に不似合いな女性の声に、顔を上げると、エリナがこちらに駆け寄って来る所だった。
「スフェン様、あの、お話が…!」
まさか、このまま、婚約解消が告げられるのか。
びくり、と、思わず肩が竦む。
自分でそう仕向けた筈なのに、何の覚悟も出来ていない。
「…今、忙しいから」
逃げているのは、判っている。
情けなくて仕方ない。
「ほぅ。じゃあ、俺が休憩を与える。スフェン・テイルス、今直ぐ、そのご令嬢と話し合って来い」
冷え切った声で名を呼ばれて、スフェンは慌てて顔を上げる。
ジェレマイアが、エディスの肩に手を置いて、何故かこちらを睨みつけていた。
これは、目を逸らしたら殺される…!
「…副団長…」
「いつまで、お前の婚約者のお守りをさせるつもりだ?遠路遥々、会いに来たのだろう?早い所、話し合え。エディスには、俺の先約がある」
「…ジェレマイア。私は今、休憩時間の筈では…?」
エディスは休暇中だから、新人訓練は行っていないけれど、ジェレマイアに付き合って、書類整理だけはしている。
午後の書類整理まで、時間があると思ったから、エリナを案内していたのだが。
「休憩時間だな」
「なら、私が何処で誰と何をしてようと、構わないじゃないですか」
「いや、よくない。貴方は直ぐに、誰かしらを誑し込む」
「…人聞きの悪い…ただのお節介ですよ」
「そのお節介の結果、貴方に心酔する者が増えるんだろ」
ジェレマイアが、口の中でボソボソと呟いた言葉は、エディスには聞こえない。
頑ななジェレマイアに溜息を吐くと、エディスはエリナとスフェンに向かって、
「まぁ、でも、話し合いは大事だよ。応接室を用意するから、お互いにちゃんと思った事を言うべきだ」
と言った。
逃げられない、と悟ったスフェンが頷く。
いや、エリナを手離したくないと言う本音に気づいた以上、逃げてはいけない。
きちんと、今の気持ちを、伝えなくては。
その結果、エリナがどう判断しようと。
ジェレマイアに着いて来たリックが、二人を応接室まで連れて行く。
その背を見送って、ジェレマイアは呆れたようにエディスに向き合った。
「本当に、他人を放っておけない性質なんだな」
「否定は出来ません」
「詳しい事は判らんが…よくある話じゃないのか?無理矢理修復したとしても、相手を信頼出来ない関係など、直ぐに破綻する」
「そうですね。でも、話を聞く限り、互いに想い合った結果、すれ違っているだけですから。騎士にとって、心通わせる配偶者がいる、と言うのは大切な事です。同じだけの強さで想い合える人と出会ったのであれば、その縁を大切にして欲しい、と思うのは当然でしょう?」
「…配偶者は大事、か?」
「大事ですよ。待っている人がいると思うからこそ、生きて帰ろうと言う気持ちがより強くなる。始まりは、何だっていいんです。きっかけが、父親同士が交わした婚約だとしても、そこから二人の気持ちが重なり合っていくのなら、それでいい。ちゃんと家族になれます。まぁ、あの二人に関して言えば、スフェンは言葉足らずですけどね。此処はやはり、男性側からきちんと、伝えなくては。女性から行動するのは、はしたない、と言う風潮はまだまだ根強いですから」
ジェレマイアは、まじまじとエディスの顔を見て、
「なるほどな…」
と、小さく言った。
エディスは、その顔を見て、ピン、と来る。
これは、もう一押ししておけば、結婚へと意識が向かうのではないだろうか?
「ジェレマイアには、『生きて再び会いたい』と想う人はいませんか?」
「あぁ…うん…確かに…」
そのまま、何かを考え込む様子のジェレマイアに、エディスは心の中で快哉を叫ぶ。
具体的に頼まれたわけではないが、恐らくは、エディスが此処に呼ばれた理由は、ジェレマイアに結婚を前向きに考えさせる為なのだろうから。
ジェレマイアの執務机に高々と積まれた身上書。
その中に、彼の将来の伴侶がいるのだろうか。
胸が、ちくん、と痛んだ気がして、エディスは首を傾げる。
彼が幸せなら、それでいい筈なのに。
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