婚約破棄は、まだですか?

緋田鞠

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<番外編>

と或る夫婦の物語。

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「トマス・ラングリード様」
 社交界デビューの夜会で、背後からそう声を掛けられて、トマスは振り返った。
 十八とは思えない見上げる程の巨躯の彼の視線の先には、何もない。
「こちらです」
 思っていたよりも下から声が聞こえて、慌てて視線を下げると、艶やかな栗色の髪に、とろりとした蜜のような瞳を持つ美しいご令嬢が、微笑んでいた。
 社交界デビューのご令嬢は、皆、一様に白いドレスを纏っている筈だが、彼女が身に着けているのは、深い緋色――トマスの、瞳の色のような。
 …見覚えは、ない。
 少なくとも、自己紹介した記憶はない。
「トマス・ラングリード様」
 改めて名を呼ばれて、トマスの背が自然と伸びる。
 優し気な風貌であるにも関わらず、彼女の声には、人を従わせるような響きがあった。
「わたくしと、結婚して下さい」

***

「ナイジェル、大変な事が起きた」
「ぅおっ?!トマス、お前ねぇ。何回、正面玄関から入って来い、って言ったら覚えるんだ?」
「やだね、面倒臭い」
「そう言うから、顔パスにしてやっただろ?」
「お前こそ、どうかしてる。正面玄関なんて、騎士の溜まり場だろが。あそこでメンフィスに見つかると、手合わせしろ、ってしつけぇんだよ」
「…うん、あのね、トマス。王宮の正面玄関なんだから、騎士がいないと困るだろう…?」
 顔パスだろうが何だろうが、何重もの厳重なチェックがある正面玄関を、正式な手順で通過するのは面倒だ。
 トマスが、幼馴染である王太子ナイジェルに会いに来る時、専ら使う手段が、王宮の屋根に愛騎である飛竜ゴンザレスで乗り付け、ナイジェルの部屋のバルコニーから中に侵入する、と言うものだった。
 勿論、相手がナイジェルでなければ、手が後ろに回る所業である。
 なお、トマスがナイジェルの部屋にいる間、ゴンザレスは好きなように王都の空を飛び回っている。
 飛竜が出た~!と王都騎士団に通報が入るのは、いつもの事。
「そんな事よりも、大変なんだ」
「…うん…判ってるよ、お前はそう言うヤツだって。王宮にノーチェックで忍び込む事こそ、大変なんだけどね…?」
「求婚された」
「はぁ、そう、求婚。求婚ねぇ…求婚?!」
 求婚、と言う言葉が脳に到達するまで、たっぷりと時間が掛かったのは、聡明なナイジェルとしては珍しい事だった。
「だ、誰が?!」
「俺が」
「誰に?!」
「知らん」
「…あぁ、何だ、夢の話か」
「違ぇよ!昨夜の!夜会で!見知らぬ女に!」
「こらこら、ご令嬢、と言いなさい」
 昨夜の夜会と言えば。
「…東域では、昨夜が社交界デビューの夜会だったよね?」
「そうだよ!親父がうるせぇから、俺だって、着たくもねぇ礼装着て、ちゃんと参加したんだよ!」
 トマスは、血走った目でそう叫んだ。
「うん、偉いね、トマス。私はまた、お前の事だから脱走するかと思ったんだけど。それで、求婚?」
「あぁ」
「良かったじゃないか!男の適齢期は長いとは言え、早く決まるに越した事はない。ましてや、ラングリード家は東域防衛の要。王家の一員としても、大歓迎だよ。女性側から求婚なんて大胆だけど、お前が落ち着くなら、私は何だっていいよ」
「…違う」
「うん?」
「…逃げたんだ」
「…逃げた?」
「俺は!生まれて初めて、敵前逃亡したんだよ…!」
 そう言って、巨体を丸めて頭を抱えるトマスに、ナイジェルは、はぁ、と溜息を吐いた。
「何?突然求婚されて、吃驚して逃げちゃったの?」
「…あぁ」
「そんで、驚き過ぎて、私の所に来たの?」
「…あぁ」
「お前ねぇぇぇ!」
 何て事だ。
 千載一遇のチャンスだと言うのに。
 ナイジェルは、虚ろな目で、「敵に背を向けるなんざ、末代までの恥だ…」とブツブツ呟くトマスを横目で見ながら、う~ん、と腕を組んだ。
 トマス・ラングリードは、サンクリアーニ王国を魔獣から代々守って来たラングリード家の嫡男だ。
 ナイジェルと同じ年に生まれたトマスを、父である国王は、息子の頼みになるように、と考え、幼い頃から交流させて来た。
 ナイジェルは、言葉も覚束ない頃からイエスタ領を訪れては、しばしば滞在し、時には魔獣討伐に同行して来たのである。
 長く深い付き合いだからこそ、『悪魔』とあだ名される程に怖い顔をした幼馴染が、異性との付き合いに疎い事をよく知っている。
「お相手のご令嬢が、可哀想じゃないか。折角、勇気を振り絞ってお前に求婚してくれたんだろう?」
「それは…」
「お前だって判ってる筈だよ。この機会を逃したら、次に結婚出来るのがいつになるか判らないって事を!」
「う…」
 ラングリード家は、サンクリアーニの貴族の中でも、有名な家名と言えるだろう。
 主に、その勇猛果敢な戦いぶりにおいて。
 彼等は、魔獣討伐のエキスパートだ。
 騎獣として希少な飛竜を駆り、凶悪な魔獣を屠る。
 代々、それを繰り返した結果なのか、ラングリード家の男は皆、見上げるような長身と強靭な肉体、丸太のような筋肉を持つ。
 …そして、驚く程の凶相である。
 内面は唯の脳筋なのだが、外見は前科百犯の極悪犯だ。
 それこそ、弱い魔獣ならば、一睨みで逃げ出すような。
 イエスタ領の人々は、ラングリード家の人々の事をよく知っているから、彼等の外見に竦み上がる事は早々ない。
 けれど――…。
「見知らぬご令嬢って事は、イエスタ領周辺のご令嬢ではないのだろう?」
「それは、間違いない」
「確かに、ラングリードの名は有名だよ?でも、実際のお前を見て求婚出来るなんて、相当肝の据わったご令嬢である事は間違いない。逃がす事はないと思うけどなぁ?」
 私よりも早く結婚するのは、ちょっと悔しい気もするけれど、とナイジェルが言うと、トマスは溜息を吐いた。
「…本気なわけがねぇだろ?性質たちの悪ぃ罰ゲームだ。俺が逆上のぼせ上るのを見てぇって根暗なヤツがいるんだろ」
「罰ゲーム、ねぇ?」
「だから…そう、だから、誰がそんな事をあの子にさせたのか、調べてくれ」
「ふぅん…まぁ、いいけど。で、ご令嬢の名前は?」
「えぇと…確か…あぁ、そうだ。タチアナ・シリングって聞いたな」
「了解。じゃあ、ちょっと、調べさせてみようか」

 ナイジェルが、侍従に命じてタチアナ・シリングの事を調べさせている間、トマスはウロウロと部屋の中をうろつき回っていた。
「…ちょっと落ち着きなよ。何だい、熊みたいに」
「…誰が熊だ」
 そう応える声にも、何だか覇気がない。
「あのね、トマス。お前は、『罰ゲームだ』って言うけどさ。もしも、相手のご令嬢が本気だったら、どうするつもり?」
「どうするも何も…本気なわけがねぇよ」
「本気だったら、困るわけ?」
「困る、って言うか…うん…」
「お前は女性の好みに煩い方じゃないと思ってたけど…よっぽどのご面相だったとか?」
「お前、どんだけ目が肥えてんだよ!あんな美人は、イエスタにいねぇよ!」
 あぁ、そっちか、と、ナイジェルは得心した。
 それは、罰ゲームだと思ってしまうのも仕方あるまい。
 好みど真ん中の初対面の女性に、いきなり求婚されるだなんて、今時、演劇でも流行らない。
「殿下、ご依頼の件ですが、情報を集めて参りました」
「うん、有難う」
 侍従に恭しく手渡された紙に、ナイジェルは素早く目を走らせる。
 訪問の連絡もないのに、室内にいるトマスに気づいても、眉毛一筋動かさないのは流石だ。
「…なるほど」
 そわそわした様子でこちらを伺っているトマスの目が、雨に濡れた子犬みたいだ。
「まず、シリング嬢は、北域のローダンヌ領を治めるシリング家のご令嬢だ」
「北域…?」
「年は二十歳。二つ上だね」
 サンクリアーニ王国の貴族令嬢は、社交界デビューの十八から二十までの間に婚約する者が多い。
 二十歳を過ぎてしまうと、行き遅れとして見られる。
「…何で…あんだけ美人なら、俺なんかに求婚しねぇでも、幾らでも縁談はあるだろ?よっぽど性格が悪ぃのか…?」
「領民の評価は上々。奉仕活動にも熱心で、特に魔獣による被害者の救済活動に注力している。…どうやら、彼女自身が魔獣に襲撃された事があるようだ」
「!」
 サンクリアーニ王国は、『深淵の森』と呼ばれる深い森に囲まれた国だ。
 深淵の森からは、魔獣が生まれる。
 一見、動物のような姿をした魔獣は、攻撃力が高く、積極的に人を襲う。
 それら魔獣から民を守る為に、深淵の森に面した領地には、王立騎士団が設置されている。
 トマスは、そのうちの東域騎士団の重鎮を代々務めているラングリード家の一員だから、魔獣に襲われた、と聞くと、胸が痛い。
 騎士団の監視網を潜り抜けた魔獣が、彼女を襲ったに違いないのだから。
「そう、か…」
 沈んだ顔を見せるトマスに、ナイジェルは付け加える。
「シリング家は伯爵位だ。求婚は数多あるらしいけど、そのいずれも成立していない。でも、お前にはご令嬢自ら求婚したって言う事は、騎士との結婚を望んでるって事じゃないか?北域にも優秀な騎士は多いし、確か、ディンゲン侯爵の所にも年回りの近い息子がいた筈だから…何でまた、縁も所縁もなさそうな東域に来てるのかは、判らないけど」
 それこそがきっと、この求婚の大きな理由だろう。
「少なくとも、わざわざ罰ゲームの為だけに、遠路遥々来やしないよ。ローダンヌからじゃ、馬車で十日は掛かるんじゃないか?話をしっかり聞いて、その上で判断すればいい。…私は、悪い縁談じゃないと思うけどね」
「…判った」

***

 求婚された衝撃で、相手の挨拶も碌に聞かずに夜会を脱走し、帰宅するなりゴンザレスで王都に飛んだトマスが家に戻ると、ラングリード家は上を下への大騒ぎとなっていた。
「若様、若様にご求婚なさりたいと言うご令嬢が…っ」
 真っ青な顔で、退役騎士である執事のセバスチャンが、そっと耳打ちする。
 使用人の誰もが浮足立った様子で、そわそわざわざわと地に足がついていない。
「…まさか、家まで来てるとは…」
 ラングリード家は、徹底した男系家系だ。
 少子化に悩むサンクリアーニの貴族の中では珍しく、各代に必ず三人は子供を授かるのだが、そのいずれもが、男児。
 女児が産まれたと言う記録は、過去を遡っても見つからない。
 当然、生まれる男児は皆、極悪人面だ。
 そのラングリード家の縁談と言えば、領地内の付き合いのある家から幼馴染を娶るやら、騎士団で付き合いのある家から姉妹や娘を娶るやら。
 家を継ぐ者以外は、婿入りする事も多い。
 不思議な事に、婿入りして『ラングリード』の家名から離れると嫁寄りの顔立ちの子が生まれるから、東域が極悪人面で埋まっているわけではない。
 とは言え、嫁を取ろうが婿に入ろうが、強面な顔と立派過ぎる体格のせいで、縁談がまとまるまでに、それなりの苦労をしているのだ。
 トマスが社交界デビューする事で、縁談を探さねば、と気合を入れていた所で降って湧いた話。
 あちらから飛び込んで来るとは、正に青天の霹靂だった。
「…判った、会う」
「はい、応接間にお通ししておりますので」

 トマスが応接間に着くと、昨晩の夜会でトマスに求婚したご令嬢――タチアナ・シリングが、一人でソファに腰を下ろしていた。
 伯爵家のご令嬢と聞いていたのに、侍女の一人も連れていない。
 昨夜とは違い、昼用の外出着を着ており、夜会用のはっきりした化粧ではなく、薄化粧に過ぎないのだが、思わず、トマスが目を奪われる程に綺麗な顔立ちをしている。
「トマス様」
 入室したトマスを見て、タチアナは嬉しそうに顔を綻ばせた。
 罰ゲームの可能性を捨て切れないトマスの目にも、その顔は心からのものに見える。
「…昨夜は、失礼しました。その…突然の事で、驚いてしまって」
 しどろもどろになりながら、トマスが言うと、タチアナは緩く首を振る。
「いいえ、こちらこそ、失礼致しました。漸く、トマス様にお会い出来たものですから、気が逸ってしまって…」
 タチアナは、流れるような所作で立ち上がると、美しい礼を執った。
「改めて、自己紹介させて頂きます。ローダンヌ領をお預かりしておりますタイラー・シリングの娘、タチアナと申します。トマス様の妻に立候補するべく参りました」
 うん、最後がおかしい。
 トマスは、自分の耳がおかしいのでは、と、背後に控えるセバスチャンの顔にちらりと目を遣ったが、セバスチャンもあんぐりと口を開けている。
「えぇと…タチアナ嬢?」
「どうぞ、タチアナとお呼び下さい」
「あの、ですね…何処かでお会いした事がありましたか?」
「まぁ!えぇ、そうですわね、ご存知ないのも無理はありません。…わたくし、三年前に、トマス様に命を救われたのですわ」

 タチアナの話は、こうだった。
 三年前のある日。
 タチアナは妹と共に、東域に近い領地に住まう母方の伯母を見舞う為に、馬車で旅に出た。
 護衛と侍女と共に移動していたのだが、突然、馬の悲鳴と護衛の怒号が聞こえ、馬車は停車。
 様子を見る、と出て行った侍女も、帰って来ない。
 当時十七歳だったタチアナは、まだ十三歳の妹を守る為に、ガクガクと震える体を叱咤して、必死に妹を抱き締めていた。
 その時、突然、馬車の屋根が剥がれ、暖かく生臭い風が流れ込んで来たのだ。
 実際に、何に襲われたのかは、怖くて目を閉じていたから、判らない。
 けれど、が直ぐ傍に居る事は判った。
 ぶわん、と言う強風と共に、胸に火傷するような熱さと痛みが走り、気づいたら、体が弾き飛ばされていた。
 此処で、死ぬんだ。
 そう、覚悟を決めた時。
「お前の相手は、こっちにいるぞ」
 男性の落ち着いた声が、の気を惹いてくれた。
 痛みの余り、霞む視界で見えたのは、大きな黒い影の前で、一人、力んだ様子もなく立っている黒髪の男性の後ろ姿。
 次の瞬間には、魔獣は真っ二つになっていて。
「おい、あんた、大丈夫か?」
 振り返り、そう、心配そうに尋ねる彼の緋色の瞳が、気を失う直前の記憶。

「目が覚めたら、領地に戻っておりました。わたくしは、傷による高熱で、一週間、意識を失っていたのだそうです」
 妹は、傷一つなく無事だったが、護衛と侍女、そして馬は、亡くなった。
 両親は、タチアナが意識を取り戻した事に喜んだものの、彼女は、失った命に心を痛めた。
「わたくし達を助けて下さった方は、近くの街まで運び、事後の手配をして下さったそうなのですが、名乗らずに立ち去ってしまわれたとの事でした。妹は襲撃された事でパニックを起こしていて、そこまで気が回らなかったのです。体が動くようになってから、助けて下さった方は何方だったのか、調べました。父と交流のあるディンゲン侯爵閣下にお尋ねした所、黒髪赤瞳で、魔獣を一閃出来るような腕の持ち主ならば、ラングリード家所縁の方に違いない、と」
 視界は、霞んでいた。
 意識も、朦朧としていた。
 けれど、黒髪赤瞳で体格の良い若い男性だったのは、確かだ。
「わたくしは、心配した両親に領地から出る事を禁じられてしまいましたので、父からお礼状を出させて頂いた筈です」
 トマスがセバスチャンに目を遣ると、
「…確かに三年程前に、お礼状を頂いておりますな」
との返事が返って来た。
「あの当時の若様は、腕試しと称して、ゴンザレスと共に国中を巡ってらっしゃったので…お礼状も、多う御座いましたが、えぇ、確かに、シリング伯爵家から頂いております」
「そうか」
 なるほど。
 タチアナとの接点は、判った。
 トマスの記憶がないのは、セバスチャンの言う通り、武者修行と称して全国を気ままに飛び回っていたからだろう。
 三年前と言えば、十五歳になり、飛竜捕獲の許可が下りた頃だ。
 ゴンザレスを騎獣にした事で、調子に乗って、あちこちに足を延ばした。
 正直に言ってしまえば、魔獣から誰かを助ける、なんて日常で、いちいち覚えていないが、騎士団の管轄を離れて自由に動いていたのなんて、トマス以外にいないだろう。
「その節は、本当に有難う御座いました。お陰様で、永らえる事が出来ました」
 タチアナが、深々と頭を下げる。
「えぇと…ご無事で何よりです。わざわざ、礼を言う為に来て下さったのですか」
「いいえ?冒頭に申し上げました通り、トマス様の花嫁候補に立候補したくて参りました」
 だから、何故、そうなる。
「その、ですね…タチアナ嬢」
「どうぞ、タチアナと」
「タチアナ…さん。お気持ちは、有難いのですが…」
「トマス様、既にご婚約者様がいらっしゃるのですか?」
「え、いえ、まさか」
「でしたら、是非、わたくしの事をご検討下さいませ」
「あの、礼でしたら、先程、伺いました。確かに貴方を襲った魔獣を斃したのは、俺なんでしょう。ですが、恩着せがましく貴方を娶りたいなどと、言うつもりはありません」
「…わたくしは、お好みとは違いますか?それとも、年上はお嫌ですか?」
 泣きそうに目を潤ませられて、トマスは慌てた。
「いやいやいや、そんな、恐れ多い」
「でしたら、是非、わたくしを」
「あの、何でまた俺を」
 冷や汗を掻きながらトマスがそう言うと、タチアナは、きょとんと目を見開いた。
「勿論、トマス様をお慕いしているからですわ」
 後にトマスはナイジェルに、「人生で、あれ程驚いた試しは、他にねぇ」と話した。
「あれ程の大きな魔獣の前で、恐れを見せずに立ち塞がり、民を守らんとするお姿に、一目惚れしたのです」
 一目惚れ。
 一目惚れ、って何だっけ。
 トマスの思考が、停止する。
「いやいやいや…それは、ほら、吊り橋効果ってヤツですよ、ほら、ね」
「父も、そう申しました。ですから、今回も、両親には黙ってこちらに伺ったのです。…わたくしの想いは、三年が経っても褪せてはおりません。さすれば、それは本物と言う事でしょう。夜会でも、お背中を見て直ぐに、トマス様だと判りました」
「いや、でも、俺はこんな悪人面ですし、タチアナさんは、そんなに綺麗なのに、」
「まぁ、何を仰るのですか!トマス様は、サンクリアーニの守護神ですわ。わたくしには、とても凛々しく頼もしい方にしか、見えません!」
 ――…トマスは、その言葉に陥落した。

***

 こうして、押し掛け姉さん女房のタチアナは、ラングリード家に嫁いで来た。
 タチアナの両親は、魔獣に襲われ、命も危うかった娘が、深淵の森の直ぐ傍であるイエスタ領で暮らす事を良しとせず、最後まで反対していた。
 けれど、タチアナの意志が固かった為に、結局は二人の結婚を認めた。
 タチアナは当初、魔獣に襲われて負った胸の怪我の痕を、トマスに見られるのを躊躇っていた。
 しかし、トマスは、生き延びた証なのだから、と、傷跡も含めてタチアナを愛した。
 歴代ラングリード家の中でも多くの子を授かったのは、二人の仲の良さの他に、魔力の相性の良さもあったらしい。
 長男アーサー、次男イネス、三男ウォルトの後に、長女エディスが生まれた時には、ラングリード一族の中で、ちょっとした祭りになった。
 何しろ、記録に残っていない女児。
 オスの三毛猫並みに、レアな存在だ。
 だが、女児だから、と言って、魔獣討伐を教えないわけにはいかない。
 この地の領主一家の子である以上、まずは、自分で自分の身を守る事が出来なければ、望む道に進ませてやる事すら出来ないのだ。
 その後、四男オリバー、五男カーティスが生まれて数年後、タチアナが体調に異変を感じるようになった。
 子供達に体調不良を悟らせないよう、常に笑顔のタチアナの身を案じるトマスに、タチアナは。
「ねぇ、トマス。私、もう一人、子供が欲しいの」
「何言ってんだ。もう、六人も子供がいる。十分、授けて貰った。赤ん坊一人産むって事は、自分の体を削るって事だろう。ただでさえ、調子が悪いのに…!」
「だからこそ、よ」
「何?」
「トマス…私ね、もうそんなに長くないわ。…お医者様に、そう言われたの」
 穏やかにそう言うタチアナに、トマスの顔が絶望に染まる。
「っタチアナ、」
「胸の傷がね、どんどん疼くようになってるの。この傷から、何かが…生命力、って言うのかしら、そう言うものが、漏れ出てる感じがするのよ」
「だったら!」
「…ねぇ、トマス。子供達はいずれ、成長して家を出て行くわ。アーサーは後継ぎだから、この家に残るでしょうけれど、あの子にはあの子の新しい家族が出来るの。いつまでも、可愛い子供のままでは、いられない。でも、一人でも多くの子供がいれば、入れ代わり立ち代わり、貴方に会いに来てくれるでしょう?七人いれば、一週間、日替わりで来てくれるわね。孫だってきっと、たくさん出来るわ。可愛いでしょうね、貴方にそっくりの孫が、ずらっと並んでいる姿」
「タチアナ…」
 呆然と名を呼ぶトマスに、タチアナは微笑んだ。
「貴方は、寂しがり屋だから。貴方が寂しくないように、愛する者をたくさん、残していきたいの。…私がいなくても、貴方が笑っていられるように」
「…っ」
 その顔が、余りに綺麗だったから。
 トマスは、タチアナの願いを、叶える事にした。

***

 六男キムが生まれてから、四年後。
 医師の示した余命を大幅に越えたタチアナは、死の床にあった。
「…トマス」
 子供達との別れを済ませ、最期の時間は二人で過ごす。
「アーサーは、一番、貴方に似ているわ…語らずとも判ってくれるでしょうけれど、それに甘えちゃダメよ…」
 掠れるような細い声に、トマスは必死に耳を澄ます。
「あぁ」
「イネスは、真面目過ぎるけど…そこが、あの子の良さなの…活かせる場所を、勧めてあげて…」
「判った」
「ウォルトは、お調子者だけど…素直ないい子よ…頭ごなしに、叱らないでやって…」
「そうだな」
「オリバーは、少し不器用ね…言葉が足りない事があるから…本当はどう思っているのか、辛抱強く聞いてあげて…」
「そうする」
「カーティスが、怒りっぽいのは…今だけよ…私が、こんなだから…心配してるの…優しい子よ…」
「あぁ」
「キムは…泣き虫だから…きっと、貴方を困らせるわ…でも、皆がいてくれるから…大丈夫ね…」
「ちゃんと、守る」
「エディスは…」
 そう言うと、タチアナは一瞬、目を強く閉じた。
「あの子は、繊細だから…ちゃんと、あの子の事を見てくれる人じゃなきゃ、結婚させちゃダメよ…相手に合わせようとして、無理をするから…大切にしてくれる人を、見つけてね…」
「約束する」
 ふぅ、と、タチアナは大きく息を吐くと、しっかりとトマスの顔を見る。
 その目に、焼き付けるかのように。
「あぁ…愛してるわ、トマス…貴方と、出会えて…しあわせ…」
 最期の言葉は、あぶくのように、口の中で弾けた。
 そのまま、細い息が吐き出され、タチアナは苦しみのない世界へと、旅立って行った。

***

「タチアナ」
 ラングリード邸の背後の小高い丘の上に、代々のラングリード家の人々が、永き眠りにつく墓所がある。
 トマスは、ナイジェルから祝いとして貰ったワインを手に、足を運んでいた。
 丁寧に草が刈り取られた墓所の中でも、鮮やかな花束の手向けられたそこが、目的地だ。
 毎日、誰かしらが訪れている為、日差しを遮りそうな木の枝は取り除かれ、燦々と明るい。
「エディスが、結婚する。いい相手を見つけるのに、ちと時間は掛かっちまったけどな。まさか、あいつにやる事になるとは思わなかったが…エディスが幸せそうだから、いいんだ」
 コルクを開けると、『タチアナ・ラングリード』と名を記された墓標に、とぷとぷと掛けた。
 トマスは下戸だから飲めないが、タチアナはワインが好きだった。
「…なぁ、お前も賛成してくれるだろ?」
 いつかまた、出会った時に。
 よくやったわ、と、褒めて欲しい。
 胸を張って再会する為に、今を生きているのだから。
「…ほんと、お前は世界一の女だよ」
 タチアナを喪った後、覚悟はしていた筈なのに、トマスは自分が抜け殻になった気がした。
 半身を失くしたような喪失感。
 しっかりと足を踏みしめているのに、ふわふわとした浮遊感。
 そのトマスを地面に引き留めていたのが、子供達の存在だった。
 タチアナが亡くなった当時、長男のアーサーが二十歳。
 そして、末っ子のキムが四歳。
 騎士団での仕事をアーサーに補佐して貰い、まだ幼児のキムの養育をエディスに補佐して貰い、日々を懸命に生きて来て、漸く十四年。
 子供達がいなければ、どうなっていたのか、判らない。
 キムが成人し、エディスの結婚が決まった今、両肩に乗った責任は、一気に軽くなった。
 だが、子供達への責任が、自分をこの地に結び付けているのだと思っていたけれど、それだけではないらしい。
 最近、とみに熱心に鍛錬をしている初孫クリスの成長を、もっと見ていたいからだ。
 クリスはどうやら、エディスの結婚をきっかけに、強くなりたい、と言う気持ちが増したようだ。
 クリスに引っ張られるように、他の孫達――婿入りしたイネスやウォルトの子供達も含め――が、励んでいる姿を見ると、誇らしくもあり、微笑ましくもあり。
 そして、ふと思うのだ。
 タチアナはこの光景を、予想していたのだろうな、と。
「まだ暫く、そっちに行くのは先になるな」
 その分、土産話はたくさん仕込んでいくからな。
 トマスはそう呟くと、タチアナの髪に触れる時のように、墓標をそっと、撫でたのだった。




END
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