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<2/マクシミリアン>
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「どんな冗談だよ…っ」
マクシミリアンは、唯一、一人になれるバスルームで、便座に腰を下ろして頭を抱えていた。
視界を埋め尽くすのは、藍色だと言うのに、何故か内側から輝く巻き毛。
櫛を通していない状態だと爆発するように広がっており、だから、グロリアーナはいつも、あんなにきつく髪を巻いているのか、と、何処か冷静な頭の一部で理解する。
俯いた視界に、下着をつけていない豊かな胸が見えて、マクシミリアンは頬を真っ赤に染めると、反射的に目を固く瞑った。
(すまない、グロリアーナ嬢、不可抗力だ…!)
決して下心があったわけではなく、寝惚けた頭で、
「…何だ、これ…?」
と、むにゅ、と揉んでしまったのは、つい先程の事。
――今朝の目覚めは、これまでの人生の中でも、一、二を争う穏やかさだった、と言っていい。
花の香りだろうか、いい香りの寝具に包まれ、薄絹越しの朝日は程よい明るさで目覚めを促す。
耳元で呼び掛けるのは、軽やかな女性の声。
お嬢様。グロリアーナお嬢様。
「お寝坊でございますよ」
(寝坊?!)
その言葉に、頭の一部が一気に覚醒した。
気になる言葉が別に聞こえた気もするけれど、寝坊、と言う言葉のインパクトに吹き飛んでしまう。
週末の間に終えてしまいたかった執務が終わらず、昨夜は日付が変わってからも、暫く仕事をしていた為、疲れ切っていた自覚はある。
この所、ややこしい案件が立て続いていて、国王である父も、王妃である母も多忙を極めている。
その結果、十八歳の誕生日を迎え、成人王族になったマクシミリアンにも、仕事が回って来ているのだ。
学園を卒業するまでは公的には準成人扱いではあるけれど、執務は待ってくれない。
山積みとなっていた書類のうち、起床してから見よう、と思っていたものも幾つか残っている。
卒業まであと半年。
必要な単位は取り終えているのだし、これだけ多忙なのだから、学園を暫く休んで執務に専念してもいいじゃないか、と侍従のケビンは言うけれど、今、あの令嬢から目を離すわけにはいかない。
友人達にも、彼女が何か仕出かさないか見張っておくように依頼はしているけれど、詳しい事情を話せない以上、マクシミリアンが学園から離れるのは難しい。
その為、どれだけ無謀でも、執務と学生生活を両立する必要があるのだ。
ただでさえ、マクシミリアンは、朝が苦手だと言う自覚がある。
いつもは侍従のケビンが寝坊する前に叩き起こしてくれると言うのに、何でこんな事に。
寝起きの混乱した頭で慌てた彼は、腹筋だけで起き上がろうとして…腹に力が入らず、ぺしょん、と寝台に倒れ伏した。
「…え…?」
目の前で顔を覗き込んでいたのは、見知った侍女だった。
グロリアーナの侍女エイミーだ。
「まぁ、漸くお目覚めですか?あれだけ、わたくしが申しましたのに、昨夜は夜更かしなさったのですね?あぁあぁ、言い訳は伺いませんよ、わたくしにはぜぇんぶ判っております。ですけれど、そのお陰で、三十分もお寝坊なさっておりますよ。登校のお時間に間に合うように、本日は、ストレッチを中止に致しましょうね」
…確か、エイミーは寡黙な侍女だった筈。
婚約者とのお茶会で、マクシミリアンとグロリアーナが顔を合わせる間、マクシミリアンの侍従ケビンとグロリアーナの侍女エイミーは、共に部屋に控える事になる。
ケビンはエイミーが気になっているらしく、折を見て声を掛けるのだが、どれだけ話し掛けても返事は一言なのだ、と嘆いていた。
いや、そんな事よりも、何故、自分の部屋にグロリアーナの侍女が平然とした顔で立ち入っているのか。
(まさか、グロリアーナ嬢が侵入を指示したのか…?いや、あれだけ礼儀を重んじるグロリアーナ嬢に限って、そんな事をする筈が…)
混乱したまま、マクシミリアンは、エイミーにバスルームへと追い立てられる。
「まだ夢の世界にいるお顔をしてらっしゃいますよ。冷たいお水でお顔を洗えば、きっと目が覚めますわ」
その言葉に誘導されるように、バスルームの冷たい水で顔を洗って…余りにも滑らかで柔らかな手触りに、マクシミリアンの目が覚めた。
「な…ん…?」
朝だ。
朝なのだから、ここにはチクチクと生え掛けた髭があって然るべきだ。
髭、と言っても、マクシミリアンのそれは、まだ貧相と言うかぽそぽそとしたもので、父のように立派に蓄えられそうにない。
却ってみっともないから、丁寧に髭を剃るのだけれど、流石に一晩経てば元通りだ。
なのに、髭が、ない。
それどころか…朝、と言えば、ここ数年毎日お定まりの生理現象を感じられず、恐る恐る己の下半身に目を遣ろうとして…視界に映ったのは、薄い夜着を押し上げる豊かな二つの山だった。
「…何だ、これ…?」
全く予想がつかなかった、と言えば、嘘になる。
九割方理解していながら、到底現実と思えずに、掴んでしまった。
両の手で。
思い切り。
むにゅっと。
…想像よりも、弾力があった。
もっと柔らかく溶けるような触感のものだと勝手に想像していたけれど、それは人体として当然の柔らかさしか備えていなかった。
何かが振り切れたのか、冷静にそんな事を考えながら、渾身の力を指先に籠める。
何故なら、思い切り力を入れた筈なのに、全く痛みを感じられなかったからだ。
掴まれている、と言う感触はあるけれど痛みがなくて、困惑しながら両手を見ると、その余りの華奢さと指の細さに驚いた。
乳房が生えただけではなく、手まで小さくなっているようだ。
おまけに、股間の感触が確かならば、生まれた時から長い付き合いのムスコまで、行方不明になっている。
「ぃゃぃゃぃゃ…?」
ふるふると頭を横に振ったその時、漸く、視界の隅で揺れている藍色に気が付いた。
頭が重いのは、髪が腰まで伸びているせいらしい。
何処かで見たような色だ…と思った瞬間、サーッと血の気が下がった。
見た事がある筈だ。
この類希な藍色の髪を、マクシミリアンはよく知っている。
恐る恐る、バスルームに設置された全身鏡を覗き込む。
全裸になる場所に全身鏡とはどう言う事だ、と普段ならば文句の一つも言っただろうけれど、今はそれどころではない。
果たして、鏡に映っていたのは、星空を閉じ込めたと評される藍色の巻き毛を持ち、サファイアの如く青く輝く瞳、形の良い鼻に、小さくふっくらとした薔薇色の唇を持つ美貌の公爵令嬢グロリアーナ・ラウリントンだった。
驚いたような顔でこちらを見返しているけれど、その表情は、マクシミリアンの見慣れたグロリアーナのものとは全然違う。
嫌な予感にマクシミリアンは、傍にあった便座に思わず座り込んだ。
「どんな冗談だよ…っ」
暫く頭を抱えていると、こんこん、とバスルームの扉がノックされる。
「お嬢様?ご気分でもお悪いのですか?例のご令嬢の件で、悩んでいらっしゃいましたものね。ストレスで胃がやられてしまいましたか?何でしたら、本日は、学園をお休みなさってもよろしいのですよ?えぇえぇ、そう致しましょう。あの無神経な殿下も、流石にお嬢様のご苦労に気が付かれる事でしょう」
(…無神経な殿下、って、俺の事だよな…)
余りの言われようだが、この所、例のご令嬢の事で、グロリアーナとの間の空気が重苦しいものになっていたのは事実だ。
エイミーはグロリアーナの侍女なのだから、彼女の肩を持つのは当然だろう。
…この状況で、実は自分こそがマクシミリアンだ、とエイミーに告白したらどうなる?
グロリアーナに忠実な侍女が卒倒するのは確実だし、グロリアーナがストレスによって精神的に不安定になった、として、婚約解消まで有り得るかもしれない。
それは、マクシミリアンの本意ではないし、到底、言い出せる筈がない。
「…お嬢様?本当にどうなさったのですか?いつもでしたら、わたくしの過ぎた物言いを注意なさるのに……本当にお体の具合がよろしくないのでは?」
エイミーは、わざとマクシミリアンへの愚痴を口にしていたらしい。
不安そうなエイミーの声に、マクシミリアンは、慌てて、
「夜更かししたせいか、まだ、はっきりと目が覚めていなくって」
と反射的にグロリアーナらしさを意識しながら、返事をする。
聞こえて来る声が己の声ではない、と言うのは、何と違和感がある事か。
だが、演技ならば、王族として生まれた以上、人前では常にし続けているようなものだから、それ程、難しいとは感じない。
「では、本日はお休みに?」
「…っ、大丈夫よ、学園には行くわ」
緊急事態なのだ。
エイミーがずっと傍に控えていると、偽者だと見抜かれてしまうかもしれない。
危険を回避する為には、普段通りの生活を送る方がいいだろう。
「…畏まりました。お着替えのご準備が出来ましたので、どうぞ、こちらへ。ですが、お嬢様、御身は大事なお体なのですよ。くれぐれも、ご自愛くださいませね」
「えぇ、有難う、エイミー」
バスルームの中で、ふぅ、と大きく深呼吸して気合を入れると、マクシミリアンは扉を開ける。
何が起きたのか判らないが、今、マクシミリアンの意識はグロリアーナの体の中にある、と考えるのが自然だ。
見慣れぬ部屋は、グロリアーナの私室なのだろう。
これまで、女性の部屋に足を踏み入れた事のないマクシミリアンは、物珍しくてきょろきょろしてしまいそうな己を律する。
部屋の壁紙は、薄いクリームに、クリームイエローの小花が散ったものだった。
常に冷静沈着なグロリアーナは、一見すると冷たく見られがちだけれど、可愛らしいものが好きである事を、マクシミリアンは長い付き合いで気が付いている。
婚約者となって八年。
国の利益の為に王家側から持ち掛けた縁談を、ラウリントン公爵家が受けた事による関係だ。
互いの好意によって結ばれた婚約ではないけれど、それは、有り体に言えば仕方のない事だと思っている。
王族に生まれた以上、私心よりも国の事情を優先するのは当然。
そして、建国から王家に付き従っているラウリントン公爵家にとっても、国を支える一助となる事は、当然だろう。
グロリアーナは、申し分のない婚約者だ。彼女以上に、王子妃として相応しい令嬢はいないと思う。
…しかし、そこに、異性に抱く愛情や恋着があるのか、と問われると、マクシミリアンは素直に頷けなかった。
彼女の真面目な性格も、聡明な頭脳も、確かに好ましいとは思っているものの、それだけだ。
けれど、それだけで、結婚し、共に歩んでいくには十分だとも思っていた。
それは、グロリアーナも同様だろう。
マクシミリアンに恋い慕う視線を向ける令嬢は少なくないが、グロリアーナからは、一度も同様の熱を向けられた事はない。
そもそも、マクシミリアンには、異性を恋う気持ちがよく判らないし、恐らくそれは、グロリアーナも同じだ。
幼い頃から、家に定められた相手と添うと判っているのだから、下手に恋愛感情など知らない方がいい。
「お手伝いさせて頂きます」
バスルームから出たマクシミリアンの夜着を、テキパキとエイミーが脱がせていく。
幼い頃は着替えを侍従に任せていたものの、ここ数年は全部自分でしていたマクシミリアンは面食らったが、大人しくじっとしていた。
貴族令嬢が一人では着替えないと言う知識位はある。
豊かな胸は下着で支えられる事で、動きに違和感がなくなった。
制服のスカートは足元からスースーと空気が抜けて、何だか心許ない。
ブーツはヒールが太く低いものだけれど、爪先に体重が掛かって何だか重心が覚束ず、変な感じがする。
「それでは、お化粧と髪結いを致しますので、どうぞ、こちらへ」
マクシミリアンは、無言で鏡の前に腰を下ろした。
エイミーの手によって、マクシミリアンには正体不明の液体やらクリームやらが、次々と塗りこまれていく。
大分、状況を受け止められるようになって来たと思うけれど、鏡に映る顔がグロリアーナのものである事には、慣れる気がしない。
こうして素顔のグロリアーナを見るのは、何年振りだろうか。
学園に入学してからのグロリアーナは、人の目を意識してか、常にきっちりと化粧を施している。
彼女の立場上必要なのだろうけれど、久し振りに見た素顔のグロリアーナは、普段よりも幼く、柔らかい表情に見えた。
その素肌は白く透き通り、色を足さずとも色づいた唇も潤っている。
化粧で隠してしまう事が、何だか勿体なく思われた。
グロリアーナには、グロリアーナの目指す姿があるのだろう、と言う事は、マクシミリアンにも判る。
けれど、彼女の外見だけで、あれこれ言う輩が存在する事も事実だ。
巷では、王太子の婚約者として身分を嵩に着た高慢な令嬢の登場する恋愛小説が、流行っているらしい。
その話では、王太子は、務めも果たさず己の権威ばかり振り翳す婚約者に見切りをつけて、身分は低いながらも健気に王太子を慕って努力するヒロインを選び、国中が祝うのだそうだ。
勿論、マクシミリアンが読んだわけではなく、とある令嬢が一方的に話していたのを耳にしただけだ。
グロリアーナは、真面目に王子妃教育に向き合い、王家が望む以上の成果を上げる完璧な婚約者だ。
けれど、それを知る者はマクシミリアンの周辺の人間だけ。
グロリアーナは、他の令嬢達と親しく付き合っていないから、準成人扱いの現在、人前で彼女の能力を披露する機会がない。
そのせいなのか、マクシミリアンとの関係が、恋人同士のそれとは異なると言うただ一点のみで、流行の小説に入れ込んだ二人の事をよく知りもしない者達に、
「あのようなきつい顔立ちなのだから、気位が高く高慢に違いない」
「第一王子の婚約者と言う立場を振り翳し、身分の低い者を嘲笑っているに違いない」
などと陰口を言われている。
政治の中心から遠く離れた身であるからこそ、正しい情報に触れられないのだろうが、公爵家と言う貴族の頂点の家に生まれ、何不自由ない生活を送り、高い教養と美しい容姿を持つグロリアーナへの妬みがないとは思えない。
小説は創作物に過ぎないと言うのに、もしも、現実になったら、自分にも王族の婚約者になる可能性があるとでも思うのだろうか。
グロリアーナ本人の耳に入らないよう、気を付けているつもりではあるけれど、人の口に戸は立てられない。
ならば。
人々が勝手に抱いているイメージを、変えてみるのも一つの手ではないか、とマクシミリアンは思う。
王族とて、そのような印象操作は日頃から行っている。
例えば、きつく巻いている髪を、もっとふんわりさせてみるとか。
目元も、アイラインをこんなにしっかり引かなければ、素顔の印象通りに柔らかくなる筈だ。
グロリアーナが聞いてくれるようならば、提案してみるのもいいかもしれない、と思いついて、マクシミリアンはこれまで、彼女にイメージ作りを一任していた事に気が付いた。
周囲の声を聞いていながら、グロリアーナの意志を尊重すると無意識に言い訳して、彼女に何の提案もしなかったのは、彼自身だ。
グロリアーナは知識豊富で、王宮の文官達と変わらぬ議論が出来るから、どうしても彼女との会話は、国政に関するものが多い。
固い会話ばかりで、婚約者らしく互いの内面に踏み込むような会話がなかったのは事実。
――…その結果が、今の、何処かぎこちない関係だ。
業務連絡と討論ばかりで、婚約者ではなく、上司と部下のようだ、と友人に言われた事を思い出す。
状況が悪い、と他の要因に理由を押し付けていたけれど、グロリアーナと正面から向き合う事を避けて来たのは、自分だ。
少し落ち込んだマクシミリアンに、エイミーが、
「お化粧と髪結いが終わりました」
と声を掛ける。
「えぇ…有難う」
しっかりと引かれたアイラインが、少し吊り目のグロリアーナの大きな瞳を強調している。
腰までの長い髪は、一筋の乱れもなくきつく巻かれる事で、背の中程までの長さに収まっていた。
恋愛小説の挿絵に登場する高慢な令嬢そのものの姿に、マクシミリアンは、あの挿絵は意図的にグロリアーナを貶める目的で描かれているのではないか、とすら疑念を抱く。
一時間掛かった身支度が漸く終わり、思わず溜息を吐いたマクシミリアンの前に、朝食が運ばれて来た。
その内容にギョッとしたものの、そこは王族。何とか表情には出さずに済む。
「お嬢様、予定が大分押しております。ですが、一口を三十回咀嚼する事はお忘れになりませんよう。これだけは、譲れませんよ」
予定が押している、と聞いて、時計に目を遣ったが、まだ、時刻は朝の七時二十分だ。
普段ならば、マクシミリアンはまだ起きていない。
一体、グロリアーナは何時に起きていると言うのか。
何よりも、公爵令嬢の朝食とは思えないメニューに戸惑う。
栄養豊富だが余り美味とは言えない雑穀をトロトロに煮込んだお粥に、サラダ。
それだけ。
お菓子で朝食を済ませるご令嬢もいる中で、グロリアーナの食事は、体の事を考えてのものなのだろう。
そう言えば、と、マクシミリアンはエイミーの言葉を思い出す。
ストレッチ、と言っていた。
グロリアーナは毎朝、ストレッチをして、味よりも栄養を重視した食事を摂っているのか。
恐らくは、公爵令嬢として、第一王子の婚約者として、人目を意識しての事だ。
真面目で誰よりも己を律する女性だと思っていたが、こんな事をしているとは、全く知らなかった。
マクシミリアンは初めて知るグロリアーナの一面に思いを馳せながら、朝食を口に運ぶ。
(…決して、好んで食べたい味ではないな…)
いつもは片手間に書類を確認しているから、きちんと一口ごとに三十回咀嚼しているかカウントしているエイミーの視線に落ち着かない。
粥など、咀嚼しようにも口内で溶けてしまうのだが、直ぐに飲み込むとエイミーに厳しく指摘される。
こんな量で足りるのかと思ったものの、咀嚼回数が多いからか、グロリアーナの胃が小さいからか、意外にも満腹になった。
時計を見ると、七時半。
普段のマクシミリアンの起床時刻だ。
実際には、起こしに来たケビンとの攻防が数分続く。
「お嬢様…殿下と例のご令嬢の事でお悩みなのでしょうけれど…」
躊躇いながら発せられたエイミーの言葉に、思わず、ドキリとする。
例のご令嬢の事を、思い切ってグロリアーナに相談出来ていれば、今の状況が少しはましなものになっていたのかもしれない。
だが、婚約者とは言え、マクシミリアンの印象だけで確たる情報もないままに他の人間に対して疑念を抱かせる訳にはいかなかったし、ただでさえ、公爵令嬢として多忙なグロリアーナに面倒を掛けたくなかった、と言うのは言い訳に過ぎないだろうか。
「どうぞ、一人で抱え込まないでくださいませ。わたくしは、いつでもお嬢様のお味方ですから」
「…判っているわ、エイミー」
「それに、大神殿の女神様像が光ったと言うお話じゃありませんか。きっと、今回も素敵な『悪戯』をしてくださいますよ」
「ふふ、そうかもしれないわね」
「漸く笑ってくださいましたね。お時間になるまで、どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
空になった器を持ち、ホッとしたような顔で退室するエイミーに、マクシミリアンは何とも言えない苦い気持ちになった。
エイミーはグロリアーナの乳姉妹と聞いているから、彼女の心の機微に敏いのも事実だろうけれど、マクシミリアンと対する時は常に冷静で、例のご令嬢に関しても落ち着いて対処しているように見えたグロリアーナが、エイミーの前では苦悩する姿を隠していないのだ、と気が付いて。
こんなにもグロリアーナについて考えるのは、八年間も婚約しているのに、全く知らなかった彼女の姿に触れたからだ。
ふぅ、と大きく一つ深呼吸する。
起床してから初めて一人になって、マクシミリアンは自分の置かれた状況を、漸く少し落ち着いて考えられるようになった。
何がどうしてこうなったのか、さっぱり理解できないが、今現在、マクシミリアンの意識はグロリアーナの体の中にあるようだ。
ここは、ラウリントン公爵邸のグロリアーナの私室で間違いない。
(まさか…これが、女神の悪戯…?)
昨日、王都にある大神殿の女神フロリーナ像が、これまでに記録されていない規模の発光現象を引き起こした。
日の曜日で大勢の信者が祈りを捧げている時間だった為、瞬く間に情報は王都全都に広がった。
現在の大神官は、マクシミリアンの大叔父にあたるチェスターで、多忙な両親に代わり、マクシミリアンが近日中に詳細な報告を直接聞きに行く手筈になっていた。
王家では、フローニカ王家の祖は、女神フロリーナと人間の男性の間に生まれた男児である、と密かに言い伝えられている。
だから、女神の血を引いている王家の人間が神官となって信仰を捧げているのだ。
フロリーナの像は、過去にも、数十年に一度の頻度で光っている。
光った後の出来事は、その時々によって異なるけれど、中でも多いのが「女神の悪戯」と呼ばれる事象だ。
フロリーナは、自由奔放で気分屋の大地の女神である。
かつて仕掛けられた悪戯は、真冬に森一杯に満開の花が咲いた、であるとか、真夏に湖が一面凍り付いた、であるとか、自然現象に関するものが多かったと記憶しているけれど、人の精神と肉体を入れ替える、なんて事もできるのだろうか。
そこまで考えて、マクシミリアンは、今現在の己の肉体がどうなっているのか、初めて思い至った。
状況から推測するに、マクシミリアンとグロリアーナの精神と肉体が入れ替えられている。
ならば、今、グロリアーナは『マクシミリアン』として王城にいる筈だ。
今朝は、昨夜、終わらせられなかった書類が幾つか残っている。
グロリアーナが目を通しても問題のない書類だったかどうかは、記憶にない。
彼女は、上手くやり過ごしているだろうか。
ラウリントン公爵家に早馬が来ないと言う事は、彼女も入れ替わりを告白していないと言う事だろうか。
何よりも、真っ先に心配になったのが、男の体に閉じ込められてしまったグロリアーナの精神状態だった。
公爵令嬢として、王子の婚約者として、異性との接触を極めて限定されているグロリアーナは、ただでさえ、見慣れぬ体に困惑しているだろう。
その上で、男性の朝の生理現象を受け流せるだろうか。
物凄く言い訳がしたい。
別に疚しい事を考えていたわけではなくて、これは仕方のない事なんだ、と。
いや、だが、グロリアーナに何も問われないうちに自分から口にするのも墓穴を掘るようで躊躇う。
そわそわと落ち着かない気分で、グロリアーナの私室を無駄にウロウロしてみる。
ベッドサイドのチェストの上に、本が一冊、置いてあった。
エイミーが、「夜更かしした」と断定した原因だろう。
確か、発売したばかりの小説だ。
「へぇ…」
読んだ事はないけれど、巷で人気の恋愛小説と言う事は知っている。
高慢な王太子の婚約者が出て来るのとは異なるシリーズもので、王宮を舞台にしたミステリー要素の強い作品と聞いた。
マクシミリアンが見掛ける時にはいつも、グロリアーナは政治学や経済学の難しい本ばかりを読んでいるから、大衆小説には興味がないのだと思い込んでいた。
しかし、可愛い物が好きなグロリアーナなのだから、こういうものに興味があっても不思議ではないのかもしれない。
これもまた、マクシミリアンが知っていると思い込んでいて、知らなかったグロリアーナの一面なのだろう。
興味を惹かれたマクシミリアンは、エイミーが、馬車の用意ができた、と呼びに来るまで、小説を読んでみる事にしたのだった。
マクシミリアンは、唯一、一人になれるバスルームで、便座に腰を下ろして頭を抱えていた。
視界を埋め尽くすのは、藍色だと言うのに、何故か内側から輝く巻き毛。
櫛を通していない状態だと爆発するように広がっており、だから、グロリアーナはいつも、あんなにきつく髪を巻いているのか、と、何処か冷静な頭の一部で理解する。
俯いた視界に、下着をつけていない豊かな胸が見えて、マクシミリアンは頬を真っ赤に染めると、反射的に目を固く瞑った。
(すまない、グロリアーナ嬢、不可抗力だ…!)
決して下心があったわけではなく、寝惚けた頭で、
「…何だ、これ…?」
と、むにゅ、と揉んでしまったのは、つい先程の事。
――今朝の目覚めは、これまでの人生の中でも、一、二を争う穏やかさだった、と言っていい。
花の香りだろうか、いい香りの寝具に包まれ、薄絹越しの朝日は程よい明るさで目覚めを促す。
耳元で呼び掛けるのは、軽やかな女性の声。
お嬢様。グロリアーナお嬢様。
「お寝坊でございますよ」
(寝坊?!)
その言葉に、頭の一部が一気に覚醒した。
気になる言葉が別に聞こえた気もするけれど、寝坊、と言う言葉のインパクトに吹き飛んでしまう。
週末の間に終えてしまいたかった執務が終わらず、昨夜は日付が変わってからも、暫く仕事をしていた為、疲れ切っていた自覚はある。
この所、ややこしい案件が立て続いていて、国王である父も、王妃である母も多忙を極めている。
その結果、十八歳の誕生日を迎え、成人王族になったマクシミリアンにも、仕事が回って来ているのだ。
学園を卒業するまでは公的には準成人扱いではあるけれど、執務は待ってくれない。
山積みとなっていた書類のうち、起床してから見よう、と思っていたものも幾つか残っている。
卒業まであと半年。
必要な単位は取り終えているのだし、これだけ多忙なのだから、学園を暫く休んで執務に専念してもいいじゃないか、と侍従のケビンは言うけれど、今、あの令嬢から目を離すわけにはいかない。
友人達にも、彼女が何か仕出かさないか見張っておくように依頼はしているけれど、詳しい事情を話せない以上、マクシミリアンが学園から離れるのは難しい。
その為、どれだけ無謀でも、執務と学生生活を両立する必要があるのだ。
ただでさえ、マクシミリアンは、朝が苦手だと言う自覚がある。
いつもは侍従のケビンが寝坊する前に叩き起こしてくれると言うのに、何でこんな事に。
寝起きの混乱した頭で慌てた彼は、腹筋だけで起き上がろうとして…腹に力が入らず、ぺしょん、と寝台に倒れ伏した。
「…え…?」
目の前で顔を覗き込んでいたのは、見知った侍女だった。
グロリアーナの侍女エイミーだ。
「まぁ、漸くお目覚めですか?あれだけ、わたくしが申しましたのに、昨夜は夜更かしなさったのですね?あぁあぁ、言い訳は伺いませんよ、わたくしにはぜぇんぶ判っております。ですけれど、そのお陰で、三十分もお寝坊なさっておりますよ。登校のお時間に間に合うように、本日は、ストレッチを中止に致しましょうね」
…確か、エイミーは寡黙な侍女だった筈。
婚約者とのお茶会で、マクシミリアンとグロリアーナが顔を合わせる間、マクシミリアンの侍従ケビンとグロリアーナの侍女エイミーは、共に部屋に控える事になる。
ケビンはエイミーが気になっているらしく、折を見て声を掛けるのだが、どれだけ話し掛けても返事は一言なのだ、と嘆いていた。
いや、そんな事よりも、何故、自分の部屋にグロリアーナの侍女が平然とした顔で立ち入っているのか。
(まさか、グロリアーナ嬢が侵入を指示したのか…?いや、あれだけ礼儀を重んじるグロリアーナ嬢に限って、そんな事をする筈が…)
混乱したまま、マクシミリアンは、エイミーにバスルームへと追い立てられる。
「まだ夢の世界にいるお顔をしてらっしゃいますよ。冷たいお水でお顔を洗えば、きっと目が覚めますわ」
その言葉に誘導されるように、バスルームの冷たい水で顔を洗って…余りにも滑らかで柔らかな手触りに、マクシミリアンの目が覚めた。
「な…ん…?」
朝だ。
朝なのだから、ここにはチクチクと生え掛けた髭があって然るべきだ。
髭、と言っても、マクシミリアンのそれは、まだ貧相と言うかぽそぽそとしたもので、父のように立派に蓄えられそうにない。
却ってみっともないから、丁寧に髭を剃るのだけれど、流石に一晩経てば元通りだ。
なのに、髭が、ない。
それどころか…朝、と言えば、ここ数年毎日お定まりの生理現象を感じられず、恐る恐る己の下半身に目を遣ろうとして…視界に映ったのは、薄い夜着を押し上げる豊かな二つの山だった。
「…何だ、これ…?」
全く予想がつかなかった、と言えば、嘘になる。
九割方理解していながら、到底現実と思えずに、掴んでしまった。
両の手で。
思い切り。
むにゅっと。
…想像よりも、弾力があった。
もっと柔らかく溶けるような触感のものだと勝手に想像していたけれど、それは人体として当然の柔らかさしか備えていなかった。
何かが振り切れたのか、冷静にそんな事を考えながら、渾身の力を指先に籠める。
何故なら、思い切り力を入れた筈なのに、全く痛みを感じられなかったからだ。
掴まれている、と言う感触はあるけれど痛みがなくて、困惑しながら両手を見ると、その余りの華奢さと指の細さに驚いた。
乳房が生えただけではなく、手まで小さくなっているようだ。
おまけに、股間の感触が確かならば、生まれた時から長い付き合いのムスコまで、行方不明になっている。
「ぃゃぃゃぃゃ…?」
ふるふると頭を横に振ったその時、漸く、視界の隅で揺れている藍色に気が付いた。
頭が重いのは、髪が腰まで伸びているせいらしい。
何処かで見たような色だ…と思った瞬間、サーッと血の気が下がった。
見た事がある筈だ。
この類希な藍色の髪を、マクシミリアンはよく知っている。
恐る恐る、バスルームに設置された全身鏡を覗き込む。
全裸になる場所に全身鏡とはどう言う事だ、と普段ならば文句の一つも言っただろうけれど、今はそれどころではない。
果たして、鏡に映っていたのは、星空を閉じ込めたと評される藍色の巻き毛を持ち、サファイアの如く青く輝く瞳、形の良い鼻に、小さくふっくらとした薔薇色の唇を持つ美貌の公爵令嬢グロリアーナ・ラウリントンだった。
驚いたような顔でこちらを見返しているけれど、その表情は、マクシミリアンの見慣れたグロリアーナのものとは全然違う。
嫌な予感にマクシミリアンは、傍にあった便座に思わず座り込んだ。
「どんな冗談だよ…っ」
暫く頭を抱えていると、こんこん、とバスルームの扉がノックされる。
「お嬢様?ご気分でもお悪いのですか?例のご令嬢の件で、悩んでいらっしゃいましたものね。ストレスで胃がやられてしまいましたか?何でしたら、本日は、学園をお休みなさってもよろしいのですよ?えぇえぇ、そう致しましょう。あの無神経な殿下も、流石にお嬢様のご苦労に気が付かれる事でしょう」
(…無神経な殿下、って、俺の事だよな…)
余りの言われようだが、この所、例のご令嬢の事で、グロリアーナとの間の空気が重苦しいものになっていたのは事実だ。
エイミーはグロリアーナの侍女なのだから、彼女の肩を持つのは当然だろう。
…この状況で、実は自分こそがマクシミリアンだ、とエイミーに告白したらどうなる?
グロリアーナに忠実な侍女が卒倒するのは確実だし、グロリアーナがストレスによって精神的に不安定になった、として、婚約解消まで有り得るかもしれない。
それは、マクシミリアンの本意ではないし、到底、言い出せる筈がない。
「…お嬢様?本当にどうなさったのですか?いつもでしたら、わたくしの過ぎた物言いを注意なさるのに……本当にお体の具合がよろしくないのでは?」
エイミーは、わざとマクシミリアンへの愚痴を口にしていたらしい。
不安そうなエイミーの声に、マクシミリアンは、慌てて、
「夜更かししたせいか、まだ、はっきりと目が覚めていなくって」
と反射的にグロリアーナらしさを意識しながら、返事をする。
聞こえて来る声が己の声ではない、と言うのは、何と違和感がある事か。
だが、演技ならば、王族として生まれた以上、人前では常にし続けているようなものだから、それ程、難しいとは感じない。
「では、本日はお休みに?」
「…っ、大丈夫よ、学園には行くわ」
緊急事態なのだ。
エイミーがずっと傍に控えていると、偽者だと見抜かれてしまうかもしれない。
危険を回避する為には、普段通りの生活を送る方がいいだろう。
「…畏まりました。お着替えのご準備が出来ましたので、どうぞ、こちらへ。ですが、お嬢様、御身は大事なお体なのですよ。くれぐれも、ご自愛くださいませね」
「えぇ、有難う、エイミー」
バスルームの中で、ふぅ、と大きく深呼吸して気合を入れると、マクシミリアンは扉を開ける。
何が起きたのか判らないが、今、マクシミリアンの意識はグロリアーナの体の中にある、と考えるのが自然だ。
見慣れぬ部屋は、グロリアーナの私室なのだろう。
これまで、女性の部屋に足を踏み入れた事のないマクシミリアンは、物珍しくてきょろきょろしてしまいそうな己を律する。
部屋の壁紙は、薄いクリームに、クリームイエローの小花が散ったものだった。
常に冷静沈着なグロリアーナは、一見すると冷たく見られがちだけれど、可愛らしいものが好きである事を、マクシミリアンは長い付き合いで気が付いている。
婚約者となって八年。
国の利益の為に王家側から持ち掛けた縁談を、ラウリントン公爵家が受けた事による関係だ。
互いの好意によって結ばれた婚約ではないけれど、それは、有り体に言えば仕方のない事だと思っている。
王族に生まれた以上、私心よりも国の事情を優先するのは当然。
そして、建国から王家に付き従っているラウリントン公爵家にとっても、国を支える一助となる事は、当然だろう。
グロリアーナは、申し分のない婚約者だ。彼女以上に、王子妃として相応しい令嬢はいないと思う。
…しかし、そこに、異性に抱く愛情や恋着があるのか、と問われると、マクシミリアンは素直に頷けなかった。
彼女の真面目な性格も、聡明な頭脳も、確かに好ましいとは思っているものの、それだけだ。
けれど、それだけで、結婚し、共に歩んでいくには十分だとも思っていた。
それは、グロリアーナも同様だろう。
マクシミリアンに恋い慕う視線を向ける令嬢は少なくないが、グロリアーナからは、一度も同様の熱を向けられた事はない。
そもそも、マクシミリアンには、異性を恋う気持ちがよく判らないし、恐らくそれは、グロリアーナも同じだ。
幼い頃から、家に定められた相手と添うと判っているのだから、下手に恋愛感情など知らない方がいい。
「お手伝いさせて頂きます」
バスルームから出たマクシミリアンの夜着を、テキパキとエイミーが脱がせていく。
幼い頃は着替えを侍従に任せていたものの、ここ数年は全部自分でしていたマクシミリアンは面食らったが、大人しくじっとしていた。
貴族令嬢が一人では着替えないと言う知識位はある。
豊かな胸は下着で支えられる事で、動きに違和感がなくなった。
制服のスカートは足元からスースーと空気が抜けて、何だか心許ない。
ブーツはヒールが太く低いものだけれど、爪先に体重が掛かって何だか重心が覚束ず、変な感じがする。
「それでは、お化粧と髪結いを致しますので、どうぞ、こちらへ」
マクシミリアンは、無言で鏡の前に腰を下ろした。
エイミーの手によって、マクシミリアンには正体不明の液体やらクリームやらが、次々と塗りこまれていく。
大分、状況を受け止められるようになって来たと思うけれど、鏡に映る顔がグロリアーナのものである事には、慣れる気がしない。
こうして素顔のグロリアーナを見るのは、何年振りだろうか。
学園に入学してからのグロリアーナは、人の目を意識してか、常にきっちりと化粧を施している。
彼女の立場上必要なのだろうけれど、久し振りに見た素顔のグロリアーナは、普段よりも幼く、柔らかい表情に見えた。
その素肌は白く透き通り、色を足さずとも色づいた唇も潤っている。
化粧で隠してしまう事が、何だか勿体なく思われた。
グロリアーナには、グロリアーナの目指す姿があるのだろう、と言う事は、マクシミリアンにも判る。
けれど、彼女の外見だけで、あれこれ言う輩が存在する事も事実だ。
巷では、王太子の婚約者として身分を嵩に着た高慢な令嬢の登場する恋愛小説が、流行っているらしい。
その話では、王太子は、務めも果たさず己の権威ばかり振り翳す婚約者に見切りをつけて、身分は低いながらも健気に王太子を慕って努力するヒロインを選び、国中が祝うのだそうだ。
勿論、マクシミリアンが読んだわけではなく、とある令嬢が一方的に話していたのを耳にしただけだ。
グロリアーナは、真面目に王子妃教育に向き合い、王家が望む以上の成果を上げる完璧な婚約者だ。
けれど、それを知る者はマクシミリアンの周辺の人間だけ。
グロリアーナは、他の令嬢達と親しく付き合っていないから、準成人扱いの現在、人前で彼女の能力を披露する機会がない。
そのせいなのか、マクシミリアンとの関係が、恋人同士のそれとは異なると言うただ一点のみで、流行の小説に入れ込んだ二人の事をよく知りもしない者達に、
「あのようなきつい顔立ちなのだから、気位が高く高慢に違いない」
「第一王子の婚約者と言う立場を振り翳し、身分の低い者を嘲笑っているに違いない」
などと陰口を言われている。
政治の中心から遠く離れた身であるからこそ、正しい情報に触れられないのだろうが、公爵家と言う貴族の頂点の家に生まれ、何不自由ない生活を送り、高い教養と美しい容姿を持つグロリアーナへの妬みがないとは思えない。
小説は創作物に過ぎないと言うのに、もしも、現実になったら、自分にも王族の婚約者になる可能性があるとでも思うのだろうか。
グロリアーナ本人の耳に入らないよう、気を付けているつもりではあるけれど、人の口に戸は立てられない。
ならば。
人々が勝手に抱いているイメージを、変えてみるのも一つの手ではないか、とマクシミリアンは思う。
王族とて、そのような印象操作は日頃から行っている。
例えば、きつく巻いている髪を、もっとふんわりさせてみるとか。
目元も、アイラインをこんなにしっかり引かなければ、素顔の印象通りに柔らかくなる筈だ。
グロリアーナが聞いてくれるようならば、提案してみるのもいいかもしれない、と思いついて、マクシミリアンはこれまで、彼女にイメージ作りを一任していた事に気が付いた。
周囲の声を聞いていながら、グロリアーナの意志を尊重すると無意識に言い訳して、彼女に何の提案もしなかったのは、彼自身だ。
グロリアーナは知識豊富で、王宮の文官達と変わらぬ議論が出来るから、どうしても彼女との会話は、国政に関するものが多い。
固い会話ばかりで、婚約者らしく互いの内面に踏み込むような会話がなかったのは事実。
――…その結果が、今の、何処かぎこちない関係だ。
業務連絡と討論ばかりで、婚約者ではなく、上司と部下のようだ、と友人に言われた事を思い出す。
状況が悪い、と他の要因に理由を押し付けていたけれど、グロリアーナと正面から向き合う事を避けて来たのは、自分だ。
少し落ち込んだマクシミリアンに、エイミーが、
「お化粧と髪結いが終わりました」
と声を掛ける。
「えぇ…有難う」
しっかりと引かれたアイラインが、少し吊り目のグロリアーナの大きな瞳を強調している。
腰までの長い髪は、一筋の乱れもなくきつく巻かれる事で、背の中程までの長さに収まっていた。
恋愛小説の挿絵に登場する高慢な令嬢そのものの姿に、マクシミリアンは、あの挿絵は意図的にグロリアーナを貶める目的で描かれているのではないか、とすら疑念を抱く。
一時間掛かった身支度が漸く終わり、思わず溜息を吐いたマクシミリアンの前に、朝食が運ばれて来た。
その内容にギョッとしたものの、そこは王族。何とか表情には出さずに済む。
「お嬢様、予定が大分押しております。ですが、一口を三十回咀嚼する事はお忘れになりませんよう。これだけは、譲れませんよ」
予定が押している、と聞いて、時計に目を遣ったが、まだ、時刻は朝の七時二十分だ。
普段ならば、マクシミリアンはまだ起きていない。
一体、グロリアーナは何時に起きていると言うのか。
何よりも、公爵令嬢の朝食とは思えないメニューに戸惑う。
栄養豊富だが余り美味とは言えない雑穀をトロトロに煮込んだお粥に、サラダ。
それだけ。
お菓子で朝食を済ませるご令嬢もいる中で、グロリアーナの食事は、体の事を考えてのものなのだろう。
そう言えば、と、マクシミリアンはエイミーの言葉を思い出す。
ストレッチ、と言っていた。
グロリアーナは毎朝、ストレッチをして、味よりも栄養を重視した食事を摂っているのか。
恐らくは、公爵令嬢として、第一王子の婚約者として、人目を意識しての事だ。
真面目で誰よりも己を律する女性だと思っていたが、こんな事をしているとは、全く知らなかった。
マクシミリアンは初めて知るグロリアーナの一面に思いを馳せながら、朝食を口に運ぶ。
(…決して、好んで食べたい味ではないな…)
いつもは片手間に書類を確認しているから、きちんと一口ごとに三十回咀嚼しているかカウントしているエイミーの視線に落ち着かない。
粥など、咀嚼しようにも口内で溶けてしまうのだが、直ぐに飲み込むとエイミーに厳しく指摘される。
こんな量で足りるのかと思ったものの、咀嚼回数が多いからか、グロリアーナの胃が小さいからか、意外にも満腹になった。
時計を見ると、七時半。
普段のマクシミリアンの起床時刻だ。
実際には、起こしに来たケビンとの攻防が数分続く。
「お嬢様…殿下と例のご令嬢の事でお悩みなのでしょうけれど…」
躊躇いながら発せられたエイミーの言葉に、思わず、ドキリとする。
例のご令嬢の事を、思い切ってグロリアーナに相談出来ていれば、今の状況が少しはましなものになっていたのかもしれない。
だが、婚約者とは言え、マクシミリアンの印象だけで確たる情報もないままに他の人間に対して疑念を抱かせる訳にはいかなかったし、ただでさえ、公爵令嬢として多忙なグロリアーナに面倒を掛けたくなかった、と言うのは言い訳に過ぎないだろうか。
「どうぞ、一人で抱え込まないでくださいませ。わたくしは、いつでもお嬢様のお味方ですから」
「…判っているわ、エイミー」
「それに、大神殿の女神様像が光ったと言うお話じゃありませんか。きっと、今回も素敵な『悪戯』をしてくださいますよ」
「ふふ、そうかもしれないわね」
「漸く笑ってくださいましたね。お時間になるまで、どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
空になった器を持ち、ホッとしたような顔で退室するエイミーに、マクシミリアンは何とも言えない苦い気持ちになった。
エイミーはグロリアーナの乳姉妹と聞いているから、彼女の心の機微に敏いのも事実だろうけれど、マクシミリアンと対する時は常に冷静で、例のご令嬢に関しても落ち着いて対処しているように見えたグロリアーナが、エイミーの前では苦悩する姿を隠していないのだ、と気が付いて。
こんなにもグロリアーナについて考えるのは、八年間も婚約しているのに、全く知らなかった彼女の姿に触れたからだ。
ふぅ、と大きく一つ深呼吸する。
起床してから初めて一人になって、マクシミリアンは自分の置かれた状況を、漸く少し落ち着いて考えられるようになった。
何がどうしてこうなったのか、さっぱり理解できないが、今現在、マクシミリアンの意識はグロリアーナの体の中にあるようだ。
ここは、ラウリントン公爵邸のグロリアーナの私室で間違いない。
(まさか…これが、女神の悪戯…?)
昨日、王都にある大神殿の女神フロリーナ像が、これまでに記録されていない規模の発光現象を引き起こした。
日の曜日で大勢の信者が祈りを捧げている時間だった為、瞬く間に情報は王都全都に広がった。
現在の大神官は、マクシミリアンの大叔父にあたるチェスターで、多忙な両親に代わり、マクシミリアンが近日中に詳細な報告を直接聞きに行く手筈になっていた。
王家では、フローニカ王家の祖は、女神フロリーナと人間の男性の間に生まれた男児である、と密かに言い伝えられている。
だから、女神の血を引いている王家の人間が神官となって信仰を捧げているのだ。
フロリーナの像は、過去にも、数十年に一度の頻度で光っている。
光った後の出来事は、その時々によって異なるけれど、中でも多いのが「女神の悪戯」と呼ばれる事象だ。
フロリーナは、自由奔放で気分屋の大地の女神である。
かつて仕掛けられた悪戯は、真冬に森一杯に満開の花が咲いた、であるとか、真夏に湖が一面凍り付いた、であるとか、自然現象に関するものが多かったと記憶しているけれど、人の精神と肉体を入れ替える、なんて事もできるのだろうか。
そこまで考えて、マクシミリアンは、今現在の己の肉体がどうなっているのか、初めて思い至った。
状況から推測するに、マクシミリアンとグロリアーナの精神と肉体が入れ替えられている。
ならば、今、グロリアーナは『マクシミリアン』として王城にいる筈だ。
今朝は、昨夜、終わらせられなかった書類が幾つか残っている。
グロリアーナが目を通しても問題のない書類だったかどうかは、記憶にない。
彼女は、上手くやり過ごしているだろうか。
ラウリントン公爵家に早馬が来ないと言う事は、彼女も入れ替わりを告白していないと言う事だろうか。
何よりも、真っ先に心配になったのが、男の体に閉じ込められてしまったグロリアーナの精神状態だった。
公爵令嬢として、王子の婚約者として、異性との接触を極めて限定されているグロリアーナは、ただでさえ、見慣れぬ体に困惑しているだろう。
その上で、男性の朝の生理現象を受け流せるだろうか。
物凄く言い訳がしたい。
別に疚しい事を考えていたわけではなくて、これは仕方のない事なんだ、と。
いや、だが、グロリアーナに何も問われないうちに自分から口にするのも墓穴を掘るようで躊躇う。
そわそわと落ち着かない気分で、グロリアーナの私室を無駄にウロウロしてみる。
ベッドサイドのチェストの上に、本が一冊、置いてあった。
エイミーが、「夜更かしした」と断定した原因だろう。
確か、発売したばかりの小説だ。
「へぇ…」
読んだ事はないけれど、巷で人気の恋愛小説と言う事は知っている。
高慢な王太子の婚約者が出て来るのとは異なるシリーズもので、王宮を舞台にしたミステリー要素の強い作品と聞いた。
マクシミリアンが見掛ける時にはいつも、グロリアーナは政治学や経済学の難しい本ばかりを読んでいるから、大衆小説には興味がないのだと思い込んでいた。
しかし、可愛い物が好きなグロリアーナなのだから、こういうものに興味があっても不思議ではないのかもしれない。
これもまた、マクシミリアンが知っていると思い込んでいて、知らなかったグロリアーナの一面なのだろう。
興味を惹かれたマクシミリアンは、エイミーが、馬車の用意ができた、と呼びに来るまで、小説を読んでみる事にしたのだった。
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