女神様の悪戯で、婚約者と中身が入れ替わっています。

緋田鞠

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<3/グロリアーナ>

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 グロリアーナは毎朝、七時四十五分に馬車で家を出て、道路の混雑状況で多少前後はするものの、八時から八時十分の間には学園に到着している。
 学園側の警備体制への配慮だ。
 王立学園は、王都に作られた学び舎である。
 十四歳になる年から入学出来る五年制の男女共学校で、生徒全員が学ぶ一般教養から、男子生徒のみ学ぶ馬術や剣術、女子生徒のみが学ぶ刺繍や音楽など、将来、フローニカ王国を背負うに相応しい幅広い教育が提供されている。
 王立学園に通う生徒の九割が貴族階級、残りの一割は平民の中でも貴族と肩を並べる富裕層だ。
 あらゆる目的の犯罪者に狙われやすい生徒達を、護衛や従者なしで預かる学園には、学園専属の警備兵が存在する。
 特に現在は、フローニカ王国の第一王子マクシミリアンと、第二王子オズワルドが在籍している事から、例年よりも一層強固な警備が敷かれていた。
 マクシミリアンの婚約者であるグロリアーナもまた、護衛対象だ。
 通常、警備兵は高い塀で外界と隔たれた広大な敷地内外の巡回と、校門での身分照会が主な任務になるが、王族と彼等の婚約者に関しては、登校から下校まで常に目を離さずに護衛する任務が追加される。
 但し、円滑な学園生活を送る事が第一義である為、如何にも護衛らしい姿ではない。
 清掃スタッフに紛れていたり、教師の一員だったり、生徒として共に授業を受けていたり。
 制服を着た警備兵が直ぐ脇を歩いているからこそ、彼等の姿は目立たず、恐らく、その存在に気づいている生徒は殆どいないだろう。
 グロリアーナも、入学したばかりの頃は気づいていなかった。
 生まれてこの方、一人で自由に行動するなど、自室以外で許された試しもないのだ。
 誰かが傍にいる事に慣れているとは言え、一人、と言うのは新鮮で心が躍った。
 入学から二ヶ月が過ぎたある日の事。
 早くに目が覚めたグロリアーナは、折角ならば学園での一人時間を満喫しよう、と普段よりも三十分早く登校した。
 自宅が遠方にある生徒が暮らす寮が学園の敷地内に置かれている為、学園内の各施設は七時半には開いている事を知っていたからだ。
 グロリアーナは毎朝、登校するとまず、図書館を訪れる。
 そこでの行動は日によって異なるが、その日は、長く自由時間がある事から、気になっていた持ち出し禁止の本を読んでいた。
 早朝の図書館を訪れる人は少なく、グロリアーナの視界に映るのは、司書、清掃スタッフ、教師、最上級生が数人、そして、同じ特待クラスの男子生徒。
 最初に引っ掛かったのは、男子生徒の存在だ。
 彼は、寮生ではない。
 入学後の自己紹介では、王都を拠点としている新興の商会の三男坊だと話していた。
 登校時によく見掛けるから、早めの登校組である事は確かだろうけれど、普段よりも三十分も早いのは違和感がある。
 王都住まいの彼が、たまたまグロリアーナと同じく早起きして、たまたまグロリアーナと同じく図書館を利用していた…?
 寮生や最上級生であれば、早朝、図書館を利用していても気にならなかっただろう。
 だが、そんな些細な引っ掛かりから、グロリアーナは気づいてしまう。
 広い学園の敷地内のあちらこちらで作業している清掃スタッフなのに、どうして、グロリアーナが何処に足を運んでも見掛ける顔が、同じなのか。
 視界の隅で新聞を読んでいるのは天文学の教師だが、元々、授業数の少ない彼は、今日、どの学年の授業も受け持っていないのに、何故、こんなに早く出勤しているのか。
 何よりも、同学年の少年達よりも随分と大柄な彼は、本当に同い年なのだろうか?
 そこまで考えて、あぁ、と得心する。
 彼等は、グロリアーナに王家からつけられた護衛なのだ、と。
 グロリアーナに何も告げられていないのは、気を遣わせない為か、それとも、監視目的でもあるからか。
 そこまで考えて、グロリアーナは、護衛の存在に気づいた事を伏せると決めた。
 同時に、例え早起きしても、学園に到着する時刻は変えない事にする。
 何しろ、よく見てみると、清掃スタッフのバケツには水が入っていないし、教師の読んでいる新聞は昨日のものだし、男子生徒のシャツはボタンを掛け違えている。
 グロリアーナの登校を聞いて、慌てて準備した様子が窺えた。
 グロリアーナに護衛がつくのは、第一王子マクシミリアンの婚約者だからだ。
 生まれた時から従者や護衛に囲まれて育ったグロリアーナにとって、例え『監視』であろうと、気にする事はない。
 何しろ、彼女には何も憚る所はないのだから。
 何事もなく順調に物事が進めば、未来の王妃となるグロリアーナだけれど、彼女は、それに驕る事はなかった。
 王妃とは、王の妻でありながらも、市井の人々の妻とは立場が異なる。
 夫と妻は対等の立場だが、王と王妃はそうではない。
 王妃は、王の伴侶であると同時に、第一の臣下であり、最大の理解者でなければならない。
 建国から長くフローニカ王家を支え続けたラウリントン公爵家に生まれた娘として、グロリアーナはそう考えていた。
 誰にも負担を掛けずに済むのであれば、人の少ない早朝の図書館は捨てがたい誘惑だったけれど、何らかの報酬で感謝を示す事の出来るラウリントン公爵家の使用人以外に掛ける負担は、本意ではない。
 何よりも、現時点でのグロリアーナは、王子の婚約者に過ぎず、王族の一員に加わっているわけではない。
 『婚約者』と言う、ある意味、不安定な身分に、彼女は驕る気はなかった。
 以来、グロリアーナは判で押したように規則正しい生活を送っている。
 遅参するのも彼等の護衛スケジュールに影響を与えてしまうと思うと、例え、寝坊しても登校時間を変更したくはない。
 それ位ならば、朝のルーティンを調整する方がいい。
 八時過ぎに登校し、図書館で時間を過ごし、四十五分には馬車寄せに赴いて登校してくるマクシミリアンを待つ。
 マクシミリアンと朝の挨拶をしたら、彼の半歩後ろに付き従って教室まで移動するけれど、その距離は、他人よりは近く、恋人よりも遠いものだ。
 道中の会話も特にない。
 同行の必要な公務が予定されていれば、人に聞かれても障りのない会話程度はするものの、基本は、無言だ。
 その姿が、堅物であるとか、冷徹だ、と言われている事も、知っている。
 公爵令嬢として、王子の婚約者として、隙のない対応を取らざるを得ないけれど、それもまた、自分の身分や地位を鼻に掛けている、と言われている事も、理解している。
 民の望む親しみやすく気安い王子妃にならねばならないのかもしれない、と思う反面、グロリアーナにもそうする理由があるのだ。
 会話を控えるのは、登校時のマクシミリアンはいつも何事かを考えているようだから、その思考を邪魔しない為だ。
 それでも傍にいるのは、グロリアーナが傍らにある事で、用もなく彼に話し掛けて彼の思考を中断させようとする生徒を牽制する為だ。
 また、他の生徒と一定の距離を置くのは、王子妃を輩出するラウリントン公爵家と、特定の家門との癒着を疑われない為だ。
 グロリアーナなりの理由はあっても、その辺りを、マクシミリアンとは一度も話した事がない。
 婚約者となって長いものの、国の将来像や、今現在発生している問題の解決策について話す事は容易でも、グロリアーナ個人の思いについて具体的に触れるのは、どうにも気恥ずかしかった。
 いや、マクシミリアンは、グロリアーナの話になど興味がないだろう、と思っているのもある。
 彼にとって必要なのは、身分や能力を満たした王子妃、婚約者だ。
 偶然、その座に相応しかったのがラウリントン公爵令嬢であって、『グロリアーナ』である必要はないのだ、と言う何処か卑屈な気持ちがあるのも否めない。
 だから、だろうか。
 あの令嬢の存在に、想像以上の拒否反応を抱いてしまったのは。
 アシュリー・ハミルトン男爵令嬢。
 隣国であるエアリンド帝国から、今年度、留学して来た女子生徒だ。
 彼女は、編入試験で優秀な成績を修め、特待クラスに編入してきた。
 それだけならば、優秀な生徒が増えた、と言う話で済むのだが、転入後の彼女の行動はグロリアーナの目には、甚だ、不可解だった。
 文化も常識も、国が変われば異なる事位、王子妃教育を受けているグロリアーナは知っている。
 知っているけれど、アシュリーの行動は、エアリンド帝国の規範からも外れている筈だ。
 まず初めに違和感を覚えたのは、男爵令嬢である彼女が休み時間になる度、クラスメイト達に誰彼構わず、親し気に話し掛ける事だった。
 一見すると、それは学園生活の建前である『生徒は皆平等』に則った行動だ。
 しかし、実際には社交界の縮図である学園において、授業に関連する事ならばともかく、特に用もないのに身分が下の者から上の者に話し掛ける事はない。
 だが、彼女は、単なる雑談の為に声を掛けているのだ。
 その上、会話の中でさり気なく異性の手や腕に触れ、時には髪に手を伸ばす。
 例えば、大袈裟に驚いて隣にいる男子生徒の腕に捉まったり、「寝癖ついてますよ」と笑いながら頭を撫でたり。
 勿論、未婚の、ましてや婚約者でもない異性の肌に触れる事は、男女どちらにとってもご法度だ。
 婚約者ならば、軽いスキンシップは許容されるけれど、婚約者となって八年のグロリアーナだって、マクシミリアンに触れるのは、エスコートの時だけだ。
 けれど、アシュリーにはそんな事は関係ないらしい。
 そもそもアシュリーは、編入の話が出た段階で、大きな注目を浴びていた。
 令息ならばともかく、令嬢、それも男爵令嬢が留学するなど、滅多にある話ではない。
 しかも、学生達の関係性が出来上がっている最上級生になってから、となれば、関心を引くのも当然だ。
 ただでさえ、人々の関心を引く要素が揃ったアシュリーがより話題となったのは、彼女が、人目を惹く美しい令嬢だったからに他ならない。
 ストロベリーピンクの真っ直ぐな髪は常に背中に流されており、アメジストの瞳は大きく潤んだように輝いている。
 透き通るように色白で、頬は薔薇色、小さな唇は艶やかだ。
 少女から女性に変わっていく年齢故の、未完成の美しさ。
 眩いばかりの生命力に輝くアシュリーは、すれ違う誰もが目を留める美少女で、女子生徒達も初見で驚いたように見入ったものだ。
 アシュリーは、以前から在籍していたかのように、直ぐにクラスに溶け込んだ。
 特待クラスだけではなく、一般クラスの生徒にも親しく話し掛けて知己を増やしているようで、彼女が歩けば直ぐに呼び止められている姿を目にする。
 美しく、頭脳明晰で、明るく朗らかな彼女が人気者になるのは、グロリアーナにも判る。
 判るからこそ、彼女にどれだけ注目が集まろうと、気にも留めなかった。
 フローニカ貴族から見れば奔放過ぎる行動を取っているとしても、その彼女を受け入れると決めたのは、他の生徒達なのだから。
 だが、婚約者のいる令息達とも親しくしようとするならば、ただ、黙って眺めているわけにはいかない。
 転入から半月後、アシュリーは平民や下位貴族の心を掌握した。
 彼等を足掛かりに、引き続きアシュリーが声を掛けるようになったのは、父親が王宮の要職に就いていたり、社交界に大きな影響を持っていたり、フローニカ王国で将来、重要な役割を果たすと目されている人物ばかり。
 騎士団長の令息、宰相の令息、外務大臣の令息、大手貿易商会の令息などなど。
 最終的に、第一王子であるマクシミリアンに堂々と声を掛けたのは、転入から僅か一ヶ月半後の事だった。
 それから、五ヶ月弱が過ぎた今、学園内部は荒れている。
 アシュリーが声を掛けた生徒全員ではないが、既に婚約が決まっている生徒は多い。
 当然、彼等の婚約者である女子生徒達は、アシュリーの行動を非難した。
 何しろ、婚約者である自分達の目の前で、クラスメイトに許された距離感を無視した振る舞いをするのだから、面白い筈もない。
 彼女達は、マクシミリアンの婚約者であり、同世代の貴族令嬢の筆頭であるグロリアーナに、何とかして欲しい、と陳情を上げて来た。
 だが、グロリアーナがアシュリーに、
「ハミルトンさん。例えクラスメイトであろうと、婚約者のいる異性と親しくするのはお考えになった方がいいわ。お相手の婚約者の方が、不安な思いをされますから」
とやんわりと伝えると、
「学園は、自らを高める為に広く交友すべき、と言ってるじゃないですか。『生徒は皆平等』なんですよね?私は、その言葉に従っただけですよ?それに、婚約と言っても、おうち同士で決めた約束ですよね?愛し合う恋人の邪魔をしてるわけでもないし、不純な気持ちなんて全然ないのに、何が問題なのか判りません。友情に水を差すなんて、酷い事を言うんですね」
と返答された。
 グロリアーナは、間違った事を言ったつもりはない。
 フローニカ王国での常識を、異国から来たアシュリーに伝えただけのつもりだ。
 だが、確かに、アシュリーは彼等のうちの誰とも二人きりになった事はない為、余り強く注意をする事も出来なかった。
 アシュリーは、ただ単に、休み時間や行事の際、彼等と複数人で共に会話していたり、行動していたりするだけだ。
 問題なのは、彼等の婚約者への配慮が全くない、と言う一点のみ。
 婚約者を放置してアシュリーと時間を過ごしている令息達が、実際にアシュリーに対してどのような感情を抱いているかはグロリアーナには判らないけれど、婚約者のいる状態で、それ以上、踏み込んだ行動は出来ない事は理解できる。
 彼等の婚約もまた、グロリアーナとマクシミリアンの婚約同様、家同士の約束事なのだから、家の意向を無視して他の令嬢と親しくなれるわけもない。
 それなのに、アシュリーと特別に親密になっているわけではなくとも、遠ざける様子もない男子生徒達への不審は高まるばかりで、アシュリーの留学以来、グロリアーナと男子生徒達、中でも将来マクシミリアンの側近となるであろう令息達との溝は深まっている。
 また、たった一人の、それも男爵令嬢すら窘められないとは、王子妃の力量がない、とも陰で言われているようだ。
 アシュリーは、留学以来、多くの友人を作った。
 婚約者がアシュリーと親しくしている女子生徒以外は、実害を感じていないせいだろう。
 しかし、グロリアーナの見る限り、その全員が彼女を純粋に慕っているわけではなさそうだ。
 アシュリーがマクシミリアンの心を射止めるかどうかはともかく、アシュリーの一件を適切に処理できなかった事を理由にマクシミリアンとグロリアーナの婚約が解消されれば、改めて婚約者候補が選定される。
 その際に、新たな婚約者候補になれるのでは、と野望を抱いている令嬢は少なくない。
 アシュリーは、他国の男爵令嬢に過ぎないのだから、フローニカ貴族で、より身分の高い者の方が、婚約者になる可能性が高いと感じられるのだろう。
 何しろ、婚約者を未だに定めていない女子生徒の中には、マクシミリアンを慕っている令嬢が多い。
 彼女達は、グロリアーナの立場に成り代われるものならば、喜んで手を挙げるに違いない。
 八方塞がりのグロリアーナは、マクシミリアンがアシュリーの無作法を放置し、あまつさえ、彼女からのスキンシップを拒む様子もない事に、苛立っていた。
 本来なら、マクシミリアンがアシュリーをはっきりと拒否するべきだ。
 令息達が内心どう考えていようとも、王族が受け入れている令嬢を拒めるわけがないのだ。
 明らかに貴族令嬢として相応しくない行動を取っているアシュリー。
 だが、グロリアーナがどれだけ窘めようと、王子であるマクシミリアンが受け入れていたら、彼女が変わるわけがない。
「我々の行動に何か疑念でもあるようでしたら、殿下にご相談なさってはいかがです?ラウリントン嬢は、殿下の婚約者なのですから」
 アシュリーが、何か言ったのだろうか。
 マクシミリアンの幼馴染であり、側近候補の令息に、そう言われた。
 例え、アシュリーと親しく言葉を交わし、彼女が触れる手を拒む事がなくとも、婚約者に憚るような事は何もない、余計な口出しをするな、と言いたいのだろう。
 しかし、これまでの言動を見ていても、マクシミリアンには、アシュリーの行動を制限する意思はない。
 マクシミリアンに相談した所で無駄だ。
 彼は、アシュリーを受け入れている――…。
 フローニカの貴族社会であり得ない状況。
 これは、グロリアーナに課された課題だ。
 王子の婚約者として、この状況をきちんと収められるか、試されている。
 そう言う事なのだろう。
 八年の歳月、王子の婚約者に相応しくあるべく努めてきたのに、彼はまだ、認めてくれていないのだ。
 たった半年も傍にいないアシュリーは、受け入れたのに。
 それはやはり、彼女がマクシミリアンにとって、『特別』だからなのだろうか。
 『特別』な存在は、共に過ごした時間を容易に凌駕してしまうのだろうか。
 グロリアーナは、マクシミリアン以外を受け入れる事など、考えた事すらないと言うのに。
 彼にとっては、違うのか…。
 それが、グロリアーナの心に小さな傷を幾つも作り、いつしか二人は、本当に必要最低限の言葉しか、交わさなくなってしまった。
 アシュリーが留学して来てからの半年、一向に進展のない…寧ろ、悪化の一途を辿る状況に、二人の仲は周囲にそれと判る程に、冷え切ったものとなっていた。
 その一方で、「マクシミリアン殿下も受け入れているのだし、厳格なラウリントン嬢よりも、誰にでも笑顔で親しみやすいハミルトン嬢の方が王子妃に相応しいのではないか」などと下位貴族や平民の生徒を中心に、実しやかに言われ始めている。
 アシュリーがグロリアーナに劣っているのは、実家の爵位のみ。
 その程度は、マクシミリアンの愛情で補えるのでは、と言い出す者がいたのだ。
 それが、本心からなのか、グロリアーナとの婚約を壊す為の方便なのかは判らない。
 けれど、噂に気づいていない筈はないのに、マクシミリアンに動く様子がないのは事実だ。
 だから。
 グロリアーナは、『マクシミリアン』として学園の馬車寄せに到着した時、『グロリアーナ』がそこで出迎えた事に驚いた。
 グロリアーナの推測が正しければ、『グロリアーナ』の中にいるのはマクシミリアンだ。
 入学から五年目、毎日の習慣になっていたとは言え、それは飽くまでグロリアーナにとっての事。
 朝の挨拶以上の会話もないグロリアーナの習慣を、マクシミリアンが忠実に再現するなどと、考えてもみなかった。
 週頭の車寄せは、週末、自宅に戻っていた寮生の登校もあるので、普段よりも混雑している。
 人混みの中、『グロリアーナ』の周りだけ、人垣が出来ていないのは、彼女が公爵令嬢であり、マクシミリアンの婚約者だからだ。
「おはよう、『グロリアーナ嬢』」
 グロリアーナは、努めて平静に挨拶をする。
 婚約者とは言え、身分で言えばマクシミリアンが上。
 彼から声を掛けられぬ限り、『グロリアーナ』は口を開く事をしない。
 それが、政略で結ばれた二人の距離だ。
「ご機嫌よう、『殿下』」
 『グロリアーナ』が、簡略化されつつも、ピンと背筋の伸びた綺麗な礼を執る。
 マクシミリアンは、婚約者であるグロリアーナを、全くの他人よりは親しく、けれど、少し距離のある『グロリアーナ嬢』と呼ぶ。
 同じく、婚約者であっても恋人ではないグロリアーナも、マクシミリアンを『殿下』と尊称で呼ぶ。
 …アシュリーが、彼を「マクシミリアン様」と名で呼ぶのに、胸の中で苛立ちながら。
 少し緊張した面持ちの『グロリアーナ』は、鏡の中の見慣れた顔とは、異なるように見える。
 マクシミリアンの視線が、グロリアーナよりも二十センチは高い為に、上から見下ろす形になっているからだろうか。
 一体、目の前の『グロリアーナ』は誰なのか。
 このまま、普段ならばマクシミリアンが真っ直ぐ教室に足を向け、その半歩後ろをグロリアーナがついていくのだが、今日はいつもと様子が違う。
 『グロリアーナ』は、すっとグロリアーナに近づくと、顔を伏せて周囲に聞こえないよう小声で、
「女神の悪戯」
と囁いた。
 驚いたグロリアーナが『グロリアーナ』を凝視すると、彼女は、間近で見ないと気づかない程度に、僅かに眉を下げる。
 それは、アシュリーが近づいた時のマクシミリアンが見せる表情に、よく似ていた。
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