【完結】「ラヴェラルタ辺境伯令嬢は病弱」ってことにしておいてください

平田加津実

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第10章 舞踏会の長い夜

(5)

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 彼女はこんな老女ではないし、容姿も全く違う。
 けれど、青ざめた顎を伝う同じ赤い色が、古い記憶を鮮明に呼び起こした。

「嫌ぁぁぁっ! アンナ、死なないで!」

 マルティーヌは思わず老女にすがりつくと、無意識に叫んだ。

「えっ? どうしたマルク?」
「マルティーヌ嬢?」

 呆気にとられた彼らの声で正気に戻る。

 え?
 わたし、何を言って……。

 ベレニスの記憶に乗っ取られ、あの悲劇の日を再現してしまったことに戸惑っていると、老女がかっと目を見開いた。
 濁った瞳はおそらく何も映していないが、何かを探すように視線を彷徨わせている。

「あ……ぁ、ベレ……ニ、ス……なの?」

 苦痛に喘ぐ声に、わずかに喜びが混ざった。

「え……? アン……ナ?」

 間違いない。
 彼女はアンナの生まれ変わりだ。
 そうでなければ、旧友ベレニスの名を呼ぶはずがない。

「まさか……。聖女がアンナの生まれ変わり……?」
「嘘だろ……」

 マルティーヌとロランは顔を見合わせた。
 エドモンの生まれ変わりである彼も、当然、アンナのことを知っているのだ。

「ベ……レニス?」

「そ、そうよ、アンナ。ベレニスよ! しっかりしてっ! ほら、ここにエドモンもいるわ!」
「気をしっかり持て、アンナっ! これくらいの傷、大丈夫だから!」
「あぁ……ベレニス、あとは……お、ね……がい……」

 弱々しく伸ばされた手はマルティーヌに届くことなく、ぱたりと落ちた。

 この光景も四百年前と同じだった。
 あの時、力尽きたように静かに目を閉じたアンナは、その後、二度と目を開けることがなかった。

「嘘でしょっ! せっかく会えたのに。お願い、死なないでアンナ! 死なないで!」

 届かなかった皺だらけの手を両手で握りしめ、なんとか彼女を引き戻そうと叫ぶ。

 老女を抱きかかえていたジョエルの指先が彼女の首をなぞった。
 そして小さく頷くと、冷静に言う。

「まだ脈はあります。気を失ったようです」
「じゃあ……、助かるの?」
「いえ……。呼吸が浅く脈もひどく弱い。このままでは時間の問題です」
「そんなっ、兄さまはどこ? 兄さまならアンナを助けられるはず!」

 四百年前、チェスラフはアンナを救えなかった。
 けれど、彼以上の実力を持つセレスタンなら、きっと助けてくれる。

 「彼はおそらく……」と言いながら、ジョエルは視線を斜め後ろに向けた。
 その方向に謁見者用の扉がある。
 精鋭部隊はおそらくその扉を目指しており、すでに到着していてもおかしくなかった。

「あっ! いました!」

 ジョエルの視界にセレスタンの姿が映った。

「うわぁぁっ!」

 しかし次の瞬間、城全体が大きく縦に揺れ、バランスを崩したジョエルは聖女を抱えたまま横倒しになった。
 マルティーヌとロランは両手を床について衝撃に耐える。

「くっ……!」
「うおっ!」

 先ほどジョエルが目を向けた方角に、新たな強力な魔力が出現した。
 同じ場所にある、肌が凍るような冷えた魔力とは違う。
 庭園に仕掛けられていた魔法陣から出現した魔力と似た気配だ。
 そしてそこから、数多くの細かな魔力が吹き上がる。

「これ……は、魔法陣に魔獣が召喚された……のか? ジョー、何がいるんだ?」
「……視えません。私が知らない魔獣だと思います」

 体を起こしたジョエルが、弱々しく首を横に振る。

「そうか。じゃあ、リーヴィたちの状況は?」
「防戦一方ですね。魔獣と交戦しているというより、弓での攻撃をさばいているような、はたき落としているような動きに視えます」
「はたき落とす?」

 魔獣のものと思われるひとつひとつの魔力はさほど強くないが、凄まじい速度で、直線的に動き回っているように感じる。
 『死の森』に棲む魔獣で近い動きをするのは吸血蜂バンピリアアピスだが。

「吸血蜂じゃないのか?」
「違います! 蜂でも鳥でも蝙蝠でもありませんっ!」

 ジョエルは、思いつく限りの小型の飛行魔獣の姿を標的としたらしく、きっぱり言い切った。

「きっと、未知の魔獣なんだろうな」

 ロランが苦々しい顔をした。

 未知の魔獣相手に防戦一方なら、セレスを呼びに行くどころじゃない。
 むしろ、俺らがすぐさま援護に駆けつけないと。

 いくら目の前の老女が当代の聖女であっても、アンナの生まれ変わりであっても、今起きている争いより彼女の命が優先されることはない。
 敵はこの国を、世界を滅ぼしかねない脅威なのだから——。

 騎士団副団長として、それは当然の判断だ。
 分かっているけど……。

 マルティーヌの頬に涙が一筋伝う。

「ああ、前世でもアンナを助けられなかったのに……」

 こう言っている間も、仲間たちは危機に面している。
 早く行かなきゃ。

 でも、身体が動かない。
 ここで見捨てたら、彼女の命は消えてしまうのだから——。

「マルク」

 ロランはあえてその名で呼んだ。

 ロランにも、エドモンより先に命を落としたアンナを弔った記憶がある。
 英雄の碑の前に、仲間たちを埋葬したあの日の無念を知るからこそ、彼も今度こそ彼女を救いたかった。
 しかし、今は為すべきことがある。

 彼は歯を食いしばりながら、副団長の決断を待っていた。

「魔術師は他にもいます。私がパメラを呼んでくれば……」

 ジョエルの言葉にマルティーヌははっと顔を上げた。
 しかし、直後に首を横に振る。
 ここでも、副団長の立場を崩すわけにはいかなかった。

「いや、パメラはだめだ。ルフィナ殿下を危険に晒すわけにはいかない……。だから、ジルを呼んできてくれないか」
「ジル……か」

 ロランが眉間にしわを寄せた。

 庭園に残してきたジルは攻撃系の魔術師で、治癒や回復術は苦手としている。
 それでも、聖女を延命させることはできるかもしれない。

 庭園まで往復する時間を考えると、間に合わないかもしれない。
 なんとか延命できたとしても、その後を別の魔術師が引き継げなければ、彼女の命は潰えてしまうだろう。

 でも。
 それでも、わずかな可能性があるのなら。

「頼む。ジルを……」
「分かりました。ジルを呼んできましょう。この方は、ドゥラメトリア王国にとっても大切な方です。私も彼女を救いたい」

 ジョエルは聖女の体をそっと床に横たえると、着ていた上着を脱いで彼女にかけた。

「このまま真っ直ぐ進んで突き当たりを右に曲がると、謁見の間に入る扉があります。リーヴィたちが入った扉が正面で、こちらの扉は側面。謁見の間の中央部に入れます」
「分かった」
「では、お二人ともご武運を!」

 駆け出したジョエルを最後までは見送らず、足元に目を落とす。

「アンナ、待ってて。あなたのことは必ず助けるから」

 静かに横たわる老女に誓う。

 きっと彼女アンナは、自分のせいで仲間が足止めされることは望まない。
 聖女自身も、大聖堂を訪れたアロイスに「恐ろしい災厄が起きた時には、ベレニスのように立ち上がって欲しい」と懇願したという。
 だから、彼女の希望を叶えるのなら、今すぐ謁見の間に向かうべきだ。

 けれど瀕死の彼女を、冷たい大理石の床の上に置き去りにすることは、あまりにも忍びなかった。

 もう、生きて会えないかもしれない。

 そんな不吉な思いを、強く頭を振って追い払う。

「ごめんね。ごめ……ん。できるだけ早く戻ってくるから。あなたが言ったチェスラフも、必ず助けるから。だからアンナも頑張って。生きて、みんなでまた会おう」

 マルティーヌは白いレースの手袋を両方はずして、かさついた皺だらけの手に握らせた。

 ほら、早く行って——。

 彼女の声が聞こえた気がして、マルティーヌとロランは同時にはっと息を飲む。

「行こう」

 そう言って立ち上がると、ロランが力強くうなづいた。
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