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第10章 舞踏会の長い夜
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彼女はこんな老女ではないし、容姿も全く違う。
けれど、青ざめた顎を伝う同じ赤い色が、古い記憶を鮮明に呼び起こした。
「嫌ぁぁぁっ! アンナ、死なないで!」
マルティーヌは思わず老女にすがりつくと、無意識に叫んだ。
「えっ? どうしたマルク?」
「マルティーヌ嬢?」
呆気にとられた彼らの声で正気に戻る。
え?
わたし、何を言って……。
ベレニスの記憶に乗っ取られ、あの悲劇の日を再現してしまったことに戸惑っていると、老女がかっと目を見開いた。
濁った瞳はおそらく何も映していないが、何かを探すように視線を彷徨わせている。
「あ……ぁ、ベレ……ニ、ス……なの?」
苦痛に喘ぐ声に、わずかに喜びが混ざった。
「え……? アン……ナ?」
間違いない。
彼女はアンナの生まれ変わりだ。
そうでなければ、旧友ベレニスの名を呼ぶはずがない。
「まさか……。聖女がアンナの生まれ変わり……?」
「嘘だろ……」
マルティーヌとロランは顔を見合わせた。
エドモンの生まれ変わりである彼も、当然、アンナのことを知っているのだ。
「ベ……レニス?」
「そ、そうよ、アンナ。ベレニスよ! しっかりしてっ! ほら、ここにエドモンもいるわ!」
「気をしっかり持て、アンナっ! これくらいの傷、大丈夫だから!」
「あぁ……ベレニス、あとは……お、ね……がい……」
弱々しく伸ばされた手はマルティーヌに届くことなく、ぱたりと落ちた。
この光景も四百年前と同じだった。
あの時、力尽きたように静かに目を閉じたアンナは、その後、二度と目を開けることがなかった。
「嘘でしょっ! せっかく会えたのに。お願い、死なないでアンナ! 死なないで!」
届かなかった皺だらけの手を両手で握りしめ、なんとか彼女を引き戻そうと叫ぶ。
老女を抱きかかえていたジョエルの指先が彼女の首をなぞった。
そして小さく頷くと、冷静に言う。
「まだ脈はあります。気を失ったようです」
「じゃあ……、助かるの?」
「いえ……。呼吸が浅く脈もひどく弱い。このままでは時間の問題です」
「そんなっ、兄さまはどこ? 兄さまならアンナを助けられるはず!」
四百年前、チェスラフはアンナを救えなかった。
けれど、彼以上の実力を持つセレスタンなら、きっと助けてくれる。
「彼はおそらく……」と言いながら、ジョエルは視線を斜め後ろに向けた。
その方向に謁見者用の扉がある。
精鋭部隊はおそらくその扉を目指しており、すでに到着していてもおかしくなかった。
「あっ! いました!」
ジョエルの視界にセレスタンの姿が映った。
「うわぁぁっ!」
しかし次の瞬間、城全体が大きく縦に揺れ、バランスを崩したジョエルは聖女を抱えたまま横倒しになった。
マルティーヌとロランは両手を床について衝撃に耐える。
「くっ……!」
「うおっ!」
先ほどジョエルが目を向けた方角に、新たな強力な魔力が出現した。
同じ場所にある、肌が凍るような冷えた魔力とは違う。
庭園に仕掛けられていた魔法陣から出現した魔力と似た気配だ。
そしてそこから、数多くの細かな魔力が吹き上がる。
「これ……は、魔法陣に魔獣が召喚された……のか? ジョー、何がいるんだ?」
「……視えません。私が知らない魔獣だと思います」
体を起こしたジョエルが、弱々しく首を横に振る。
「そうか。じゃあ、リーヴィたちの状況は?」
「防戦一方ですね。魔獣と交戦しているというより、弓での攻撃をさばいているような、はたき落としているような動きに視えます」
「はたき落とす?」
魔獣のものと思われるひとつひとつの魔力はさほど強くないが、凄まじい速度で、直線的に動き回っているように感じる。
『死の森』に棲む魔獣で近い動きをするのは吸血蜂だが。
「吸血蜂じゃないのか?」
「違います! 蜂でも鳥でも蝙蝠でもありませんっ!」
ジョエルは、思いつく限りの小型の飛行魔獣の姿を標的としたらしく、きっぱり言い切った。
「きっと、未知の魔獣なんだろうな」
ロランが苦々しい顔をした。
未知の魔獣相手に防戦一方なら、セレスを呼びに行くどころじゃない。
むしろ、俺らがすぐさま援護に駆けつけないと。
いくら目の前の老女が当代の聖女であっても、アンナの生まれ変わりであっても、今起きている争いより彼女の命が優先されることはない。
敵はこの国を、世界を滅ぼしかねない脅威なのだから——。
騎士団副団長として、それは当然の判断だ。
分かっているけど……。
マルティーヌの頬に涙が一筋伝う。
「ああ、前世でもアンナを助けられなかったのに……」
こう言っている間も、仲間たちは危機に面している。
早く行かなきゃ。
でも、身体が動かない。
ここで見捨てたら、彼女の命は消えてしまうのだから——。
「マルク」
ロランはあえてその名で呼んだ。
ロランにも、エドモンより先に命を落としたアンナを弔った記憶がある。
英雄の碑の前に、仲間たちを埋葬したあの日の無念を知るからこそ、彼も今度こそ彼女を救いたかった。
しかし、今は為すべきことがある。
彼は歯を食いしばりながら、副団長の決断を待っていた。
「魔術師は他にもいます。私がパメラを呼んでくれば……」
ジョエルの言葉にマルティーヌははっと顔を上げた。
しかし、直後に首を横に振る。
ここでも、副団長の立場を崩すわけにはいかなかった。
「いや、パメラはだめだ。ルフィナ殿下を危険に晒すわけにはいかない……。だから、ジルを呼んできてくれないか」
「ジル……か」
ロランが眉間にしわを寄せた。
庭園に残してきたジルは攻撃系の魔術師で、治癒や回復術は苦手としている。
それでも、聖女を延命させることはできるかもしれない。
庭園まで往復する時間を考えると、間に合わないかもしれない。
なんとか延命できたとしても、その後を別の魔術師が引き継げなければ、彼女の命は潰えてしまうだろう。
でも。
それでも、わずかな可能性があるのなら。
「頼む。ジルを……」
「分かりました。ジルを呼んできましょう。この方は、ドゥラメトリア王国にとっても大切な方です。私も彼女を救いたい」
ジョエルは聖女の体をそっと床に横たえると、着ていた上着を脱いで彼女にかけた。
「このまま真っ直ぐ進んで突き当たりを右に曲がると、謁見の間に入る扉があります。リーヴィたちが入った扉が正面で、こちらの扉は側面。謁見の間の中央部に入れます」
「分かった」
「では、お二人ともご武運を!」
駆け出したジョエルを最後までは見送らず、足元に目を落とす。
「アンナ、待ってて。あなたのことは必ず助けるから」
静かに横たわる老女に誓う。
きっと彼女は、自分のせいで仲間が足止めされることは望まない。
聖女自身も、大聖堂を訪れたアロイスに「恐ろしい災厄が起きた時には、ベレニスのように立ち上がって欲しい」と懇願したという。
だから、彼女の希望を叶えるのなら、今すぐ謁見の間に向かうべきだ。
けれど瀕死の彼女を、冷たい大理石の床の上に置き去りにすることは、あまりにも忍びなかった。
もう、生きて会えないかもしれない。
そんな不吉な思いを、強く頭を振って追い払う。
「ごめんね。ごめ……ん。できるだけ早く戻ってくるから。あなたが言ったチェスラフも、必ず助けるから。だからアンナも頑張って。生きて、みんなでまた会おう」
マルティーヌは白いレースの手袋を両方はずして、かさついた皺だらけの手に握らせた。
ほら、早く行って——。
彼女の声が聞こえた気がして、マルティーヌとロランは同時にはっと息を飲む。
「行こう」
そう言って立ち上がると、ロランが力強くうなづいた。
けれど、青ざめた顎を伝う同じ赤い色が、古い記憶を鮮明に呼び起こした。
「嫌ぁぁぁっ! アンナ、死なないで!」
マルティーヌは思わず老女にすがりつくと、無意識に叫んだ。
「えっ? どうしたマルク?」
「マルティーヌ嬢?」
呆気にとられた彼らの声で正気に戻る。
え?
わたし、何を言って……。
ベレニスの記憶に乗っ取られ、あの悲劇の日を再現してしまったことに戸惑っていると、老女がかっと目を見開いた。
濁った瞳はおそらく何も映していないが、何かを探すように視線を彷徨わせている。
「あ……ぁ、ベレ……ニ、ス……なの?」
苦痛に喘ぐ声に、わずかに喜びが混ざった。
「え……? アン……ナ?」
間違いない。
彼女はアンナの生まれ変わりだ。
そうでなければ、旧友ベレニスの名を呼ぶはずがない。
「まさか……。聖女がアンナの生まれ変わり……?」
「嘘だろ……」
マルティーヌとロランは顔を見合わせた。
エドモンの生まれ変わりである彼も、当然、アンナのことを知っているのだ。
「ベ……レニス?」
「そ、そうよ、アンナ。ベレニスよ! しっかりしてっ! ほら、ここにエドモンもいるわ!」
「気をしっかり持て、アンナっ! これくらいの傷、大丈夫だから!」
「あぁ……ベレニス、あとは……お、ね……がい……」
弱々しく伸ばされた手はマルティーヌに届くことなく、ぱたりと落ちた。
この光景も四百年前と同じだった。
あの時、力尽きたように静かに目を閉じたアンナは、その後、二度と目を開けることがなかった。
「嘘でしょっ! せっかく会えたのに。お願い、死なないでアンナ! 死なないで!」
届かなかった皺だらけの手を両手で握りしめ、なんとか彼女を引き戻そうと叫ぶ。
老女を抱きかかえていたジョエルの指先が彼女の首をなぞった。
そして小さく頷くと、冷静に言う。
「まだ脈はあります。気を失ったようです」
「じゃあ……、助かるの?」
「いえ……。呼吸が浅く脈もひどく弱い。このままでは時間の問題です」
「そんなっ、兄さまはどこ? 兄さまならアンナを助けられるはず!」
四百年前、チェスラフはアンナを救えなかった。
けれど、彼以上の実力を持つセレスタンなら、きっと助けてくれる。
「彼はおそらく……」と言いながら、ジョエルは視線を斜め後ろに向けた。
その方向に謁見者用の扉がある。
精鋭部隊はおそらくその扉を目指しており、すでに到着していてもおかしくなかった。
「あっ! いました!」
ジョエルの視界にセレスタンの姿が映った。
「うわぁぁっ!」
しかし次の瞬間、城全体が大きく縦に揺れ、バランスを崩したジョエルは聖女を抱えたまま横倒しになった。
マルティーヌとロランは両手を床について衝撃に耐える。
「くっ……!」
「うおっ!」
先ほどジョエルが目を向けた方角に、新たな強力な魔力が出現した。
同じ場所にある、肌が凍るような冷えた魔力とは違う。
庭園に仕掛けられていた魔法陣から出現した魔力と似た気配だ。
そしてそこから、数多くの細かな魔力が吹き上がる。
「これ……は、魔法陣に魔獣が召喚された……のか? ジョー、何がいるんだ?」
「……視えません。私が知らない魔獣だと思います」
体を起こしたジョエルが、弱々しく首を横に振る。
「そうか。じゃあ、リーヴィたちの状況は?」
「防戦一方ですね。魔獣と交戦しているというより、弓での攻撃をさばいているような、はたき落としているような動きに視えます」
「はたき落とす?」
魔獣のものと思われるひとつひとつの魔力はさほど強くないが、凄まじい速度で、直線的に動き回っているように感じる。
『死の森』に棲む魔獣で近い動きをするのは吸血蜂だが。
「吸血蜂じゃないのか?」
「違います! 蜂でも鳥でも蝙蝠でもありませんっ!」
ジョエルは、思いつく限りの小型の飛行魔獣の姿を標的としたらしく、きっぱり言い切った。
「きっと、未知の魔獣なんだろうな」
ロランが苦々しい顔をした。
未知の魔獣相手に防戦一方なら、セレスを呼びに行くどころじゃない。
むしろ、俺らがすぐさま援護に駆けつけないと。
いくら目の前の老女が当代の聖女であっても、アンナの生まれ変わりであっても、今起きている争いより彼女の命が優先されることはない。
敵はこの国を、世界を滅ぼしかねない脅威なのだから——。
騎士団副団長として、それは当然の判断だ。
分かっているけど……。
マルティーヌの頬に涙が一筋伝う。
「ああ、前世でもアンナを助けられなかったのに……」
こう言っている間も、仲間たちは危機に面している。
早く行かなきゃ。
でも、身体が動かない。
ここで見捨てたら、彼女の命は消えてしまうのだから——。
「マルク」
ロランはあえてその名で呼んだ。
ロランにも、エドモンより先に命を落としたアンナを弔った記憶がある。
英雄の碑の前に、仲間たちを埋葬したあの日の無念を知るからこそ、彼も今度こそ彼女を救いたかった。
しかし、今は為すべきことがある。
彼は歯を食いしばりながら、副団長の決断を待っていた。
「魔術師は他にもいます。私がパメラを呼んでくれば……」
ジョエルの言葉にマルティーヌははっと顔を上げた。
しかし、直後に首を横に振る。
ここでも、副団長の立場を崩すわけにはいかなかった。
「いや、パメラはだめだ。ルフィナ殿下を危険に晒すわけにはいかない……。だから、ジルを呼んできてくれないか」
「ジル……か」
ロランが眉間にしわを寄せた。
庭園に残してきたジルは攻撃系の魔術師で、治癒や回復術は苦手としている。
それでも、聖女を延命させることはできるかもしれない。
庭園まで往復する時間を考えると、間に合わないかもしれない。
なんとか延命できたとしても、その後を別の魔術師が引き継げなければ、彼女の命は潰えてしまうだろう。
でも。
それでも、わずかな可能性があるのなら。
「頼む。ジルを……」
「分かりました。ジルを呼んできましょう。この方は、ドゥラメトリア王国にとっても大切な方です。私も彼女を救いたい」
ジョエルは聖女の体をそっと床に横たえると、着ていた上着を脱いで彼女にかけた。
「このまま真っ直ぐ進んで突き当たりを右に曲がると、謁見の間に入る扉があります。リーヴィたちが入った扉が正面で、こちらの扉は側面。謁見の間の中央部に入れます」
「分かった」
「では、お二人ともご武運を!」
駆け出したジョエルを最後までは見送らず、足元に目を落とす。
「アンナ、待ってて。あなたのことは必ず助けるから」
静かに横たわる老女に誓う。
きっと彼女は、自分のせいで仲間が足止めされることは望まない。
聖女自身も、大聖堂を訪れたアロイスに「恐ろしい災厄が起きた時には、ベレニスのように立ち上がって欲しい」と懇願したという。
だから、彼女の希望を叶えるのなら、今すぐ謁見の間に向かうべきだ。
けれど瀕死の彼女を、冷たい大理石の床の上に置き去りにすることは、あまりにも忍びなかった。
もう、生きて会えないかもしれない。
そんな不吉な思いを、強く頭を振って追い払う。
「ごめんね。ごめ……ん。できるだけ早く戻ってくるから。あなたが言ったチェスラフも、必ず助けるから。だからアンナも頑張って。生きて、みんなでまた会おう」
マルティーヌは白いレースの手袋を両方はずして、かさついた皺だらけの手に握らせた。
ほら、早く行って——。
彼女の声が聞こえた気がして、マルティーヌとロランは同時にはっと息を飲む。
「行こう」
そう言って立ち上がると、ロランが力強くうなづいた。
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