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青き貴石の輝く場所
君にずっと話せなかったことだけど
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身体のあちこちに細かな楔を打ち込まれたかのように、びりびりと痛む。
その苦痛を逃そうと息を止めれば、身体の内側で暴れる熱が充満し、焼き尽くされるようになる。
痛い。
熱い。
「エルナ。エルナっ!」
猛烈な炎の向こう側から聞こえる声は、彼だ。
姿が見えなくても、自分を呼ぶ声だけで分かる。
「フ……リッツ!」
さっき届かなかった手を必死に伸ばすと、手がぎゅっと掴まれた。
そして、その力強い大きな手が、身体を焼き尽くそうとする炎の中から、エルナを一気に引き上げる。
視界に微かな光が差した。
「エルナ、良かった。気が付いて……」
「フ…………?」
まだ、身体のいたるところに残火が燻っているようで、全身が熱い。
疲れ果てた身体は自分のものとは思えないほど重かったが、崩れ落ちたりしないのが不思議だった。
うつろに開いた目に何が映っているのかも、理解できなかった。
けれど、彼の感極まった声がすぐ近くにある。
「戻ってきてくれて、本当に……」
「フリッツ……無事、なの?」
何より気になったのはそれだった。
飲ませた解毒剤の効果が出ていたように見えたが、実際に助かったのかどうかは見届けられなかった。
苦痛に苛まれながらも、彼の無事だけを案じていた。
「もう……本当に、君って人は。僕はもう、大丈夫だよ。君のおかげで、また君を抱きしめることができる」
「え?」
彼の言葉で、自分が彼に抱きしめられていることを知る。
以前と変わらないくらい、いや、さらに力強く。
毒を煽り、意識もなく、全身を硬直させていた絶望的な姿を思うと奇跡のようだ。
「あぁ、まだ、熱が高いね。かわいそうに、辛いよね?」
彼の頬が自分の頬に触れた。
柔らかく温かい、優しい肌。
いたわるように背中をさすられ、涙が溢れる。
「よかった……フリッツ、助かったのね。本当に……良かった」
「君のおかげだ」
「フリ……」
さらに強く抱きしめられて、身体がいっそう熱くなった。
息をするのが難しく、全身が痺れ頭もくらくらしてくる。
それでも、あまりにも幸せだから、永遠にこのままでいいと、なんなら消えてしまってもいいなどと、ぼんやりと思う。
しかし、少し離れた場所から聞こえた声で、現実に引き戻された。
「えー、こほん。意識が戻られたのでもう安心でございますが、エルナ様にあまり無理をさせるのはいかがなものかと」
「えっ? わ、ごめん」
侍医のカールハインツに諭されて現実に戻ったのは、彼も同じだったようだ。
慌てた様子を見せながらも、丁寧にエルナをベッドに下ろす。
「大丈夫?」
「ん。平気」
顔にかかっていた乱れた髪を、彼が指先でそっと払ってくれた。
彼の腕から降ろされてしまい、寂しさに似た気持ちはあったが、今の方が彼の顔がよく見える。
少しやつれたようだが、顔色は悪くない。
「フリッツこそ、あんなに苦しそうだったのに、今は元気そう」
「うん。僕はアプチーカーにさんざん実験されたから、毒物にはある程度耐性があるんだ。だから、エアハルトから渡された薬を飲んでも、彼が出てきてくれれば、なんとかなるかもしれないと思った。だけど、そのせいで、君を危険な目に遭わせてしまった。顔にこんな傷まで……。本当に、すまなかった」
悔やむように俯くフリッツの背後で、カールハインツが右手を胸に当てて礼をとる。
「エルナ様には本当に感謝いたします。エルナ様が解毒剤を飲ませてくださらなかったら、陛下はきっと、一生ベッドから降りられない身体になっていたでしょう。薄情なこの男には、口移しで薬を飲ませるような度胸はなかったようですし」
カールハインツが、隣で同じ姿勢をとるゲラルトを小突く。
「そんなことありません! 私だってそうしようと思ったんです! でも、エルナにグラスを奪われたんです!」
彼はむきになって言い訳した後、しゅんと肩を落とした。
「……いや、でも、正直いって躊躇しました。解毒剤を自分で調合したので、どれほど恐ろしい材料を使っているか、知っていましたから……。私は我が君の側近として失格です」
「そんなに危険な薬だったの?」
確かに、ゲラルトは「解毒剤は薬ではなくて、毒」と言っていた。
しかし、それが、どれほど身体に深刻な害を及ぼすものなのか、分かっていなかった。
彼を助けたい一心だったから、解毒剤を口に含んだ時のダメージがいかに凄まじくとも、耐えられた。
彼の容体の変化が、自分の苦痛と引き換えのように思えて、喜びすら感じていた。
「解毒剤って、毒を以て毒を制すっていう言葉そのものなんだ。もともと毒に侵されていた僕は解毒剤で回復するけど、健康だったエルナにとっては猛毒。そのせいで君は丸二日、眠ったままだった。もう、目覚めないんじゃないかと怖かった」
フリッツがエルナの髪を撫でる手を止めた。
「そんなに! …………でも」
もし、ゲラルトのように解毒剤について熟知していたとしても、それを口にすることを躊躇しなかっただろう。
そしてたとえ、その毒で命を落とすことになったとしても、後悔はなかっただろう。
「あなたが無事でよかった」
それが、いちばん重要なことだったから。
エルナは口元に精一杯の笑みを浮かべ、後悔に表情を歪ませるフリッツに手を伸ばした。
自分ももう大丈夫だということを伝えたかったし、何より彼に触れたかったのだが、伸ばした手は彼の手に取られてしまった。
「あ……の?」
彼はエルナをじっと見つめた後、手の甲にそっと唇を押し当てる。
「ひゃあ」
「ねぇ、エルナ、君にずっと話せなかったことだけど」
「う……うん」
彼の行為と、真剣な眼差しにどきどきする。
ずっと高熱が続いているが、さらに熱が上がったのかもしれない。
彼こそが、全身の力と思考を奪う、甘い甘い劇薬にも思える。
彼はエルナの首を横切る金色の鎖を指先で引っ掛けると、ペンダントトップを手繰り寄せた。
「君にあげたこのペンダント。これは『青を抱く薔薇』と呼ばれる皇帝の紋章でね、皇帝と皇帝妃しか身につけてはならないものなんだ」
「へぇ…………って、えっ?」
皇帝と皇帝妃しか身につけてはならない——?
そんなものをどうしてわたしに?
「湖で君にこれを手渡した時、そんな慣習は僕の代で終わりにするつもりだったんだけど、やっぱり、続けていくことに決めたよ」
「ちょっと、待って。それって……」
湖での彼は、ひどく思いつめた様子だった。
ペンダントを一目見たフォルカーには「どこで盗んだ」と問い詰められ、フレデリクは「全力で支えてやる」と表情を変えた。
この豪華な青い石の飾りは、とてつもなく高価なだけでなく、何かしらのいわくを抱えたものではないかと思ってはいたが。
「こ、皇帝妃って、どういうこと? 続けるって……?」
皇帝と皇帝妃しか身につけられないはずの飾りを、慣習を破ってわたしにプレゼントしたものの、やっぱり慣習を続けるって……?
どういうこと?
熱が上がりすぎたのか、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
「あ……そっか。ペンダントを返して欲しいってこと?」
ようやく絞り出した答えがこれだった。
しかし彼は、少し怒った顔をずいとエルナに寄せた。
「どうして、そんなことを言うかな? これはエルナだけのもの。君しかつけられないものなんだよ」
だから、もう訳が分からない。
いや、本当はうすうす気づいているのだが、ありえなさすぎて、考えることを無意識に拒否していた。
「僕はこの国の皇帝という地位にあるから、妃は本来、他国の姫君か高位の貴族の令嬢でなければならない」
「うん……」
それは当然だ。
そうでなければ釣り合わない。
彼の隣に立つべきは、豪華なドレスと皇帝の紋章が似合う、どこぞの国の高貴なお姫様だ。
粉にまみれてパンを焼く自分ではないのだと、ぼんやりした頭で淡い期待を打ち消そうと必死になる。
「でも、フレデリクは二つの方法があると言う。一つ目は、皇帝に逆うことは決して許されないような恐怖政治を敷く。そして、もう一つは……例えば平民のパン職人を娶ったとしても、誰もが心から祝福してくれるような、国民に愛される皇帝になること」
「平民の……パン職人……?」
それが誰を指すのか、考えるまでもなかった。
そして、彼がどちらの道を選ぶかも、聞くまでもなかった。
「エルナ。愛してる。僕は必ず君を妃にする。そう約束する。すごく難しいことだから、何年もかかるかもしれないけど、僕を信じて待っていてくれないか」
相手は恐れ多くも、この国の皇帝陛下だ。
皇帝妃など、どこの雲の上の人かと思う。
天と地ほどの身分の差とか、自分の教養のなさとか、今後の険しい道のりとか。
本当なら考えなければならないことがたくさんあるはずなのに、頭が正常に働かない。
何も考えられないのに、彼の言葉を嬉しいと感じる。
彼との未来を思うと、熱があるはずなのに、幸せに身体が震える。
「あ……の、……フリッツ」
「ん?」
「お願い。もう一度、さっきみたいにぎゅってして」
そうしたらきっと、何も恐れずに、このまま一歩踏み出せる。
「ああ」
彼の、幸せを噛みしめた照れ臭そうな笑顔が近くなった。
背中の下に彼の腕が差し込まれ、ふわりと身体が浮いた。
高熱に侵され力が入らない身体でも、彼の腕で支えられれば起き上がることができる。
きっと彼と一緒なら、どんな苦労をしても乗り越えていけるはず。
だから。
重い両腕を必死に持ち上げ、彼の首に回す。
彼がもっと近くなる。
「あなたを信じるわ。あなたの好きな林檎のパンを焼きながら、ずっと待ってる」
彼にしか聞こえないように囁くと、それに応えるように彼の腕に力がこもった。
その苦痛を逃そうと息を止めれば、身体の内側で暴れる熱が充満し、焼き尽くされるようになる。
痛い。
熱い。
「エルナ。エルナっ!」
猛烈な炎の向こう側から聞こえる声は、彼だ。
姿が見えなくても、自分を呼ぶ声だけで分かる。
「フ……リッツ!」
さっき届かなかった手を必死に伸ばすと、手がぎゅっと掴まれた。
そして、その力強い大きな手が、身体を焼き尽くそうとする炎の中から、エルナを一気に引き上げる。
視界に微かな光が差した。
「エルナ、良かった。気が付いて……」
「フ…………?」
まだ、身体のいたるところに残火が燻っているようで、全身が熱い。
疲れ果てた身体は自分のものとは思えないほど重かったが、崩れ落ちたりしないのが不思議だった。
うつろに開いた目に何が映っているのかも、理解できなかった。
けれど、彼の感極まった声がすぐ近くにある。
「戻ってきてくれて、本当に……」
「フリッツ……無事、なの?」
何より気になったのはそれだった。
飲ませた解毒剤の効果が出ていたように見えたが、実際に助かったのかどうかは見届けられなかった。
苦痛に苛まれながらも、彼の無事だけを案じていた。
「もう……本当に、君って人は。僕はもう、大丈夫だよ。君のおかげで、また君を抱きしめることができる」
「え?」
彼の言葉で、自分が彼に抱きしめられていることを知る。
以前と変わらないくらい、いや、さらに力強く。
毒を煽り、意識もなく、全身を硬直させていた絶望的な姿を思うと奇跡のようだ。
「あぁ、まだ、熱が高いね。かわいそうに、辛いよね?」
彼の頬が自分の頬に触れた。
柔らかく温かい、優しい肌。
いたわるように背中をさすられ、涙が溢れる。
「よかった……フリッツ、助かったのね。本当に……良かった」
「君のおかげだ」
「フリ……」
さらに強く抱きしめられて、身体がいっそう熱くなった。
息をするのが難しく、全身が痺れ頭もくらくらしてくる。
それでも、あまりにも幸せだから、永遠にこのままでいいと、なんなら消えてしまってもいいなどと、ぼんやりと思う。
しかし、少し離れた場所から聞こえた声で、現実に引き戻された。
「えー、こほん。意識が戻られたのでもう安心でございますが、エルナ様にあまり無理をさせるのはいかがなものかと」
「えっ? わ、ごめん」
侍医のカールハインツに諭されて現実に戻ったのは、彼も同じだったようだ。
慌てた様子を見せながらも、丁寧にエルナをベッドに下ろす。
「大丈夫?」
「ん。平気」
顔にかかっていた乱れた髪を、彼が指先でそっと払ってくれた。
彼の腕から降ろされてしまい、寂しさに似た気持ちはあったが、今の方が彼の顔がよく見える。
少しやつれたようだが、顔色は悪くない。
「フリッツこそ、あんなに苦しそうだったのに、今は元気そう」
「うん。僕はアプチーカーにさんざん実験されたから、毒物にはある程度耐性があるんだ。だから、エアハルトから渡された薬を飲んでも、彼が出てきてくれれば、なんとかなるかもしれないと思った。だけど、そのせいで、君を危険な目に遭わせてしまった。顔にこんな傷まで……。本当に、すまなかった」
悔やむように俯くフリッツの背後で、カールハインツが右手を胸に当てて礼をとる。
「エルナ様には本当に感謝いたします。エルナ様が解毒剤を飲ませてくださらなかったら、陛下はきっと、一生ベッドから降りられない身体になっていたでしょう。薄情なこの男には、口移しで薬を飲ませるような度胸はなかったようですし」
カールハインツが、隣で同じ姿勢をとるゲラルトを小突く。
「そんなことありません! 私だってそうしようと思ったんです! でも、エルナにグラスを奪われたんです!」
彼はむきになって言い訳した後、しゅんと肩を落とした。
「……いや、でも、正直いって躊躇しました。解毒剤を自分で調合したので、どれほど恐ろしい材料を使っているか、知っていましたから……。私は我が君の側近として失格です」
「そんなに危険な薬だったの?」
確かに、ゲラルトは「解毒剤は薬ではなくて、毒」と言っていた。
しかし、それが、どれほど身体に深刻な害を及ぼすものなのか、分かっていなかった。
彼を助けたい一心だったから、解毒剤を口に含んだ時のダメージがいかに凄まじくとも、耐えられた。
彼の容体の変化が、自分の苦痛と引き換えのように思えて、喜びすら感じていた。
「解毒剤って、毒を以て毒を制すっていう言葉そのものなんだ。もともと毒に侵されていた僕は解毒剤で回復するけど、健康だったエルナにとっては猛毒。そのせいで君は丸二日、眠ったままだった。もう、目覚めないんじゃないかと怖かった」
フリッツがエルナの髪を撫でる手を止めた。
「そんなに! …………でも」
もし、ゲラルトのように解毒剤について熟知していたとしても、それを口にすることを躊躇しなかっただろう。
そしてたとえ、その毒で命を落とすことになったとしても、後悔はなかっただろう。
「あなたが無事でよかった」
それが、いちばん重要なことだったから。
エルナは口元に精一杯の笑みを浮かべ、後悔に表情を歪ませるフリッツに手を伸ばした。
自分ももう大丈夫だということを伝えたかったし、何より彼に触れたかったのだが、伸ばした手は彼の手に取られてしまった。
「あ……の?」
彼はエルナをじっと見つめた後、手の甲にそっと唇を押し当てる。
「ひゃあ」
「ねぇ、エルナ、君にずっと話せなかったことだけど」
「う……うん」
彼の行為と、真剣な眼差しにどきどきする。
ずっと高熱が続いているが、さらに熱が上がったのかもしれない。
彼こそが、全身の力と思考を奪う、甘い甘い劇薬にも思える。
彼はエルナの首を横切る金色の鎖を指先で引っ掛けると、ペンダントトップを手繰り寄せた。
「君にあげたこのペンダント。これは『青を抱く薔薇』と呼ばれる皇帝の紋章でね、皇帝と皇帝妃しか身につけてはならないものなんだ」
「へぇ…………って、えっ?」
皇帝と皇帝妃しか身につけてはならない——?
そんなものをどうしてわたしに?
「湖で君にこれを手渡した時、そんな慣習は僕の代で終わりにするつもりだったんだけど、やっぱり、続けていくことに決めたよ」
「ちょっと、待って。それって……」
湖での彼は、ひどく思いつめた様子だった。
ペンダントを一目見たフォルカーには「どこで盗んだ」と問い詰められ、フレデリクは「全力で支えてやる」と表情を変えた。
この豪華な青い石の飾りは、とてつもなく高価なだけでなく、何かしらのいわくを抱えたものではないかと思ってはいたが。
「こ、皇帝妃って、どういうこと? 続けるって……?」
皇帝と皇帝妃しか身につけられないはずの飾りを、慣習を破ってわたしにプレゼントしたものの、やっぱり慣習を続けるって……?
どういうこと?
熱が上がりすぎたのか、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
「あ……そっか。ペンダントを返して欲しいってこと?」
ようやく絞り出した答えがこれだった。
しかし彼は、少し怒った顔をずいとエルナに寄せた。
「どうして、そんなことを言うかな? これはエルナだけのもの。君しかつけられないものなんだよ」
だから、もう訳が分からない。
いや、本当はうすうす気づいているのだが、ありえなさすぎて、考えることを無意識に拒否していた。
「僕はこの国の皇帝という地位にあるから、妃は本来、他国の姫君か高位の貴族の令嬢でなければならない」
「うん……」
それは当然だ。
そうでなければ釣り合わない。
彼の隣に立つべきは、豪華なドレスと皇帝の紋章が似合う、どこぞの国の高貴なお姫様だ。
粉にまみれてパンを焼く自分ではないのだと、ぼんやりした頭で淡い期待を打ち消そうと必死になる。
「でも、フレデリクは二つの方法があると言う。一つ目は、皇帝に逆うことは決して許されないような恐怖政治を敷く。そして、もう一つは……例えば平民のパン職人を娶ったとしても、誰もが心から祝福してくれるような、国民に愛される皇帝になること」
「平民の……パン職人……?」
それが誰を指すのか、考えるまでもなかった。
そして、彼がどちらの道を選ぶかも、聞くまでもなかった。
「エルナ。愛してる。僕は必ず君を妃にする。そう約束する。すごく難しいことだから、何年もかかるかもしれないけど、僕を信じて待っていてくれないか」
相手は恐れ多くも、この国の皇帝陛下だ。
皇帝妃など、どこの雲の上の人かと思う。
天と地ほどの身分の差とか、自分の教養のなさとか、今後の険しい道のりとか。
本当なら考えなければならないことがたくさんあるはずなのに、頭が正常に働かない。
何も考えられないのに、彼の言葉を嬉しいと感じる。
彼との未来を思うと、熱があるはずなのに、幸せに身体が震える。
「あ……の、……フリッツ」
「ん?」
「お願い。もう一度、さっきみたいにぎゅってして」
そうしたらきっと、何も恐れずに、このまま一歩踏み出せる。
「ああ」
彼の、幸せを噛みしめた照れ臭そうな笑顔が近くなった。
背中の下に彼の腕が差し込まれ、ふわりと身体が浮いた。
高熱に侵され力が入らない身体でも、彼の腕で支えられれば起き上がることができる。
きっと彼と一緒なら、どんな苦労をしても乗り越えていけるはず。
だから。
重い両腕を必死に持ち上げ、彼の首に回す。
彼がもっと近くなる。
「あなたを信じるわ。あなたの好きな林檎のパンを焼きながら、ずっと待ってる」
彼にしか聞こえないように囁くと、それに応えるように彼の腕に力がこもった。
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