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7章
しおりを挟むあの衝撃的な“奪われたキス”から数日が経つ。
わたしは王宮にいる限り安全だと思っていたけれど、宰相派の陰謀は予想以上に根深い。屋敷内で襲われた恐怖が、まだ胸に残っていて、夜になるとあのときの暗がりを思い出してしまう。
だが、そんな不安を上回る形で、レオナール殿下の“束縛”が強化されているのも事実だ。まさかここまで強引に、わたしを彼の執務室近くの部屋へ移すとは思わなかった。今まで以上に警護の数が増え、気づけばわたしの周りは殿下が選んだ騎士たちばかり。まるで監禁と呼んでも差し支えない状況だ。
「……これでは、前に進めません。わたしは少しでも外に出て、現場を見たいんです」
朝一番に執務室へ赴いてそう訴えるが、殿下は冷静な顔で却下する。
「宰相派の連中が何を企んでいるかわからない。お前の身を守るのが最優先だ」
「でも、改革をするには、庶民の実情を知ることが……」
言いかけたわたしを、殿下はきっぱりと遮る。
「嫌なら、ここを出て命を落とすか? 俺以外の守りなど当てにならない。……わかったら、大人しくしていろ」
あまりにも強引だ。わたしは机の前で拳を握りしめる。いつもの殿下らしい合理的な言い方に加え、どこか独占欲めいたものが透けて見える。一瞬、彼の視線を感じるけれど、その瞳はどこか険しく、わたしから目をそらさない。
(どうして……こんなにもわたしを閉じ込めようとするの?)
結局、わたしは半ば強制的に殿下の執務室の隣の部屋へ戻される。そこには書類が山積みに置かれ、もはや執務室の簡易版のような様相だ。実際、わたしがこの国の会計データや貴族との交渉記録を整理するうえで必要なものは大体ここにそろっている。
「七海様、失礼いたします。お茶をお持ちしました」
侍女のルーシーが申し訳なさそうにカートを押して入ってくる。あのとき宰相派に襲われたショックからか、彼女もまだ不安げな表情をしている。
「ありがとう、ルーシー」
わたしがカップを受け取ると、ルーシーは言いにくそうに口を開く。
「その……殿下が『なるべく外には出すな』とおっしゃっていて、もしお部屋を移動されるときも騎士の付き添いを……」
「もう知ってるよ。ずっとこうだしね」
わたしはわざとあっさりした口調で返す。でも内心、モヤモヤが収まらない。殿下の言うとおり、宰相派に再び命を狙われるのは怖い。だけど、だからといってここに閉じこもっていて、改革を進めることなんて本当にできるの?
頭の中で思考が空回りしていると、ふと扉の向こうで何やら騒がしい声が聞こえる。誰かが「殿下、少し待ってください!」と止めようとしているようだけれど、それを振り切るような足音が近づいてくる。
ドアが開き、レオナール殿下が大股で入ってくる。その表情は不機嫌そのもの。わたしを見つけるなり、低く命じるような声を出す。
「お前、また外へ出たがっているらしいな」
「それは……」
わたしはルーシーの方をちらりと見る。彼女が口を滑らせたのかもしれないけど、仕方がない。もともとわたしはこの閉鎖的な環境から抜け出したくて仕方がないのだから。
殿下は机に手をつき、鋭い視線をわたしに向ける。
「やめておけ。宰相派がまた動き出している。さっきも王宮の一部で“七海が呪いを広めている”などという噂が流れていた」
「それ、根拠ないでしょ? わたしがずっと王宮に閉じこもってることは、みんな知ってるはずなのに……」
「連中は、事実かどうかなど気にしない。お前がいるだけでこの国に災厄をもたらしている、そう叫べば庶民も疑心暗鬼に陥る。今、表に出るのは得策ではない」
わたしは殿下の冷酷な現実論に、反論できずに唇を噛む。確かに、そのとおりかもしれない。だけど……。
「だったら、わたしはどうすればいいんですか? ここにずっと閉じこもって書類仕事だけしてれば、すべてうまくいくとでも……?」
思わず声が荒くなる。すると殿下は眉をひそめ、ため息まじりに言う。
「その方が安全だ。……俺以外の男とも余計な接触をしなくて済む」
(……あれ、今「男と接触をしなくて済む」って言った?)
思わず顔を上げる。殿下はわざとらしく視線をそらし、机の上にあった資料をむやみにめくり始める。
「……お前は妙に影響力がある。もし他の男が近づけば、そこに宰相派の策謀が潜んでいるかもしれないだろう」
その言葉は確かに理屈が通っているように聞こえる。でも、その一端には彼の嫉妬――あるいは独占欲が含まれているのを、わたしは感じ取ってしまう。いつの間にか彼は、自分以外の誰かとわたしが言葉を交わすことすら警戒しているように見える。
「……それ、本当にわたしのためだけですか? それとも、殿下の独占欲?」
わざと突っかかるように問うと、殿下の表情が一瞬固まる。でもすぐに冷たい目を取り戻し、書類をデスクに叩きつけるように置く。
「下らないことを言うな。お前の身を守る手段として、これしかないからやっているまでだ」
「なら、そんな言い方しなくてもいいじゃないですか……“俺以外の男と話すな”なんて……」
思わず目が潤んでしまう。自分でも驚くほど、彼の言葉が胸に突き刺さる。あの強引なキス以来、わたしの中で彼の存在が大きくなっているのは間違いない。だけど、この束縛はあまりにも苦しい。わたしが本当にここにいる意味を見失いそうになる。
殿下は目を伏せ、わずかに声を低めて言う。
「……俺の気持ちなどどうでもいい。最優先は、お前が再び狙われないこと。それだけだ」
そう言われると、もう何も返せない。彼が本当に何を思っているのかがわからなくて、苦しくなるばかりだ。ルーシーが気を利かせて部屋を出て行ったのを確認すると、殿下は深く息を吐き、ちらりとわたしを見つめる。
「……宰相派は国外追放案を貴族会議に提出しようとしている。『呪われた娘を野放しにしてはいけない』という名目だ。奴らの狙いは、お前を王宮から追い出し、それこそ何らかの事故に見せかけて……」
そこから先は言わなくてもわかる。つまり、わたしを消すつもりなのだろう。王宮を出てしまえば、殺されても魔物に襲われたとか、事故だったとか、いくらでも誤魔化しが効く。そんな未来は絶対にごめんだ。
わたしは震えながら拳を握りしめる。どうすればいいのか、頭ではわかっている。今は大人しく、殿下の監視下にいるのが一番安全だと……。
「……でも、そんなの、もう嫌です。わたしはただ改革を進めたくて、この国を変えたくて……」
思わず涙がこぼれそうになる。すると、殿下は無言のまま、わたしの手首をつかむ。そのままスッと部屋の奥へ歩いていき、椅子に腰掛けてわたしを自分の膝の上に乗せるように抱き寄せる。
「ちょ、ちょっと……!」
驚きで声が裏返る。こんな姿勢、まるで子供扱いみたいだ。でも抵抗しようとすると、殿下の腕がさらに強くわたしの腰を抱きしめる。
「……落ち着け。誰の前でもない」
殿下の低い声が耳元で振動して、頭が真っ白になる。わたしは心臓の高鳴りを抑えられず、必死に言葉を探すけれど、何も出てこない。彼は静かに続ける。
「改革を続けたいなら、なおさら死ぬな。お前がいなくなれば、俺も困る」
「……困る、ですか」
またその言い方。道具のように聞こえてしまう。でも、彼の声にはいつもより情感がこもっている気がする。ここまで強引なやり方をするのは、やはり不安や嫉妬があるからじゃないか……と、そんな邪推をしてしまう。
「俺がこうしているのは、お前を手元に置きたいからだ。それ以外に理由はない」
「手元に……」
「宰相派なんぞに奪われるわけにはいかない。……それが俺の本音だ」
わずかに触れる殿下の頬が、普段より熱いように感じる。彼の鼓動が背中越しに伝わってきて、わたしの呼吸も荒くなる。
(……なにこの状況。甘い監禁の最たるものじゃない)
意地悪い表現だけど、まさにそんな状態だ。あまりにも近くて、思考が動かなくなる。ふいに殿下がわたしの耳元で低く囁く。
「……俺以外の男と、今は話すな。余計な波風を立てたくないし、お前も巻き込みたくない」
胸がぎゅっと締めつけられる。まるで愛しいものを奪われたくなくて必死に抱きしめるような、そんな彼の独占欲が痛いほど伝わる。でも、同時に不安もある。わたしは道具じゃなく、きちんとパートナーとして見てほしいのに。
「……わたしは、ただの所有物ですか?」
搾り出すように尋ねると、殿下の腕がぴたりと止まる。数秒の沈黙の後、彼は極めて小さな声で呟く。
「……それは違う。だが、そう言わなければお前を守れないときもある。……わかってくれ」
正直、わかるようなわからないような。だけど今は、その返事だけでもありがたいと思うことにする。わたしは小さくうなずき、殿下からそっと体を離そうとする。でも、彼の腕はまだわたしを放してくれない。
「……殿下?」
「もう少し、こうさせておけ。宰相派の件で苛立っている……」
荒い呼吸が首筋にかかり、鳥肌が立つ。ドクドクと胸が高鳴る。まさかこんな形で、わたしを守るための監禁が甘い雰囲気を醸し出すなんて、想像もしていなかった。
(本当に、殿下は何を考えてるんだろう。どうしてこんなにまで……)
自問自答しているうちに、扉の外から控えめなノックの音が聞こえる。わたしは慌てて椅子から立ち上がり、殿下もすっと体を離す。
「七海様、失礼いたします……」
ルーシーの声だ。彼女がドアを少し開け、「先ほど貴族の方がいらして、“七海様はただちに貴族会議へ出席するように”と言い残していったのですが……」と困惑顔で言う。
一気に現実へ引き戻される。貴族会議への出席――それは宰相派が用意した場かもしれない。国外追放案の布石としてわたしを呼び出す可能性がある。
殿下が鋭い目を光らせ、すぐに答える。
「断れ。今の七海を表に出すわけにはいかない」
「ですが……正式な手紙が届いており、七海様を名指しで……」
ルーシーが戸惑う。わたしも心臓がざわめく。このまま逃げ続けることはできない。改革の成果を示し、宰相派の策略を跳ね返すには、公的な場で意見を述べる必要があるだろう。
(けど、行ったら行ったで危険に巻き込まれるかもしれない……)
殿下は苦い表情を隠そうともせず、机に置いてあった手袋を一度握りしめ、そしてわたしへ向き直る。
「お前は行かない方がいい。貴族会議はほぼ宰相派の息がかかっている。それこそ罠だ」
「でも、逃げても同じです。わたしは“呪いの娘”の汚名を返上できないまま、追われ続けるだけ……」
そう言うと、殿下は憤りを押し殺すように口を閉ざす。わたしも黙りこくり、言いようのない重苦しさが部屋に広がる。
すると、殿下はわずかに視線をそらし、低い声で言う。
「……わかった。だが、俺が徹底的に護衛を固める。貴族会議へ行くなら、それを飲め」
その言葉は、つまり「絶対に俺のそばから離れるな」という宣言でもある。完全に束縛されるのは正直窮屈だ。けれど、宰相派の策にはまって殺されるよりは何倍もましだろう。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げると、殿下はまるで拗ねた子供のようにわずかに口をとがらせる。そしてわたしを見つめたまま、「絶対に勝手な行動をとるなよ」と強く念を押す。
(監禁だとか、束縛だとか、もうどうでもよくなるくらい切羽詰まっている。だけど……)
わたしはふと、殿下の腕の熱を思い出す。彼が必死にわたしを守ろうとしてくれているのは疑いようもない。嫉妬混じりの独占欲が鬱陶しいと感じるときもあるけど、そこに“わたしへの特別な思い”の片鱗を見つけてしまうと、なんとも言えない甘い気持ちが込み上げる。
(これって、本当に“偽りの婚約”なの? 彼が“俺のもの”と言うたびに、心が揺らいでしまう……)
そんな複雑な感情を抱えたまま、わたしは宰相派が用意した舞台へ立ち向かわなくてはならない。貴族会議の場で、何を言われるのか――想像するだけで胃が痛くなる。
でも、わたしはもう逃げない。外へ出て戦う道を選んだ以上、王宮に甘んじて監禁されているだけではいられない。殿下の独占欲に縛られている自分に気づきながらも、あえてその手を借りて宰相派と対峙する。
次の瞬間、わたしはふっと殿下の横顔を見る。相変わらず冷徹で仏頂面だけど、その瞳の奥には隠しきれない焦燥がにじんでいる。束縛と嫉妬――その裏にあるのは、ひょっとしたら“本当の想い”なのかもしれない。
(ならば、わたしも……)
わたしは声にならない決意を胸に、そっと殿下の手を握る。自分でも驚くほど自然にそうしていた。すると、彼は一瞬だけ戸惑ったように目を見開き、次いでわずかに握り返してくる。
ルーシーがこちらを見て小さく微笑む気配がするけれど、何も言わない。気まずさと甘さがないまぜになった空気の中で、わたしはただ静かに息を整えた。
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