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6章
しおりを挟む朝の薄い光が差し込む。わたしは昨夜もよく眠れなかった。あの夜の強引な口づけ以来、レオナール殿下の態度がどうにも掴めない。強引なのに、どこか切なさを漂わせる彼の様子が、わたしの気持ちをかき乱すばかりだ。
実際、最近は宰相派の暗躍が激しくなり、わたしに対する危険な噂や中傷が急増している。市場や貴族の館で「七海が呪いを撒き散らしている」という根拠のない話を聞かされるたびに、胸がざわつく。
(わたし、本当にここにいていいのかな……)
そんな思いが頭を離れない。現代の経済知識で少しは貢献できると思っていたのに、宰相派はわたしを国の破綻の責任者に仕立てようとしている。国が少しずつ改善に向かい始めた矢先でも、彼らは新たな“呪いの証拠”を捏造しようと必死だ。
午前中のうちに執務室での作業を終え、「少しは休め」と言われたものの、ずっと室内にこもっているのが耐えられなくなってくる。護衛の侍女・ルーシーを伴いながら、ほんの少しだけ廊下を散歩しようと外に出る。
王宮の壁には美しい装飾や絵画が飾られていて、本来ならうっとり見とれるほど豪華な空間。けれど、何度も足を運んでいるうちに、むしろ閉塞感ばかりが募る。
ふと窓の外に目をやると、広い中庭が見える。噴水や緑の芝生が整えられているけど、そこにも侍女や騎士の姿はほとんどなく、なんとなく寂しい雰囲気が漂っている。
「七海様、だいぶお疲れのようですね……」
ルーシーが心配そうに声をかけてくれる。わたしは小さくかぶりを振る。
「ありがとう、でも大丈夫。ちょっと気分転換したかっただけだから」
ほんの数分、廊下を歩くだけ。それだけで部屋に戻るつもりだった。けれど、そのわずかな時間を宰相派が見逃すはずがなかった——。
ルーシーと共に曲がり角を進んだところで、突然視界が暗くなる。何者かの手によって目隠しをされ、同時に口をふさがれる。恐怖で声も出せない。ルーシーの悲鳴がかすかに聞こえた直後、わたしは力任せに廊下の奥へ引きずり込まれる。
「んっ……! はな……して……!」
必死に身をよじるけれど、複数の腕がわたしをがっちりと押さえつける。耳元で男たちの低い声が飛び交う。
「いいか、呪われた娘が暴れないように厳重に……」
「変な力を発揮されたら困るぞ、宰相様に怒られる」
(宰相……ガブリエルの差し金!?)
間違いない。彼らは宰相派の手先だろう。王宮の警備が厳重とはいえ、廊下の死角を狙えば、こうして短時間で連れ去ることも可能なのかもしれない。思わず心臓が凍りつきそうになる。
必死で抵抗するけれど、大人の男数人に押さえられたらどうにもならない。わたしは口を塞がれたまま、どこか人気のない部屋へ連れ込まれてしまう。ドアが閉まる音が聞こえ、押し込まれた先は薄暗い倉庫のような場所だ。
男たちは目隠しを外すと同時に、わたしの腕を縛り上げる。一人がニヤリと笑い、わざとらしく言う。
「破滅の呪い……噂では触れるだけで人を不幸にするんだとか。だが、そんな力、本当にあるのか?」
わたしは反論しようとするけど、まだ口をふさがれている。唇の上に荒い布を押し当てられている状態なので、上手く声が出ない。
「ふざけるな。早く放して……」
何とか声を振り絞ると、男の一人が「黙ってろ」とばかりにわたしの顎をぐいっとつかむ。痛い。涙が滲む。どうにかして逃げたいのに、まったく身動きがとれない。
そこで扉の向こうから、新たな足音が近づいてくる。高級そうな靴が床を踏む音。そして、低く冷たい声が呟く。
「……ご苦労だったな」
(この声は……ガブリエル・ローゼンベルク、宰相!)
目線を向けると、薄暗がりの中に宰相が悠然と姿を現す。威圧感のある佇まいで、わたしを見下ろしている。
「やはり、王宮に呪われた娘を置くなど言語道断。……お前は、自分が“破滅の元凶”だという自覚があるのか?」
「そ、そんなわけ……あるわけないでしょ……」
布が口に巻かれたままなので、声はくぐもっている。それでも必死に否定する。宰相はあからさまに嘲笑を浮かべる。
「お前がいてからというもの、王宮は混乱し、貴族たちは疑心暗鬼に陥っている。そして何より、我々が築き上げた秩序が脅かされている。……それが呪いでなくて何だと言うんだ?」
言い分が滅茶苦茶だ。わたしが改革を進めた結果、庶民が少しでも救われる兆しが出てきているのに、宰相派にとっては“秩序を乱す”行為に映るらしい。
わたしは悔しくて言い返そうとするが、また顎を掴まれたままで痛くて声が出ない。宰相は男たちに合図を送り、わたしを床に押し付けさせる。体を動かせない苦痛に涙が溢れそうになる。
「……やめて……」
どんな目に遭うかわからない恐怖で、頭が真っ白になる。ただ、一方で“ここで終わりたくない”という想いがわずかに残っている。レオナール殿下やユリウス、それにわたしの味方をしてくれる庶民の人たち……みんなのために、改革を続けなきゃならない。
(でも、こんな状況じゃ……助けは来ないの? ルーシーは大丈夫なの……?)
覚悟が揺らぎそうになる。と、そのとき、宰相が皮肉気に低い声を落とす。
「……そうそう、レオナールのことを勘違いしているんじゃないのか? お前を守っているように見えるが、あれはただの利用だ。わたしは彼を幼いころから見てきたが、あの男は国のためなら平気で駒を切り捨てるタイプだ。お前が使えなくなれば、捨てられるだけだぞ」
ズキリと胸が痛む。わかっている。レオナールがわたしを道具として見ている部分があるのは、もう何度も感じてきた事実だ。だけど、あの一瞬の口づけや視線が全部嘘だとしたら……わたしは何のために頑張ってきたの?
宰相はわたしの動揺を見抜くように、さらに続ける。
「見ろ、こんな状況でもあいつは助けに来ない。もう、お前は見放されたんだよ」
悪魔のような声が耳を侵す。心が折れそうになる。……確かに、今こうしてわたしが危険に晒されても、誰も来る気配がない。大勢の護衛がいたはずなのに、どうして。
「さあ、おとなしく“呪いの証拠”になってもらおうか。お前のせいで不幸が起きたと皆に見せつければ、王子の改革など潰せる」
(……こんなの絶対に嫌だ。誰か……誰か、助けて)
そう思いかけた瞬間、耳を裂くような金属音が倉庫の扉越しに響く。男たちが一斉に警戒の声を上げ、「誰だ!」と叫ぶ。
ごう、と冷たい風のような気迫が押し寄せる。ドアが乱暴に蹴破られ、そこに立っているのは——レオナール殿下。いや、それだけじゃない。何人かの騎士が後ろにつき従っている。
「貴様ら、よくも俺の女に手を出したな」
低い声は今にも怒りが爆発しそうだ。男たちが慌てて剣を抜こうとするけど、殿下は容赦なく一刀を振りかぶり、一瞬で二人を制圧する。あまりの素早さに呆気に取られる。まるで猛獣を蹴散らすかのようだ。
わたしを押さえつけていた男も悲鳴を上げて逃げようとするが、騎士たちの包囲によってあえなく拘束される。
「七海……!」
殿下がこちらに駆け寄り、床に押さえつけられていたわたしの腕をほどいてくれる。視界が歪んでよく見えないけど、彼の顔がこちらに向いているのを感じる。
「……大丈夫か」
その一言に、わたしは自然と涙が溢れる。安堵と心細さが一気に押し寄せてきて、まともに声が出ない。
「……どうして……ここが……」
わたしが震えながら尋ねると、殿下は少しだけ眉を寄せて答える。
「ルーシーが必死に知らせてきた。少し遅れたのは、宰相派が兵をかく乱させていたからだ。……すまない」
“すまない”の一言にハッとする。彼は謝罪なんてめったにしない人だ。でも、今の彼の眼差しは明確にわたしを案じている。それがほんの一瞬の錯覚でも、わたしは心が救われる思いがする。
すると、宰相は奥のほうでわずかに身を引きつつ、あくまで強がる態度を崩さない。
「レオナール殿下、今の行為は越権では? 王宮内で私の配下を傷つけるなど……」
「黙れ。お前たちが先に七海を襲ったことを王妃や貴族会議に報告すれば済む話だ。言い訳など通用しない」
殿下の声に容赦はない。ガブリエルは唇を噛み、憤怒の表情を浮かべている。
(……きっと、彼はこんなことでは引き下がらない。わたしを利用し続ける限り、宰相派は動きを止めない。けど、今は……)
あまりにも疲弊したわたしは、殿下の背に凭れるように体を任せる。すると彼はわたしの肩を支えてくれ、再び男たちに向き合う。
「誰か、ガブリエルを拘束しろ。今ここで処罰を下すことはできなくても、少なくとも王宮内でのこのような暴挙を許すわけにはいかない」
騎士たちが一斉に動く。宰相は苦り切った表情で「これは許されざる行為だ……!」と抗議するが、殿下はまったく耳を貸さない。
混乱の中、わたしは騎士に支えられながら倉庫の外に連れ出される。廊下に出ると、ルーシーが泣きそうな顔で飛び寄ってきて、「七海様、ご無事で……!」と何度も謝罪してくれる。
「いいの、わたしこそごめんね……巻き込んじゃって……」
そう呟くと、ルーシーは首を振り、わたしの手を握りしめてくれる。温もりが痛いくらいありがたい。心臓がまだバクバクしているけど、きっとこのまま部屋に帰れる……と思ったのも束の間。
不意に腕を引かれる。見ると、レオナール殿下だ。彼は騎士に指示を飛ばし、宰相派の残党を制圧させると、わたしを人目の少ない小部屋へ連れ込む。
ドアを閉めるなり、ぎゅっと強く抱き寄せられてしまい、酸素が足りなくなるほどの圧迫感に思わず戸惑う。
「……離して、苦しい……」
小声で訴えると、殿下は少しだけ力を緩める。それでもまだ強くわたしを抱きしめていて、彼の心臓の鼓動が伝わってくる。
しばしの沈黙のあと、彼は声を震わせるように呟く。
「……お前がいなくなるかと思った。もし、宰相派に奪われていたら……」
その言葉に、胸がぎゅっと締まる。彼にとってわたしは“駒”だと何度も聞かされているのに、この言い方はどういうことだろう。
「殿下は、わたしを道具だと思っているんじゃなかったんですか……?」
自分でも驚くほど弱々しい声が出る。すると、殿下は抱き締めたまま頭を下げ、低く囁く。
「駒に過ぎない……はずだった。だけど、現に俺はさっき、お前がいなくなると考えただけで、正気ではいられなくなった」
一気に熱いものがこみ上げてくる。彼の言葉は決して優しいだけじゃない。でも、わたしには十分すぎるほど痛みを和らげてくれる。
殿下の腕から逃れようとして顔を上げると、彼の青い瞳がわたしを見つめている。その視線は静かな怒りと安堵が入り混じった複雑な色をしている。
「……お前がいないと、国の改革が進まない。……それだけじゃない。もう、お前を放っておけない」
素直じゃない。でも、その言葉を聞いただけで涙が溢れそうになる。どう返事をすればいいかわからない。
わたしが唇を震わせていると、彼はわたしの頬に手を添えて、乱暴なほど強く唇を塞ぐ。思考が止まる。これが二度目のキス。今度は荒々しいだけじゃなく、彼の必死さが痛いほど伝わってくる。
「……ん……!」
抗う気力もない。むしろ、わたしの中の不安や恐怖が、この激しい行為によって一時的に消し飛ぶ。彼の吐息と体温に包まれて、頭が真っ白になる。
やがて、殿下は唇を離し、わたしを見下ろす。その青い瞳には、迷いと焦燥感がはっきり見える。
「お前は……俺のものだ。誰にも渡さない。宰相派にも、この国の誰にだって……」
途切れがちな言葉だけど、真剣な想いが混じっている。それがあまりにも突然で、わたしは何も言えずに彼の胸に顔を埋める。さっきまでの恐怖が嘘みたいに体が震え、心臓の鼓動が煩いほど鳴り響く。
(どうしよう。偽りの婚約なのに、今の彼は……)
喉元まで出かかった言葉を呑み込む。涙と一緒に、余計な不安もこぼれ落ちそうになるけれど、今はこの腕の中で息を整えたい。
宰相派による“拉致未遂”は最悪の事件だけど、それがわたしたちの関係に大きな変化をもたらしたのは間違いない。彼にとってわたしは、ただの駒や道具じゃなくなりつつあるのだと、そう感じさせるに十分なほど、殿下の抱擁は熱かった。
——これからどうなるのかはわからない。でも、わたしは今、確かに彼の腕の中にいる。それだけで、言い知れない安堵と不安が入り混じった感情がわき上がる。
(本当に、わたしはどうしたらいいんだろう。彼にすべてを任せるだけじゃなく、自分の足でこの国を支えたいのに……)
呼吸を整えながら、わたしは胸に誓う。宰相派の陰謀はまだ終わらないはず。だけど、殿下の言葉が嘘でないなら、ふたりで乗り越える道があるかもしれない。もう一度、数字に語らせて、この国を変える。そして、わたし自身も——。
彼の中で何が変わろうとしているか、まだ全部はわからない。けれど、この荒々しいキスと「誰にも渡さない」という言葉が、確かにわたしを奮い立たせる。帰り道を見つけるよりも、ここに踏みとどまる選択を、今なら迷わずできそうだ。
いつか、この感覚が本物の安心に変わる日が来るのだろうか。握り返した彼の手は、先ほどの戦いで少し震えている。わたしはその震えを受け止めながら、ぎゅっと目を閉じる。
(もう、逃げたりしない……一緒に戦って、全部変えてみせる)
そう心に決めて、わたしは彼の胸にそっと額を預ける。お互いの息づかいだけが、小さく響き続けている。
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