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エピローグ
しおりを挟むここは王宮のバルコニー。
夜の帳が静かに降りた庭園を見下ろすと、まだ所々に明かりが灯っていて、昼間の喧騒をほんのり感じさせる。わたしはそっと息を吐き出し、冷たい夜風をまともに受け止める。
「……意外と肌寒いね」
小声でつぶやくと、後ろから足音が近づいてくる気配がする。やがて、あたたかな上着がそっとわたしの肩にかけられ、同時に低い声が耳元を震わせる。
「こんな夜更けに、一人で外に出るなんて、まだ不安なのか?」
レオナール――いえ、今は「レオナール」と呼ぶのも、かなり慣れてきた。
わたしは振り返り、彼の青い瞳を見上げる。近くにいるだけで、その漆黒の髪と引き締まった表情がもたらす存在感に圧倒されそうになる。だけど今は、わたしにとってかけがえのない……何より大切なパートナーだ。
「不安というか、いろいろ考えちゃって……嬉しいことも、やるべきことも、たくさんあるからね」
そう言いながら、わたしはバルコニーの手すりに寄りかかる。先日まであれほど緊迫した宰相派との闘争が嘘のように、王宮は落ち着きを取り戻しはじめている。もちろん、まだ山積みの課題は多いし、ガブリエルたちの処遇も途中段階だ。でも、改革は着実に進んでいる。
レオナールはわたしの隣に立ち、視線を同じ方向へ向ける。
「確かに、これから動かすべき政策は山ほどある。……けど、お前がいれば、不可能ではない」
静かな声が夜風に溶ける。胸が温かくなる。わたしはそっと彼の手に指を絡める。
もともとは“偽りの婚約”だった。でも、いまはもう誰にも否定できない形で、わたしとレオナールの未来が繋がっている。絶対王者のように振る舞っていた王子が、こうしてわたしを対等に扱ってくれるなんて、想像もしていなかったことだ。
「そういえば、ユリウスが今日の会議で『新しい商業都市の建設』を提案してたでしょう? わたし、ぜひあれを実現させたいんだ。地方の特産物を活かした貿易路を拡大すれば、王都に集まりすぎた富を地方へ回せると思うの」
話し始めると止まらないのが、わたしの悪い癖だと思う。でも、レオナールは嫌な顔をしない。むしろ、わたしの熱弁に耳を傾けながら、時折「それは面白いな」と相槌を打ってくれる。以前なら「利益になるのか?」などと冷たく数字を求めてきたのに、今はわたしの言葉をまず受け止めてくれる。
「ただ、地方の貴族や領主の抵抗も大きいよね。自分たちの特権を失いたくない人は、まだ少なくないはず」
わたしの不安混じりの言葉に、レオナールは短く息を吐く。
「そいつらには、そろそろ引導を渡す時だろう。既得権益を守ろうとするあまり、庶民が苦しむ状況はもう認められない。それが俺の信念でもある」
熱い言葉に、わたしは思わず笑みをこぼす。本当は、彼はずっと昔からこうしたいと思っていたのかもしれない。けれど、王族という立場や周囲の政治的圧力で思うように動けなかった。わたしが現れたからこそ、殻を破るきっかけになったのだとしたら、これほど光栄なことはない。
沈黙がしばし訪れる。夜空を見上げると、月が柔らかい光を落としている。その光の下、わたしはそっと息を整えて、心の底にある言葉を口にする。
「……ねえ、レオナール。わたし、何か間違えてないかな? “破滅の呪い”って言われてた子が、いきなり王族の側に立って国を動かしていくなんて、受け入れられない人も多いと思うんだ」
正直、まだ信じられない気持ちがある。わたしが経済改革に貢献できるとしても、“平民の女”が王宮で権限を持つことを快く思わない貴族はたくさんいる。それに、わたし自身が“呪われている”と信じ込んでいる庶民も、少なからず残っているかもしれない。
彼は、わたしの手を少し強めに握り返す。月光に照らされるその横顔は、いつもよりも優しく見える。
「間違っているかどうかは、お前自身が数字と行動で示せばいい。反発は覚悟のうえだろう? 俺もそれを背負う。……だから、もしお前を攻撃する者が現れたら、俺がすべて叩きのめしてやるさ」
強気な言い方だけど、わたしにはやりすぎなくらい頼もしく感じる。彼がこうまで言ってくれるなら、もう迷う必要はない。この国をもっと良くするため、わたしはわたしの方法で努力すればいい。それがレオナールにとっても、庶民にとっても最善につながると信じたい。
沈黙がまた訪れる。でも、今度は心地よい沈黙だ。わたしはもう一度、夜空を見上げる。遠くの星が小さく揺れているように見えるのは、目の錯覚かもしれない。今日のうちにやっておくべき仕事を考えながらも、肩の力がすとんと抜ける。
すると、レオナールがわずかに身を寄せてくる。耳元に熱を孕んだ声が届き、胸が高鳴る。
「……今日はもう休め。明日はまた忙しくなるぞ」
「わかってる。でも、ちょっとだけこの夜風に当たっていたかったんだ。もうすぐ変わるじゃない? 国も、わたしたちも……すべてが新しくなる」
自然と口からこぼれた言葉に、彼はほんの少し微笑んだように見える。そして、わたしの肩を包む上着を引き寄せて、さらに強く抱き寄せる。
「新しくなる、か。……そうだな。お前となら、一緒に新しい時代を見られるかもしれない」
その声に、小さく微笑む。そう、この国は確実に変わる。貴族社会の腐敗を根絶し、庶民が笑って暮らせる仕組みをつくり、経済を回復させる――大変な道のりだけど、わたし一人じゃない。レオナールやユリウス、改革派の貴族、そして庶民の思いがあれば、不可能なんてないと思える。
「……じゃあ、そろそろ部屋に戻ろうか。風邪ひいても困るし」
わたしがそう提案すると、彼はわずかに離れてわたしの手を引く。夜の廊下を歩く足取りは、不思議なほど穏やかだ。まるで、あの宰相派との激戦の日々が嘘だったかのように感じてしまう。けれど、あれがあったからこそ今があるのだと、心のどこかで静かに痛感している。
(ありがとう。わたしを“破滅の呪い”から解放してくれて。これからは、わたしがあなたを支えたい)
そんな思いをかみしめながら、わたしはレオナールの隣で歩む。この城の廊下は長く、幾多もの扉があり、どこまでも続くように見える。でももう迷わない。きっとどの扉の先にも、新しい希望があると信じられるから。
一瞬、重なり合った手を見下ろし、小さく呼吸を整える。心臓が高鳴るけれど、その鼓動はもう不安じゃなくて期待に変わっている。彼の隣で、わたしは笑顔を作る。
「……レオナール、明日もいろいろ話し合いたいことがあるよ。貴族の納税意識を改善するために、一度徹底した監査を入れたいんだ。抵抗もあるだろうから、力を借りることになると思う」
「いいだろう。協力は惜しまない。……その代わり、夜になったら少しは休めよ?」
「わかってる。あなたもね」
クスリと笑い合う。こんな普通のやりとりさえ、わたしにとってはかけがえのない時間だ。
呪いを理由に追いつめられていたころを思い出すと、まるで別世界の出来事みたい。周囲の視線を気にする必要もなく、ただ彼を“レオナール”と呼んで話し合える喜び――それは何ものにも代えがたい。
ふと、窓の外を見ると、月がいつの間にか雲間に隠れ、星々がより鮮明に瞬いている。星の光が、闇に溶けるように消えかけた王宮の庭を薄っすらと照らしている。
わたしはその瞬間、この世界に来てからずっと抱えていた孤独が、ようやく消え去ったように感じる。もう“破滅の呪い”に怯える必要もない。わたしはわたしとして、堂々と生きられる。
――そして、一人じゃない。
「これからもずっと、一緒にいてね」
小さく囁くと、レオナールは少し照れたように口の端をゆがめ、わたしの指先をさらに強く握りしめる。まるでそれが答えだと言わんばかりに。
(ありがとう。わたし、あなたと一緒にこの国を変えていく。破滅なんてさせない。むしろ、新しい未来を作るんだ)
夜の廊下を進む足音だけが響く。二人の影が寄り添い、ゆっくりと揺れる。
そう、明日は朝早くからまた忙しい。改革はまだ始まったばかり。でも、もう怖くない。どんな困難があっても、数字が教えてくれる現実と、彼の支えがある。
――そしてわたしは、彼の名前をもう一度心の中で呼ぶ。まるでそれが、おまじないでもあるかのように。しっかりと噛みしめながら、わたしたちは静かに夜の奥へと歩を進める。
エピローグ・了
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