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猫のベビーシッター ― 涙と怒りの子育て慕情 ―
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「ただいまー」
息子の大和が帰ってきた。
「おかえり。ランドセルちゃんと片付けなさい」
「はーい」
私の言うことを大人しく聞いてくれる。これもいつまで続くのだろうか?
小学校一年生になって、ずいぶんしっかりしてきたと思う。でも、まだまだこれからだろう。
「お腹すいたー」
ランドセルを片付けて戻ってきた大和が言った。
「待ってて。おやつ用意するから」
キッチンに立ち、用意しておいたおやつを取り出した。
「ねえ、お母さん」
「なに?」大和を見ずに返事をした。
「変なこと聞くけど……」
大和の戸惑っているような声を聞き、大和を見た。
「うちにしゃべる猫がいたことない?」
大笑いしそうになるのを堪え、いつもの調子で返事をした。
「猫はしゃべらないわよ」
「そうだよね」大和はまだ納得していないようだった。
「急にどうしたの?」
大和の前におやつを置き、私も椅子に座った。
「うん……今日クラスの子が泣いたんだ」
「そう。ひょっとして男の子?」
「お母さん、なんでわかるの?」
大和は少し驚いていたが、話の流れから予想がつく。
「何となくね。で、何でしゃべる猫が出てくるの?」
「うん。なんかそのしゃべる猫に、“男でも泣いていい”って言われたような気がして」
「そう」
私は窓から外を見た。
もうあれから三年も経つのか――。
* * *
――三年前。
土曜日の早朝、私――沖田雪は市場へと車を走らせていた。
市場へ着くと、大急ぎで魚を選んだ。他の人に負けるわけにはいかない。魚は鮮度が命。前に適当に選んだら、顔に魚を叩きつけられ、顎に当たって膝から崩れ落ちた。ボクサーって大変だな、と思った。
買い物を済ませ、帰途についた。駅前で信号につかまった。
駅を見た。進、今頃どうしてるだろう? 遠すぎてめったに電話なんてできない。時差もあるし。
夫の進の転勤でこの街にきた。幼い子供を抱え、お互いの両親から離れるのは不安があったが、二人で頑張ろうと話していた。
最初はそれほどの問題は無かった。
それが進の一カ月の長期出張が決まってからおかしくなった。一カ月なら一人でも頑張れると思ったのに、その間に進の会社の海外支社で問題が起きた。進が行くことになってしまった。聞いたことの無い国で、幼い子供を連れて一緒に行くのは不安があったから、進と話し合った末に私は子供とこの街に残った。
「このまま新幹線に乗って、どっか行っちゃおうかなー」
半分本気の独り言を車内で口に出してみた。そんなことできるわけないけど。
信号が変わったのでアクセルを踏んだ。路面電車と並走することになった。自動車教習所の教本でしか見たことのない路面電車に関する信号を、この街では見る。それを見るたび孤独を感じた。
毎週末の理不尽なこの買い物時間。
なのに、私が自由になれる時間はこの時間しかない。
車を走らせながら、流れてくる涙を拭った。
「ただいまー」
家に入りながら、ぞんざいに言った。誰も「おかえり」とか言ってくれないし。
リビングに入ると、息子の大和が笑顔で安心した。
大和のそばにいる虎猫がすっくと立ちあがった。この光景を見慣れてしまった自分が嫌だ。
虎猫はアロハシャツを着て、サングラスを掛けていた。
「は~い! ゆ~きちゃ~ん。ちょっと、遅いんじゃないの?」
虎猫の虎々が話しかけてきた。猫がしゃべっていることに違和感を覚えなくなってきている自分も嫌だ。
「悪かったわね。これでも最速で帰ってきたのよ。あと、その“ゆ~きちゃ~ん”っての、馴れ馴れしいから止めてくれる?」
「気に入らないの?」虎々はそう言うと、考える仕草をした。「じゃあ、“せっちん”」
「それ、トイレのことでしょ?」ため息が出た。
「いいわよ、“ゆ~きちゃ~ん”で」妥協することにした。
「ほら。今日の献上品よ」
そう言って、私は虎々に市場で買ってきたものを渡した。虎々は中身を吟味し始めた。
何でこんなことになったのか。
三カ月ほど前、私は公園で大和を遊ばせていた。
進が海外に行き、ママ友もおらず一人きり。日々の生活の疲れが少しずつたまっていくのを感じていた。終わりは見えない。終わりなんてあるのかもわからない。不安だった。
公園にいる他の母親たちを見た。皆たいへんなのはわかっている。わかっているのだが、一人じゃないのだろうと思うと、羨ましいと思ってしまった。
俯いて考えに耽り、大和から注意がそれてしまった。
ハッとして大和を見たら、大和の握っていた子供用のスコップが、大和の手からすっぽ抜けて飛んでいくのが見えた。心の中で悲鳴を上げ、慌てて立ち上がり、スコップを目で追った。スコップは公園にいた猫に当たった。猫は走り去った。
猫には悪いことをしたと思ったが、スコップはプラスチック製だからひどい怪我はしていないだろう。私はスコップを拾い、大和のもとへ行き、軽く叱った。
それだけの話だと思った。
だが、猫はその晩私の前に現れた。
傷害罪とか慰謝料とか子供の監督不行き届きとかいろいろ言い、対価を要求された。
私は謝ったし、少しカチンときたから反論したけど、結局言い負かされ、対価を払うことになった。
「素ぅ晴らしい品だ、ゆ~きちゃ~ん」
虎々は献上品に満足したようだ。
「そう――良かったわ」
自分でも疲れた声が出たと思った。
トイレに入った。個室は落ち着くなあ。
虎々は腹立たしいが、大和の相手を少ししてくれるのはありがたい。腹立たしいが。
ふと、家の中に音が無いことに気がついた。足元から恐怖が這いあがってきた。
用は済んでいないけど、慌ててトイレを出た。
「大和!」
呼びかけながら家の中を探した。大和はリビングで虎々と何かしていた。
「ん、どうしたの?」虎々が私を見た。
「何してんの?」乾いた声が出た。
「坊に太極拳を教えてんの」
大和は虎々の動きを真剣な顔で真似ていた。
トイレに戻り、用を済ませた。ついでにトイレットペーパーのロールを持てるだけ持ってリビングに戻った。
虎々にトイレットペーパーを手当たり次第に投げつけた。
「フッ、甘いな」
猫だけあり、虎々はひらりひらりと避けやがった。だが、私は内心でニヤリと笑った。
左手に隠し持ったトイレットペーパーを、油断した虎々の顔に命中させた。両利きなのが、私のひそかな取り柄だ。
「クッ、やるな」
虎々が顔を押さえて言った。大和は喜んではしゃいでいた。
少しスッキリした――まあ、リビングに転がったトイレットペーパーを片付けるのは、私なんだけどね。
* * *
夕方、取り込んだ洗濯物を畳んでいた。
虎々はラジカセで大音量の音楽を流していた。いつものことではある。
窓は開いている。でも、ご近所さんから苦情が来たことは無い。この猫が物の怪か八百万の神の類である証拠だろう。乾いた笑いが出た。
「どうしたの、ゆ~きちゃ~ん?」
「なんでもない」
大和を見た。ご機嫌だ。この曲が気に入っているようだ。知ってる曲だが、曲名も歌手もど忘れしてしまった。まあいいか。
突然、背中に何か当たった。結構な重量物。見ると、おむつが入った袋だった。
投げたヤツを見た。もちろん虎々だ。
「ちょっと、なにすんのよ」文句を言った。
「なんで……」虎々は俯いて震えていた。
「は?」わけがわからない。
「なんでヒデキが“Y.M.C.A.”って歌ってんのに、お前はやらないんだよ!」顔を上げた虎々は涙を流していた。
「なにを言って――」
最後まで言う前に、虎々が襲いかかってきた。
その後、無理やり踊らされた。
大和も楽しそうに真似していた。
少し――楽しかった。
洗濯物は片付かなかったけどね。
* * *
夜、大和を寝かせつけることに成功した。なかなか手強かった。
リビングに行くと、ゆったりしたドレス姿の虎々がいた。ムームーとかいったかな? サングラスはいつも通り掛けていた。
「いらっしゃい」なんかしゃべり方がオネエっぽい。
「なにしてんの?」冷めた目で尋ねた。
「“スナック・虎々”へようこそ」
ツッコむのが面倒くさかったので、無言で椅子に座った。
「はい、お疲れ様」
そう言って、虎々は私の前にグラスを置いた。
テーブルの上にはウイスキーのボトルとミネラルウォーターが置いてあるから、水割りだろう。黙って飲んだ。うっすい水割りだった。
「何がしたいの?」テーブルに肘を載せ、虎々に尋ねた。
「愚痴くらいなら聞くわよ」
「あ、そう」ぞんざいに答え、のけぞって天井を見た。
「最近大和と変な猫としか会話してないな、とか思ったり」
考えずに言葉にした。
「会話が成立しない相手ばっか。最後に大人とちゃんと話したの、いつだったかしら?」
「はい、肴のちくわ」
コトンと音がしたので見ると、お皿にちくわが一本載っていた。やっぱり会話が成立しない。
「ありがと」
せっかくなのでちくわをかじり、水割りを一口飲んだ。
「目が離せないし、怪我させないのが当たり前みたいに言われるし」明後日の方向を見ながら言った。
「今日は何も起きなかったじゃない。偉いわ」
虎々を見た。おや? 褒めてくれるのか?
「でも、寝顔は可愛いし、“ありがとう”とか言ってくれると、ちょっと報われた気になるわ」虎々を見て微笑んだ。
「ふふ。根本的には何も解決してないから、それは錯覚よ」虎々の言葉で、私の笑顔は凍りついた。
「大和、私似なのも可愛いし」引きつった笑顔で言った。
「思春期になって注意すると、“オマエに似たんだよ”とか言われるわね」虎々が笑顔で言った。
椅子から立ち上がり、人差し指でチョイチョイと虎々を呼んだ。
首を傾げながらも虎々はやってきた。
それから息が上がるまで無言でクッションを投げ合った。虎々は窓から逃げていった。
スナック・虎々の後始末、私がしないといけないのか。
* * *
ここしばらく大和の夜泣きがひどい。風邪を引いたのがきっかけだろうか? 私は睡眠不足で頭に霧がかかっているように感じていた。
昼間も大和は大泣きすることが増えた。なんだろう? いつもなら平気なのに、すごくイライラする。
洗濯機の前でボーっとしていると、リビングから大和の泣き声が聞こえてきた。
ため息をついてからリビングに向かった。
なだめても、大和は泣き止んでくれなかった。大泣きする大和の泣き声を聞いていたら、耐えられなくなってしまった。
「大和! 男の子なんだから泣かな――」
感情的に叫ぼうとしたら、虎々が大和を抱きしめていた。全身の毛を逆立てている。私を威嚇するような表情。明らかに怒っている。
それを見たら、身体から力が抜けた。私――何してんだろう?
「フッ、坊。男だって泣いていいんだぜ」虎々が言った。
「ココしゃ」大和が涙声で虎々を呼んだ。
「世の中には男が泣いちゃいけねえとか、弱くちゃいけねえとかいう言葉がはびこってやがる」虎々が遠くを見た。
「寒い時代だぜ」かっこつけるように言った。かっこいいとは思わないけど。
「虎々だって、懲罰委員会でネチネチネチネチやられたときは辛かった……」虎々は涙を流し始めた。
「その気持ちがわかるかぁ!」私に怒鳴ってきた。
「知らないわよ! 懲罰委員会ってことは、あんたが悪いことしたんでしょ?」
「虎々は面白いと思ってやっただけだぁ!」また私に怒鳴ってきた。
「最悪だよ、お前!」
「ココしゃ、泣かないで」大和が虎々の頭を撫でた。
「フッ、坊は優しいな」
虎々と大和は抱き合って泣いていた。その優しさ――私にも向けてくれないかな……。
「それと坊。覚えておけ」虎々が涙を流しながら大和の頭に前脚を置いた。
「世の中には、男は理由のある時しか怒っちゃいけねえなんて言葉もある」虎々と大和が見つめ合った。お前、十分理由のない怒りを私にぶつけたよな。
「そんなのは嘘だ」虎々は首を横に振った。
「わかった」大和は頷いた。頷くな。
「だから、虎々の怒りも許されるんじゃー!」
虎々が私に飛びかかってきた。とっさのことで逃げられなかった。
「オラー! 踊るぞ!」
「ちょっと、髪の毛引っ張らないでよ!」
その後、私は何時間もピンクレディーの曲で踊らされた。
大和も踊っていたが、すぐに疲れて寝落ちした。
やっぱり少し――楽しかった。
* * *
「え! 本当?」
進からの電話の内容に、私は歓喜の声を上げた。
電話を切り、足元にいた大和を抱き上げた。
「大和、パパ帰ってくるって。二週間後だって」
大和はきょとんとした顔だったが、気にせず頬ずりした。
そのままリビングに行くと、虎々がテレビを見ていた。
さて、コイツのこと、進になんて説明しよう?
* * *
進が帰ってくる二日前の夕方。洗濯物を畳んでいると、虎々が私の隣に座った。
「なに?」虎々を見ずに聞いた。
「ゆ~きちゃ~んが虎々にした、赦しがたい罪に対する対価の支払いを終えてあげようと思って」
私は何もしてないと思うのだが。
「本当?」
それでも嬉しかったので、虎々を見た。
「ゆ~きちゃ~んも頑張ったからね。坊の子育てもあるのに」
「褒めてくれるんだ」笑顔を虎々に向けた。
「うん。人間風情の割りにはね」
虎々と見つめ合った。
畳んだばかりのタオルを投げつけ合った。
息が整わないまま虎々に尋ねた。
「で、あんたはどこに行くの?」
「さあな。美味そうな魚の匂いがするところ、としか言えねえな」
虎々は窓の外を見て、かっこつけるように言った。かっこいいとは思わないけど。
「じゃあ、坊によろしくな」
そう言うと、虎々は窓から出て行った。
少しの間ぼんやりしてから、立ち上がり窓の外を見た。
虎々の姿はどこにもなかった。本当に行ってしまったのだろう。
もう怒りをぶつける相手がいないのだと思ったら、頬を涙が伝った。
* * *
――そして現在。
今日は土曜日。
進と大和は二人で出かけていた。もうすぐ帰ってくる。
私は夕飯の支度をしていた。朝、市場で良さそうな魚を買ってきていて、それを焼いていた。
「美味そうな魚の匂い、だよ」
声に出してみたが、もちろんそれに応える者はなかった。
「ただいまー」という進と大和の声が玄関から聞こえたので、私は迎えるために玄関に向かった。
息子の大和が帰ってきた。
「おかえり。ランドセルちゃんと片付けなさい」
「はーい」
私の言うことを大人しく聞いてくれる。これもいつまで続くのだろうか?
小学校一年生になって、ずいぶんしっかりしてきたと思う。でも、まだまだこれからだろう。
「お腹すいたー」
ランドセルを片付けて戻ってきた大和が言った。
「待ってて。おやつ用意するから」
キッチンに立ち、用意しておいたおやつを取り出した。
「ねえ、お母さん」
「なに?」大和を見ずに返事をした。
「変なこと聞くけど……」
大和の戸惑っているような声を聞き、大和を見た。
「うちにしゃべる猫がいたことない?」
大笑いしそうになるのを堪え、いつもの調子で返事をした。
「猫はしゃべらないわよ」
「そうだよね」大和はまだ納得していないようだった。
「急にどうしたの?」
大和の前におやつを置き、私も椅子に座った。
「うん……今日クラスの子が泣いたんだ」
「そう。ひょっとして男の子?」
「お母さん、なんでわかるの?」
大和は少し驚いていたが、話の流れから予想がつく。
「何となくね。で、何でしゃべる猫が出てくるの?」
「うん。なんかそのしゃべる猫に、“男でも泣いていい”って言われたような気がして」
「そう」
私は窓から外を見た。
もうあれから三年も経つのか――。
* * *
――三年前。
土曜日の早朝、私――沖田雪は市場へと車を走らせていた。
市場へ着くと、大急ぎで魚を選んだ。他の人に負けるわけにはいかない。魚は鮮度が命。前に適当に選んだら、顔に魚を叩きつけられ、顎に当たって膝から崩れ落ちた。ボクサーって大変だな、と思った。
買い物を済ませ、帰途についた。駅前で信号につかまった。
駅を見た。進、今頃どうしてるだろう? 遠すぎてめったに電話なんてできない。時差もあるし。
夫の進の転勤でこの街にきた。幼い子供を抱え、お互いの両親から離れるのは不安があったが、二人で頑張ろうと話していた。
最初はそれほどの問題は無かった。
それが進の一カ月の長期出張が決まってからおかしくなった。一カ月なら一人でも頑張れると思ったのに、その間に進の会社の海外支社で問題が起きた。進が行くことになってしまった。聞いたことの無い国で、幼い子供を連れて一緒に行くのは不安があったから、進と話し合った末に私は子供とこの街に残った。
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信号が変わったのでアクセルを踏んだ。路面電車と並走することになった。自動車教習所の教本でしか見たことのない路面電車に関する信号を、この街では見る。それを見るたび孤独を感じた。
毎週末の理不尽なこの買い物時間。
なのに、私が自由になれる時間はこの時間しかない。
車を走らせながら、流れてくる涙を拭った。
「ただいまー」
家に入りながら、ぞんざいに言った。誰も「おかえり」とか言ってくれないし。
リビングに入ると、息子の大和が笑顔で安心した。
大和のそばにいる虎猫がすっくと立ちあがった。この光景を見慣れてしまった自分が嫌だ。
虎猫はアロハシャツを着て、サングラスを掛けていた。
「は~い! ゆ~きちゃ~ん。ちょっと、遅いんじゃないの?」
虎猫の虎々が話しかけてきた。猫がしゃべっていることに違和感を覚えなくなってきている自分も嫌だ。
「悪かったわね。これでも最速で帰ってきたのよ。あと、その“ゆ~きちゃ~ん”っての、馴れ馴れしいから止めてくれる?」
「気に入らないの?」虎々はそう言うと、考える仕草をした。「じゃあ、“せっちん”」
「それ、トイレのことでしょ?」ため息が出た。
「いいわよ、“ゆ~きちゃ~ん”で」妥協することにした。
「ほら。今日の献上品よ」
そう言って、私は虎々に市場で買ってきたものを渡した。虎々は中身を吟味し始めた。
何でこんなことになったのか。
三カ月ほど前、私は公園で大和を遊ばせていた。
進が海外に行き、ママ友もおらず一人きり。日々の生活の疲れが少しずつたまっていくのを感じていた。終わりは見えない。終わりなんてあるのかもわからない。不安だった。
公園にいる他の母親たちを見た。皆たいへんなのはわかっている。わかっているのだが、一人じゃないのだろうと思うと、羨ましいと思ってしまった。
俯いて考えに耽り、大和から注意がそれてしまった。
ハッとして大和を見たら、大和の握っていた子供用のスコップが、大和の手からすっぽ抜けて飛んでいくのが見えた。心の中で悲鳴を上げ、慌てて立ち上がり、スコップを目で追った。スコップは公園にいた猫に当たった。猫は走り去った。
猫には悪いことをしたと思ったが、スコップはプラスチック製だからひどい怪我はしていないだろう。私はスコップを拾い、大和のもとへ行き、軽く叱った。
それだけの話だと思った。
だが、猫はその晩私の前に現れた。
傷害罪とか慰謝料とか子供の監督不行き届きとかいろいろ言い、対価を要求された。
私は謝ったし、少しカチンときたから反論したけど、結局言い負かされ、対価を払うことになった。
「素ぅ晴らしい品だ、ゆ~きちゃ~ん」
虎々は献上品に満足したようだ。
「そう――良かったわ」
自分でも疲れた声が出たと思った。
トイレに入った。個室は落ち着くなあ。
虎々は腹立たしいが、大和の相手を少ししてくれるのはありがたい。腹立たしいが。
ふと、家の中に音が無いことに気がついた。足元から恐怖が這いあがってきた。
用は済んでいないけど、慌ててトイレを出た。
「大和!」
呼びかけながら家の中を探した。大和はリビングで虎々と何かしていた。
「ん、どうしたの?」虎々が私を見た。
「何してんの?」乾いた声が出た。
「坊に太極拳を教えてんの」
大和は虎々の動きを真剣な顔で真似ていた。
トイレに戻り、用を済ませた。ついでにトイレットペーパーのロールを持てるだけ持ってリビングに戻った。
虎々にトイレットペーパーを手当たり次第に投げつけた。
「フッ、甘いな」
猫だけあり、虎々はひらりひらりと避けやがった。だが、私は内心でニヤリと笑った。
左手に隠し持ったトイレットペーパーを、油断した虎々の顔に命中させた。両利きなのが、私のひそかな取り柄だ。
「クッ、やるな」
虎々が顔を押さえて言った。大和は喜んではしゃいでいた。
少しスッキリした――まあ、リビングに転がったトイレットペーパーを片付けるのは、私なんだけどね。
* * *
夕方、取り込んだ洗濯物を畳んでいた。
虎々はラジカセで大音量の音楽を流していた。いつものことではある。
窓は開いている。でも、ご近所さんから苦情が来たことは無い。この猫が物の怪か八百万の神の類である証拠だろう。乾いた笑いが出た。
「どうしたの、ゆ~きちゃ~ん?」
「なんでもない」
大和を見た。ご機嫌だ。この曲が気に入っているようだ。知ってる曲だが、曲名も歌手もど忘れしてしまった。まあいいか。
突然、背中に何か当たった。結構な重量物。見ると、おむつが入った袋だった。
投げたヤツを見た。もちろん虎々だ。
「ちょっと、なにすんのよ」文句を言った。
「なんで……」虎々は俯いて震えていた。
「は?」わけがわからない。
「なんでヒデキが“Y.M.C.A.”って歌ってんのに、お前はやらないんだよ!」顔を上げた虎々は涙を流していた。
「なにを言って――」
最後まで言う前に、虎々が襲いかかってきた。
その後、無理やり踊らされた。
大和も楽しそうに真似していた。
少し――楽しかった。
洗濯物は片付かなかったけどね。
* * *
夜、大和を寝かせつけることに成功した。なかなか手強かった。
リビングに行くと、ゆったりしたドレス姿の虎々がいた。ムームーとかいったかな? サングラスはいつも通り掛けていた。
「いらっしゃい」なんかしゃべり方がオネエっぽい。
「なにしてんの?」冷めた目で尋ねた。
「“スナック・虎々”へようこそ」
ツッコむのが面倒くさかったので、無言で椅子に座った。
「はい、お疲れ様」
そう言って、虎々は私の前にグラスを置いた。
テーブルの上にはウイスキーのボトルとミネラルウォーターが置いてあるから、水割りだろう。黙って飲んだ。うっすい水割りだった。
「何がしたいの?」テーブルに肘を載せ、虎々に尋ねた。
「愚痴くらいなら聞くわよ」
「あ、そう」ぞんざいに答え、のけぞって天井を見た。
「最近大和と変な猫としか会話してないな、とか思ったり」
考えずに言葉にした。
「会話が成立しない相手ばっか。最後に大人とちゃんと話したの、いつだったかしら?」
「はい、肴のちくわ」
コトンと音がしたので見ると、お皿にちくわが一本載っていた。やっぱり会話が成立しない。
「ありがと」
せっかくなのでちくわをかじり、水割りを一口飲んだ。
「目が離せないし、怪我させないのが当たり前みたいに言われるし」明後日の方向を見ながら言った。
「今日は何も起きなかったじゃない。偉いわ」
虎々を見た。おや? 褒めてくれるのか?
「でも、寝顔は可愛いし、“ありがとう”とか言ってくれると、ちょっと報われた気になるわ」虎々を見て微笑んだ。
「ふふ。根本的には何も解決してないから、それは錯覚よ」虎々の言葉で、私の笑顔は凍りついた。
「大和、私似なのも可愛いし」引きつった笑顔で言った。
「思春期になって注意すると、“オマエに似たんだよ”とか言われるわね」虎々が笑顔で言った。
椅子から立ち上がり、人差し指でチョイチョイと虎々を呼んだ。
首を傾げながらも虎々はやってきた。
それから息が上がるまで無言でクッションを投げ合った。虎々は窓から逃げていった。
スナック・虎々の後始末、私がしないといけないのか。
* * *
ここしばらく大和の夜泣きがひどい。風邪を引いたのがきっかけだろうか? 私は睡眠不足で頭に霧がかかっているように感じていた。
昼間も大和は大泣きすることが増えた。なんだろう? いつもなら平気なのに、すごくイライラする。
洗濯機の前でボーっとしていると、リビングから大和の泣き声が聞こえてきた。
ため息をついてからリビングに向かった。
なだめても、大和は泣き止んでくれなかった。大泣きする大和の泣き声を聞いていたら、耐えられなくなってしまった。
「大和! 男の子なんだから泣かな――」
感情的に叫ぼうとしたら、虎々が大和を抱きしめていた。全身の毛を逆立てている。私を威嚇するような表情。明らかに怒っている。
それを見たら、身体から力が抜けた。私――何してんだろう?
「フッ、坊。男だって泣いていいんだぜ」虎々が言った。
「ココしゃ」大和が涙声で虎々を呼んだ。
「世の中には男が泣いちゃいけねえとか、弱くちゃいけねえとかいう言葉がはびこってやがる」虎々が遠くを見た。
「寒い時代だぜ」かっこつけるように言った。かっこいいとは思わないけど。
「虎々だって、懲罰委員会でネチネチネチネチやられたときは辛かった……」虎々は涙を流し始めた。
「その気持ちがわかるかぁ!」私に怒鳴ってきた。
「知らないわよ! 懲罰委員会ってことは、あんたが悪いことしたんでしょ?」
「虎々は面白いと思ってやっただけだぁ!」また私に怒鳴ってきた。
「最悪だよ、お前!」
「ココしゃ、泣かないで」大和が虎々の頭を撫でた。
「フッ、坊は優しいな」
虎々と大和は抱き合って泣いていた。その優しさ――私にも向けてくれないかな……。
「それと坊。覚えておけ」虎々が涙を流しながら大和の頭に前脚を置いた。
「世の中には、男は理由のある時しか怒っちゃいけねえなんて言葉もある」虎々と大和が見つめ合った。お前、十分理由のない怒りを私にぶつけたよな。
「そんなのは嘘だ」虎々は首を横に振った。
「わかった」大和は頷いた。頷くな。
「だから、虎々の怒りも許されるんじゃー!」
虎々が私に飛びかかってきた。とっさのことで逃げられなかった。
「オラー! 踊るぞ!」
「ちょっと、髪の毛引っ張らないでよ!」
その後、私は何時間もピンクレディーの曲で踊らされた。
大和も踊っていたが、すぐに疲れて寝落ちした。
やっぱり少し――楽しかった。
* * *
「え! 本当?」
進からの電話の内容に、私は歓喜の声を上げた。
電話を切り、足元にいた大和を抱き上げた。
「大和、パパ帰ってくるって。二週間後だって」
大和はきょとんとした顔だったが、気にせず頬ずりした。
そのままリビングに行くと、虎々がテレビを見ていた。
さて、コイツのこと、進になんて説明しよう?
* * *
進が帰ってくる二日前の夕方。洗濯物を畳んでいると、虎々が私の隣に座った。
「なに?」虎々を見ずに聞いた。
「ゆ~きちゃ~んが虎々にした、赦しがたい罪に対する対価の支払いを終えてあげようと思って」
私は何もしてないと思うのだが。
「本当?」
それでも嬉しかったので、虎々を見た。
「ゆ~きちゃ~んも頑張ったからね。坊の子育てもあるのに」
「褒めてくれるんだ」笑顔を虎々に向けた。
「うん。人間風情の割りにはね」
虎々と見つめ合った。
畳んだばかりのタオルを投げつけ合った。
息が整わないまま虎々に尋ねた。
「で、あんたはどこに行くの?」
「さあな。美味そうな魚の匂いがするところ、としか言えねえな」
虎々は窓の外を見て、かっこつけるように言った。かっこいいとは思わないけど。
「じゃあ、坊によろしくな」
そう言うと、虎々は窓から出て行った。
少しの間ぼんやりしてから、立ち上がり窓の外を見た。
虎々の姿はどこにもなかった。本当に行ってしまったのだろう。
もう怒りをぶつける相手がいないのだと思ったら、頬を涙が伝った。
* * *
――そして現在。
今日は土曜日。
進と大和は二人で出かけていた。もうすぐ帰ってくる。
私は夕飯の支度をしていた。朝、市場で良さそうな魚を買ってきていて、それを焼いていた。
「美味そうな魚の匂い、だよ」
声に出してみたが、もちろんそれに応える者はなかった。
「ただいまー」という進と大和の声が玄関から聞こえたので、私は迎えるために玄関に向かった。
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