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第七章 祭壇
58話 喪失
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峠のカーブに、ぼろぼろのジムニーが突如として出現した。
黒い霧を切り裂いて現れたジムニーを、対向車のライトが眩しく照らす。
ジムニーは息も絶え絶えのような弱々しいエンジン音を発していた。
未来は慌ててブレーキを踏んだ。
ジムニーは雪道を滑りながら、カーブの待避所に突っ込むようにして止まった。
満月が、流れる雲間から覗いた。
「くうん」
リーが小さく鳴いた。
「……日本? ……帰ってきた?」
未来はハンドルから震える手を離した。
ジムニーのライトが、ガードレールの反射材を照らしている。
胸が締め付けられる。
帰ってきた。
だが、夫を向こうに残したままだ。
安堵と不安が同時に押し寄せ、呼吸が浅くなる。
「夢…… じゃないわよね?」
未来はバックミラーに映ったイリナを見て、大きくため息をついた。
『ここは、異界……?』
『久しぶりだなあ…… この空気』
ケイがつぶやき、モーイが懐かしそうな声を上げた。
「ケイ兄ちゃん…… ママ? パパは大丈夫かな?」
碧が不安な顔を未来に向ける。
「碧、きっと大丈夫。パパは強いから。前にも帰ってきたんだから」
割れたバックドアガラスから凍えるような風が吹き込む。
「羽ピーもいるし、大丈夫だよね……」
「イリナ? 寒くない?」
『私は大丈夫です』
モーイの通訳を聞いたイリナが気丈に答えたが、その体は小刻みに震えていた。
「とりあえず、ひいじいちゃんの家に行きましょう」
未来は赤く点灯している給油ランプを見つめて、またため息をついた。
「スマホは…… 電源入らないか」
ダッシュボードに入れていたスマホは冷え切って沈黙したままだった。
「ママ、今日って何曜日?」
「一月三日…… 年、明けたわね」
未来はナビを操作し日付を確認した。
「あけまして、おめでとう?」
「さあ、早くひいじいちゃんの家に行って、お風呂いただきましょ」
「お風呂! 早く入りたい」
未来は慎重にジムニーのアクセルを踏んだ。
「ママ、まだこの模様、残ってるよ」
「こんな刺青みたいなの、困るわよ、モーイ?」
左手の紋様は光ることはなかったが、肌に黒く焼き付くように残っていた。
碧と未来は不安そうにモーイを見た。
「またみんなで向こうに行かないとね」
「イリナが消してくれるのね」
未来は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「さ、あと三十分くらいで着くわよ」
未来はハンドルを強く握りしめた。
震えが止まらない。まだ夫の声が耳に残っている。
——「必ず、生き残る」
「……帰ってきた。でも、終わってない」
「ママ、また行くんだよね」
「そう、パパを連れ戻しに」
未来の声は静かだったが、そこには揺るぎない強い決意が込められていた。
バックミラーに映る満月が、やけに大きく、そして近く見えた。
*
巌窟寺院の深い地下。
目も眩むような光は消えていた。
目に焼き付いた残光で、しばらく視界が閉ざされていた。
「リューシャッ!」
田崎は叫んだ。
『タサキ……』
弱々しい声が暗闇から響く。
「リューシャ? 良かった……」
田崎は瓦礫の中を床を這いながら、ゆっくりと声の方に進んでいった。
『チョーローッ!』
オムカは倒れたチョーローを抱え起こした。
『金色の竜猿…… まだ生きとるがな、もし』
『グアッ……』
羽ピーの体からは影が抜け切り、黄金に光り輝いていたが、衰弱しきっていた。
『これだけ、弱っておれば…… 名を奪えるぞな、もし』
『名前奪ったら役に立つだな、あれは、もし』
苦しげに鳴く羽ピーを冷酷な目で見つめて、ババ様はつぶやいた。
『死なれたらもったいないべな、影を出して助けるべな、もし』
ババ様の杖から影が湧き出し、羽ピーを包み込んでいった。
『……タサキッ!』
「リューシャ……」
目が暗闇に慣れてくると、青白い苔の明かりの中でリューシャが体を起こしているのが見えた。
「立てるか? リューシャ?」
『ああ、タサキ!』
リューシャを抱え起こした田崎に、リューシャは感極まって抱きついた。
「無事で…… 本当に良かった……」
田崎はリューシャの背中をそっと叩いた。
その時、リューシャの紋様が目に留まった。
紋様は、変質していた。
あれほど禍々しく赤黒く脈打ち、影を噴き出していた紋様が、今は沈黙したまま薄く刻まれているだけだった。
田崎も自分の紋様を見た。
紋様を温かく包み込むような、消滅させるのではない、そんな光だった。
『チョーローが命を削って、紋様を守りながら、浄化してくれたんだ……』
「チョーロー……?」
リューシャの目に涙が浮かんだ。
『チョーロー! 起きてよ!』
オムカはぐったりとしているチョーローをゆさぶっていた。
大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちる。
その涙がチョーローのしわくちゃの顔を濡らしていった。
『チョーロー、光を受け取って!』
オムカは自らの光を放った。
その光はチョーローのひび割れた体を優しく覆っていく。
チョーローは目を閉じたまま、かすかに唇を動かした。
『オムカ……』
枯れ木が擦れるような、かすれた声だった。
『……チョーロー?』
そのオムカの声は届いていないかのように、チョーローは話し始めた。
『……オムカよ。次のチョーローはお前じゃ……』
『チョーロー!』
『お前は…… わしの若い頃にそっくりじゃ……』
『チョーロー?』
チョーローの手が、震えながらオムカの頭にそっと触れる。
『この杖を…… 光と影が…… まだ…… 残されて…… おる……』
『そんな事、言わないでよ……』
『お前なら、出来る……』
チョーローの手が、力なく落ちた。
『ナヴィも…… マオルカも…… メガネも…… モーイも、お前を……』
声が途切れる。
『起きてよ! 目を開けてよ!』
『あとは…… 頼む…… ぞ……』
その言葉とともに、チョーローの体から光が粒子のようにこぼれ落ちていく。
静かに優しく、儚く。
ふっ、とチョーローの体から光が消えた。
『チョーロー!!』
オムカの目から次から次へと涙がこぼれ落ちた。
オムカは杖と、動かなくなった小さな体を抱きしめて泣いた。
小さな体を震わせて、声を殺して泣いた。
『じじい! 行くぞな、もし』
『わしらがいたら、命を吸い取ってしまうわな、もし』
ババ様と黒い塊を乗せた羽猿は、音も立てずにふわりと飛び上がる。
『あの金色の竜猿…… わしらが飼育しようかの、もし』
ババ様を乗せた羽猿は田崎たちの上空を旋回していた。
『小人よ。小人の王は立派な最後だったぞな、もし』
ババ様はオムカに呼びかけた。
『まだ、終わってはおらんぞな、もし』
ババ様は黒く澱んだ泉に鋭い視線を向けて、地上へと飛び去った。
「オムカ…… チョーローは?」
田崎とリューシャは寄り添ってオムカのもとに戻ってきた。
「タサキ…… チョーロー…… シンジャッタ……」
オムカは滝のような涙を流していた。
「そうか…… チョーロー…… 今まで、ありがとう……」
田崎の声が震えた。膝をつき、頭を垂れる。
『チョーロー…… あなたは立派に戦った。光のもとでどうか、安らかに……』
リューシャが沈痛な面持ちで祈りを捧げた。
「タサキ、リューシャ……ボク、頑張る、チョーローの分まで……」
オムカの声は涙で途切れた。
『グアッ!』
その時、羽ピーが警告するように、弱々しい鳴き声を上げた。
『ここから、早く出ないと』
リューシャが回収した剣を泉に向けた。
地下のドームは骨の髄まで凍るような冷気に満たされ始めていた。
泉の水面がざわざわと波立った。
「なんだ……?」
田崎が警戒する。
水の中から霧のような影が湧き立ち始める。
泉の水がさらに黒く染まり、不気味な波紋が広がっていく。
「あれは…… まずくないか?」
田崎の顔が強張った。
『早く、ここを出よう! オムカ!』
『……そうだね。リューシャ』
オムカはゴシゴシと涙を拭った。
チョーローの杖を強く握りしめる。
リューシャは剣を鞘に収めた。
田崎はチョーローの亡骸をそっと両手に抱え上げる。
その小さな体は、ほとんど重みを感じなかった。
「ここには、置いていけない……」
『タサキ……』
「小人の里で…… 光の下で……」
三人はうなずきあった。
『ハネピー! 行くよ』
『グアッ!』
オムカと田崎とリューシャ、そしてチョーローの亡骸を乗せた金色の竜猿は、迫り来る闇を背に、地上に向けて飛び立った。
黒い霧を切り裂いて現れたジムニーを、対向車のライトが眩しく照らす。
ジムニーは息も絶え絶えのような弱々しいエンジン音を発していた。
未来は慌ててブレーキを踏んだ。
ジムニーは雪道を滑りながら、カーブの待避所に突っ込むようにして止まった。
満月が、流れる雲間から覗いた。
「くうん」
リーが小さく鳴いた。
「……日本? ……帰ってきた?」
未来はハンドルから震える手を離した。
ジムニーのライトが、ガードレールの反射材を照らしている。
胸が締め付けられる。
帰ってきた。
だが、夫を向こうに残したままだ。
安堵と不安が同時に押し寄せ、呼吸が浅くなる。
「夢…… じゃないわよね?」
未来はバックミラーに映ったイリナを見て、大きくため息をついた。
『ここは、異界……?』
『久しぶりだなあ…… この空気』
ケイがつぶやき、モーイが懐かしそうな声を上げた。
「ケイ兄ちゃん…… ママ? パパは大丈夫かな?」
碧が不安な顔を未来に向ける。
「碧、きっと大丈夫。パパは強いから。前にも帰ってきたんだから」
割れたバックドアガラスから凍えるような風が吹き込む。
「羽ピーもいるし、大丈夫だよね……」
「イリナ? 寒くない?」
『私は大丈夫です』
モーイの通訳を聞いたイリナが気丈に答えたが、その体は小刻みに震えていた。
「とりあえず、ひいじいちゃんの家に行きましょう」
未来は赤く点灯している給油ランプを見つめて、またため息をついた。
「スマホは…… 電源入らないか」
ダッシュボードに入れていたスマホは冷え切って沈黙したままだった。
「ママ、今日って何曜日?」
「一月三日…… 年、明けたわね」
未来はナビを操作し日付を確認した。
「あけまして、おめでとう?」
「さあ、早くひいじいちゃんの家に行って、お風呂いただきましょ」
「お風呂! 早く入りたい」
未来は慎重にジムニーのアクセルを踏んだ。
「ママ、まだこの模様、残ってるよ」
「こんな刺青みたいなの、困るわよ、モーイ?」
左手の紋様は光ることはなかったが、肌に黒く焼き付くように残っていた。
碧と未来は不安そうにモーイを見た。
「またみんなで向こうに行かないとね」
「イリナが消してくれるのね」
未来は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「さ、あと三十分くらいで着くわよ」
未来はハンドルを強く握りしめた。
震えが止まらない。まだ夫の声が耳に残っている。
——「必ず、生き残る」
「……帰ってきた。でも、終わってない」
「ママ、また行くんだよね」
「そう、パパを連れ戻しに」
未来の声は静かだったが、そこには揺るぎない強い決意が込められていた。
バックミラーに映る満月が、やけに大きく、そして近く見えた。
*
巌窟寺院の深い地下。
目も眩むような光は消えていた。
目に焼き付いた残光で、しばらく視界が閉ざされていた。
「リューシャッ!」
田崎は叫んだ。
『タサキ……』
弱々しい声が暗闇から響く。
「リューシャ? 良かった……」
田崎は瓦礫の中を床を這いながら、ゆっくりと声の方に進んでいった。
『チョーローッ!』
オムカは倒れたチョーローを抱え起こした。
『金色の竜猿…… まだ生きとるがな、もし』
『グアッ……』
羽ピーの体からは影が抜け切り、黄金に光り輝いていたが、衰弱しきっていた。
『これだけ、弱っておれば…… 名を奪えるぞな、もし』
『名前奪ったら役に立つだな、あれは、もし』
苦しげに鳴く羽ピーを冷酷な目で見つめて、ババ様はつぶやいた。
『死なれたらもったいないべな、影を出して助けるべな、もし』
ババ様の杖から影が湧き出し、羽ピーを包み込んでいった。
『……タサキッ!』
「リューシャ……」
目が暗闇に慣れてくると、青白い苔の明かりの中でリューシャが体を起こしているのが見えた。
「立てるか? リューシャ?」
『ああ、タサキ!』
リューシャを抱え起こした田崎に、リューシャは感極まって抱きついた。
「無事で…… 本当に良かった……」
田崎はリューシャの背中をそっと叩いた。
その時、リューシャの紋様が目に留まった。
紋様は、変質していた。
あれほど禍々しく赤黒く脈打ち、影を噴き出していた紋様が、今は沈黙したまま薄く刻まれているだけだった。
田崎も自分の紋様を見た。
紋様を温かく包み込むような、消滅させるのではない、そんな光だった。
『チョーローが命を削って、紋様を守りながら、浄化してくれたんだ……』
「チョーロー……?」
リューシャの目に涙が浮かんだ。
『チョーロー! 起きてよ!』
オムカはぐったりとしているチョーローをゆさぶっていた。
大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちる。
その涙がチョーローのしわくちゃの顔を濡らしていった。
『チョーロー、光を受け取って!』
オムカは自らの光を放った。
その光はチョーローのひび割れた体を優しく覆っていく。
チョーローは目を閉じたまま、かすかに唇を動かした。
『オムカ……』
枯れ木が擦れるような、かすれた声だった。
『……チョーロー?』
そのオムカの声は届いていないかのように、チョーローは話し始めた。
『……オムカよ。次のチョーローはお前じゃ……』
『チョーロー!』
『お前は…… わしの若い頃にそっくりじゃ……』
『チョーロー?』
チョーローの手が、震えながらオムカの頭にそっと触れる。
『この杖を…… 光と影が…… まだ…… 残されて…… おる……』
『そんな事、言わないでよ……』
『お前なら、出来る……』
チョーローの手が、力なく落ちた。
『ナヴィも…… マオルカも…… メガネも…… モーイも、お前を……』
声が途切れる。
『起きてよ! 目を開けてよ!』
『あとは…… 頼む…… ぞ……』
その言葉とともに、チョーローの体から光が粒子のようにこぼれ落ちていく。
静かに優しく、儚く。
ふっ、とチョーローの体から光が消えた。
『チョーロー!!』
オムカの目から次から次へと涙がこぼれ落ちた。
オムカは杖と、動かなくなった小さな体を抱きしめて泣いた。
小さな体を震わせて、声を殺して泣いた。
『じじい! 行くぞな、もし』
『わしらがいたら、命を吸い取ってしまうわな、もし』
ババ様と黒い塊を乗せた羽猿は、音も立てずにふわりと飛び上がる。
『あの金色の竜猿…… わしらが飼育しようかの、もし』
ババ様を乗せた羽猿は田崎たちの上空を旋回していた。
『小人よ。小人の王は立派な最後だったぞな、もし』
ババ様はオムカに呼びかけた。
『まだ、終わってはおらんぞな、もし』
ババ様は黒く澱んだ泉に鋭い視線を向けて、地上へと飛び去った。
「オムカ…… チョーローは?」
田崎とリューシャは寄り添ってオムカのもとに戻ってきた。
「タサキ…… チョーロー…… シンジャッタ……」
オムカは滝のような涙を流していた。
「そうか…… チョーロー…… 今まで、ありがとう……」
田崎の声が震えた。膝をつき、頭を垂れる。
『チョーロー…… あなたは立派に戦った。光のもとでどうか、安らかに……』
リューシャが沈痛な面持ちで祈りを捧げた。
「タサキ、リューシャ……ボク、頑張る、チョーローの分まで……」
オムカの声は涙で途切れた。
『グアッ!』
その時、羽ピーが警告するように、弱々しい鳴き声を上げた。
『ここから、早く出ないと』
リューシャが回収した剣を泉に向けた。
地下のドームは骨の髄まで凍るような冷気に満たされ始めていた。
泉の水面がざわざわと波立った。
「なんだ……?」
田崎が警戒する。
水の中から霧のような影が湧き立ち始める。
泉の水がさらに黒く染まり、不気味な波紋が広がっていく。
「あれは…… まずくないか?」
田崎の顔が強張った。
『早く、ここを出よう! オムカ!』
『……そうだね。リューシャ』
オムカはゴシゴシと涙を拭った。
チョーローの杖を強く握りしめる。
リューシャは剣を鞘に収めた。
田崎はチョーローの亡骸をそっと両手に抱え上げる。
その小さな体は、ほとんど重みを感じなかった。
「ここには、置いていけない……」
『タサキ……』
「小人の里で…… 光の下で……」
三人はうなずきあった。
『ハネピー! 行くよ』
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