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1巻
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序章
――花吹雪が舞う春。
私イザベル・フォン・エーレンライヒは、今日、王立アーデルハイト貴族学院に入学する。
「ようやくここまで来られた……」
よりにもよって、年齢制限付きヤンデレ乙女ゲーム〝虐げられし乙女は狂愛の棘に囚われる〟のドアマットヒロインに転生した私は、貴族学院を前に感慨深く立ち尽くしていた。
ゲームで見た通りの金の装飾が施された壮麗な門を見上げると、ふいに春風がそよぎ、花びらと共にローズピンク色の波打つ髪の毛がふわりと揺れる。
ここに来るまで色々あったなぁと、思わず水色の目から涙が零れそうになるのを堪えた。
十二歳の時に愛する両親を馬車の事故で亡くし、伯爵家だった我が家は父方の叔父家族に乗っ取られた。さらに、義母と義妹に虐げられ、下女としての生活を強いられる始末……
この世界には魔法が存在するけれど、私はヒロインのはずなのにチート能力はなく、むしろ魔力は平均より少ないくらいだった。
唯一の救いは、義母に初めて顔を殴られた瞬間、前世の記憶が蘇ったこと。
その時思い出した原作知識には、何度も助けられた。
叔父家族が、私を大金と引き換えに嫁がせるべく、箔付けのために貴族学院へ入学させることは分かっていたから、何度死にかけてもここに通うことだけを希望に生きてきたのだ。
だが、いくら生家を出られたからって、気を緩めたらいけない。
(……入学式の今日は、特に攻略キャラに見つかったら不味いもの)
この世界の元となった年齢制限付き乙女ゲームは、一部のコア層に大人気で、乙女ゲーム三大鬱ゲーの一つとしてバッドエンド好きやマゾヒストを唸らせた問題作だ。
攻略キャラは、異なる色の薔薇をモチーフにした王族や貴族を始めとする、この国を牛耳るイケメンたち。だけど彼らの正体は、全員とんでもないヤンデレで、それぞれのルートに片足を突っ込めば最後、もれなく狂った愛を向けられる。
乙女ゲームなのにバッドエンドの数が異常に多く、選択肢を間違えたら一発で破滅するルートもあった。
スチル収集オタクの血が騒いで、何度も周回して隠しルートまで攻略し終えた前世では、もはや全ルートがメリバかバッドエンドでは? と、思ったくらいだ。
ハッピーエンドでも監禁なんて当たり前。しかも年齢制限付き乙女ゲームの中でも、官能シーンがかなり過激だ。その原因は攻略キャラたちの性癖がぶっ飛んでいることにある。
たとえば、父親を憎んでいる白薔薇の王太子は王家の高貴な子種を無駄にする後孔専門の男だし、紅薔薇の隣国の皇太子は痛ぶって快感を得る真性のサディスト。
他にも、寝取られ好きな金薔薇のマフィアや、ヒロインを媚薬漬けにした上で拘束放置プレイをする鬼畜な黒薔薇の宮廷魔術師までいる。
彼らは総じて人を殺めるのを厭わない、感情の欠落した人間で、なんらかのきっかけで興味を抱いたヒロインに対し、異常な執着心を抱いてしまうのだ。
前世の私は愛なんて重ければ重いほど尊いと思っていたほど、ヤンデレものが大好きだったから〝虐げられし乙女は狂愛の棘に囚われる〟には、かなりどハマりした。
でもそれは、あくまで物語の好みの話。
――ヤンデレは二次元に限る。
現実世界であんなおっかない人たちには、絶対に関わりたくない。
だって、長生きしたいもの!
幸いなことに、攻略対象キャラと義家族から逃げられる、唯一のバッドエンドルートがある。
しかもそれは、私のとある目的も果たせる一挙両得の方法だった。
だからこそ私は、その頼みの綱に賭けていた。
(よし、俄然燃えてきた! 誰にも関わらずバッドエンドを目指して、第二の人生を謳歌するわ!)
私は、両手の握り拳を顔の前に持ってきて気合いを入れる。
攻略キャラに特定の推しはいなかったし、とにかく誰の視界にも映らないようにしよう。
そう決意を固めた私は勢いよく足を踏み出し、ようやく門を潜る。
入学式の会場はどこかと辺りを見渡すと、後ろから声を掛けられた。
「――そこのご令嬢。お待ちください」
「……?」
聞き覚えのある、落ち着いた低い声がして、反射的に振り返る。
すると、そこには長身で綺麗な群青色の髪を持つ美形の騎士が立っていた。
切れ長の鋭い目には紫水晶の瞳が嵌め込まれていて、その美しさに思わず目を奪われてしまう。
だが、その瞳は何もかも冷静に捉えているようで、感情の揺らぎを一切見せない。
高い鼻梁を持つ彫りの深い顔立ちは少々無骨で強面ではあるが、まるで彫刻のように整っている。
襟足の長い髪は彼によく似合い、どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせていた。
(――って、この方はもしかして、サブキャラのルードヴィヒ・フォン・ヴァルター卿では!?)
彼は白薔薇の王太子の側近であり、近衛騎士にして侯爵家の次期当主。王太子ルートでは、ヒロインの危機に真っ先に駆けつけるサポートキャラだった。
王太子以外と喋ることはなく、たとえヒロインと対話中に台詞があっても「………………」ばかりという沈黙具合だった。
今は王太子の姿は見えないが、突然のゲームキャラとの接触に、背中にじわりと汗が滲んでくる。
「……ハンカチ、落としましたよ」
「っ、あ……!」
ヴァルター卿に差し出されたのは、義妹に破られたドレスの端切れで縫った、ボロボロのハンカチだった。そんなものを人目に晒してしまった気まずさで、思わず俯いてしまう。
受け取るために伸ばした手も、昨日まで下女として働いていたせいでカサついており、美しい彼の視界に晒すのは躊躇われた。
だが、受け取らないわけにもいかず、私は慌ててみすぼらしいハンカチを受け取る。
「あっ、ええと……ありがとうございます!」
「…………では」
制服のポケットにハンカチを隠すように仕舞うと、彼は早々に踵を返して立ち去った。
そのあまりの行動の速さに呆気に取られるも、私はしみじみ思う。
(寡黙で真面目な冷徹騎士の設定は、現実にも生きているのね……)
そうか。彼の声に聞き覚えがあったのも、ゲームのままだったからなんだ。
――それにしても、誰にも関わらないと決意したばかりなのに、原作キャラに遭遇してしまった。
予想外の事態に、動悸と冷や汗が止まらない。
(これ、なんらかのフラグは立ってないよね……?)
ヴァルター卿は攻略対象キャラじゃないし、まともな人枠だったからきっと大丈夫なはず……
私はそう自分に言い聞かせながら、今度こそ入学式の会場へ向かった。
◇ ◇ ◇
無事貴族学院に入学してからというもの、極力攻略キャラがいそうな場所を避けつつ、イベントをガン無視して、なんとか誰のルートに入ることもなく三ヶ月が経った。
とある調べものをするため図書館へ入り浸っていた際に、白薔薇のヨシュカ王太子と、近衛騎士のヴァルター卿に遭遇しそうになってヒヤヒヤしたが、その都度物陰に隠れてやり過ごした。
いつだったか護衛中のヴァルター卿と目が合ったような気がした時は、流石に終わったと思ったけれど、そのままスルーされたので、きっと私は物陰に隠れる才能があるのだと思う……!
そんなバカみたいな自画自賛をしつつも、自らが望むバッドエンドを迎えるため、一人で着々と準備を進め、遂に全てが整った。
――そしていよいよ、運命の日がやってきたのだ。
今日は、入学して初めての剣術大会が開かれる。
私はというと、剣術大会に出場するヨシュカ王太子と、その練習に付き合うヴァルター卿を観察するべく、相も変わらず息を潜めて草陰に隠れていた。
彼らは貴族学院の広場で、さながら本番のような気迫を纏わせ、真剣で手合わせをしている。
「殿下、今の踏み出しは甘いです」
「……こうかなッ?」
軽快に言葉を交わしながらも、重い金属音を鳴らして剣を打ち合っている彼らの周りには、数多くの学院生たちが見物に集まっていた。
その中でも特に令嬢の姿が目立つのは、色素の薄い儚げな美青年のヨシュカ王太子と、クールな美形であるヴァルター卿との組み合わせがとても絵になるからだろう。
「きゃああ! 王太子殿下、剣術大会頑張ってくださいませー!!」
「ヴァルター卿は今年卒業したのに、またお二人の姿を拝めるだなんて……!!」
令嬢らの熱い声援が広場に響き渡る。
彼女たちの話し声を聞くに、ヴァルター卿は去年まで貴族学院に在籍し、圧倒的な実力で毎年優勝していたらしい。私より一学年上のヨシュカ王太子も、今年の優勝候補筆頭みたいだ。
――まぁ私は、単に目の保養で見ているわけではないのだけれど。
彼らの打ち合いが終わるのを待っていると、ヴァルター卿がヨシュカ王太子の剣を受け流しながら、横目でチラリとこちらを見た。
「っ」
(この前もだけど、やっぱり私に気づいて……!?)
今までは見逃されていただけで、残念ながら私に物陰に隠れる才能などなかったようだ。
先日よりも頻繁にチラチラと視線を向けられ、ヴァルター卿に警戒されているのだと肌で感じる。
でもまぁ、その判断は間違っていない。
――なぜなら私は、これから前代未聞の不祥事を起こそうとしているのだから。
どれほど愚かなことをしようとしているか、それは私自身が痛いほど分かっている。
けれども、この醜聞を作り出さねば、私の望みが叶うルートには入れない。
彼らの打ち合いが終わると、ようやく私は一歩足を踏み出した。
チャンスは一度きり、絶対に失敗は許されない。
これも後悔のない人生を送るためよ!
腹を括った私は、前世でプレイした時に誰がこんな選択肢を選ぶのって思っていた項目……
① ヨシュカ王太子に笑顔で挨拶をする
② ヨシュカ王太子の前を素通りする
③ ヨシュカ王太子の目の前で自らのスカートを風魔法で巻き上げて誘惑する
このうち、度肝を抜くほど圧倒的に一番ありえない③を選択した。
逸る気持ちを抑えながら、全身に巡る魔力を少しずつ丁寧に手のひらに集める。
地面から風を起こしながら、身分不相応にも声をかけた。
「ごきげんよう、王太子殿下」
ヨシュカ王太子がこちらに気がつき、それと同時にヴァルター卿が、彼の前に出ようとする。
……全てはバッドエンドルートに入るフラグを踏むため……
(ヨシュカ王太子及びヴァルター卿、周りにいる皆さま。愚か者の私をどうかお許しください)
私にとって全力の魔力を解き放つと、真下から肌を撫でるような程よい風が吹きつけた。
スカートの裾が徐々に舞い上がり、やがて太腿まで一気に風が抜ける。
――パサァ……ッ!!
風の音が響いた瞬間、周りの空気がピシリと固まった。
そして、ついに公衆の面前で、私の白いレースのパンツが露わになったのだ。
一気に視線が集まり、誰かの息を呑む声まで聞こえてくる。
自分でやらかしたこととはいえ、羞恥でいっぱいになり、本心から悲鳴を上げた。
「――きゃああっ!」
自分が風魔法で巻き上げたスカートを押さえて、涙目で辺りを見渡す。
するとあの冷徹なヴァルター卿が、紫色の瞳を見開いて動揺する姿が目に入った。初心な様子でどんどん顔を真っ赤に染めていく彼を見て、私の恥ずかしさは頂点に達し、思い切り目を逸らす。
だけど、今は恥ずかしがっている場合じゃない、目的を果たさなくては。
ターゲットであるヨシュカ王太子を確認すると、興味深そうにこちらを眺めていた。
ひとまず計画は成功したようだとホッとする。
私は、足を一歩後ろに引きながら、勢いよく頭を下げる。
「し、失礼いたしました……っ」
口から出たのは、思っていたよりもか細い声だった。
それすらも恥ずかしくて、急いで退散する。
――逃げるが勝ちだ。
よぉし、これで大きな布石を打てた。後はきっと彼女が動いてくれるだろう。
私はこれから行われる剣術大会に目もくれず、街に出てそそくさと分厚い手紙を出しに行ったのだった。
◇ ◇ ◇
二日後、貴族学院の校舎裏にある人気のない庭園に呼び出された私は、目の前に立ちはだかる悪役令嬢に、狙い通り罪を問われていた。
「イザベル・フォン・エーレンライヒ伯爵令嬢。あなた、わたくしの殿下に色目を使ったどころか、風魔法を使って自らのスカートを巻き上げた挙句、貧相な下着を彼のお方の高貴な瞳に映しましたわね!?」
悪役令嬢もといゼルマ・フォン・ローレンツが言ったことは、全くもって嘘偽りない事実である。
重い沈黙が流れる中、木々を揺らす音だけが奏でられ、二人の間を風が駆け抜けていく。
春の日差しをたっぷりと浴びた草花は、太陽に向かって背を伸ばして咲き誇っているというのに、私はというと、日当たりの悪い木陰で、制服が汚れるのも厭わずひれ伏している。
――いくら目的があったとはいえ、目の前の彼女やヨシュカ王太子、そしてヴァルター卿には、本当に申し訳ないことをしたわ……
貴族学院に入学してまだ三ヶ月しか経っていないにも拘らず、悪役令嬢ゼルマに詰め寄られるほどの悪事を犯した私は反省の意を込めて、少し湿った土に勢いよく額を擦りつけて言った。
「はい。弁解の余地もありません」
ゼルマの足音がしたかと思うと、急に髪の毛を掴まれ、そのまま思い切り引っ張られた。つられて頭が持ち上がり、私の瞳は、怒りに染まった悪役令嬢の姿を映した。
もはやテンプレートのような金髪で縦ロールのゼルマは、甲高い、けれどもドスの利いた声色で、私を糾弾する。
「この、よくも……ッ! 婚約者に相応しいわたくしでさえ、お見せしたことがないのに!」
激昂したゼルマに髪の毛をさらに引っ張られ、頭皮から何本もぶちぶちと抜ける音がした。
「っ」
痛みで僅かに眉を顰めて目を瞑ると、次の瞬間頭ごと地面に打ちつけられた。
そして這いつくばる体勢になった私を指差し、腰に手を当て凄んだゼルマが声高らかに宣言する。
「わたくしは殿下の害となるあなたの存在を許すわけにはまいりません。本件は、我が公爵家への宣戦布告と捉え、エーレンライヒ伯爵家を取り潰してあなたを娼館送りにして差し上げますわ」
……そう。これこそが私の狙いだった。
ありがとう、悪役令嬢。あなたのその強い愛が、私を救ってくれた。
私はこんな形でしか望み通りに生きる方法がなかったんだ。
本当に、ごめんなさい。
――こうして、私は無事に、バッドエンドである娼館送りルートへ突入したのだった。
第一章 バッドエンドから始まる娼館生活
悪役令嬢ゼルマによって私刑に処された後、どこからか現れた彼女の配下たちによって、私はがらん、ごろん、どさっと手際よく荷馬車の中へ放り込まれた。
王族や貴族が通うこの学院は、常に厳重な警備が敷かれている……にも拘らず、私を拐かすのは、明らかに無法者たちだ。
けれど、それも想定内。ゼルマの実家であるローレンツ公爵家の傘下には、裏稼業を生業にする家が数多く属しているため、粗雑な扱いを受けるのは承知の上だった。
制服どころか身体中が土だらけな上に、馬車内のささくれ立った床板に膝を擦って血が滲むが、私にとっては些細なこと。この程度の扱いなど慣れっこで、痛くも痒くもない。
むしろ、私の心は澄み渡る青空のように晴れ渡っていた。
(やっと、やっと終わったわ~~~~!)
――私が、唯一できる復讐が幕を閉じた。
わざとゼルマが愛するヨシュカ王太子の前でパンチラをし、彼女の逆鱗に触れ、自ら破滅の運命を辿ったのは、単に逃げたかったのもある。
だが何より、私の両親を殺めた者と、これまで虐げてきた者たちを道連れにしたかったのだ。
全てが計画通りに進んだおかげで、私は心の底から安堵した。
公衆の面前で不埒な行いをしたことや、ゼルマ並びに、ローレンツ公爵家を利用したことは娼館で働いてきちんと償う予定だ。
特に迷惑をかけてしまったローレンツ公爵家には、今回のことが利益になるように準備してある。きっと今頃、公爵家には匿名の分厚い手紙が届いていることだろう。
しばらく景色を見ながら考えに耽っていたら、あっという間に娼館行きの馬車が停車した。
着いた場所は、貴族街に程近い歓楽街の一等地だ。
馬車の扉が乱暴な手つきで開けられ、ここまで私を運んできた男が顔を出す。
「おい、降りてこい」
大人しく言われるままに馬車から降りると、まず大きくて豪勢な建物が目に入った。
そこから身なりのよい男性が出てきて、何やら私を運んできた無法者と話をしている。
待っている間にアーチ型の窓を上から順に数えると、この館は四階建てだった。建物の外壁は白い漆喰で塗られ、横に長く、奥行きもあるコの字型の造りで、まるで高級ホテルのようだ。
ふと、後ろへ視線を向ける。
敷地は、伯爵家のタウンハウスと同程度の広さで、高い塀に囲まれている。その中央には五メートルはありそうな鉄製の門がそびえ立ち、両脇に重厚な柱が並んでいた。
頑丈そうな造りからして、ここへ侵入するのも、脱走するのも容易ではなさそうだ。
間違っても侵入者が現れ、うっかり殺されることはなさそうで安心だ……なんてことを考えていたら、彼らの会話が終わったようで、娼館の人間が話しかけてきた。
「さあ、新入り。その汚れでは中のカーペットを洗わなくてはならなくなる。まずは風呂に入ってから話そうじゃないか。裏口から部屋に案内するからついてきてくれ」
確かに今の自分は土まみれだ。カーペットを洗うのは大仕事なので、汚すのは本意ではない。
私は素直に頷き、顔の前で両手を握りしめて、気合いを込めて答えた。
「はい、承知いたしました!」
いざ、娼館へ! と意気込んでいると、なぜか彼は呆気に取られたように呟く。
「おや。無理やり連れて来られたのに、随分聞き分けがいいじゃないか」
(――あっ……)
確かに突然誘拐されるように連れて来られて娼婦になれだなんて、普通の令嬢だったら泣き喚いて暴れるだろう。記憶を取り戻す前の私なら、きっとそうしていた。
でも私は、自ら娼館送りになるよう行動したのだ。
むしろ身を立てるための新生活の幕開けに、胸を躍らせているのが正直なところである。
「ご心配には及びません。私は、自らが犯した過ちを償うつもりでこちらに連れて来ていただきました。なので、やる気満々です! それにしても、気遣ってくださるだなんてお優しいのですね」
改めて彼をじっと見つめる。背が高く、この王国では珍しい褐色の肌を持っている。黒髪を後ろで束ね、タキシードのようなフォーマルな装いだ。年齢は三十代半ばほどだろうか。
私が微笑みながらも観察していると、彼は溜息を吐いて小さく呟いた。
「……どうも調子が狂うな」
なぜか男は頭を抱えた。そして溜息一つ吐くと、踵を返して建物のほうに向かっていく。
私は置いていかれないように、小走りでついていった。
建物に沿って奥へ進むと、綺麗に整えられた中庭が広がっていた。薔薇の芳しい香りに癒されていると、目立たない端のほうに頑丈そうな扉があり、男が解錠して中へ入った。
彼の後を追い、外階段を降りると、半地下の空間が見えてきた。ウッドデッキのようになっている外廊下が続き、中庭に咲く薔薇の蔓がこの場所にまで伸びている。
半地下ながらも陽の光が差し込み、どこか穏やかな雰囲気を感じた。
建物側には部屋ごとに屋根付きのサンルームが設けられているけれど、あれが娼婦たちの住む部屋なのだろうか。
まるで秘密基地のようなこの空間に、私は密かに心を躍らせてしまった。
やがて案内された部屋に、度肝を抜かされることになる。
「ここが今日から君の部屋だ。貴族出身のお嬢さまは気に入らないだろうが、皆平等に一人部屋をあてがう都合上、手狭になっている。どうか容赦してくれ」
「こ、こんなに広くて素敵な部屋に、一人で住まわせていただけるのですか!?」
「は……!? 本気で言っているのか? 半地下だぞ? 使用人が住むような狭い部屋だし、年季の入った古い家具だ。貴族令嬢にとっては屈辱だろう」
「そんな、私には居心地がよさそうな部屋にしか見えません! 素敵な部屋をどうもありがとうございます!」
狭い部屋だと言うけれど、伯爵家で生活していた屋根裏部屋より何倍も広い。古い家具も丁寧に手入れをされて大切に使われているのが一目で分かる。
半地下ながらも日当たり良好、お風呂付き、ベッドも清潔そうで、最高オブ最高!
バッドエンド真っ只中の身の上なのに、こんな高待遇を受けて、バチが当たるのではと不安になるくらいだ。
「風呂の手伝いに誰かを呼ぶか?」
「いいえ、一人で入れます」
「……そうか。ではまた一時間後に来る」
早速お風呂に入って、全身の土汚れを泡で落としていく。浴室にはクリスタルを嵌め込んだ高価な魔道具のシャワーが設置してあって、蛇口を捻るだけでちょうどいい温度のお湯が出る。
温かいお湯で泡を流していくと、心の中にあった不安まで一緒に流れていく気がした。
お風呂を出て、用意されていた新しいワンピースに袖を通すと、ようやく本当の意味で虐げられていた生活から抜け出せたのだと実感が湧いてくる。
身体を売ることにはなるが、他に差し出せるものもないし。監禁率や死亡率がドカンと上がる、おっかない攻略キャラたちと関わるよりはマシだ。
前世も今世も未経験だけれど、あれだけ年齢制限付きの乙女ゲームをやっていたのだ。成人乙女向けの漫画や小説も読みあさっていたし、耳年増……っていうほど若くはないけれども。
……うん、知識だけは無駄にあるから、きっとなんとかなるはず。
いや、なってほしい。なってくれ……っ!
事前に調べていた情報通りだとすれば、ローレンツ公爵家が後ろ盾になっている超高級娼館は、紳士中の紳士だけが通える会員制だ。娼婦を大切に扱わない男性は強制退会させられるという。
きっとこの娼館のことだと思うのだけれど、場所は秘匿されており、会員の誰かに紹介してもらわないといけないほど格式が高い。貴族学院在籍中の三ヶ月間自由に動けたとはいえ、それだけの期間では調べ尽くすには至らなかった。
問題は私に殿方を喜ばせる話術があるか……だけれど、きっと娼婦の先輩による研修もあるはずだしそれはこれから磨いていくとしよう。
いずれは誰にも頼らず自分の力で生活できるようになりたい。そのためにも、一生懸命学ばせてもらおうと、私は心の中で決意を固めた。
扉の前で待っていると、ノック音が響いた。
やって来たのは、先ほどここまで案内してくれた彼だ。
「うわ! どうして突っ立っているんだ?」
「そ、それもそうですね。失礼しました」
しまった。今まで下女として過ごしていた生活が長すぎて、座って待つという発想がなかった。
勧められるままに部屋にあった二人掛けのソファに腰掛けると、彼は向かいの一人掛けのソファに座った。
「さて、改めて俺はこの娼館エリュシオン支配人のフィンだ。これからよろしく頼む」
彼は支配人だったのか。道理で身なりがいいと思った。
私はソファから立ち上がり、礼儀正しくカーテシーをする。
「ご挨拶ありがとうございます。私は、イザベル・フォン・エーレン……」
「うおおい! 名前だけで結構だ! 俺は貴族の厄介ごとになんて関わりたくはない!」
突然の大声にびっくりして肩が揺れる。だが、確かにそれもそうかと納得した。
――花吹雪が舞う春。
私イザベル・フォン・エーレンライヒは、今日、王立アーデルハイト貴族学院に入学する。
「ようやくここまで来られた……」
よりにもよって、年齢制限付きヤンデレ乙女ゲーム〝虐げられし乙女は狂愛の棘に囚われる〟のドアマットヒロインに転生した私は、貴族学院を前に感慨深く立ち尽くしていた。
ゲームで見た通りの金の装飾が施された壮麗な門を見上げると、ふいに春風がそよぎ、花びらと共にローズピンク色の波打つ髪の毛がふわりと揺れる。
ここに来るまで色々あったなぁと、思わず水色の目から涙が零れそうになるのを堪えた。
十二歳の時に愛する両親を馬車の事故で亡くし、伯爵家だった我が家は父方の叔父家族に乗っ取られた。さらに、義母と義妹に虐げられ、下女としての生活を強いられる始末……
この世界には魔法が存在するけれど、私はヒロインのはずなのにチート能力はなく、むしろ魔力は平均より少ないくらいだった。
唯一の救いは、義母に初めて顔を殴られた瞬間、前世の記憶が蘇ったこと。
その時思い出した原作知識には、何度も助けられた。
叔父家族が、私を大金と引き換えに嫁がせるべく、箔付けのために貴族学院へ入学させることは分かっていたから、何度死にかけてもここに通うことだけを希望に生きてきたのだ。
だが、いくら生家を出られたからって、気を緩めたらいけない。
(……入学式の今日は、特に攻略キャラに見つかったら不味いもの)
この世界の元となった年齢制限付き乙女ゲームは、一部のコア層に大人気で、乙女ゲーム三大鬱ゲーの一つとしてバッドエンド好きやマゾヒストを唸らせた問題作だ。
攻略キャラは、異なる色の薔薇をモチーフにした王族や貴族を始めとする、この国を牛耳るイケメンたち。だけど彼らの正体は、全員とんでもないヤンデレで、それぞれのルートに片足を突っ込めば最後、もれなく狂った愛を向けられる。
乙女ゲームなのにバッドエンドの数が異常に多く、選択肢を間違えたら一発で破滅するルートもあった。
スチル収集オタクの血が騒いで、何度も周回して隠しルートまで攻略し終えた前世では、もはや全ルートがメリバかバッドエンドでは? と、思ったくらいだ。
ハッピーエンドでも監禁なんて当たり前。しかも年齢制限付き乙女ゲームの中でも、官能シーンがかなり過激だ。その原因は攻略キャラたちの性癖がぶっ飛んでいることにある。
たとえば、父親を憎んでいる白薔薇の王太子は王家の高貴な子種を無駄にする後孔専門の男だし、紅薔薇の隣国の皇太子は痛ぶって快感を得る真性のサディスト。
他にも、寝取られ好きな金薔薇のマフィアや、ヒロインを媚薬漬けにした上で拘束放置プレイをする鬼畜な黒薔薇の宮廷魔術師までいる。
彼らは総じて人を殺めるのを厭わない、感情の欠落した人間で、なんらかのきっかけで興味を抱いたヒロインに対し、異常な執着心を抱いてしまうのだ。
前世の私は愛なんて重ければ重いほど尊いと思っていたほど、ヤンデレものが大好きだったから〝虐げられし乙女は狂愛の棘に囚われる〟には、かなりどハマりした。
でもそれは、あくまで物語の好みの話。
――ヤンデレは二次元に限る。
現実世界であんなおっかない人たちには、絶対に関わりたくない。
だって、長生きしたいもの!
幸いなことに、攻略対象キャラと義家族から逃げられる、唯一のバッドエンドルートがある。
しかもそれは、私のとある目的も果たせる一挙両得の方法だった。
だからこそ私は、その頼みの綱に賭けていた。
(よし、俄然燃えてきた! 誰にも関わらずバッドエンドを目指して、第二の人生を謳歌するわ!)
私は、両手の握り拳を顔の前に持ってきて気合いを入れる。
攻略キャラに特定の推しはいなかったし、とにかく誰の視界にも映らないようにしよう。
そう決意を固めた私は勢いよく足を踏み出し、ようやく門を潜る。
入学式の会場はどこかと辺りを見渡すと、後ろから声を掛けられた。
「――そこのご令嬢。お待ちください」
「……?」
聞き覚えのある、落ち着いた低い声がして、反射的に振り返る。
すると、そこには長身で綺麗な群青色の髪を持つ美形の騎士が立っていた。
切れ長の鋭い目には紫水晶の瞳が嵌め込まれていて、その美しさに思わず目を奪われてしまう。
だが、その瞳は何もかも冷静に捉えているようで、感情の揺らぎを一切見せない。
高い鼻梁を持つ彫りの深い顔立ちは少々無骨で強面ではあるが、まるで彫刻のように整っている。
襟足の長い髪は彼によく似合い、どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせていた。
(――って、この方はもしかして、サブキャラのルードヴィヒ・フォン・ヴァルター卿では!?)
彼は白薔薇の王太子の側近であり、近衛騎士にして侯爵家の次期当主。王太子ルートでは、ヒロインの危機に真っ先に駆けつけるサポートキャラだった。
王太子以外と喋ることはなく、たとえヒロインと対話中に台詞があっても「………………」ばかりという沈黙具合だった。
今は王太子の姿は見えないが、突然のゲームキャラとの接触に、背中にじわりと汗が滲んでくる。
「……ハンカチ、落としましたよ」
「っ、あ……!」
ヴァルター卿に差し出されたのは、義妹に破られたドレスの端切れで縫った、ボロボロのハンカチだった。そんなものを人目に晒してしまった気まずさで、思わず俯いてしまう。
受け取るために伸ばした手も、昨日まで下女として働いていたせいでカサついており、美しい彼の視界に晒すのは躊躇われた。
だが、受け取らないわけにもいかず、私は慌ててみすぼらしいハンカチを受け取る。
「あっ、ええと……ありがとうございます!」
「…………では」
制服のポケットにハンカチを隠すように仕舞うと、彼は早々に踵を返して立ち去った。
そのあまりの行動の速さに呆気に取られるも、私はしみじみ思う。
(寡黙で真面目な冷徹騎士の設定は、現実にも生きているのね……)
そうか。彼の声に聞き覚えがあったのも、ゲームのままだったからなんだ。
――それにしても、誰にも関わらないと決意したばかりなのに、原作キャラに遭遇してしまった。
予想外の事態に、動悸と冷や汗が止まらない。
(これ、なんらかのフラグは立ってないよね……?)
ヴァルター卿は攻略対象キャラじゃないし、まともな人枠だったからきっと大丈夫なはず……
私はそう自分に言い聞かせながら、今度こそ入学式の会場へ向かった。
◇ ◇ ◇
無事貴族学院に入学してからというもの、極力攻略キャラがいそうな場所を避けつつ、イベントをガン無視して、なんとか誰のルートに入ることもなく三ヶ月が経った。
とある調べものをするため図書館へ入り浸っていた際に、白薔薇のヨシュカ王太子と、近衛騎士のヴァルター卿に遭遇しそうになってヒヤヒヤしたが、その都度物陰に隠れてやり過ごした。
いつだったか護衛中のヴァルター卿と目が合ったような気がした時は、流石に終わったと思ったけれど、そのままスルーされたので、きっと私は物陰に隠れる才能があるのだと思う……!
そんなバカみたいな自画自賛をしつつも、自らが望むバッドエンドを迎えるため、一人で着々と準備を進め、遂に全てが整った。
――そしていよいよ、運命の日がやってきたのだ。
今日は、入学して初めての剣術大会が開かれる。
私はというと、剣術大会に出場するヨシュカ王太子と、その練習に付き合うヴァルター卿を観察するべく、相も変わらず息を潜めて草陰に隠れていた。
彼らは貴族学院の広場で、さながら本番のような気迫を纏わせ、真剣で手合わせをしている。
「殿下、今の踏み出しは甘いです」
「……こうかなッ?」
軽快に言葉を交わしながらも、重い金属音を鳴らして剣を打ち合っている彼らの周りには、数多くの学院生たちが見物に集まっていた。
その中でも特に令嬢の姿が目立つのは、色素の薄い儚げな美青年のヨシュカ王太子と、クールな美形であるヴァルター卿との組み合わせがとても絵になるからだろう。
「きゃああ! 王太子殿下、剣術大会頑張ってくださいませー!!」
「ヴァルター卿は今年卒業したのに、またお二人の姿を拝めるだなんて……!!」
令嬢らの熱い声援が広場に響き渡る。
彼女たちの話し声を聞くに、ヴァルター卿は去年まで貴族学院に在籍し、圧倒的な実力で毎年優勝していたらしい。私より一学年上のヨシュカ王太子も、今年の優勝候補筆頭みたいだ。
――まぁ私は、単に目の保養で見ているわけではないのだけれど。
彼らの打ち合いが終わるのを待っていると、ヴァルター卿がヨシュカ王太子の剣を受け流しながら、横目でチラリとこちらを見た。
「っ」
(この前もだけど、やっぱり私に気づいて……!?)
今までは見逃されていただけで、残念ながら私に物陰に隠れる才能などなかったようだ。
先日よりも頻繁にチラチラと視線を向けられ、ヴァルター卿に警戒されているのだと肌で感じる。
でもまぁ、その判断は間違っていない。
――なぜなら私は、これから前代未聞の不祥事を起こそうとしているのだから。
どれほど愚かなことをしようとしているか、それは私自身が痛いほど分かっている。
けれども、この醜聞を作り出さねば、私の望みが叶うルートには入れない。
彼らの打ち合いが終わると、ようやく私は一歩足を踏み出した。
チャンスは一度きり、絶対に失敗は許されない。
これも後悔のない人生を送るためよ!
腹を括った私は、前世でプレイした時に誰がこんな選択肢を選ぶのって思っていた項目……
① ヨシュカ王太子に笑顔で挨拶をする
② ヨシュカ王太子の前を素通りする
③ ヨシュカ王太子の目の前で自らのスカートを風魔法で巻き上げて誘惑する
このうち、度肝を抜くほど圧倒的に一番ありえない③を選択した。
逸る気持ちを抑えながら、全身に巡る魔力を少しずつ丁寧に手のひらに集める。
地面から風を起こしながら、身分不相応にも声をかけた。
「ごきげんよう、王太子殿下」
ヨシュカ王太子がこちらに気がつき、それと同時にヴァルター卿が、彼の前に出ようとする。
……全てはバッドエンドルートに入るフラグを踏むため……
(ヨシュカ王太子及びヴァルター卿、周りにいる皆さま。愚か者の私をどうかお許しください)
私にとって全力の魔力を解き放つと、真下から肌を撫でるような程よい風が吹きつけた。
スカートの裾が徐々に舞い上がり、やがて太腿まで一気に風が抜ける。
――パサァ……ッ!!
風の音が響いた瞬間、周りの空気がピシリと固まった。
そして、ついに公衆の面前で、私の白いレースのパンツが露わになったのだ。
一気に視線が集まり、誰かの息を呑む声まで聞こえてくる。
自分でやらかしたこととはいえ、羞恥でいっぱいになり、本心から悲鳴を上げた。
「――きゃああっ!」
自分が風魔法で巻き上げたスカートを押さえて、涙目で辺りを見渡す。
するとあの冷徹なヴァルター卿が、紫色の瞳を見開いて動揺する姿が目に入った。初心な様子でどんどん顔を真っ赤に染めていく彼を見て、私の恥ずかしさは頂点に達し、思い切り目を逸らす。
だけど、今は恥ずかしがっている場合じゃない、目的を果たさなくては。
ターゲットであるヨシュカ王太子を確認すると、興味深そうにこちらを眺めていた。
ひとまず計画は成功したようだとホッとする。
私は、足を一歩後ろに引きながら、勢いよく頭を下げる。
「し、失礼いたしました……っ」
口から出たのは、思っていたよりもか細い声だった。
それすらも恥ずかしくて、急いで退散する。
――逃げるが勝ちだ。
よぉし、これで大きな布石を打てた。後はきっと彼女が動いてくれるだろう。
私はこれから行われる剣術大会に目もくれず、街に出てそそくさと分厚い手紙を出しに行ったのだった。
◇ ◇ ◇
二日後、貴族学院の校舎裏にある人気のない庭園に呼び出された私は、目の前に立ちはだかる悪役令嬢に、狙い通り罪を問われていた。
「イザベル・フォン・エーレンライヒ伯爵令嬢。あなた、わたくしの殿下に色目を使ったどころか、風魔法を使って自らのスカートを巻き上げた挙句、貧相な下着を彼のお方の高貴な瞳に映しましたわね!?」
悪役令嬢もといゼルマ・フォン・ローレンツが言ったことは、全くもって嘘偽りない事実である。
重い沈黙が流れる中、木々を揺らす音だけが奏でられ、二人の間を風が駆け抜けていく。
春の日差しをたっぷりと浴びた草花は、太陽に向かって背を伸ばして咲き誇っているというのに、私はというと、日当たりの悪い木陰で、制服が汚れるのも厭わずひれ伏している。
――いくら目的があったとはいえ、目の前の彼女やヨシュカ王太子、そしてヴァルター卿には、本当に申し訳ないことをしたわ……
貴族学院に入学してまだ三ヶ月しか経っていないにも拘らず、悪役令嬢ゼルマに詰め寄られるほどの悪事を犯した私は反省の意を込めて、少し湿った土に勢いよく額を擦りつけて言った。
「はい。弁解の余地もありません」
ゼルマの足音がしたかと思うと、急に髪の毛を掴まれ、そのまま思い切り引っ張られた。つられて頭が持ち上がり、私の瞳は、怒りに染まった悪役令嬢の姿を映した。
もはやテンプレートのような金髪で縦ロールのゼルマは、甲高い、けれどもドスの利いた声色で、私を糾弾する。
「この、よくも……ッ! 婚約者に相応しいわたくしでさえ、お見せしたことがないのに!」
激昂したゼルマに髪の毛をさらに引っ張られ、頭皮から何本もぶちぶちと抜ける音がした。
「っ」
痛みで僅かに眉を顰めて目を瞑ると、次の瞬間頭ごと地面に打ちつけられた。
そして這いつくばる体勢になった私を指差し、腰に手を当て凄んだゼルマが声高らかに宣言する。
「わたくしは殿下の害となるあなたの存在を許すわけにはまいりません。本件は、我が公爵家への宣戦布告と捉え、エーレンライヒ伯爵家を取り潰してあなたを娼館送りにして差し上げますわ」
……そう。これこそが私の狙いだった。
ありがとう、悪役令嬢。あなたのその強い愛が、私を救ってくれた。
私はこんな形でしか望み通りに生きる方法がなかったんだ。
本当に、ごめんなさい。
――こうして、私は無事に、バッドエンドである娼館送りルートへ突入したのだった。
第一章 バッドエンドから始まる娼館生活
悪役令嬢ゼルマによって私刑に処された後、どこからか現れた彼女の配下たちによって、私はがらん、ごろん、どさっと手際よく荷馬車の中へ放り込まれた。
王族や貴族が通うこの学院は、常に厳重な警備が敷かれている……にも拘らず、私を拐かすのは、明らかに無法者たちだ。
けれど、それも想定内。ゼルマの実家であるローレンツ公爵家の傘下には、裏稼業を生業にする家が数多く属しているため、粗雑な扱いを受けるのは承知の上だった。
制服どころか身体中が土だらけな上に、馬車内のささくれ立った床板に膝を擦って血が滲むが、私にとっては些細なこと。この程度の扱いなど慣れっこで、痛くも痒くもない。
むしろ、私の心は澄み渡る青空のように晴れ渡っていた。
(やっと、やっと終わったわ~~~~!)
――私が、唯一できる復讐が幕を閉じた。
わざとゼルマが愛するヨシュカ王太子の前でパンチラをし、彼女の逆鱗に触れ、自ら破滅の運命を辿ったのは、単に逃げたかったのもある。
だが何より、私の両親を殺めた者と、これまで虐げてきた者たちを道連れにしたかったのだ。
全てが計画通りに進んだおかげで、私は心の底から安堵した。
公衆の面前で不埒な行いをしたことや、ゼルマ並びに、ローレンツ公爵家を利用したことは娼館で働いてきちんと償う予定だ。
特に迷惑をかけてしまったローレンツ公爵家には、今回のことが利益になるように準備してある。きっと今頃、公爵家には匿名の分厚い手紙が届いていることだろう。
しばらく景色を見ながら考えに耽っていたら、あっという間に娼館行きの馬車が停車した。
着いた場所は、貴族街に程近い歓楽街の一等地だ。
馬車の扉が乱暴な手つきで開けられ、ここまで私を運んできた男が顔を出す。
「おい、降りてこい」
大人しく言われるままに馬車から降りると、まず大きくて豪勢な建物が目に入った。
そこから身なりのよい男性が出てきて、何やら私を運んできた無法者と話をしている。
待っている間にアーチ型の窓を上から順に数えると、この館は四階建てだった。建物の外壁は白い漆喰で塗られ、横に長く、奥行きもあるコの字型の造りで、まるで高級ホテルのようだ。
ふと、後ろへ視線を向ける。
敷地は、伯爵家のタウンハウスと同程度の広さで、高い塀に囲まれている。その中央には五メートルはありそうな鉄製の門がそびえ立ち、両脇に重厚な柱が並んでいた。
頑丈そうな造りからして、ここへ侵入するのも、脱走するのも容易ではなさそうだ。
間違っても侵入者が現れ、うっかり殺されることはなさそうで安心だ……なんてことを考えていたら、彼らの会話が終わったようで、娼館の人間が話しかけてきた。
「さあ、新入り。その汚れでは中のカーペットを洗わなくてはならなくなる。まずは風呂に入ってから話そうじゃないか。裏口から部屋に案内するからついてきてくれ」
確かに今の自分は土まみれだ。カーペットを洗うのは大仕事なので、汚すのは本意ではない。
私は素直に頷き、顔の前で両手を握りしめて、気合いを込めて答えた。
「はい、承知いたしました!」
いざ、娼館へ! と意気込んでいると、なぜか彼は呆気に取られたように呟く。
「おや。無理やり連れて来られたのに、随分聞き分けがいいじゃないか」
(――あっ……)
確かに突然誘拐されるように連れて来られて娼婦になれだなんて、普通の令嬢だったら泣き喚いて暴れるだろう。記憶を取り戻す前の私なら、きっとそうしていた。
でも私は、自ら娼館送りになるよう行動したのだ。
むしろ身を立てるための新生活の幕開けに、胸を躍らせているのが正直なところである。
「ご心配には及びません。私は、自らが犯した過ちを償うつもりでこちらに連れて来ていただきました。なので、やる気満々です! それにしても、気遣ってくださるだなんてお優しいのですね」
改めて彼をじっと見つめる。背が高く、この王国では珍しい褐色の肌を持っている。黒髪を後ろで束ね、タキシードのようなフォーマルな装いだ。年齢は三十代半ばほどだろうか。
私が微笑みながらも観察していると、彼は溜息を吐いて小さく呟いた。
「……どうも調子が狂うな」
なぜか男は頭を抱えた。そして溜息一つ吐くと、踵を返して建物のほうに向かっていく。
私は置いていかれないように、小走りでついていった。
建物に沿って奥へ進むと、綺麗に整えられた中庭が広がっていた。薔薇の芳しい香りに癒されていると、目立たない端のほうに頑丈そうな扉があり、男が解錠して中へ入った。
彼の後を追い、外階段を降りると、半地下の空間が見えてきた。ウッドデッキのようになっている外廊下が続き、中庭に咲く薔薇の蔓がこの場所にまで伸びている。
半地下ながらも陽の光が差し込み、どこか穏やかな雰囲気を感じた。
建物側には部屋ごとに屋根付きのサンルームが設けられているけれど、あれが娼婦たちの住む部屋なのだろうか。
まるで秘密基地のようなこの空間に、私は密かに心を躍らせてしまった。
やがて案内された部屋に、度肝を抜かされることになる。
「ここが今日から君の部屋だ。貴族出身のお嬢さまは気に入らないだろうが、皆平等に一人部屋をあてがう都合上、手狭になっている。どうか容赦してくれ」
「こ、こんなに広くて素敵な部屋に、一人で住まわせていただけるのですか!?」
「は……!? 本気で言っているのか? 半地下だぞ? 使用人が住むような狭い部屋だし、年季の入った古い家具だ。貴族令嬢にとっては屈辱だろう」
「そんな、私には居心地がよさそうな部屋にしか見えません! 素敵な部屋をどうもありがとうございます!」
狭い部屋だと言うけれど、伯爵家で生活していた屋根裏部屋より何倍も広い。古い家具も丁寧に手入れをされて大切に使われているのが一目で分かる。
半地下ながらも日当たり良好、お風呂付き、ベッドも清潔そうで、最高オブ最高!
バッドエンド真っ只中の身の上なのに、こんな高待遇を受けて、バチが当たるのではと不安になるくらいだ。
「風呂の手伝いに誰かを呼ぶか?」
「いいえ、一人で入れます」
「……そうか。ではまた一時間後に来る」
早速お風呂に入って、全身の土汚れを泡で落としていく。浴室にはクリスタルを嵌め込んだ高価な魔道具のシャワーが設置してあって、蛇口を捻るだけでちょうどいい温度のお湯が出る。
温かいお湯で泡を流していくと、心の中にあった不安まで一緒に流れていく気がした。
お風呂を出て、用意されていた新しいワンピースに袖を通すと、ようやく本当の意味で虐げられていた生活から抜け出せたのだと実感が湧いてくる。
身体を売ることにはなるが、他に差し出せるものもないし。監禁率や死亡率がドカンと上がる、おっかない攻略キャラたちと関わるよりはマシだ。
前世も今世も未経験だけれど、あれだけ年齢制限付きの乙女ゲームをやっていたのだ。成人乙女向けの漫画や小説も読みあさっていたし、耳年増……っていうほど若くはないけれども。
……うん、知識だけは無駄にあるから、きっとなんとかなるはず。
いや、なってほしい。なってくれ……っ!
事前に調べていた情報通りだとすれば、ローレンツ公爵家が後ろ盾になっている超高級娼館は、紳士中の紳士だけが通える会員制だ。娼婦を大切に扱わない男性は強制退会させられるという。
きっとこの娼館のことだと思うのだけれど、場所は秘匿されており、会員の誰かに紹介してもらわないといけないほど格式が高い。貴族学院在籍中の三ヶ月間自由に動けたとはいえ、それだけの期間では調べ尽くすには至らなかった。
問題は私に殿方を喜ばせる話術があるか……だけれど、きっと娼婦の先輩による研修もあるはずだしそれはこれから磨いていくとしよう。
いずれは誰にも頼らず自分の力で生活できるようになりたい。そのためにも、一生懸命学ばせてもらおうと、私は心の中で決意を固めた。
扉の前で待っていると、ノック音が響いた。
やって来たのは、先ほどここまで案内してくれた彼だ。
「うわ! どうして突っ立っているんだ?」
「そ、それもそうですね。失礼しました」
しまった。今まで下女として過ごしていた生活が長すぎて、座って待つという発想がなかった。
勧められるままに部屋にあった二人掛けのソファに腰掛けると、彼は向かいの一人掛けのソファに座った。
「さて、改めて俺はこの娼館エリュシオン支配人のフィンだ。これからよろしく頼む」
彼は支配人だったのか。道理で身なりがいいと思った。
私はソファから立ち上がり、礼儀正しくカーテシーをする。
「ご挨拶ありがとうございます。私は、イザベル・フォン・エーレン……」
「うおおい! 名前だけで結構だ! 俺は貴族の厄介ごとになんて関わりたくはない!」
突然の大声にびっくりして肩が揺れる。だが、確かにそれもそうかと納得した。
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