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1 満月の夜、秘密のおまじない

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「これで、よし……」

 家族が寝静まった真夜中、こっそりと台所から拝借してきた材料を、指さし確認した。

 冷蔵庫にあったローリエ一枚。いつだったかのカレーの日に使ったきりで、あまり保存状態はよくない。乾燥して、今にもふたつに割れてしまいそう。

 清めのためのお塩が少々。本に書いてあったのは、粒が大きくて、ミルで挽いて使うきれいな結晶だったけれど、あいにくうちにあったのは、赤いキャップの普通の食卓塩だけだった。お料理自慢のお母さんじゃないし、こんなものだろう。

 それから銀の皿にお水。お水は言わずもがなの水道水だったし、銀食器なんて、どこかのお金持ちの家にしかない。うちにあるシルバーは、せいぜいナイフとフォークにスプーンくらいだ。だから、アルミでできた小さめのボウルに、水をたっぷりと入れてきた。

「……」

 ほ、本当に大丈夫、かな?

 ふせんを貼ったページの図と、机の上の図を見比べて、不安になってくる。

 いやいや、大丈夫大丈夫! 実際の魔女だって、駆け出しの頃から思い通りの素材をゲットできていたとは限らない。ときにはあり合わせのもので魔術を行っていたに違いない。魔女って意外とお金がかかるんだから。

 私は自分に言い聞かせて、いよいよおまじないの儀式に移る。そうだよ。これはしょせん、ただのおまじないだ。ここは剣と魔法のファンタジー世界じゃないし、私は普通の中学二年生。

 ただちょっと、図書館で『魔女入門! これであなたの恋も叶っちゃう!』なんていう古い本を見つけて、魔が差しただけなんだから。

 まずは水をぐるぐると利き手じゃない方の指で混ぜる。利き手は普段使っているから、あんまりきれいじゃなくて、魔力が溜まっていないというもっともらしい説明がしてあった。

 何度もかき混ぜて、水流が起こるのを確認したら、今度は塩を入れる。分量は書いていないから、適当でいいらしい。パラパラふりかけて、器全体に行き渡るのを待つ。

 お次はパリッパリになったローリエを水に入れた。生の葉っぱじゃなくて、もともと乾燥させたハーブだから、新鮮なグリーンに戻る、ということはない。

「そしてその上に、好きな人の名前を書いた紙……紙!?」

 どうしてこの手のレシピって、最初に書いてない材料をいきなり出してくるんだろう。

 慌ててノートを手でちぎって、そこに彼の名前を書いた。

 綾瀬あやせしゅん

 同じクラスで、サッカー部のエースストライカーだ。サッカーは詳しくないけれど、要するにチームで一番、ゴールを決められる人ってことでしょう? それだけだと、なんだか怖そうなイメージかもしれないが、俊くんは人当たりの柔らかい人で、誰に対しても優しい。

 どっちかといえば引っ込み思案で、夜中にこんな風におまじないに頼ることしかできない私にも、話しかけてくれる。

 この間も、「小坂こさかさんちは、カレーの肉は何派?」と、雑談に混ぜてくれたのに、まともに返事をすることができなかった。豚・牛・鶏の三択で答えればよかったんだから、簡単な方だったのに、何も言えなかった。

 俊くんはいつまでも待ってくれようとしたけれど、周りの子はそうはいかない。優しい彼は、いつだって友達に囲まれているのだ。さっと俊くんの腕を取って、「そんなことより」と言いたげに話題を変えたのは、サッカー部のマネージャーをしている子だった。

 明るくて可愛くて、ハキハキしていて。私とは真逆の存在。

 俊くんはぎゅっと眉根を寄せて悲しそうな顔を一瞬したけれど、促されて私を意識から閉め出してしまう。

 悲しいけれど、全部私が悪い。緊張しいで意気地なしの弱い私だから、せっかく彼が話しかけてくれても、気分を悪くさせてしまう。

 どうやったら勇気が出るんだろう。

 俊くんは、私のことをどう思っているんだろう。

 ただのクラスメイトじゃなくて、友達だと思っていてくれたなら。ううん、私のことを、ちょっとでも意識してくれているのなら、自信をもって話ができるかもしれない。

 そんなことを考えながら、図書館をふらふらしていたら、棚に体当たりしてしまった。真正面からぶつけたおでこを摩り摩りしていたら、目の前にあったのが、この『魔女入門』だった。

 外国作家の小説がずらりと並んだ棚に、なぜかぽつんとさしてあったのだ。

 不思議に思って開いたとたん、目に入ったのが、『好きな人の気持ちが知りたいあなたへ』と書かれたページだった。

 まさに私が知りたいことそのもの。すぐに貸し出し手続きをして、家で熟読した。

「恋の妖精さん、恋の妖精さん」

 満月の夜にしか実行できないおまじないだから、時間があった。何度も読み返したから、呪文は完璧。ただちょっと、「妖精さん」を連呼するのは恥ずかしい。目を閉じて、ところどころ小声になりながらも、私は祈る。

「彼の気持ち、全部教えてください。私、小坂茉由は、この愛を対価に捧げます。アイラブヒム、ヒーラブズミー、ラブラブプリーズ!」

 つっかえずに言えた。ちらり、片目を開けてアルミのボウルを観察するが、特に何も起こらない。

「うーん?」

 再び本に目を落とす。

 不親切なことに、このおまじない、結果はどうやってわかるのかは書いていないのである。紙が底に沈んでしまい、渦が止まっても、何も起こらない。

「……まあ、そうだよね」

 この世に魔法なんかない。おまじないは気休めで、百パーセント効果があるなんてわけない。

 目覚まし時計を見れば、もうすぐ二時。明日も学校があるから、そろそろ寝ようかな……。

 大きくあくびをしたその瞬間だった。

 ――カサッ。

 嫌な音がした。ぞっと背筋に寒気が走る。

 やだやだやだ! エアコンの風がビニール袋か何かに当たって音がしているだけだよね? そうだよね?

 真夜中の自室で、黒光りするアレとふたりきり(?)になるのは、絶対に嫌……!

 さっきちぎったノートをくるくると丸める。もう使えなくなるけれど、武器になりそうなものは、他になかった。

 びくびくしつつも、聴覚を研ぎすます。電気はつけたくない。明るくなった瞬間、足下を通過……なんてことが、ないとは限らない。それに今日は満月だ。淡い光が入り込んできて、あたりを青く照らしている。なんとかなるだろう。

(落ち着け。落ち着くのよ、茉由まゆ。こういうときは、心の目で見るの!)

 この間、そんなアニメを見た。敵の気配だけを頼りに斬る、日本一の剣豪の話だった。

 私も目を閉じて、自分以外の何者かが動く気配を探る。

 最低限の呼吸すらためらわれるほどの静寂の中、そしてついに。

「そこぉ!」

 スパーン、とノートの剣を振り下ろす。剣道経験はないし、運動神経も悪い。

 それでも、何かを掠めた感触があった。虫の硬さではない。むに、という、どちらかというと綿?

 それに。

『いっ、てえ!』
「!?」

 部屋の中にはひとりしかいない。親は離れた部屋で寝ているし、そもそも壁は厚いので、よほどの叫び声じゃなきゃ聞こえない。

 恐る恐る目を開けた私の視界に入り込んできたのは、いつもと変わらない光景。机の上には昔自分で考えたオリジナルのキャラクター、ハートちゃんのぬいぐるみ。自分で型紙から起こして作った自信作だ。
 ハートちゃんはつぶらな瞳。うん、可愛い。大丈夫、変わりない……。

『変わりない? 本当に?』
「ひっ!」

 しゃべった!?

『オイラを召喚するなんて、恋ってほんっとうに、人を愚かにするよなあ!』

 口にあたるものはない。今目の前でしゃべっているハートちゃんには、口がある。ニヤニヤと歯をむき出しにした、なんだか嫌な感じの笑い方。

『ほら、教えてやるよ! ただし、オマエの恋心と引き換えになるかもしれないけどな! ……うわっ』

 歩けるようには作っていないから、動こうとしてはバランスを崩し、そのまま倒れ込んでジタバタし始めたハートちゃんに、私は呆然とする。

『おいっ。オマエ! 人間! オイラを助けろ!』

 これは悪夢? それとも本当に、現実なの?

 這うようにして机の上を移動して、ハートちゃんが私の指をつかむ。

 ただの布なのに、そこには確かに生命のようなものを感じる。

 夢じゃない。

 そう悟った瞬間、

「キャーッ!」

 と、悲鳴を上げて、私はふらりとベッドに倒れ込んだ。

「茉由! どうしたの!?」

 大声に反応した母の声が遠くで聞こえた。
 
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