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2 妖精? 悪魔? との契約

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「う……んん」
「茉由!」

 どれくらい時間が経ったのか、すぐにはわからなかった。何せ、目を覚ました瞬間、真っ先に目に入ったのは、お母さんの心配そうな、でもホッとしたような顔だったものだから、電気がついていなくても外が明るくなっていることや、スズメが鳴いているのにも、気づかなかったのだ。

「あんた、大丈夫なの?」

 ぼんやりした頭で、大丈夫ってなにが? と、思う。

 昨日は確か、俊くんの気持ちが知りたくて、得体の知れない本に書いてあったおまじないを実行して……そして。

「っ!」

 覗き込むお母さんのおでこに頭をぶつける勢いで、起き上がった。びっくりして身を引いたお母さんをよそに、私は机の上を確認する。

 確かに動き、しゃべっていたハートちゃん。転がって、起き上がれなくて助けを求めた、得体の知れないバケモノ。

 けれど、ハートちゃんはいつもどおり、ブックエンドで立ててある教科書やノートの前に座っている。昨夜のことが、まるで嘘だったみたいに。

「まだ顔色が悪いわね。熱はないみたいだけど……今日は休みなさい」
「えっ。大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないの。いい? あなた、今は健康かもしれないけど、小さい頃は風邪を引いたらこじらせがちで……」

 子育て思い出話を始めようとしたお母さんを、「わかった! 休むから!」と言って、どうにかこうにか追い出した。後ろ手でドアを閉めて、鍵もしっかりかける。扉の向こうに人の気配を感じなくなってから、恐る恐る、話しかける。

「……ハート、ちゃん?」

 しーん。

 何の反応もない。

 ほら、やっぱり。

 昨日はおまじないをするために夜中まで起きていて、気づかぬうちに寝落ちしてしまった。そのときに見た悪夢だったんだ。

 そう納得させようとしていたのに。

『おん? ハートちゃんだと? 誰がそんなダサい名前で呼ばれて返事なんかするかよ!』

 ケタケタ笑うのは、可愛いハートちゃんの顔じゃなかった。悪魔の憎たらしい顔に、喉の奥で「ひっ」とまた、悲鳴が上がる。

 だが、この悪魔は学習していた。

『おい! また悲鳴上げてぶっ倒れられたら、オイラ困るんだけど! オマエの母親も、また飛んでくるぞ!』

 言われて、慌てて口を押さえた。学校を休むだけじゃなくて、病院に連れて行かれてしまう。内科とかじゃなくて、心の病院に。私はちょっと空想がちなところがあるのは自分でも認めるところだけど、普通の中学二年生だ。

 ちょっと今は、見えてはいけないものが見え、聞こえてはいけない声が聞こえているだけ。

「ねぇ……あなた、いったい何なの? 悪魔?」

 私の問いかけに、ハートちゃんの顔で、彼(なのかな?)はケケッ、と短く笑った。

『悪魔ぁ? オイラをそんな奴らと一緒にすんなよ。オイラはな、愛の女神様にお仕えする、由緒正しい恋の妖精なんだよ。オマエが召喚の儀式で呼び出したんだろうが』
「召喚?」

 ちらりと置いたままになっていたボウルを見る。

 もしかして、あの『魔女入門』に書いてあったおまじないって、こいつを呼び出すための儀式だったの!?

『オイラだって、もっとかっこよくてきれいなやつに乗り移りたかったよ。でもこんなのになるなんて……本当のオイラは、もっと可愛いのに』

 しくしくと鳴き真似をする自称・妖精は、召喚されたときに近くにある人形やぬいぐるみ、プラモデルやフィギュアなどの中に入り込んで、現実世界での活動を開始するらしい。

 自分でデザインして作った大事なハートちゃんを、「こんなの」呼ばわりされて、さすがに許せない。

 私はむずっとぬいぐるみをつかみ、ほっぺたをぎゅうぎゅうと押しつぶす。

「私のハートちゃんから、出てけぇ! 悪霊!」

『悪霊じゃなくて妖精! それに、オマエの知りたいことをオイラが教えてやろうと思って来たんだからな~』

 知りたいこと。

 私は置きっぱなしの『魔女入門』を手にした。

 好きな人の、俊くんの気持ちが知りたい。知らないから、怖くてどんな風に話をすればいいのかわからない。彼が自分のことを少しでも好きでいてくれたら、自分から「おはよう」って話しかけることができるのに。

 その気持ちは、今も変わりない。得体の知れない生き物の言うことを信じるのかって、冷静な自分が頭の片隅にいる。

『なぁ、どうする? 必要ないなら、オイラは帰るけど』

 聞きたい。もしもそれが、この妖精の嘘やでまかせだとしても、私が信じて行動する指針になるんなら、それでいいんじゃないか。

「教えて。俊くんは、私のことをどう思ってるの?」

 ハートちゃんは、ニコニコしている。邪悪な悪魔の顔か、それとも慈愛に満ちた天使の顔か。さっきまでは前者だったけれど、今は後者にも見えてくるから不思議だ。

 しばらく黙っていた妖精は、パンパカパーン、と口でファンファーレを鳴らして、「おめでとう!」と祝福した。

『綾瀬俊は、オマエのことが好きだ! 両思いってやつだな!』
「ほんとっ!?」
 クラスの人気者である俊くん。小学生のときから、周りの男子よりちょっと大人びていて優しくて、おとなしい女子からは一目置かれていた。中学に入ってサッカー部で活躍するようになってからは、ちょっと派手な感じの子たちからも、モテている。

 そんな彼が、私のことを好きでいてくれているなんて。

 もう頭の中は、恋人になったも同然だった。試合の応援に行って、ゴールを決めたあとは私にアピールしてくる彼。ふたりきりで学校から帰って、周りに人がいなくなったところで手を繋いでくる彼。これから季節が移り変わっていって、クリスマスの日には、ふぁ、ふぁ、ファーストキスなんかしたりして!

 このまま妄想していたら、結婚式までいってしまいそうだった。幸せな時間だったけれど、妖精は水を差す。

『それじゃあ、次の次の次の満月までに、向こうから告白されるように頑張れよな』
「ふぁ?」

 間抜けな声と顔の私に、妖精は意地悪く笑った。

『召喚のときに言ってただろ? この愛を対価に捧げます、ってさ』

 言った。言ったけれど、まさか。

『オマエは相手の気持ちを知っている分、有利だからな。だから、制限をつけさせてもらうぜ』

 勝手に押しつけられた制約。それは、「私の方から告白をしてはいけない」ということ。

 三ヶ月後の満月の日までに、俊くんから告白してもらって「YES」の返事をしなければ、私の恋の種を、愛の女神様に献上すると言った。

 恋の種というのは、妖精の説明によれば、人間誰もが心の中に持っており、誰かを好きになる可能性のことらしい。それを根こそぎ奪い取っていくということは、すなわち。

『そう、恋の種がなくなった人間は、これから一生恋をすることができない!』

 後出しで笑う妖精に、絶句する。そんなの嫌だと拒絶しようとしても、残念ながら私はすでに、妖精から回答を得てしまっている。拒否権はない。

『ま、せいぜい頑張りな~。オイラはどっちに転んだっていいんだから』

 高笑いする妖精が憎たらしくて、私は外側であるハートちゃんを、ころんと転がした。短い手足をじたばたさせて、「おい、オマエ~。起こせよ~」と言う妖精を無視して、手帳を開く。

 愛用の手帳のカレンダーページには、新月の日と満月の日には、それぞれマークがついている。三ヶ月後、十月の満月は……十日。

 この日までに、私は意中の相手、俊くんから告白をしてもらわなければならないことになってしまったのだった。

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