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五 白銀の龍
牢獄の祈り【三】
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その日は、妙だった。いつも琥珀を連れ出す連中は野卑な男たちばかりだったというのに、上等な長袍に身を包んだ、どう見ても文官である男が、牢を訪れたのである。
彼は琥珀に何も告げず、外へと出した。向かう先は拷問部屋ではなく、風呂であった。薄汚れた布で拭うことしかできていなかった独房生活である。いくら石鹸を擦りつけても、髪も体も、なかなか泡立たずに難儀した。
何回か洗浄を試みて、ようやく流したあとの湯が黒くなくなったところで、風呂から上がる。その間、ずっと浴室の外で待機していた文官が、白い衣を寄越した。白虎族の色だから馴染み深いものだが、琥珀はその装束に込められた意図に気づく。
死に装束だ。とうとう処刑が決まったのだろう。王族の殺人未遂は、公開処刑と相場が決まっている。醜い死体を晒すとはいえ、薄汚れた肉体を、市民および王の眼前にさらすのはよくないという判断で、身を清めさせられたのだ。
琥珀は地下牢に戻されることなく、離宮の一室に監禁された。寝台があって、ホッと安堵する。冷たい床で寝ることは、もうないのだ。
ここに連れてきた官吏は何も言わなかったが、世話係を命じられた若者は、たいそうお喋りであった。よくもまあ、それだけ話すことが思い浮かぶと感心するほどに。だいたいは、琥珀に対する悪口であった。あるいは、「死にぞこない」と紫嵐を馬鹿にするようなことを言う。
自分のことを言われても、痛くもかゆくもないという顔をしていた琥珀は、紫嵐についてだけ、激怒する。栄養失調でぼさぼさになり、ところどころ剥げている尾をゆらりと揺らし、牙を剥く。目をぎらりと光らせると、相手は龍の本性を持つはずなのに、「ひっ」と悲鳴を上げて、どこかへ逃げてしまった。おそらく、次にやってくる世話係は別の人間に交代しているだろう。
最後の一日だが、特にしたいことはない。辞世の詩でも書くべきかと考えたが、自分には文才がなかった。木楊や両親に感謝と忠告の手紙を送ることも考えた。だが、握りつぶされるに違いない。寝台の上にごろりと横になり、琥珀は逆鱗を取り出していた。
自分が最後にできるのは、これしかない。
夜になって、どう人目をかいくぐったのか、遼雲が訪れた。立ち上がる気力もなく、寝台に腰を下ろしたままで迎える。
「最後に会えて嬉しい。紫嵐によろしく頼むよ」
ことさらに明るく振る舞う琥珀に、彼は痛ましい目を向ける。
「そんな目で見るなよ」
俺がかわいそうな奴みたいじゃないか。
笑う琥珀に、遼雲は頭を下げた。
「俺は、あんたを救うことはできない……!」
搾りだした声が切なく、琥珀は子どもにするように、男を撫でた。大丈夫大丈夫、お前は悪くない。囁き、触れていくと、遼雲は顔を上げた。精悍な顔立ちに、覚悟を決めたのだと悟る。
琥珀は握りしめていた逆鱗を、彼に押しつけた。遼雲は首を横に振る。
「これは、あんたのものですよ。一生にひとり、青龍族が選んだひとです」
逆鱗の誓いによって結ばれた伴侶が死んだとき、鱗はそのまま墓に収められるのが一般的なのだという。だが、琥珀は紫嵐への返却を望んでいる。
この鱗には、琥珀の祈りがこめられている。
紫嵐は青龍族でなければ意味がないと言っていたが、琥珀はそうは思わない。最初は気休め程度になればそれでいいと思っていたが、祈りが真に迫っていくうちに、鱗が変化していったことに気がついた。
黒かったのが、徐々に白い部分が増えていく。温かさを増していく。
「俺はずっと、紫嵐の回復だけを祈ってきた。だから、返してほしい。どうか目を覚まして、遼雲、お前と一緒に国王を打倒して、青龍国を変えて」
琥珀が死ねば、その首を切り落として白虎国へと宣戦布告をするに違いない。前面衝突だけは避けてほしい。あの美しい故郷が破壊されると考えると、身を切るように心が痛い。そうなる前に、この国に革命を起こしてほしい。他の王子たちに紫嵐が劣るわけがないし、遼雲もなかなかの実力を持っている様子だ。最も王にふさわしいのは、紫嵐だ。
事故で番った伴侶のことなど忘れて、王として立ってほしい。黄王となった引き換えの願い事ではなく、自分の力を振るい、自分を虐げてきた相手を蹴散らしてくれ。紫嵐はそれができる男だと、信じている。
毒なんかに、負けるな。負けたら駄目だ。戻ってこい。俺の、唯一の龍……。
「それが、俺の願いだ。叶えてくれるな?」
有無を言わさぬ口調だ。琥珀の目の中に諦念ではなく希望を見て取った遼雲は絶句する。本当に、自分の命は捨てる覚悟なのか、と。小さく頷く琥珀に、「わかりました」と頭を下げ、彼は部屋から出て行った。
もう、大丈夫。紫嵐はきっと、目を覚ます。白銀に変わりつつある鱗が、癒してくれる。
ぽろり、琥珀の目から雫が落ちた。
これが、自分の儚き身を憂えて流す、最後の涙だ。明日は決して、誰の前でも泣いたり喚いたりしない。
琥珀は決意を秘めた胸を、ぎゅっとつかんだ。
もうそこには、何もないのに。
彼は琥珀に何も告げず、外へと出した。向かう先は拷問部屋ではなく、風呂であった。薄汚れた布で拭うことしかできていなかった独房生活である。いくら石鹸を擦りつけても、髪も体も、なかなか泡立たずに難儀した。
何回か洗浄を試みて、ようやく流したあとの湯が黒くなくなったところで、風呂から上がる。その間、ずっと浴室の外で待機していた文官が、白い衣を寄越した。白虎族の色だから馴染み深いものだが、琥珀はその装束に込められた意図に気づく。
死に装束だ。とうとう処刑が決まったのだろう。王族の殺人未遂は、公開処刑と相場が決まっている。醜い死体を晒すとはいえ、薄汚れた肉体を、市民および王の眼前にさらすのはよくないという判断で、身を清めさせられたのだ。
琥珀は地下牢に戻されることなく、離宮の一室に監禁された。寝台があって、ホッと安堵する。冷たい床で寝ることは、もうないのだ。
ここに連れてきた官吏は何も言わなかったが、世話係を命じられた若者は、たいそうお喋りであった。よくもまあ、それだけ話すことが思い浮かぶと感心するほどに。だいたいは、琥珀に対する悪口であった。あるいは、「死にぞこない」と紫嵐を馬鹿にするようなことを言う。
自分のことを言われても、痛くもかゆくもないという顔をしていた琥珀は、紫嵐についてだけ、激怒する。栄養失調でぼさぼさになり、ところどころ剥げている尾をゆらりと揺らし、牙を剥く。目をぎらりと光らせると、相手は龍の本性を持つはずなのに、「ひっ」と悲鳴を上げて、どこかへ逃げてしまった。おそらく、次にやってくる世話係は別の人間に交代しているだろう。
最後の一日だが、特にしたいことはない。辞世の詩でも書くべきかと考えたが、自分には文才がなかった。木楊や両親に感謝と忠告の手紙を送ることも考えた。だが、握りつぶされるに違いない。寝台の上にごろりと横になり、琥珀は逆鱗を取り出していた。
自分が最後にできるのは、これしかない。
夜になって、どう人目をかいくぐったのか、遼雲が訪れた。立ち上がる気力もなく、寝台に腰を下ろしたままで迎える。
「最後に会えて嬉しい。紫嵐によろしく頼むよ」
ことさらに明るく振る舞う琥珀に、彼は痛ましい目を向ける。
「そんな目で見るなよ」
俺がかわいそうな奴みたいじゃないか。
笑う琥珀に、遼雲は頭を下げた。
「俺は、あんたを救うことはできない……!」
搾りだした声が切なく、琥珀は子どもにするように、男を撫でた。大丈夫大丈夫、お前は悪くない。囁き、触れていくと、遼雲は顔を上げた。精悍な顔立ちに、覚悟を決めたのだと悟る。
琥珀は握りしめていた逆鱗を、彼に押しつけた。遼雲は首を横に振る。
「これは、あんたのものですよ。一生にひとり、青龍族が選んだひとです」
逆鱗の誓いによって結ばれた伴侶が死んだとき、鱗はそのまま墓に収められるのが一般的なのだという。だが、琥珀は紫嵐への返却を望んでいる。
この鱗には、琥珀の祈りがこめられている。
紫嵐は青龍族でなければ意味がないと言っていたが、琥珀はそうは思わない。最初は気休め程度になればそれでいいと思っていたが、祈りが真に迫っていくうちに、鱗が変化していったことに気がついた。
黒かったのが、徐々に白い部分が増えていく。温かさを増していく。
「俺はずっと、紫嵐の回復だけを祈ってきた。だから、返してほしい。どうか目を覚まして、遼雲、お前と一緒に国王を打倒して、青龍国を変えて」
琥珀が死ねば、その首を切り落として白虎国へと宣戦布告をするに違いない。前面衝突だけは避けてほしい。あの美しい故郷が破壊されると考えると、身を切るように心が痛い。そうなる前に、この国に革命を起こしてほしい。他の王子たちに紫嵐が劣るわけがないし、遼雲もなかなかの実力を持っている様子だ。最も王にふさわしいのは、紫嵐だ。
事故で番った伴侶のことなど忘れて、王として立ってほしい。黄王となった引き換えの願い事ではなく、自分の力を振るい、自分を虐げてきた相手を蹴散らしてくれ。紫嵐はそれができる男だと、信じている。
毒なんかに、負けるな。負けたら駄目だ。戻ってこい。俺の、唯一の龍……。
「それが、俺の願いだ。叶えてくれるな?」
有無を言わさぬ口調だ。琥珀の目の中に諦念ではなく希望を見て取った遼雲は絶句する。本当に、自分の命は捨てる覚悟なのか、と。小さく頷く琥珀に、「わかりました」と頭を下げ、彼は部屋から出て行った。
もう、大丈夫。紫嵐はきっと、目を覚ます。白銀に変わりつつある鱗が、癒してくれる。
ぽろり、琥珀の目から雫が落ちた。
これが、自分の儚き身を憂えて流す、最後の涙だ。明日は決して、誰の前でも泣いたり喚いたりしない。
琥珀は決意を秘めた胸を、ぎゅっとつかんだ。
もうそこには、何もないのに。
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