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14.自覚

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 遊利の家は、ずっとそこにいたとは思えないくらい薄暗かった。カーテンは閉まっていて、電気も付いていない。オートになっていたらしい玄関だけは明るいのが、逆に不安を誘う。
「……部屋暗くね」
「あ……うん、ちょっと、えっと」
「寝てた?」
「そ、そう」
 力なく笑った遊利が目を逸らすのを見て、康平はゆっくりと溜息を吐いた。嘘が分かりやすい。どう見ても寝ていたような顔ではないし、康平は遊利が自分と違って生活リズムが整っているのも知っている。
「お前マジで演技上手いの?」
「どうだろう……父さんにすごく教え込まれはしたけど、まだまだだと思う。もっと、上達させないと駄目だって、ずっと思ってる」
「ちげーよバカ」
 今日の遊利は、いつもの遊利よりももっと変なやつだ。最初に会った時に近くて、冗談も通じないし、康平との会話が噛み合わない。そのズレが少し前は楽しめたのに、今は居心地が悪い。
 通じなかった揶揄は、改めて伝えるほどのことではない。特に解説もせず、康平は部屋の電気を付けようと手を伸ばした。
「あっ、電気、待って」
「この部屋まではバレてねぇんだから、点けといた方が自然だろ。あと暗いと見えねぇし」
 止める遊利の声を振り切ってパチンとスイッチをいれると、部屋が明るくなる。
 相変わらずの大人しい内装の部屋だ。白くシンプルな小物、淡いパステルグリーンのカーテンと、丸いラグ。布張りのソファと、木製のローテーブルにテレビのないテレビ台。いつも通りの想定をしていたその部屋で、一つだけ予想と違うものが転がっていた。
 ビニール袋に入れられたくしゃくしゃになったペットボトルのラベル。靴。小物。化粧品。ウィッグ。『ユキ』の衣類と、一番上にはチカチカと光るスマートフォン。乱雑にただ詰め込んでまとめられたそのビニール袋は、まるでゴミのように部屋に転がっていた。
 スマホをこんな扱いすんな、とか。捨てるときの分類知らねえのか、とか。勿体ねえ、とか。冷ややかに跳ねまわる心臓を誤魔化してからかってやろうと振り向いた康平は、曖昧な形の笑みを凍らせた。
「……最後に康平くんに会えて、良かった」
 ユキでも、遊利でも、佐々原遊利でもない、誰だか分からない表情で、遊利の姿をしたものが静かに泣いていた。薄暗い廊下に佇む白い顔の男は、まるで幽霊のようだ。康平は思わずその足元を確認し、珍しい裸足がそこにちゃんと揃っているのを見て、半笑いの顔を静かに収めた。
 笑い飛ばせるような段階は過ぎている。そのくらいの空気は康平でも読めた。
 ほんの数秒前、玄関先でぶつかった時はすぐ近くにいたはずの遊利が急に遠くなって、康平は足を踏み出しかけて立ち止まった。前へ出るのは不安で、後ろへ下がるのは嫌で、立ち往生する。
「康平くんまで巻き込んじゃって、ごめんね。もっと早くお手伝い終わりにすれば、良かったかなあ……」
 遊利の声は震えてもいない。むしろいつもよりもはっきりした声色で、パーティーの時にも似ていた。涼しい顔のまま涙だけがぽたぽたと零れていくのは、作り物の人形かCGのようで、心理的な抵抗が首の後ろから生えてくる。
 もっと泣くなら泣けばいいし、何ともないならなんともないと言えば言い。ごめんとはなにか。最後とは何事か。ちぐはぐの遊利に何から文句を伝えていいのかもまとまらない。
 康平はふつふつと湧く混乱と正体の分からない苛立ちと一緒に言葉を飲んだ。
「あのね、僕、すごく楽しかったよ。康平くんと、お酒飲んだりするのも、お家で飲むの宅飲みっていうんだよね。一緒に家でご飯食べたのなんて、何年振りかなってくらいで。買い食いなんて初めてしたし、ドキドキした。いっぱい遊んでくれて……ほんとにありがとう」
 康平は特別なことなんて何もしていない。別に、ただ隣に引っ越してきたという芸能人の弱みを握ったから、それを利用しようとしてただけだった。少なくともきっかけは。
 じゃあ、なんの意図もなくたこ焼きに誘ったのはどうしてだったのだろう。
「……あれは。そんな。もっと、あんだよ」
 例えば。映画を観に行くとか。そのまま帰りにファミレスでポテトだけ頼んで喋り倒してみたり。勢いで買った変な味の菓子を食べ比べたり。流行りの店のものをチープに再現して食べたって良い。ゲーセンを冷やかしに行くだとか。買えない金額の店の前を通ってみたり、催事場の試食だけしてうろついて、そんでもって最後はファミレスで食事したっていい。中高校生のようにファミレスのドリンクバーをぐちゃぐちゃにしてオリジナルを作るとか、そういうこともきっと遊利とやったら面白い。
 他にも、康平が誘える遊びなんてもっとある。良い遊びも悪い遊びも。海とか登山とかプールだって良い、カラオケでもバッティングセンターでも。テーマパークには詳しくないが下調べだけは何度もした。デートに行きたくて。
 楽しいことなんて、もっと教えられる。連れて行ける。まだしていないことが浮かんで消えていく。
 だが、その前に遊利がどこかへ行ってしまおうとしている。康平にはそれが耐え難かった。だって、ユキの服装と一緒にスマホまで一緒にそのビニール袋に入っているということは。
「止めろよ。出て行くの」
 遊利が、ユキごと全て、康平の前から消えようとしているということだ。
 いつの間にか康平の声も震えていて、薄暗い廊下の温度がまた下がったように重くなる。遊利の固まった表情も揺れて、静かに零れていた涙が、目の端から玉になって落ちた。
「騒ぎ、これ以上おっきくなったら大変だもん」
「だってお前はさあ、炎上になってるようなことしてねぇじゃん! 別に、悪いこともなーんにもしてねぇし。出て行く必要なくね? あんなの、ほっときゃ落ち着くだろ! 根拠とか……アレだよ、証拠もねえし。お前とユキが同一人物ともバレてねぇくらいだぞ? 大丈夫、だって」
「康平くんって、優しいよね」
 遊利の切れ長で整った瞳が、康平を真っすぐに見て来る。涙で濡れる黒目は薄暗い中でも光を吸って光るようで、酷く綺麗だ。こんな、別れの話の最中でも。
「でも……ホントは、僕がもう疲れちゃったから。ずうっと佐々原遊利でいるのも、隠すのも。康平くんといっぱい遊べて、凄く、楽しくて、満足した……から。覚悟を決めようかなって」
 手の甲で、遊利が擦るように涙を拭う。白くてほっそりした指先と、手の甲と。整った爪の先。ユキとして知り合った時から、何のかわりもない。康平の前にいたのは、ずっと遊利だった。
「今までありがと。騒ぎは僕がなんとかするから、康平くんは、どうか気にしないでね。それで、あの……康平くんは面白くって明るくってかっこよくて素敵な人だから……良い人に会えるよ、きっと。絶対。僕がなにもしなくっても」
 へにゃりと遊利が笑う。情けなくて頼りなくて、無邪気で、無防備で、子供みたいな表情で。凛としたイケメンが台無しの半泣きの顔が、康平の身体の奥をまたギュッと握った。
 まだ見ない、いるかもわからない誰かよりも、目の前で無邪気に康平を慕っている年上の男をあちこち連れて行きたい。引き留めておきたい。
 認めると、簡単なことだった。
「やだ」
 ふつふつと湧いていた苛立ちが、形を持って行く。
 遊利の炎上騒ぎの一端は、康平の責任だ。それを遊利が全部背負ってどこかに行こうというのも腹が立つ。あれっぽちの外出で満足してるのも腹が立つ。康平の所為だと責めもしないのが悔しい。勿論、勝手な憶測で遊利の悪評を立てられているのも腹が立つ。遊利に女性を紹介する役だとかふざけたことを言われているのもだ。逆の目的だったし、間違ったって遊利を女性に紹介なんてしたくない。そもそも、ユキの姿の遊利と康平が歩いている姿の写真が、どうして曲解されているのか。
 何もかも納得いかなくて、元々短気な康平の中で、考えがまとまらないまま感情だけが爆発した。
「ふざけんじゃねー! イヤだかんな!! 全部! 断る!」
 突然声を上げた康平に、しょぼくれた表情だった遊利がびくりと肩を跳ねさせた。
「お前は悪くねーし、オレはお前がいなくなる方がイヤだっつの! あんな……あんな、お前のことなんかなーんにも知らねぇやつらに騒がれたってオレは痛くも痒くもねぇ! そもそも、あのお前と歩いてる姿で何でオレがお前の彼氏だって話にならねーんだよ! おかしいだろうが!! なんかの作為があるに決まってんだろ! デタラメばっかで……。
 あーよし分かった、アレはオレの恋人だって言ってきてやる! したら問題ねーんじゃねえの?!」
 パッと見には、アレは康平が少女とデートしているように見えたっていいはずなのだ。そういうことになれば、少なくともユキの姿でマンションに出入りしたっておかしいものじゃなくなる。
 そのつもりで言った康平に、小動物のように驚いて固まっていた遊利が、情けない声を上げた。
「ぇ、はひぇ……」
「だからお前は出て行くとか言ってんじゃねえ! たこ焼きも、何でも、オレはお前のこと連れてくかんな」
「あの、え、康平くん、それは、なんか」
 ぐずぐずになりかけていた遊利の涼しい目元が、一拍を置いて赤くなっていく。ゴミ袋に入ったユキの服とスマートフォン。そちらに目を向けてから、遊利は白い手をギュッと握り足元を見つめた。足先よりも先の遠くを見詰めるような、柔らかな視線と、微かに見えた唇を噛んだ表情に、康平の勢いが少しだけ止まる。
「康平くんの恋人作りの、邪魔になっちゃうん、じゃ……」
 おずおずと、見慣れた上目遣いで遊利が康平を見上げてくる。
 思い返せば最初から、その表情がずっと好ましかった。思い描いていた告白とは全く違う状況に思いを馳せながら、康平はまっすぐに遊利の不安そうな黒い瞳を見詰めた。
「なんねぇよ。だって、オレ、お前が良いから」
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