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第3部

第八章 妖しの《星》①

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 その時、サーシャは非常に困っていた。
 そこは真っ暗な部屋の中。階段を一階分降りたところで見張りと遭遇しそうになり、咄嗟に空いていたこの部屋に逃げ込んだのだ。
 恐らくは客室の一つ。ドアの横には照明のスイッチもあるのだが、万が一を考えて付けていない。今はベッドの影に潜むように身を屈めている。

「おい! 女は見つかったか!」

「いや、まだだ。このこと姐さんにはもう伝えたのか?」

「ああ、さっき報告したよ。俺らに任すってよ。旦那の方は――」

 そんな声が部屋の外から聞こえてくる。
 明らかに「女」とはサーシャのことだろう。すでに脱走はバレているようだ。

(……早く行ってくれないかな……)

 焦りから、サーシャはグッと唇をかみしめる。
 脱走したことがバレている以上、時間が経てば経つほど状況はどんどん不利になる。一秒でも早くこの建物から出る必要があった。
 いっそ、外にいる見張りを倒して強行突破をするか。
 そんな強引な力技まで考え始めたが、杞憂だった。
 不意に外の会話が小さくなり始めたのだ。ようやく見張り達が別の場所に移動し始めたのだろう。サーシャは少しホッとする。

(……よかった。これでまた移動できる……)

 そして彼女は暗闇の中、うっすらと確認できるベッドや椅子などの障害物を避けながらドアへと向かおうとした――その矢先だった。
 ――ガチャリ。

(ッ!?)

 突然開かれるドア。サーシャは慌ててベッドの影に伏せる。
 廊下からの逆光のため、姿までは分からないが、どうやら男のようだ。
 男は後ろ手でゆっくりとドアを閉めた。

(み、見張りが戻って来たの!?)

 サーシャは両手で口元を押さえて身体を小さくした。
 非常にまずい状況だった。今はまだ暗闇の中に隠れていられるが、明かりを付けられたら一発で見つかる。ベッドなど隠れ蓑にもならない。

(ど、どうしよう! どうしよう!)

 完全に困惑するサーシャ。しかし、ここで動じてはいけない。
 緊張を吐きだすように、音を立てず呼気を整える。
 とにかくもう見つかるのは避けられない。なら騒がれる前に対処するしかないだろう。
 明かりを付けられる前に、不意打ちで気絶させる。
 サーシャは拳を固めてそう決めた。
 しかし――。

(……?)

 サーシャは眉根を寄せる。
 何故か、部屋に入って来た男はその場から動こうとしない。
 すぐ横の壁に設置された照明のスイッチに手を向ける様子もなく、ただドアに背中を預けて、何やら外の気配を窺っているようだ。

(……? 何をしてるの?)

 サーシャはしばし怪訝な表情を浮かべていたが、よく考えればこれは好都合だ。
 死角に回りこみ、不意打ちで気絶させるチャンスである。しかし、失敗すれば仲間を呼ばれる。ここは慎重に行動しなければ……。
 ベッドで身を隠しながら、そろりそろりと移動するサーシャ。
 そして、未だ外ばかりを気にしている男の、あと数歩手前の所まで来た。
 この距離ならば男の腹部に蹴りを入れ、気絶させることが出来る。
 サーシャは気配を殺しつつ右足を水平に構えた。
 だが、ここで彼女らしい失敗をする。

「やあ!」

 気付かれてはいけないこの状況で、サーシャは掛け声を上げたのだ。
 対し、男の反応は恐ろしく素早かった。

「ッ!」

 サーシャの存在に気付いた男は驚愕しつつも、襲い来る少女の右水平蹴りを右手でガシッと掴み取る。サーシャは片足立ちすることになった。

「……くッ!」

 一瞬動揺するサーシャ。
 しかし、彼女はすぐさま別の攻撃に転じた。左足での上段蹴りだ。
 が、その時。

「……お転婆なのは子供の時だけじゃないんだな、サーシャ」

「え?」

 不意に男が語り出す。やけに聞き慣れたような気がする声に、サーシャはポカンと口を開くが、次の瞬間にはそんな余裕はなくなっていた。
 男が突如、サーシャを上空に投げたのだ。恐らくサーシャの上段蹴りを回避するための行為だろうが、とんでもない腕力だ。サーシャは青ざめた。
 このまま床に叩きつけられる!
 と、思ったのだが、男はそうしなかった。空中でサーシャの足を離すと、落下してくる彼女を横に抱きとめたのである。まるで曲芸のような技だ。

「な、な、な……」

 いきなり見知らぬ男に「お姫さま抱っこ」をされたサーシャは、思わず顔を赤くして悲鳴を上げようとするが、

「待て待て待て。大声を上げるのは勘弁してくれ」

 慌てた口調の男に制止されてしまった。
 サーシャは目を見開く。まさか、この声は――。

「少し大人しくしていてくれ。今、照明を付けるから」

 言って、サーシャを抱きかかえた男は、背中で照明のスイッチを入れた。
 カチッと音が鳴り、同時に部屋が光で包まれる。
 急な光源にサーシャは一瞬目を細めるが、すぐに慣れた。
 そして、自分を抱き上げる男の顔をじいっと見つめて――。

「ふ、ふえぇ、先生ぇ……」

 ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
 サーシャは力いっぱい男の――アッシュの首にしがみつく。

「うん。もう大丈夫だ。心配ない」

 そう告げて、アッシュはサーシャを床に降ろした。
 しかし、銀の髪の少女は肩を震わせたまま中々離れようとしない。
 アッシュは、柔らかな笑みを浮かべて彼女を抱きしめた。

「……どこも怪我はしていないかサーシャ?」

「は、はい……けど、もうみんなには会えないかもって……」

 そう呟くサーシャの髪を、アッシュは優しく撫でる。
 正直、アッシュもホッとしていた。まさか見張りをやり過ごすため、たまたま逃げ込んだ部屋にサーシャがいるなど思うはずもない。彼が《星読み》を使って推測した場所は四階の部屋だ。危うく見当違いの場所に行くところだった。
 アッシュは改めて少女を強く抱きしめた。
 彼女の息遣いがはっきりと感じ取れる。本当に良かった。心からそう思う。
 そんな青年の心情を腕の力を通じて察したのだろうか、サーシャが頬を赤く染めてアッシュの顔を見上げた。心臓が激しく早鐘を打つ。

「せん……アッシュ……」

 愛しげに名前を言い直す。サーシャは青年の顔を見つめたままわずかにあごを上げた。
 そして、ゆっくりと瞳を閉じ――ようとした時だった。

「おい! あの女、どこにもいねえぞ!」

「くそッ! こうなりゃあ部屋をしらみ潰しに探すぞ!」

「ああ、分かった! お前は一階の部屋を――」

 唐突に部屋の外が騒がしくなった。
 アッシュは少女の肩から手を離して舌打ちする。
 どうやらこの部屋も、長居するには危ないようだ。

「急いで脱出しねえとな……って、どうしたサーシャ?」

「…………」

 腕の中の少女は、何故か膨れっ面を浮かべていた。
 そして、ぷいっと横を向き、

「……いえ。別に」

 明らかに不機嫌な声でぼそりと告げる。
 はて。何か機嫌を損ねるようなことでもあったのだろうか……?
 アッシュは怪訝な顔で首を傾げるが、今はのんびり考えている暇もない。

「……サーシャ。お前を見つけた以上、もうまどろっこしい行動はやめだ。少々派手に強行突破といくが構わねえか?」

 言われ、サーシャも緊張感を取り戻し、こくんと頷く。

「はい。問題ありません。これでも私、喧嘩だけは強いですから」

 グッと胸の前で握り拳を作るサーシャ。
 愛弟子の頼もしい返答に、アッシュは笑みをこぼす。
 そして一度だけ愛弟子の頭をくしゃくしゃと撫でてから――。

「そんじゃあ脱出するぞ! サーシャ!」

「はいっ! 先生!」

 邪魔する敵はことごとく薙ぎ払いつつ。
 師弟は遊覧船・《シーザー》の中を疾走するのだった。
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