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第6部
第八章 月下の巨獣①
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(…………くそ)
わずかに雲のかかる月夜の下。
黒き魔獣と、漆黒の鎧機兵は静かに対峙していた。
互いに牽制しているのと、アッシュが未だわずかに動揺していたための静寂だ。
結局、あの男から何一つ聞き出せなった。
その無念が、アッシュの心に強い苛立ちを抱かせていた。
こうなっては仕方がない。戦闘に集中するだけだ。
普段ならば、そんな風にすぐさま下せる判断を躊躇させていた。
明らかに常時とは違う反応。
当然、アッシュの後ろにいるオトハは、その異変に気付いていた。
(………クライン)
オトハは、キュッと下唇を噛んだ。
アッシュが動揺し始めたのは、あの男が発した名前を聞いてからだ。
トウヤ=ヒラサカ。
オトハには聞き覚えのない名だった。
しかし、オトハはアッシュの過去を概ね知っている。
彼の今の名前――『アッシュ=クライン』が本名でないことも聞いていた。
従って会話の前後から、内容を推測するのは簡単だった。
恐らく、この名前こそがアッシュの――。
(……本当の名前か)
オトハは、その名を心に刻みつける。
先程までのアッシュの剣幕を鑑みるに、この名前はきっと愛娘であるユーリィにさえ教えていないのだろう。誰も知らないはずの名前に違いない。
だというのに、あの男は知っていた。
アッシュの動揺は理解できる。しかし、今はその件は置いておくしかなかった。
相手は固有種の魔獣。
気が散っているような精神状態で挑んでいい相手ではないのだ。
だが、彼女の愛する青年は、表面上は冷静さを取り戻しているように見えるが、内心ではまだかなり動揺している。
(……む、むう。これは仕方がないな)
それが分かったからこそ、オトハは緊張しつつも行動を起こした。
すっと両腕をアッシュの腰から胸板に移動させ、それから自分の体温を預けるように身体全体を押し当てた。豊かな双丘がアッシュの背中でぎゅむうと押し潰される。
それに、ギョッとしたのはアッシュだった。
「オ、オト……?」
アッシュは唖然とした声を上げた。
それに対し、オトハは一度緊張を吐き出すように呼吸してから――。
「……な、なあ、クライン」
まだ少し緊張が残る声で語りかける。
「お前の動揺の理由は何となく分かる。だが、今は目の前の魔獣に集中してくれ。こいつを他の市街区に行かせる訳にはいかないだろ。それに――」
そこで、さらに両腕に力を込めつつ、オトハは小さく唇を動かして告げた。
「そ、その、お、お前は、私を守ってくれるのだろう?」
ギュウゥゥ……と。
アッシュの背中を抱きしめながら。
最も付き合いの長い旧友が、まるで無垢な少女のような声でそう尋ねてくる。
アッシュは、少し目を丸くした。
こんな甘えるような態度を示すオトハは初めてだったからだ。
(オ、オト……?)
正直、アッシュは、かなり呆気に取られていた。
そしてその間も、オトハは彼の背中をギュウゥと抱きしめている。
――が、自分でも恥ずかしい台詞だったのか、オトハの細い肩は震えていた。
アッシュは、少しだけ意識を背後に向けた。
彼女の微かな息づかいが、背中越しに聞こえてくる。
そして、オトハの温もりと柔らかさを間近で感じ取ったアッシュは――。
(……やれやれ。俺って奴は)
内心で小さく嘆息した後、ようやく心を落ち着かせた。
恐らくオトハの意図は、予想外の行動を見せて、アッシュの精神状態を一度リセットさせるつもりだったのだろう。
手法としては、アッシュがサーシャにしたことと同じである。
とは言え、何ともオトハらしくない荒療治だった。
しかし、おかげで先程までの苛立ちがかなり収まっている。
そしてアッシュは、改めて現状を整理し始めた。
(まあ、まず問題はこの魔獣もどきだよな)
「ぐるうるううううう……」
と、威嚇を繰り返しながら、目の前に立ち塞がる巨大な熊型の魔獣。
元は人間だが、この魔獣はすでに人の意識を持っていないように思える。
ここで仕留めなければ街に被害――いや、死傷者が出るのは確実だ。
絶対に、ここで食い止めなければならなかった。
この国はアッシュの第二の故郷。すでに多くの友人や知人がいる。
当然ながら、この地で暮らす友人達を失いたくはない。
そして何よりも。
最も守るべきは、守ると誓ったのは、確かな温もりを感じる彼女だ。
今ここにいるオトハだ。
アッシュは苦笑を浮かべながら、改めて思う。以前のように過去に引きずられて大切な者を失い、後悔するなど二度と御免だった。
「……悪りいな、オト。気ィ使わせて」
アッシュは、両手でグッと操縦棍を握り直した。
「もう大丈夫だ。あの熊は俺が倒す。お前は俺が守って見せるさ」
「う、うむ。そうか。頼むぞクライン」
どうにか声だけは平静さを装っていたが、実際のところ、自分の大胆すぎる行動にうなじまで真っ赤になっているオトハがそう答える。
彼女は少しだけ名残惜しそうに身体を離し、両腕をアッシュの腰に戻した。
これであらゆる意味で準備万端だった。
ズシン、と。
漆黒の鎧機兵が一歩踏み出した。
対する黒い巨獣も、前傾になって臨戦態勢を取る。
そして――。
「ごおおおおおおおおおおお――ッ!!」
魔獣は咆哮を上げた。
それを見据え、《朱天》は両の拳を胸板の前で叩きつける!
『――さあ、遊ぼうか。でっかいクマさんよ!』
そんな風に嘯いて。
本来の調子を取り戻したアッシュは《朱天》の中で不敵に笑った。
わずかに雲のかかる月夜の下。
黒き魔獣と、漆黒の鎧機兵は静かに対峙していた。
互いに牽制しているのと、アッシュが未だわずかに動揺していたための静寂だ。
結局、あの男から何一つ聞き出せなった。
その無念が、アッシュの心に強い苛立ちを抱かせていた。
こうなっては仕方がない。戦闘に集中するだけだ。
普段ならば、そんな風にすぐさま下せる判断を躊躇させていた。
明らかに常時とは違う反応。
当然、アッシュの後ろにいるオトハは、その異変に気付いていた。
(………クライン)
オトハは、キュッと下唇を噛んだ。
アッシュが動揺し始めたのは、あの男が発した名前を聞いてからだ。
トウヤ=ヒラサカ。
オトハには聞き覚えのない名だった。
しかし、オトハはアッシュの過去を概ね知っている。
彼の今の名前――『アッシュ=クライン』が本名でないことも聞いていた。
従って会話の前後から、内容を推測するのは簡単だった。
恐らく、この名前こそがアッシュの――。
(……本当の名前か)
オトハは、その名を心に刻みつける。
先程までのアッシュの剣幕を鑑みるに、この名前はきっと愛娘であるユーリィにさえ教えていないのだろう。誰も知らないはずの名前に違いない。
だというのに、あの男は知っていた。
アッシュの動揺は理解できる。しかし、今はその件は置いておくしかなかった。
相手は固有種の魔獣。
気が散っているような精神状態で挑んでいい相手ではないのだ。
だが、彼女の愛する青年は、表面上は冷静さを取り戻しているように見えるが、内心ではまだかなり動揺している。
(……む、むう。これは仕方がないな)
それが分かったからこそ、オトハは緊張しつつも行動を起こした。
すっと両腕をアッシュの腰から胸板に移動させ、それから自分の体温を預けるように身体全体を押し当てた。豊かな双丘がアッシュの背中でぎゅむうと押し潰される。
それに、ギョッとしたのはアッシュだった。
「オ、オト……?」
アッシュは唖然とした声を上げた。
それに対し、オトハは一度緊張を吐き出すように呼吸してから――。
「……な、なあ、クライン」
まだ少し緊張が残る声で語りかける。
「お前の動揺の理由は何となく分かる。だが、今は目の前の魔獣に集中してくれ。こいつを他の市街区に行かせる訳にはいかないだろ。それに――」
そこで、さらに両腕に力を込めつつ、オトハは小さく唇を動かして告げた。
「そ、その、お、お前は、私を守ってくれるのだろう?」
ギュウゥゥ……と。
アッシュの背中を抱きしめながら。
最も付き合いの長い旧友が、まるで無垢な少女のような声でそう尋ねてくる。
アッシュは、少し目を丸くした。
こんな甘えるような態度を示すオトハは初めてだったからだ。
(オ、オト……?)
正直、アッシュは、かなり呆気に取られていた。
そしてその間も、オトハは彼の背中をギュウゥと抱きしめている。
――が、自分でも恥ずかしい台詞だったのか、オトハの細い肩は震えていた。
アッシュは、少しだけ意識を背後に向けた。
彼女の微かな息づかいが、背中越しに聞こえてくる。
そして、オトハの温もりと柔らかさを間近で感じ取ったアッシュは――。
(……やれやれ。俺って奴は)
内心で小さく嘆息した後、ようやく心を落ち着かせた。
恐らくオトハの意図は、予想外の行動を見せて、アッシュの精神状態を一度リセットさせるつもりだったのだろう。
手法としては、アッシュがサーシャにしたことと同じである。
とは言え、何ともオトハらしくない荒療治だった。
しかし、おかげで先程までの苛立ちがかなり収まっている。
そしてアッシュは、改めて現状を整理し始めた。
(まあ、まず問題はこの魔獣もどきだよな)
「ぐるうるううううう……」
と、威嚇を繰り返しながら、目の前に立ち塞がる巨大な熊型の魔獣。
元は人間だが、この魔獣はすでに人の意識を持っていないように思える。
ここで仕留めなければ街に被害――いや、死傷者が出るのは確実だ。
絶対に、ここで食い止めなければならなかった。
この国はアッシュの第二の故郷。すでに多くの友人や知人がいる。
当然ながら、この地で暮らす友人達を失いたくはない。
そして何よりも。
最も守るべきは、守ると誓ったのは、確かな温もりを感じる彼女だ。
今ここにいるオトハだ。
アッシュは苦笑を浮かべながら、改めて思う。以前のように過去に引きずられて大切な者を失い、後悔するなど二度と御免だった。
「……悪りいな、オト。気ィ使わせて」
アッシュは、両手でグッと操縦棍を握り直した。
「もう大丈夫だ。あの熊は俺が倒す。お前は俺が守って見せるさ」
「う、うむ。そうか。頼むぞクライン」
どうにか声だけは平静さを装っていたが、実際のところ、自分の大胆すぎる行動にうなじまで真っ赤になっているオトハがそう答える。
彼女は少しだけ名残惜しそうに身体を離し、両腕をアッシュの腰に戻した。
これであらゆる意味で準備万端だった。
ズシン、と。
漆黒の鎧機兵が一歩踏み出した。
対する黒い巨獣も、前傾になって臨戦態勢を取る。
そして――。
「ごおおおおおおおおおおお――ッ!!」
魔獣は咆哮を上げた。
それを見据え、《朱天》は両の拳を胸板の前で叩きつける!
『――さあ、遊ぼうか。でっかいクマさんよ!』
そんな風に嘯いて。
本来の調子を取り戻したアッシュは《朱天》の中で不敵に笑った。
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