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第1部

第一章 世界の理①

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 ――極楽浄土なんて、どこにもない。
 久遠真刃が、それを教えられたのは七歳の時だった。
 試行と称して、父が『我霊』と立ち会わせた夜の時である。

 ――グチャ、バキ、ミシリ。
 眉をしかめるような、不気味な音。それは、おぞましい化け物だった。
 大きく肥大した腕に、涎をダラダラと垂らす、耳まで避けた口。眼球は少し浮き出ていた。

 見た目は巨大な猿。しかし、その顔は、初老の人間のものだった。元は人間であることを示すように衣類の残骸が全身に纏わり付いている。

 ――いや、纏わり付いているのは衣類だけではなかった。
 その手や、口元には大量の血がこびりついていた。さらに言えば屋内の壁にも。
 巨大な猿が、真刃が今いる小さな家屋で猛威を振るった証だ。床には首をへし折られ、身体が欠けた若い女の姿があった。今も化け物は、血塗れの女の足にかぶりついていた。

『これが「我霊がれい」だ』

 和装の袖に手を入れて、父が言う。

『すべての生物は、輪廻を繰り返す。死しては魂となり、生まれ変わる。極楽浄土などない。ただ同じ魂が世界に漂い、転生を待つ。転生までの期間はおよそ百年。個体によっては数百年の差もあるようだが、いつかは必ず輪廻は訪れる。だが、それを拒絶するのが我霊だ』

 父は、大猿のような化け物に目をやった。

『未練を残した死者が堕ちる存在。「我」が強すぎる魂。ゆえに我霊だ。奴らは輪廻に還ることを拒み、生にしがみつく。生者や、死者の骸に憑依し、生の証――情事と食事と睡眠を繰り返すことで、自分がまだ生きていると自分自身を騙すのだ』

 そこで『ふむ』と、あごに手をやる。

『本来、こやつらは人目のない場所で人を攫い、安全な場所で犯し、食すことを好む。年月を経るほど、知性を取り戻していくのが我霊の特徴だ。低級は獣のように用心深く、上級は人並みに狡猾だと思え。恐らく場所も弁えず、こうも迂闊に食事に耽るこやつは憑依したてなのだろう。大方、ここに住んでいた農民にでも取り憑いたといったところか』

 犯し、喰らい、殺した女は、この男の妻――いや、歳からいって娘といったところか。
 父はそう判断すると、七歳の真刃に命じる。

『殺せ』

 自身で農民だと指摘した、元は人間である巨大な猿を指差す。
 そこには、わずかな憐憫さえもない。

『術によっては憑依を祓い、そやつを救うことも出来る。引導師の中には、わざわざそういったことをする奇特な輩もいるが、小生はそんな術は知らんし、興味もない。これはお前の性能を測るための、ただの試行だ』

 父は、真刃に視線を向ける。ボロボロの着物を纏う痩せた少年に。
 何の愛情もない、淡々とした眼差しを。

『さあ、見せてみろ。お前の力を。小生の成果をな』

 そう命じられた真刃は、宙空に目をやった。
 そして――。

『世界にたゆたいし魂よ。己の声が聞こえるか?』

 そう呟く。途端、宙空にて数十の灯火が浮かび上がった。
 このすべてが、世界に漂う転生を待つ魂たちだった。

『おおッ!』父が目を瞠った。『素晴らしい! 世界は莫大なる魂力の貯蔵庫。やはり小生の仮説は正しかったか!』

 父は、灯火に囲まれる真刃を見やる。
 光の弧を描く数十の魂たちは、震えるほどの歓喜を抱いているようだった。
 その歓喜と共に、自らすべての魂力オドを少年に注いでいた。

『おお、《隷属誓文れいぞくせいぶん》も、服従の儀式さえもなしに、これほどの数の魂と完全なる《魂結たまむすび》を行えるとは……』

 父が喉を鳴らして呟く。が、真刃は気にかけず、灯火の一つに告げた。

『……お前の名は、猿忌だ』

 すると、その灯火は大きく燃え上がり、徐々に骨の翼を持つ猿と化した。
 異形の猿は、主人である真刃に恭しく頭を垂れた。

『長い、長い停滞の地獄から目覚めさせてくれたことに心より感謝を。我が主よ』

 真刃は『ああ』と抑揚なく応じる。

『戦うことになった。己はどうすればいい?』

『我の依代となるモノを示して頂ければ』

 猿忌にそう請われて、真刃は家屋の中を見渡した。
 元々小さな農家だ。これといったモノはないが、ふと、石造りの大きな竈が真刃の目に止まった。まだ火もある。殺された女が使っていたのだろうか。

『……あれにする』

『御意』

 竈を指差す真刃に、猿忌は頭を再び垂れた。
 そして半透明の宙に浮く猿は、竈の中に吸い込まれた。
 途端、石造りの竈が脈動し、みるみると質量を増やしつつ姿を変えた。数秒後、そこにいたのは石の獣皮を持つ大きな腹の狸だった。巨体の至る所から炎が吹き出している。

『――グギィ?』

 その時、我霊が食事を止めて、炎を纏う石狸を睨み付けた。
 流石に敵だと感じとったのだろう。しかし、我霊が動き出す前に真刃が動いた。
 右手を、ゆっくりと石狸に向けて――。

『己に牙を』

『御意』

 猿忌が応える。石狸はバラバラと形を崩すと、小さな石塊となって真刃の腕へと飛翔する。少年の右腕に集まった石塊は、瞬く間に巨腕と化した。炎を吹き出す巨大な石腕だ。

『――グガァアァァッ!』

 そこに至って我霊は、攻勢に出た。
 砲弾のような速度で跳躍。真刃に襲い掛かる――が、
 ――ドンッ!
 迎え撃ったのは、異形の右腕ではなく、真刃の左足。
 子供の足による前蹴りだった。

『ッ!? があッ!?』

 化け物は混乱しながら家屋の壁を突き破り、吹き飛んでいった。
 まだ幼い少年の前蹴り。そんなもの、本来ならば人間の大人でも怯まない。
 だが、真刃の蹴りは巨猿の顔面を軽々と射抜いていた。軸足となった右足も、我霊の突進を受けても、わずかに揺らぐことさえなかった。

『があッ!? がああああッ!?』

 地面にうつ伏せになって、鼻を両手で押さえる我霊。
 その巨体はガクガクと震えていた。すると、
 ――ズドンッ、と。
 背中から、地面に強く押しつけられる。我霊の位置からは見えないが、空高く跳躍した真刃が巨猿の背中の上に着地したのだ。
 異形の腕の重量も合わさり、まるで巨岩でも落ちてきたような衝撃だった。

『――ガアァアァアアアァアアァッ!』

 絶叫を上げて、我霊は少年の姿をした何か・・を振りのけようとするが、すでに遅い。
 真刃は、

『……終わりだ』

 ただそう告げて、異形の右腕を振り下ろした。
 ――ズドンッ!
 鉄杭のごとく振り下ろされた異形の巨腕に、我霊は押し潰された。
 胴体がくの字にへし折れ、地面に陥没する。地面が大きく振動した。
 幼い少年とは思えない、あまりにも重い一撃だった。
 我霊に『死』を思い出させるのには、充分な威力であった。
 地面に埋まった我霊の体が小さくなっていく。数秒後には完全に人の姿に戻った。
 上半身と、下半身が両断された男の骸だ。

『…………』

 真刃は、少しだけ憐憫を宿した眼差しで男の骸を見やる。と、
 パチパチと、気のない拍手が響いた。
 父の拍手だ。しかし、心がこもっていない拍手の割には父の顔は上機嫌で。

『なんという身体能力! なんという剛力だ! そしてそれを支える無尽蔵の魂力! あの娘を「花嫁」にしたのは正解であった! これで小生は奴らを――』

 その後、何やら嬉しそうに語り始めるのだが、真刃はどうでもいいと聞き流した。
 ただ、命を奪った感触だけが、手に残っていた……。


「……思えば」

 早朝。自室のベッドの上で、真刃が呟く。

「あれが、己の初陣だったのだな」

 ムクリ、と上半身を起こす。
 もう昔の話だ。それも、途轍もなく昔の……。
 父は、もういない。世界の情景も、大きく変わってしまった。
 なのに、こうも鮮明に思い出せるのは、

『……起きたか。主よ』

 此方から彼方へ。
 かの時代から百余年。それでもなお変わらない相棒が、傍にいるためだろうか。

「ああ。だが、あまり爽快とは言えんな」

『ならば、早く食卓に行くといい。壱妃殿が朝食を用意しているぞ』

 早々に妻に癒やしてもらうが良い。猿忌は、淡々とした声でそう続けた。

「まったくお前は……」

 本当に、今も昔も変わらない相棒だ。

「まあ、エルナの件は置いとくとして」

 真刃は、笑う。

「何はともあれ、今日も懸命に生きるとするか」
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