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第1部

第七章 幸せは巡る③

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 探索を開始して、はや三時間。
 時刻としては、深夜二時を少し過ぎていた。
 ――夜が最も深くなる時刻。
 夜の闇を好む我霊としては、最も活発になる時間帯である。
 それは、戦闘がより激しくなるということでもあった。
 真刃たちにとっても、エルナたちにとってもだ。

「――ふっ」

 月明かりが射す渡り廊下を、エルナが駆け抜ける!
 その手に握られるのは、龍頭の棍だ。
 エルナは立ち塞がる巨漢の我霊の懐に入ると、棍を鋭く突き出した。

 ――ズンッ!
 我霊の腹部が、大きく陥没する。
 だが、我霊は唾液を大量に吐き出しながらも怯まない。

「があああああッ!」

 生前はプロレスラーだったのか、筋肉の一部が削げ落ちているが、丸太のように太い右腕をエルナに向けて振るう。

「――くう!」

 エルナは咄嗟に棍を盾に、ラリアットを防いだ。棍が大きくたわむ。
 凄まじい膂力と破壊力だった。龍鱗の衣スケイル・ドレスで強化した身体能力でも受けきれない。

「あうっ!」

 エルナは勢いよく壁にまで吹き飛ばされた。ダンッ、と壁に小さな亀裂が走るほどに強く叩きつけられる。一瞬、呼吸ができなくなり、両膝を床についた。

「「「ぐがあああああッ!」」」

 それを好機とみて、周囲の屍鬼が一斉に跳びかかった。
 エルナはまだ動けない。無数に伸びてくる手に、彼女の顔が青ざめた。
 嫌でもあの夜を思い出す。
 初めて仕事に失敗し、追い詰められたあの時を。
 全身が、わずかに硬直した。

 と、その時だった。

『愚者どもめ。その娘に触れていいのは我が主だけぞ』

 そう告げて、黒鉄の虎が疾走する。
 そして、ジャキンッと前脚と背中の装甲からブレードを立てると、エルナに跳びかかった屍鬼どもを切り裂いた。バラバラと舞い散る肉片。

「があああああああああああ――ッ!」

 知能は低くとも怒りを覚えたのか、巨漢の我霊が黒鉄の虎に襲い掛かる!
 だが、黒鉄の虎は、歯牙にもかけない。

『お前もだ。屍鬼ごときが、壱妃に触れるでない』

 大きくアギトを開くと、咆哮一つで巨漢の我霊も吹き飛ばした。
 巨漢の我霊は壁にぶち当たり、四肢がひしゃげてへし折れた。
 未だ呻いてはいるが、流石にもう動けないようだ。

『……大丈夫か? エルナよ』

 と、黒鉄の虎――猿忌が尋ねる。

「う、うん……」

 エルナは肩で息をしつつも答えた。続けて、ゆっくりとだが立ち上がる。
 すると、

「ふん。明らかに体力不足だな。だから筋力をつけろと言っておるのだ」

 両腕を組んで見物していた、ゴーシュが言う。

「連戦となると苦戦する。お前の課題の一つだな」

 ゴーシュはそう告げると、先に進みだした。
 エルナは静かな眼差しで異母兄の背中を見つめた。
 そして一度大きく息を吐き出すと、龍頭の棍を羽衣に戻し、右腕に巻き付けた。
 それから無言で異母兄の後を追った。猿忌は彼女の傍に並んで歩く。

(……悔しいけど、何も言い返せない)

 エルナは、キュッと唇をかんだ。
 指先は、今も疲労と緊張で震えていた。微かにだが息も乱れている。
 ここまでの道程で、今のような戦闘は何度もあった。
 屍鬼や危険度D程度ならば、そうそう後れは取らないエルナだが、やはり数の力は強力だ。
 そのことは、誰よりもエルナ自身がよく知っている。
 あの日もそうだった。連戦は本当に辛いのだ。体力以上に心が削られる。
 最初は余裕があっても、三連戦以上ともなると先程のように追い込まれることもあった。
 そして、その度に、助けてくれたのは猿忌だった。

(これが今の私の実力。けど……)

 自分の力量を理解するゆえに、エルナは強い不安を覚えていた。

「……かなたは、無事なんでしょうか?」

 ポツリ、と呟く。同時に師の言葉が脳裏に蘇る。

『あの娘は、我霊に極めて取り憑かれやすい状況にあるのだ』

(……かなた)

 師に教えられた事実も心配だが、ここまでの敵が、正直に言って多すぎる。
 その上、時折、エルナでは完全に手に負えないような怪物どもまで出てくる始末だ。
 この館の主は、果たして、どれだけの数の我霊を取り込んでいるのか。
 まるで敵が無限にポップアップするダンジョンのような館だった。

(……けど、私はまだいい。猿忌がいるし、お兄さまも、なんだかんだで危険度C以上の敵なら対応してくれるから)

 そう思えば、自分は幸運に恵まれているだろう。
 だが、かなたは違う。
 あの少女は、未だ一人なのかもしれないのである。
 この我霊だらけの館で……。

(本当に大丈夫なの? あの子は……)

 エルナは眉をひそめた。
 恐らくかなたの実力は、術の相性を除けば自分と互角ぐらいだろう。
 年齢からすれば相当な実力者だ。
 しかし、それでも危険度C以上にもなると、きっと彼女の手にも負えないはず。
 それに加え、この圧倒的な敵の出現率である。
 仮に我霊に取り憑かれなくても、あまりに危険すぎる状況だった。

(……かなた)

 弐妃の身を案じ、エルナはキュッと唇を嚙む。
 もしかすると、彼女はすでにもう……。
 最悪の事態が脳裏に浮かぶ。
 すると、

「……ふん。かなたならば大丈夫だ」

 ゴーシュが歩みを止めた。
 仮にも兄妹だからか、黙り込むエルナの心情を読み取ったようだ。
 ゴーシュは、エルナを一瞥して言う。

「あれには生き延びるように命じてある。冷静沈着な娘だ。仮に格上相手に遭遇しても、逃走するなり、どうにか対処するだろう」

 ゴーシュの評価に、エルナと猿忌は無言だった。

「……猿忌」

 エルナが、隣を歩く猿忌にそっと触れる。

『……うむ』

 猿忌は鋼の爪の音だけを響かせた。
 エルナの危惧は当然、猿忌も抱いていた。
 確かに戦闘面ではゴーシュの言う通りかも知れない。だが、

(むしろ最下級の方が危険だな。下手に倒せば、その場で取り憑かれかねん)

 そして、そうなれば、あの娘は確実に憑依されるだろう。
 もはや弐妃においては、主が保護していることを祈るしかなかった。

『……先を急ぐぞ』

 猿忌は、告げる。

「……ふん、貴様が仕切るな。式神」

 ゴーシュは、不快そうに返した。
 彼らは今、危険度の高い我霊と遭遇した方向に進んでいた。
 障害が大きいほど、その先に敵の主がいると判断したからだ。

「しかし、この代わり映えしない光景も、そろそろ終わりのようだな」

 ゴーシュは前方に目をやった。そこには、一際豪華で頑丈そうな扉があった。

「あそこが最後の舞台のようだ」

 ゴーシュは笑う。そうしてさらに進んで二人と一体は扉の前に立った。

「さて。俺が一番乗りか。それともすでに奴がいるのか」

 いずれにしても、と続け、

「まずはノックといこうか」

 言って、右腕のみを戦闘装束レザースーツモードに変えた。エルナがギョッとする。

「え? ノックって? お兄さま? 何を?」

「なに。聞こえなくては失礼だからな」

 ゴーシュは、楽しげに笑った。
 そして――。

 ――ズドンッ!
 拳一つで扉を粉砕する。木片が飛び散り、室内の情景が開けた。
 唖然とするエルナと、何も言わない猿忌を伴い、ゴーシュは室内に入った。
 部屋はかなり広い。天井も三階分の吹き抜けになっており、壁には無数の絵画。どうやら絵画だけを集めたコレクションルームのようだ。
 特に目を引くのは、数メートルはある女性の肖像画だ。
 ただ、ゴーシュたちにしてみれば、もっと気になる存在もいたが。

「ふん、どうやら先手は奪われたようだな」

 ゴーシュは皮肉気に笑った。肖像画の前には一人の男がいた。
 黒いスーツを纏う青年だ。彼の傍らには、刃の孔雀の姿もある。
 そして、目を見開いてこちらを見るかなたの姿も。

「随分と派手なノックをする」

 青年――久遠真刃は、呆れたように笑う。

「――お師さまっ!」

 エルナの嬉しさを隠せない声が響いた。
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