私と離婚してください。

koyumi

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諭は

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「嘘、だろ?……依子……。」

高原に守られるようにして自分の横を通り過ぎた依子。
声をかけることもできなかった。
目を合わすこともできなかった。

鴨井あすかからの電話は、はっきり言って信じてなかった。
だが、随分長い間顔を見ていない依子に会う口実になると思え、騙されたフリをして依子の会社に来た。

駆けてくる依子が派手に転んだ、いや、俺に気づき、膝から崩れた姿を見て、すぐに支えにいこうと思った。
だが、一歩早く、俺よりも先に依子に触れた男がいた。
(誰だ?)
同僚か?という思いが、最初は強かった。だが、様子がおかしい。
2人を包む空気は、他の誰かを受け入れるものではなかった。
依子の肩に置いた手がいつまでも離れない。近づいた顔に恥ずかしがる依子。

鴨井あすかが面白げに近づいたが、一蹴されたようだ。
そして不意に、男は依子をお姫様だっこした。
「っ!!!」
拳を強く握り、殴ってやろうと思った。

ーー依子は俺の妻だ。

正論だし、こちらに非はない。
だが、一歩踏み出す前に、依子は下ろされ、あの馬鹿力でヒールを折ると、恥ずかしげもなくその靴を履いた。
(……あいつ、動じない……)
昔から依子はモテていた。
だが、何せ怪力で、大抵の男子に腕相撲は勝てた。
だから、『かわいいけど彼女にはしたくない』と、俺の周りの連中は口にしていた。俺としては、ライバルが減って願ったりかなったり。
それなのに、あの男は、「ほっとけない」と言い、依子を守った。

悔しい……。
俺の妻なのに、守るべきは俺なのに、あそこにおさまるのは俺じゃない。
来るぞ、近づいてきた。
ほら、殴れよ、あの男を、殴ってやれよっ……!

拳に全神経を集中させていたのに、いざ真横に来ると、できなかった。
男の顔に見入ってしまった。

ーー手遅れ、ってことか……。







諭は、依子の為にパスタを作ったあの日からほぼ毎日、仕事終わりに喫茶店でバイトをしていた。
とはいえ、夜の喫茶店はあまり客はいない。
もっぱら、後片付けと掃除だ。ただ、最近は常連客の話し相手もできるようになった。
ここの店に来る常連客の顔ぶれは凄い。
中小企業の端くれのサラリーマンである俺でさえ、何処かで耳にしたことのある名前が並ぶ。
最初こそ、依子の旦那と知るや否や、怪訝な態度を示され、相手にもされなかった。だが、気さくなマスターがさり気なく橋渡しをしてくれて、徐々に常連客達とも挨拶ができるようになった。

はっきり言って、仕事終わりにバイトをするなど疲労感極まりない。
だが、依子の条件をクリアするためには、1円でも多く稼がなければならない。
なめていた。
ちょろい条件出しやがってと、腹立ってもいた。
でも、今は感謝さえしている。

この店にいると、自分にワクワクできる。
何がそうさせるのかはイマイチわからないが、自堕落な結婚生活に、偏った愛を高ぶらせていたことが、自分を責めるものではなく、反面教師的な糧として捉えていけるようになった。
ーー都合のいいやつ。
自分自身を鼻で嗤う。

俺がこの店で働くことを、依子が嫌がることはわかっていた。
だから、最初は裏方に徹して、依子に見つからないように時間も考えてと思っていた。
マスターは俺を応援してくれる。
「人間だから、間違うことはいくらだってある。大人だから、結婚したからってだけで、間違ったらいけないと思い込むのは辛い。間違いを修正する作業の繰り返しで、初めて正解を導きだせるというもんだよ。」
と、俺にチャンスをもたらしてくれる。
「結婚なんて特にそうだ。
大人になってからじゃなきゃ経験できないこと。だから、間違う人間は皆大人なんだよ。
諭くんはまだ若いからね。修正する時間はたっぷりあるんだ。
なんでも経験したことは、生かさなきゃね。」
と、締めくくる。

俺が浮気をして、依子や母親に責められ説教されても、はっきり言って無駄だった。心に響くことはなかった。

それなのに、俺の歴史を見ていないマスターや常連客の言う言葉は、どれも心にスーッと入る。
くさいこと、きれいごと、そんな割り振りができない。


だから、俺はここでバイトを続けている。お金以外に得るものを大切にしながら。
それに、バイトを始めてからは浮気はおろか、女に興味を持たなくなった。
依子は別だが。
今、依子以外に興味があるとすれば、自分自身だ。変わっていく変えられていく、この変化にワクワクしている。

依子に男ができた。

殴るつもりだった。
罵るつもりだった。
だが、できなかった。

これもまた俺の変化の1つだろう。
もう、諦めるべきなのか……

ただ、やっぱり人間ってやつは弱い生き物で。
依子を手放すことを決断できないまま、時間だけが過ぎていた。


ある日、元不動産業をしていた北見さんという常連客と話をしていたら、息子の幼馴染の話になった。
清廉潔白で、容姿も頭脳も優れているが、女と縁がない男だという。
そんな彼がつい最近、海外から転勤で日本に戻ってきて、ようやく愛する女性と出会えたのだという。
明日、その女性を交え、ディナーを楽しむ予定だと聞かされた。

何も知らない俺は、ただただ「楽しみですね。」と、相槌を打っていた。

そしてその翌日、喫茶店にバイトに行くと、マスターから北見さんの居所を知っているかと尋ねられた。
「あいつめ、大事な資料だからとここに配達させるように手配していたくせに、今夜は来れないそうだな。
明日からは嫁さんと旅行に行くらしいし。悪いが、今からこれを届けに行ってくれないか?
さっきから電話も出ないし、諭くん、場所聞いてたよね?」

ここの常連客は、自宅を留守にすることは多いが(自宅と呼ばれる場所が何軒かある)、大概毎日喫茶店には来るので、時々宅配便の住所をここに指定していることがある。
それが運悪く今日のことで、しかも、楽しみにしていた明日からの旅行に関わる資料だという。
昨夜、北見さんからディナーの場所を話の流れで聞いていた俺は、マスターに頼まれ、資料を本人に届けるおつかいにいくことになったのだ。

それはまるで、罠のような偶然だった。

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