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第十四章 終夜
第46話 後編(※)
しおりを挟む――いっそ、出会わなければ良かったのかも知れない――
既に分かっていた。諦めていたつもりだった。
あの日、好奇心に駆られて外のベンチに足を向けたりしなければ。陽光の中で微笑んだその美しさに惹かれたりしなければ、こんな思いをすることも無かった。
……いや、そうでは無い。
たとえあの時で無くとも、いつかきっと自分達は出会うことになっていたのだろう。そして必ず愛し合うようになった筈だ。それが、限られた生命と共に定まった自分の運命。愛し愛され、その存在に幸福を感じ取った時点で、この結末は決まっていたのだ。傍に在り互いを感じた時の短さが、己を修羅に変えるであろう事も。
ならば、もっと早く出会い長い時を共に過ごしていたなら、想いを残さず旅立てたのだろうか。――そうは思えない。我が儘な自分は、それでも彼を欲しただろう。永遠に寄り添うことを望み、何を犠牲にすることも厭わなかった筈。
――離れている時間はつらかった。もうこの手に戻ってこなくなるのではないかと、不安ばかりが募った。
死の苦痛よりも、置いて逝く苦しみに耐えられそうにない。失う恐怖に戦く精神が、暗い闇となって己の内側を覆い尽くす。その中で形成されたものに、喜悦と至福を見出した。
それを胸に秘めたまま、昨夜は存分に彼を抱いた。苦しませると分かっていて、敢えて激しく攻め続けた。
彼が見せた切なげな表情と穢されることのない純潔に、時折微かに揺らいだ己の心。固まっていた筈のそれの微動に戸惑いつつも、変わらぬ決意が最後まで冷たく心の扉を閉ざした。
黒い炎に身を焼かれながら思う。――これでいい、こうする他無いのだと。
万一、別の道があると今更告げられたところで、もう自分にはそちらへ進む力も、時間も残ってはいない。定められた運命に抗えないのなら、せめて、たった一つ望むものだけは手に入れる。たとえそれがどんなに間違った方法だったとしても、己の中では許されるのだ。彼を、何よりも深く愛するが故なのだと。
――晶はキャビネットの上に手を伸ばすと、直人が残していったメモ紙を取る。朝から何度も読み返したそれにもう一度目を走らせて、大事そうに傍らの本の間に挟んだ。
その身を深くベッドに沈める。
昨夜かなりの体力を消耗した身体。直人が来るまでに、この疲れを少しでも拭っておかなくてはならない。面会開始時刻まであと二時間。来るとすれば、回診が終わった後だろう。落ち着かない心と身体を休ませようと、晶は静かに目を閉じた。
「――今日は直人君が来るだろう?」
ひと通り晶の身体を診た秀一が言う。夢現の意識のまま、晶はコクリと頷いた。何故それを知っているのかなど、もはや疑問として浮かびすらしない。
「…後で、私ももう一度来るから…」
その言葉に強い想いを感じて、無心状態の晶もさすがに不思議そうな目を向ける。秀一は少し侘しげな笑みをその面に湛えると、徐に踵を返した。
病室を出て行く白い影。父であり兄であり、主治医であったその姿を目にするのも、もうこれが最後。
霞の掛かった眸で見詰めた白衣の背が、ドアの向こうへと消える。それをしっかり見届けてから、手でマットレスの下を探った。昨夜から忍ばせていたものを取り、寝衣の腰に挟み込む。
――彼が自分の許へやって来る。
この腕の中で、永遠を共する為に――
たぶんもうすぐ――いや、きっとすぐに現れる。
根拠の無い確信。だが、獣のように研ぎ澄まされたそれは、他のどんな感覚をも凌駕していた。外音を断ったこの部屋で、聞こえる筈の無い足音を感じる。
――来た――
身を起こしてベッドの縁に腰掛ける。両足を床についたその時、音も無くドアが開いた。
「…晶…」
穏やかに微笑む彼がそこにいた。肩に、あの若草色のカバンを提げて。
――これで、救われる――
直人は中へ入ると、カバンをドア近くのパイプ椅子に置く。
昨夜の疲れが残っているのか、何となく足取りが覚束無い。ゆっくりとベッドへ近付いてその足元に立った。
「――晶。君に話したいこと……ううん、話さなきゃならないことがあるんだ」
言いながらじっと見詰める眼差しは真剣そのもの。
だが、晶は窓の方を向いたまま目線を合わそうとはしない。その様子を見た直人は、小さく溜息を落とした。唇を噛み締めて俯く。
暫しの沈黙の後、軽く首を振って面を上げた彼は、晶の横顔を見据えて口を開いた。
「…本当はもっと早く言うべきだったのかも知れない。でも、俺には君ほどの勇気がなくて……。今まで、凄く…つらかっただろうと思う。…ごめんね、晶」
ひと呼吸置いて、続ける。
「俺…、実は――」
「――なぁ、直人」
言葉の先を遮るように、晶が唐突に呼び掛ける。声と共に投げられた視線が、目を瞬かせる直人の顔を捉えた。不気味なほど凪いだその瞳に、思わず直人は息を呑む。
「…俺のこと、好きか…?」
前にも一度同じことを問うた。あの時はその美しい身体を手に入れる為に。そして今は、その愛しき存在を己が許に留め置く為に――。
「どうしたの? 急に…」
「好きか?」
誤魔化しは許さぬと言うように畳み掛けてくる晶。直人は肩の力を抜くと、その貌に微笑を浮かべた。何処か、淋しげに。
「――好きだよ。…誰よりも、愛してる……」
その答えを聴いて、晶は静かに立ち上がる。恋人に歩み寄ろうと、裸足の足を踏み出した。
「…晶? 大丈夫なの?」
どういう訳か、身体がとてもすっきりしている。痛みも倦怠感も無く、目眩も感じない。一歩一歩進むその足下はしっかりしていた。
直人の正面に立つ。彼の瞳を見詰めながら、その髪に指を入れ緩やかに梳いた。
弄ばれる黒い束。しかし、そこに以前の輝きは無い。あれほど美しく艶やかだった漆黒が、何故か色褪せてくすんでいた。
薄暗かった昨夜ならいざ知らず、今、明るい光の下でこれほど間近に顔を置きながら、晶はそれに気付きもしない。それは、同じようにくすんでしまった心の所為かも知れなかった。
己の眼を覗き込む、凪いでいた筈の双眸。その奥に燃え上がった炎を、直人は確かに見て取った。
「俺も…愛してるぜ、直人…、お前だけだ。…ずっと…ずっと一緒にいような…?」
――もう迷いなど、ない――
当惑している直人を抱き寄せ、唇を重ねる。甘く、優しく、そしてこれ以上無いほどに深く。絡めた舌から熱い想いを伝えると、戸惑いながらもそれに応える細い腕が、己の背に廻された。
「ん……ふ…っ」
細目を開け、微かに声を漏らすその顔を見る。白い頬を赤らめて口付けに酔う想い人は、何よりも清麗だった。
この至福のひと時が、これから永遠になるのだ。そう、永えの幸福に。
左の掌で直人の後頭部を支え、その腕と肘を彼の背中に当てる。唇を合わせたまま、右手をゆるりと己の腰に持っていった。カバーだけをそこに残し、それを握り締める。
――愛シテル 愛シテル 愛シテル――
――直人が薄く瞼を上げた。陶酔し切った瞳が、しかし、僅かな気配を感じ取る。晶の右手の奇妙な動きに気付いた、その時だった。
「―――っっ!!!」
目を見開く直人。震える手が晶の寝衣の背を握り締め、破れそうなほどに掻き毟った。仰け反ろうとした身体は、逃さぬようにしっかりと廻された左腕に阻止される。頭を掌で固定され塞がれ続ける唇から、声にならない絶叫が零れ落ちた。
――腹部に走った焼けるような痛み。
晶の右手に握られた果物ナイフが、直人の脇腹に深々と突き刺さっていた。
(今、歯を食い縛ってくれていたら、俺も同時に逝けたのに……)
引き抜いて、腕の拘束を解く。寝衣に飛んだ赤い飛沫が布地に染み込んで広がっていく。
よろめきながら二、三歩下がった直人は、傷口を押さえて蒼白の顔を歪めた。
「…あき…ら…」
そのまま崩れるように後ろへと倒れ込む。
晶は傍へ近付くと、激痛に苦しむ直人の腿に跨った。彼の傷から鮮血が絶え間なく流れ出している。それを見て、心から嬉しそうに笑った。
「……ごめ……ね…っ」
切れ切れの声にふとその顔を見遣ると、綺麗な灰色が銀の涙を零していた。伸び上がり、指で熱い雫を拭う。
「なんで泣く…? 悲しくなんかねぇさ。これでやっと解放されるんだぜ? ずっと…一緒にいられるんだ。お前だって嬉しいだろ…? …すぐに、俺も逝くから…先に逝って待っててくれよ、直人……」
上体を起こして再び右手を振り上げる。
痛みと出血で朦朧となる意識の中、直人は忙しなく浅い息を吐いて、必死に左腕を己が胸に当てた。
「……めて…、あ…き……、おね…が……」
凶刃を防ごうと伸ばされる彼の右手に構わず、晶は何度も何度も手にした金属を振り下ろした。容赦も無く直人の身体を抉る冷たい光沢が赤い液体を振り撒き、晶の全身を紅く染め上げる。髪に残ったシェンナーが直人の血を浴びて、周りの全てを焼き尽くす業火へと変わっていった。
――両腕をダラリと下げて、ふと床を見る。ビニルタイルの上に真っ赤な泉が広がっていた。
(なんか…綺麗だな……)
視界が徐々に翳んでいく。もう目の前の直人の顔さえ分からない。
傾ぐその身を、生温かい赤に濡れた身体にゆっくりと重ねる。
暗く冷たい闇の淵に呑まれながら、晶は消えそうな意識の片隅で、秀一の叫ぶ声を聞いたような気がした――。
★★★次回予告★★★
ベッドの上で目を覚ました晶は、秀一に直人のことを尋ねるが――。
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